第1部4章 独ソ戦(3/12)日ソ中立条約はなぜ結ばれたのか?松岡外相の狙いは昭和史最大の謎

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第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

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第1部4章 独ソ戦(2/12)大量の素人外交官を生み、情報戦に遅れをとる原因を作った松岡人事

日本はなんのために戦ったのか

3.独ソ戦の衝撃がもたらした南進への道

その3.日ソ中立条約はなぜ結ばれたのか?

独ソ戦
山口)元外相・松岡洋右の肖像画、光市に 親族が寄贈:朝日新聞より引用
日ソ中立条約に署名する松岡外相、後ろに立つのはソ連のスターリン書起長

「独ソ開戦近し」と囁(ささや)かれるなか、訪欧の帰りにソ連に立ち寄った松岡外相は日ソ中立条約の締結に成功し、世界中を驚かせました。しかし、独ソ開戦となれば三国同盟との矛盾によって日本の手足を縛ることになる日ソ中立条約を、開戦直前という時期に松岡がなぜ結んだのかは、昭和史最大の謎のひとつにもあげられています。

ここでは日ソ中立条約の成立過程を振り返ってみます。

ー モスクワからベルリンへ ー

独ソ戦
(133)駐独大使・大島浩、晩年の言葉:朝日新聞より引用
ベルリン市内を歩く大島駐独大使(前列左から4人目)と松岡外相(右から2人目)

訪欧に際して松岡が真っ先に立ち寄ったのはソ連でした。松岡はモスクワでスターリンとモロトフと会見し、日ソ不可侵条約案を手渡しています。

独ソ戦
wikipedia:ヴャチェスラフ・モロトフ より引用
【 人物紹介 - ヴャチェスラフ・モロトフ 】1890年 - 1986年

ソ連の政治家・革命家。スターリンが共産党書記長に就任すると、党内闘争においてスターリン派に属し、スターリンの政敵排除に大きな役割を果たした。のち人民委員会議議長(首相)に就任し、以降11年間にわたってその座を占め続けた。外相も兼任し、いわゆるモロトフ外交を十年にわたって展開した。その間、独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)を締結し世界中を驚愕させる。

ソ連空軍がフィンランドの市街地を空爆した祭、フィンランド政府が抗議をすると「ソ連機は(民間人を攻撃しているのではなく)空からパンを投下しているのだ」と発言した。フィンランド人はこれを皮肉って、焼夷弾のことを「モロトフのパン籠」と呼ぶようになった。フィンランド戦には勝利したが、小国フィンランド相手に多大な損害を出し苦戦したことでソ連の威信は大いに傷つき、一方的な侵略と見なされたことで国際連盟からも追放された。

戦時中から戦後にかけてアメリカ・イギリスを相手にしたたかな外交交渉を展開し、スターリンとともにソ連の国益を十二分に実現し、冷戦期の共産圏の基礎を作った。戦後はスターリンに警戒され、妻が粛清され収容所送りとなる。スターリンの死後、外相に復帰するもフルシチョフと対立し失脚。不遇の晩年を過ごした後に復権を果たし、96歳にて死去。

松岡のこの行為は、ドイツとは事前の打ち合わせなしに行われました。その理由について松岡は次のように語っています。

「ドイツとの握手は、ソ連、イタリアを含めた四国連合を目標としたのだから、ソ連がそれから外れるとなると、日本の対独態度も自然変らぬわけには行かぬ。それがドイツに対する素気ない私の態度となり、日ソ中立条約問題をドイツとあらかじめ相談しなかった一つの理由でもある」

欺かれた歴史 - 松岡洋右と三国同盟の裏面』斎藤良衛著(中央公論新社)より引用

松岡の言からは、もしソ連との四国連盟が成立しないのであれば、日本が三国同盟の解消に動くかもしれないとの含みが感じられます。

国家同士の腹の探り合いから権謀術策がうごめく外交の一面が垣間見えます。自国が有利になるように相手国を出し抜こうと考えるのは当然のことです。

ソ連に布石を打ち終えると、松岡はベルリンに向かいました。ベルリンでは大抑(おおぎょう)な歓迎を受け、宴会に次ぐ宴会で一行はへとへとになったと記されています。

ベルリン到着の翌日、思いがけない事件が松岡一行を待っていました。三国同盟に加盟したばかりのユーゴスラビアでクーデターが発生したのです。新たに誕生した政権は親ソ派であることから、ソ連が陰から手を回したことは明らかです。予定されていた会談は急きょ中止となりました。

バルカン半島での独ソの対立を目の当たりにした松岡が、独ソの関係が険悪化している様を肌身に感じたことは間違いありません。

しかし、一触即発の独ソ関係を見て松岡は、ソ連との国交調整をやめよう、あるいは延期しようとは考えませんでした。むしろ松岡はドイツによる対ソ圧力が増すことは、日ソ不可侵条約の締結にとってプラス材料になると見ていたようです。同行の秘書官に対し「これでモスクワでの交渉ができた」と漏らしたと伝えられています。

ソ連の手引きによるク-デターに激怒したヒトラーは4月6日、ユーゴスラビアとギリシャに軍を進め、月内には両国を降伏に追い込みました。

ー ヒトラーとの対談 ー

独ソ戦
安倍首相の日米同盟、100年前に大陸勢力を抑えた日英同盟の複写版(1):中央日報より引用
ベルリンでヒトラーと親交を深めた松岡外相

3月下旬に松岡はヒトラーやリッベントロップらと会談し、日ソ間の国交調整についての意見を求めました。ドイツによる仲介を望んだ日本側の期待をあざ笑うかのように、ヒトラーらの対応は冷ややかでした。むしろリッベントロップは、現状ではソ連との交渉を進めない方がよいとの意見を述べています。

このとき、すでにドイツは対ソ開戦に向けて準備を進めていましたが、そのことは同盟国である日本側に知らされることはありませんでした。情報がソ連に漏れることを恐れたヒトラーが、独ソ開戦については秘密にするように命じていたためです。

そのためドイツ側は、リッベントロップを通して独ソ関係が厳しい対立状態に陥っていると告げることで対ソ開戦に踏み切る可能性を匂わせる程度に留めています。

この会談でドイツが日本に求めたのは、シンガポールへの攻撃でした。ドイツとしては日本軍によるシンガポール攻撃によって日本を対英戦に参戦させ、米英が対応に追われている隙に一気にソ連を降伏に追い込む腹づもりでした。

シンガポール侵攻の言質を取りたいヒトラーに対して、松岡外相は英語を雄弁に操り、ヒトラーを煙に巻いたとされます。

このときの様子は児島襄著『第二次世界大戦・ヒトラーの戦い(3)』にて次のように紹介されています。

ヒトラーは、松岡外相からシンガポール攻撃の言質が得られなかっただけではなく、 なんとも奇怪な「松岡論法」の毒気を吹きつけられた想いで、会談後も、ひどく冴えない表情を維持した。

なにがなんだか、よくわからなかったらしい。

通訳シュミットも、ヒトラーとこのように真向うから対談したのは、ソ連外相モロトフのほかには、 ただ一人、この「東洋からの使者マツオカ」だけであった、と記述している。

第二次世界大戦ヒトラーの戦い 第三巻 ポーランド電撃 第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』児島襄著(小学館)より引用

松岡がヒトラーやスターリンなど当時を代表する指導者らを前にしても臆することなく、いつものように大風呂敷を広げて堂々と渡り合ったことは、たしかなようです。

会談を終えて、松岡は次のように語っています。

「独ソ関係が、同盟締結の際スターマーの誇示と違っていることは、当時ほぼ想像していたが、さていよいよスターリン、モロトフ、ヒトラー、リッベントロップ等と会談してみると、独ソ関係が案の定よくないことを知った。ことにリッベントロップから、ドイツがソ連に一撃を加えるかもしれぬと告げられ、他方、ドイツ外務省が西ヨーロッパ諸国に、反共産主義連衡の結成を呼びかけていたことを知るに至って、独ソ戦が早晩さけえぬものであると察した。もしそうなったとすれば、同盟は機能不全になるばかりか、日本にとっては有害となる。そこで僕は、いよいよもって三国同盟を考え直す時機に直面したことを確認した。」

欺かれた歴史 - 松岡洋右と三国同盟の裏面』斎藤良衛著(中央公論新社)より引用

松岡が「独ソ戦が早晩さけえぬもの」と受け取ったことはたしかですが、わずか数ヶ月後に開戦となるとは見ていなかったようです。

東京裁判において松岡は「ソ連と独逸との関係は、危険といわざるを得ませんでした。私はいまだそれはおそらく双方のコケオドシで、結局戦争にはなるまいと考えていました。」と証言しています。

結局のところ松岡は、独ソ間で緊張は高まっているものの、ドイツが軍事的な威圧をかけることによってソ連が屈服するだろうと予想していました。したがって「すぐには独ソ開戦とはならない」、それが松岡の下した状況判断だったのです。

松岡はベルリンからの帰国の途中でモスクワに向かいますが、その途上、イギリスのチャーチルから「ドイツは近いうちにソ連に攻め込む」との極秘情報が記された手紙を受け取ります。

独ソ戦
wikipedia:ウィンストン・チャーチル より引用
【 人物紹介 - ウィンストン・チャーチル 】1874年 - 1965年
イギリスの政治家・軍人・作家。首相。陸軍士官学校のエリートコースを歩み、インドや南アフリカで軍人生活を送る。下院議員となり政治活動を始め、商務大臣・内相・海軍大臣を歴任。第一次大戦後に植民地相として実績を残す。1940年に首相となり、第二次大戦の戦争指導に当たった。大戦にアメリカを参戦させるため、ルーズヴェルトに対して様々な策を弄した。日米開戦の原因を作った人物として知られるが、なぜか日本では人気が高い。文筆家としても優れ、在職中にノーベル文学賞を受賞。

チャーチルとしては「独ソ戦が近い」と松岡に告げることで、日本が三国同盟から離脱することを期待したのです。

大島駐独大使も松岡に対して「ヒトラーが150個師団の兵力をソ連に対して配置している」との情報を伝え、独ソ開戦の可能性を指摘するとともに日ソ不可侵条約の締結を思いとどまるように進言しています。

しかし、独ソ開戦はすぐにはないと判断していた松岡はチャーチルの情報を無視し、大島の進言を受け入れませんでした。

ドイツの対応に失望した松岡は、もはやドイツは頼りにならないと判断し、独力でソ連との間に不可侵条約を結ぶ決意を固めていました。独ソ間の緊張が高まっている今こそソ連は、東方の安全を確保するために日本との関係を安定させたいに違いないと読んだのです。

今なら日本に有利な条件で条約を結べるはずだと、松岡は確信しました。日本が大東亜共栄圏を目指して南進をする上で、背後にあたるソ連の脅威を取り除くことは必須でした。また万が一にも日米開戦となった場合に備えて、ソ連が中立を守るという言質(げんち)を取っておく必要がありました。

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