北部仏印進駐

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第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

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第1部 4章 北部仏印進駐(3/7)ベトナム独立のために立ち上がったラップ将軍

日本はなんのために戦ったのか

2.北部仏印進駐の余波

その5.仏印進駐後のアメリカの反応

日本軍の北部仏印進駐は、あくまで日本政府とフランス政府の交渉により承諾されたものです。外交的な手続きにおいては、なんの問題もありません。

しかし、イギリスやアメリカからすれば、いよいよ日本軍が中国ばかりでなく彼らが有する植民地のすぐ近くに迫ってきたことを意味するだけに、抗議の声を荒げました。

9月23日、ハル米国務長官は「現状を破壊し、かつ威圧により達成された行為を認めず」という日・仏印協定不承認声明を発しました。

北部仏印進駐
wikipedia:コーデル・ハル より引用

【 人物紹介 - コーデル・ハル 】1871年 - 1955年

アメリカの政治家。裁判官を経て下院議員に当選。ルーズベルト大統領の下で1933年から1944年まで国務長官を務めた。日米交渉においては暗号解読によって得たマジック情報に基づく判断を行った。日米開戦の契機となったハル・ノートを日本側に提示したことでも有名。国際連合の発案者および熱心な支持者として、「国連憲章」の執筆を国務省に強く求めた。その功により、1945年にノーベル平和賞を受賞した。

「威圧により達成された行為を認めず」の一文は一見するともっともな言い分に思えますが、国家間のほとんどの条約や行為は威圧によって為されているのが現実です。そもそも日本が開国したのも、ペルーの黒船来航に伴う武力を背景とした威圧を受けたためです。

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アメリカ自らが威圧外交をさんざん繰り広げてきたにもかかわらず、日本が同じことをした際にその非を唱えるのでは、説得力などなにひとつありません。

アメリカの批判に対して、日本の報道機関は一斉に反発しました。

例えば『「大東亜戦争」はなぜ起きたのか―汎アジア主義の政治経済史』には、ハル国務長官の批判に対して反論した、朝鮮における総督府機関紙『京城日報』の社説が紹介されています。

「われわれは米国が日本の仏印進駐に対し、何故にかかる言動を敢てするかを諒解し難いのである。日本が南洋一帯をもって大東亜の生命線となしてゐることは既に再三宣言してゐる如くであって、米国は日本の生命線に何等の発言権もなければ、国際上の関連もあり得ないのである。仏印のみならず蘭印もまた同様である。」

さらに、アメリカが英米連合を強化してシンガポール軍港の共同使用を決定したことを批判しています。シンガポール軍港の共同使用は「日本の南方生命線を全面的に脅威するものであって、大東亜存立上、英米海軍力の極東増強は黙視し得ないのである。従って日本はこれに対抗し、経済的資源を確保し、東亞の平和、極東民族の解放を実現せしむるためには仏印のみならず蘭印をも当然帝国の勢力下においてこれが建設を担当すべき使命を負荷せられてゐるのである。」

北部仏印進駐が英米のシンガポール軍港の強化に対する対抗措置であり、南進によってアジアの民族を解放することこそが日本の使命であると言いきっています。

この社説を読む限り、仏印進駐が日中戦争解決のためではなく南進のための準備であるとの認識は、軍部ばかりではなく民間にも共有されていたようです。

最後にアメリカに対して辛辣な例え話を次のように綴っています。

「日本が仏印蘭印に進出することは日本存立上、大東亜圏建設の歴史的必然性に基づくものであって、如何なる第三国の容喙(*ようかい=横から差し出ぐちをすること)も断じて許さないのである。今この問題に関し、米国自身の立場に就て一つの例証を挙げることとしよう。若し仮りに日本がメキシコと結びマグダレナ湾を租借することが事実となって現れた場合、米国は果して黙過するであらうか。その結果は想像するまでもあるまい。」

つまり、日本にとってシンガポール港にアメリカ海軍が進出することは、アメリカにとってマグダレナ湾に日本海軍が進出することに等しいのだと指摘しています。もし、そうなれば、アメリカが実力をもってマグダレナ湾を奪うために動くことは明らかです。

このような例え話を出すことで京城新聞は、日本軍の北部仏印進駐の正当性を訴えました。

アメリカの苦言に対して大橋外務次官はグルー大使に次のような申し入れを行いました。

「米国の仏印問題への容喙が日本の国論に及ぼす影響は、西半球における第三国の領域に対する米国の政策に、第三国が干渉がましき態度に出ることへの米国世論に及ぼす影響と同様である」

これも京城新聞の主張と同じ流れで反論しています。アメリカは常々モンロー主義を唱え、アメリカ大陸に対する第三国の干渉を許しませんでした。日本もアメリカにならい、アジア・モンロー主義ともいえる大東亜共栄圏を主張しているだけに、圏内に対する第三国の干渉は許さないと毅然とした態度を表明したのです。

このコメントにアメリカ側は激怒しました。ウェルズ国務次官は堀内駐米大使に対し「日本の仏印に対する要求は侵略というほかなく、過去三年以上にわたる日米間の諸問題の高潮に達したるもの」と激しく糾弾(きゅうだん)しています。

アメリカは言葉ばかりではなく、日本の動きを封じるための制裁にも乗り出しました。進駐直後の9月25日、アメリカは2,500万ドルの対蒋援助を決定しています。さらに三国同盟締結に対する制裁も加わり、すでに実施されていた屑鉄の輸出許可制を一歩進めて、10月16日以降はすべての屑鉄・屑鋼の対日輸出を禁止する方針を発表したのです。

その6.北部仏印進駐は侵略なのか?

ー 戦勝国の侵略行為を問う ー

北部仏印進駐
東京裁判は、勝者による一方的な敗者に対する制裁であり、 国際法に則ったものではないより引用
東京裁判にてブレークニー弁護人は、北部仏印進駐が侵略には当たらないことを理路整然と論じた

これまで見てきたように進駐に際して小規模の武力衝突は発生したものの、北部仏印進駐は日仏間の交渉により決定されたことであり、それを「侵略」とは通常は見なしません。

ところが東京裁判では、北部仏印進駐をもって日本の侵略行為と断じられました。

もっとも「侵略」の定義さえ国際的には定まっていないため、他国に軍を半ば強引に配置する行為そのものを侵略と見なすのであれば、北部仏印進駐にも侵略性を見出すことができます。東京裁判のように、仏印進駐をパリ不戦条約に違反するから侵略だとあげつらうことも可能です。

しかし、それは北部仏印進駐のみを対象に侵略にあたるか否かを議論しているからこそ陥る罠に過ぎません。

そのことは東京裁判にて、ブレークニー弁護人がすでに指摘しています。ブレークニーは日本を不戦条約違反の罪に問うならば、戦勝国にも同様に不戦条約違反行為があったと反論しました。

北部仏印進駐
wikipedia:ベン・ブルース・ブレイクニー より引用
【 人物紹介 - ベン・ブルース・ブレイクニー 】
1908年 - 1963年
アメリカの陸軍軍人・弁護士。日本の事情に通じ、日本語も解した。東京裁判の弁護人となり、東郷茂徳・梅津美治郎両被告を担当。堂々と日本側の弁護を展開した。国際法に戦争に関する法規があることから戦争は犯罪ではないと主張し、アメリカの原子爆弾投下問題をとりあげた。

以下、主要な発言を抜粋する。「戦争は犯罪ではない。戦争法規があることが戦争の合法性を示す証拠である。国際法は、国家利益追及の為に行う戦争をこれまでに非合法と見做したことはない」「キッド提督の死が真珠湾攻撃による殺人罪になるならば、我々は、広島に原爆を投下した者の名を挙げることができる。投下を計画した参謀長の名も承知している。その国の元首の名前も承知している。彼らは、殺人罪を意識していたか?してはいまい。我々もそう思う。それは彼らの戦闘行為が正義で、敵の行為が不正義だからではなく、戦争自体が犯罪ではないからである。

何の罪科でいかなる証拠で戦争による殺人が違法なのか。原爆を投下した者がいる。この投下を計画し、その実行を命じ、これを黙認したものがいる。その者達が裁いているのだ。彼らも殺人者ではないか」のち東京に法律事務所を開設したが、自家用機で夫妻とも遭難。

さらにブレークニーはポーランドやバルト三国・フィンランド・ルーマニア及びイランに対するソ連の侵略、イギリスが行ったアイスランド侵入、アメリカによるアイスランドとグリーンランドへの進駐などを立証する文書を提出しました。

しかし、ウィリアム・ウェブ裁判長は「当法廷に日本の侵略戦争以外の戦争を裁く権限はない」と述べ、これを却下しています。

北部仏印進駐
wikipedia:ウィリアム・ウェブ より引用

【 人物紹介 - ウィリアム・ウェブ 】1887年 - 1972年

オーストラリアの法律家・裁判官。クイーンズランド州最高裁判所長官(首席裁判官)のとき、オーストラリア政府により、第二次世界大戦における日本の戦争犯罪の調査担当に任命され、検察官の役割を果たした。オーストラリア高等裁判所裁判官に就任。極東国際軍事裁判(東京裁判)裁判長を務めた。

なお先に検事の役割を果たした人物が裁判長になることに対して弁護団より裁判官忌避の申し立てが為されたが、一方的に退けた。弁護人から国際法で禁止されている原子爆弾を投下し、多数の非戦闘員を殺戮した連合国側に捕虜虐待についての責任を問う資格があるのかと問われた際には、「本裁判所の審理と関連はない」として原子爆弾についての是非は一切審理しなかった。裁判では全員に有罪判決を下した。大英帝国勲章ナイト・コマンダー章を授与される。

ブレークニーはなおも食い下がり、「同じ行為をしていながら日本は有罪とされ、他の国々は無罪であるとするのは裁判基準が二つあることになる」と舌鋒鋭く迫りましたが、弁護側の証拠はすべて却下されるに至りました。

もちろんブレークニーは東京裁判にて、英米ソの侵略行為を裁きたかったわけではありません。日本の北部仏印進駐を侵略として裁くのであれば、英米ソの侵略行為も裁かなければ法の正義に反する、ゆえに日本の行為のみを侵略と決めつけるべきではない、と主張したのです。

ー 侵略と呼ぶに相応しいソ連軍による蛮行 ー

北部仏印進駐
バルト三国とロシア(1)より引用
バルト三国とソ連(現ロシア)の位置関係、現在は独立を果たしているがロシアによる侵攻の危機に今もさらされている

ブレークニーがあげた戦勝国の侵略行為のなかで、ソ連が行った軍事侵攻はまさに「侵略」と呼ぶに相応しいものでした。北部仏印侵攻の3ヶ月前に行われたバルト三国進駐については、43万5千人の兵員、約8千の大砲と迫撃砲、3千台以上の戦車、500台以上の装甲車を並べての圧倒的な武力を擁しての侵攻でした。

ソ連の大軍の前に為す術もなく、バルト三国は軍事的な抵抗を試みることなく、ソ連軍の進駐を認めるよりありませんでした。ソ連はバルト三国全土にソ連軍の自由進駐を要求し、親ソとなる共産党政権の樹立まで強います。バルト三国の主権を尊重する気など、ソ連にはもとよりありませんでした。

ソ連のバルト三国への進駐と日本軍の北部仏印進駐を比べ、『太平洋戦争への道』の著者中村粲は次のように指弾しています。

これに比べて、同じく欧洲政局の急展開に対応したものとはいへ我が仏印進駐の何と紳士的であったことか。

二カ月に及ぶ辛抱強い外交交渉の末に結んだ協定では、仏印に対するフランスの主権と仏印の領土保全の尊重を約束した。ソ連が僅(わず)か十七万平方キロのバルト三国に十万もの軍隊を自由進駐させたのに比べて、我国が三十三万平方キロといふ広大な仏印に進駐させたのは六千以下の軍隊である。駐屯地域もトンキン州の四カ所の飛行場周辺に厳しく制限されてゐた。

しかも、この駐屯は支那事変解決までの臨時措置であることを我国は明文を以て約したのに対し、ソ連はバルト三国を忽(たちま)ち併呑し、以後今日まで五十年に及んでゐる。いまだにソ連はバルト三国の独立を拒否してゐるのだ。(*バルト三国は1991年9月に独立を果たしています)

これ以上のあからさまな侵略、他国に対する政治犯罪はあるまい。これに口を緘(かん)して日本の北部仏印を侵略と論じ立てるのは、いやしくも良心ある者のよくなし得ぬ所であらう。

太平洋戦争への道』中村粲著(展転社)より引用(*と漢字の読み仮名、改行は筆者)

日本軍の北部仏印進駐だけを取り上げるなら、その非は数々上げられますが、ソ連の為したことと比べてみれば、当時の国際状況にあって日本がいかに信義を守って進駐を進めたのかが浮き彫りになります。

ー 英米のアイスランド・グリーンランドへの進駐 ー

北部仏印進駐
OPERATION FORK-THE INVASION OF ICELANDより引用
1940年5月10日、イギリスは中立国のアイスランド王国に侵攻した、作戦名は「フォーク作戦(Operation Fork)」

ブレークニーが東京裁判で指摘した英米の動きについても軽く紹介しておきます。まずアイスランドですが、当時は事実上デンマークの統治下にありました。ところが1940年4月9日にデンマークがドイツに降伏したことを受けて、アイスランドは自治権を取り戻しました。

イギリスはアイスランド政府に書簡を送り、アイスランド独立を支援する用意があることを条件に、「イギリスの盟友として参戦する」ように求めています。アイスランドの答えはノーでした。戦争に巻き込まれることを嫌ったアイスランドは、中立を宣言したのです。

困ったのはイギリスです。アイスランドとの交渉が長引けば、ドイツ軍がアイスランドに侵攻してくる恐れが高まります。アイスランドは軍事上の要衝(ようしょう)でした。ここをドイツに抑えられると戦局が著しく不利になります。

そこでイギリス首相チャーチルは最早時間的な余裕がないと判断し、アイスランドの同意が得られないまま強引に軍を差し向けアイスランドに侵攻しました。

北部仏印進駐
wikipedia:ウィンストン・チャーチル より引用

【 人物紹介 - ウィンストン・チャーチル 】1874年 - 1965年

イギリスの政治家・軍人・作家。首相。陸軍士官学校のエリートコースを歩み、インドや南アフリカで軍人生活を送る。下院議員となり政治活動を始め、商務大臣・内相・海軍大臣を歴任。第一次大戦後に植民地相として実績を残す。1940年に首相となり、第二次大戦の戦争指導に当たった。大戦にアメリカを参戦させるため、ルーズヴェルトに対して様々な策を弄した。日米開戦の原因を作った人物として知られるが、なぜか日本では人気が高い。文筆家としても優れ、在職中にノーベル文学賞を受賞。

アイスランドは「この攻撃はアイスランドの中立と独立を甚だしく侵すもの」であると抗議しましたが、すでに既成事実としてイギリス軍が進駐してしまった以上、外交的には中立の方針を維持するものの、侵攻軍に対して協力を誓うよりありませんでした。

その後、イギリスはアイスランドに進駐していた軍を他に差し向ける必要があったため、アイスランドの占領をアメリカに移管しました。イギリス軍と入れ替わりに、アイスランドには占領軍として4万のアメリカ軍が駐留しています。その兵数は、アイスランドの成人男性の人口を上回っていました。

アメリカ軍が駐留したグリーンランドもまた、当時はデンマーク領でした。デンマークがドイツに降伏した1940年4月9日、アイスランドと同様にグリーンランドもまた大国の思惑に翻弄されることになります。

グリーンランドがドイツ軍に抑えられることを嫌ったアメリカはデンマーク駐米大使と交渉することで、グリーンランドをアメリカの保護下に置き、アメリカ軍が駐留する協定を結びました。しかし、それは本国の指示に反してデンマーク駐米大使が独断で結んだ協定に過ぎませんでした。

条約に則り、アメリカ軍は4月12日にグリーンランドに上陸しています。

当時の状況を冷静に振り返ったとき、英米軍のアイスランドやグリーンランドへの進駐と日本軍の北部仏印への進駐のどちらがより威圧的であったことか、その答えはそれほど難しくないでしょう。

そもそもイギリス軍のアイスランド侵攻は、アイスランドが中立を表明することで駐留をはっきり拒否していたなかで強行されたものです。アイスランドにしてみれば、外国の軍隊が勝手に自国に入ってきて居座ったことになります。一般常識に照らし合わせるならば、それこそが「侵略」です。

少なくとも北部仏印への進駐のみを侵略と呼べないことは明らかです。相対的に比較してみたとき、北部仏印への進駐をもって日本の侵略が始まったとする東京裁判史観は、戦勝国による言いがかり以外のなにものでもないと言えるでしょう。

「正義が勝つ」のではなく、「勝った者が正義」とされたのが東京裁判の実態です。

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