第1部4章 独ソ戦(4/12)大失敗だった日ソ中立条約。ロシア人にとって「条約は破るもの」

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第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

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第1部4章 独ソ戦(3/12)日ソ中立条約はなぜ結ばれたのか?松岡外相の狙いは昭和史最大の謎

日本はなんのために戦ったのか

3.独ソ戦の衝撃がもたらした南進への道

その3.日ソ中立条約はなぜ結ばれたのか?

ー 日ソ中立条約の締結 ー

独ソ戦
日ソ中立条約の一方的破棄やソ連参戦についてロシア側から今までの正当化論に疑問が出るより引用
日ソ中立条約の調印を伝える新聞記事

モスクワに戻った松岡はモロトフとの交渉に入りました。不可侵条約を結びたかった松岡に対して、モロトフは中立条約に留めるべきだと主張し、以後は中立条約の締結を目指した交渉となりました。

ソ連側は条約締結には前向きでしたが、交換条件を提示してきました。その条件とは、北樺太に日本側がもつ石油採掘権の放棄を迫るものでした。北樺太サハリンの利権とは、日本がシベリア出兵、およびロシアの不正規軍に383名の日本居留民が殺害された尼港事件の代償として獲得した石油・石炭の採掘権のことです。

アメリカによる石油禁輸がいつ発動されるかと脅えている日本にとって、わずかな量とはいえ石油の利権を手放すことは受け入れがたいことでした。松岡は逆に北樺太の買収をソ連側に申し入れています。

北樺太の石油利権を巡って交渉が難航するなか、助け船を出してきたのはスターリンでした。スターリンは「北樺太利権の解消に関する問題を数ヶ月以内に解決すべく努力する」との玉虫色の交換公文を交わすことで、日ソ中立条約に同意しました。

形式上は松岡が北樺太利権を放棄しても中立条約を結んだことになりますが、実際の利権返還は1944(昭和19)年3月まで引き伸ばされています。

1941(昭和16)年4月13日、松岡とスターリンによって日ソ中立条約がモスクワで調印されました。この条約で定められたのは、相互の領土保全および不可侵、一方が紛争に巻き込まれたら他方は中立を遵守すること、有効期間は5年とすることでした。

「中立条約」ではあるものの「相互の領土保全および不可侵」を定めた項目があるため、実質上は不可侵条約に等しい条約として国際的に認められています。

ー 中立条約が日独ソにもたらしたもの ー

独ソ戦
【1941年】ソ連(昭和16年)▷日ソ中立条約の締結:ジャパンアーカイブズより引用
スターリンと日ソ中立条約を結んだ松岡洋右外相

日ソ中立条約の締結により、三国同盟を発展させた四国同盟に近い国際関係を実現できたと、日本側は胸をなで下ろしました。独ソ不可侵条約と日ソ中立条約があることで、日独伊三国同盟と対ソ連携が達成されたことになるからです。

日独伊三国にソ連を加えた四国による軍事同盟は、陸軍中央が以前から意図していたことでした。当時、陸軍省軍務局長の地位にあった武藤章も著書にて「松岡外相が日蘇中立条約を締結したのは、日本としては大成功であった。私は衷心から喜んだ一人であった。」と記しています。

独ソ戦
wikipedia:武藤章 より引用
【 人物紹介 - 武藤章(むとう あきら) 】1892(明治25)年 - 1948(昭和23)年
大正-昭和時代前期の軍人。最終階級は陸軍中将。盧溝橋事件では参謀本部作戦課長として拡大論を主張し、不拡大派の石原莞爾を中央から追った。中支方面軍参謀副長になり南京攻略を指導。軍務局長となり東條英機の腹心として活動。対米開戦の回避に尽くした。開戦後は戦争の早期終結を主張し、東條らと対立。太平洋戦争中はスマトラ・フィリピンで指揮をとる。終戦後、A 級戦犯として死刑。

近衛首相をはじめとする政府首脳も、日ソ中立条約締結という松岡外交の勝利に歓喜しています。日本としては日ソ中立条約の締結により、ソ連を枢軸国側に引き込むことができたものと確信しました。日ソ中立条約自体はアメリカの参戦を防止するほどの効力は持ち得ないものの、日独伊ソ四国の軍事的な結びつきは、アメリカの急進的な動きを牽制するに違いないと期待されたのです。

日ソ中立条約によってより大きな恩恵を受けたのは、実はソ連側でした。この条約によってソ連は、ドイツと日本の両国を相手に同時に戦争を行う危険から解放されました。さらに北樺太の利権を回復するおまけまでついてきたのだから大成功です。

対ソの脅威がなくなったことで日本が南進へと駒を進め、英米と衝突することで国力を消耗してくれることもソ連の国益に繋がります。

なにより日ソ中立条約はソ連には有利に、ドイツには不利に働くこともスターリンを喜ばせました。ドイツがソ連を攻撃しても、三国同盟の規定では日本がドイツを援助する義務はありません。しかし、義務はなくてもその気になれば日本がドイツ側として参戦することは自由にできます。しかるに日ソ中立条約は、日本が有していたはずの自由を拘束します。

条約を遵守する限り、独ソ開戦となっても日本は対ソ戦に踏み込むことはできません。ソ連にとってはなにひとつ損のない恵みの多い条約でした。

松岡がモスクワを発つ際、スターリンが駅頭まで見送りに出向き、松岡と抱擁を交わしたことは世界中を驚かせました。これまでの独裁者スターリンには見られない異例の行動だったからです。それほどスターリンは日ソ中立条約の締結を喜び、深く満足した証と言えるでしょう。

独ソ戦
東條英機 歴史の証言 日ソ中立条約並に松岡外相の渡欧より引用
条約締結の直後、スターリンは帰国する松岡をモスクワ駅頭まで赴いて見送り、二人は抱擁を交わした(昭和16年4月13日撮影)

では、ヒトラーはなぜ日ソ中立条約を阻止しなかったのでしょうか?

松岡がモスクワに立ち寄ることは事前にわかっていただけに、止めようと思えばいくらでもできたはずです。日ソの国交調整が、すでに独ソ開戦を決めていたドイツにとって好ましくないことは明らかです。

しかし、ヒトラーはあえて松岡を止めませんでした。そこにはヒトラーの深謀遠慮が潜んでいたと指摘する書もあります。ドイツの同盟国である日本の外相がヒトラーらと会談し、その足でモスクワに舞い戻って日ソ間の条約締結を持ちかけたなら、スターリンがどう考えたかを推理することは、それほど難しくないでしょう。

スターリンとしては独ソ戦が間近に迫っているのであれば、開戦によって日本に不利となる条約の締結を、あえて日本側から申し込んでくるとは思わないことでしょう。つまりスターリンは日本側の態度を見て、ドイツにソ連を攻撃する意志はないと読み取ったと考えられます。

スターリンを油断させることこそがヒトラーの狙いだった、だからヒトラーは日本に独ソ開戦が近いことを知らせなかった、日ソの国交調整を邪魔しなかった、とする論があります。それが真実であるならば、ヒトラーは松岡を将棋の駒のように自分の意のままに使ったことになります。

真実は定かではありませんが、スターリンが周囲の忠告に耳を貸すことなく独ソ開戦はあり得ないと油断しきっていたことは、歴史の証明する事実です。

いずれにせよ日ソ中立条約はスターリンにとって、あまりにも甘美な果実でした。この条約によって三国同盟は無力化され、独ソ開戦の際に日本がソ連への攻撃をためらう一つの大きな原因となりました。事実、日本の対ソ戦を阻んだことは、独ソ戦でのドイツの敗北へと繋がっています。

日本人は「条約は守るもの」と考えます。ところがロシア人は「条約は破るもの」と考えます。ロシア人が中立条約や不可侵条約を結んでも好機を見計らって条約を一方的に破り、調印国に攻め込むことは、これまで何度も繰り返されてきました。

それは日ソ中立条約でも繰り返されました。中立条約は独ソ開戦の折にソ連を救い、救われたソ連は大東亜戦争の終戦間際(一部は終戦後)に日本を裏切り、満州・樺太・千島列島を侵略しました。それはまさに火事場泥棒と呼ぶべき行為でした。
▶ 関連リンク:4-10.満蒙開拓団は語り続ける - その4.開拓史上最大の悲劇

独ソ戦
ソ連軍157万人が満州侵攻 戦車に潰された王道楽土の夢:産経新聞より引用
1945(昭和20)年4月5日、翌年期限満了となる同条約をソ連政府は延長しないことを日本政府に通達した。日本政府は翌年期限までは同条約が有効であることをソ連外相との間で確認した。しかし、1945年(昭和20)年8月9日未明、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して満州に侵攻し、対日参戦した。図表は満州と北方領土に対するソ連の侵入経路を示している。

結果的に日ソ中立条約はソ連にとっては大成功であり、日本にとっては大失敗でした。しかし、そこまでの未来を松岡外相が予測できたはずもないだけに、致し方のない面はあります。

あくまで独ソ開戦がないとの予測に基づく中立条約の締結だったのです。松岡ばかりでなく、政府首脳にしても軍部にしても、ドイツの威圧の前にソ連が譲歩して戦争にはなるまいと考えるのが、当時の日本における一般的な認識でした。

ー 中立条約の向こうに松岡が見ていたもの ー

さらに松岡には大志がありました。大杉一雄著『日米開戦への道 避戦への九つの選択肢』に、松岡が構想したことが具体的に紹介されているため引用します。

 かくして、不利な条件を吞んでまで、中立条約の調印をすました松岡は、これによって対米交渉を成功させ得れば十分引き合うと考え、意気揚々と胸をふくらませながら、再びシベリア鉄道で帰途についた。このときマスコミの代表として同行した岡村二一(同盟通信社編集次長)は直々に松岡外交の大構想なるものを「半分は夢心地、半分は心をおどらせながら」聞かされた(岡村二一「日ソ不可侵条約と日本」『中央公論』六四年八月号)。それは、つぎのようなことであった。

 蔣介石に密使を送り、松岡の重慶乗り込みを申し込む。先方は応諾して迎えの飛行機を南京によこす。重慶で松岡・蔣会談をすますと、二人はその足で、チャイナ・クリッパー機に乗り、重慶からワシントンに飛ぶ。ルーズベルトに会う。ルーズ・蔣・松岡の三者会談によって話はまとまる。

 条件は、万里の長城以北を中立地帯として、日本は全大陸地域から撤兵する。その代償として、アメリカも中国も満州国を承認する。そして日米、日中不可侵条約──これが松岡の世界平和の青写真である。

日米開戦への道 避戦への九つの選択肢』大杉一雄著(講談社)

松岡の得意とした大風呂敷ともいえる壮大な構想です。日ソ中立条約によってソ連を枢軸国側に取り込み、対等な立場でアメリカとの交渉に臨みたいとの思いが、松岡にはありました。

松岡にとって中立条約の締結は、こうした構想を現実のものにするための第一歩だったのです。現に松岡はモスクワでスタインハート米駐ソ大使と会談を重ねています。

その際、松岡はアメリカによる援蒋行為の中止と、アメリカの仲介によって蒋介石に日本との和解を呼びかけてくれるように求めています。その代償としてシンガポールとフィリピンを攻撃しないこと、アメリカが中国に有する権益の安全と、中国や南洋における自由貿易を保障すると提案しています。

松岡が真剣に自らの構想の実現に向けて動いていたことは間違いないようです。

松岡が帰国すると、マスコミも国民も諸手を挙げて歓迎しました。新聞では連日、松岡電撃外交の勝利が讚えられ、国民の間で松岡の人気は頂点に達していました。松岡のプロマイドの売れ行きは、当時の人気映画スターを上回るほどであったと言われています。日ソ戦争がなくなったという安堵感が、国民の松岡人気を支えていました。

そんな松岡を帰国早々に待っていたのは、彼の与り知らぬところで進められていた「日米諒解案」です。これについては次節にて紹介します。

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