第1部4章 独ソ戦(7/12)アメリカの怒りを買う南部仏印進駐はどう決まっていったのか

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第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

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第1部4章 独ソ戦(6/12)ドイツと共にソ連を挟み撃ちにすべきか、それとも...

日本はなんのために戦ったのか

3.独ソ戦の衝撃がもたらした南進への道

その5.武力行使も辞さない南部仏印進駐への道

独ソ戦
日本軍の仏印進駐より引用
行軍の苦労は自転車が軽くしてくれた

ー 南部仏印に進駐する理由とは? ー

独ソ戦
検証・戦争責任:読売新聞より引用
日本の南方進出の概略図

武力行使容認の過程を見る前に、当時の情勢から南部仏印の重要性を検討してみます。なぜ日本は南部仏印進駐に、ことさらこだわったのでしょうか?

その答えについては、参謀本部参謀総長の杉山元帥が記した「杉山メモ」が残されています。「軍事上経済上政治上の見地より北部仏印と共に南部仏印に速に所要兵力を進駐せしむるの絶対必要なる理由に就て」と題された、このメモは陸海軍が合同で完成させたものです。

そこには南部仏印進駐がなぜ速やかに実行されることが必要なのかについて記されています。

独ソ戦
wikipedia:杉山元 より引用
【 人物紹介 - 杉山元(すぎやま げん/はじめ) 】
明治-昭和時代の軍人。最終階級は元帥陸軍大将。満州事変勃発の際は陸軍次官、のち参謀次長・教育総監を歴任。日中戦争では陸軍大臣として短期終結の見通しから拡大論を唱え、日中全面戦争化を推し進めた。その後、参謀総長に就任、大東亜戦争の開戦から44年まで陸軍全般の作戦指導にあたった。本土決戦に備え第一総軍司令官となるが終戦を迎え、昭和20年9月12日に自決した。

結論から言えば南部仏印進駐が必要な理由として、日中戦争の解決が第一に上げられています。米英蘭中国による戦略の連携が進んでおり対日共同戦線が結成されつつあるだけに、このまま日本が何らの対抗措置を講じないとなると、重慶にある蒋介石政権がアメリカを頼りに抵抗をますます強めると危惧されました。それゆえに日中戦争を解決に導くためには、米英蘭と中国との提携を分断することを優先すべきと、軍部は判断しました。

北部仏印進駐を果たしたものの、援蒋ルートの遮断は思うように進んでいませんでした。この際南部仏印に軍を進めることで、米英蘭と中国との結びつきを早急に断つ必要がある、それが軍部の掲げる南部仏印進駐の目的でした。

また、日蘭会商の交渉決裂が示すように、日本が南方に及ぼす力が弱まることで米英蘭の連携が相対的に強まり、必要とする物資さえも取得できなくなっている現状を憂い、そのことが日中戦争の遂行を難しくしていると指摘しています。日中戦争を終わらせるためにも米英の圧迫を排除することが必要であり、そのためにも仏印とタイを日本の勢力圏に取り入れるべきとの論です。

ただし、タイはイギリスとの結びつきが強いため、日本軍が進駐するとなると米英が強く反発してくることが予想されるだけに、今回は仏印のみに留めるとしています。

南部仏印こそが軍事戦略上の天王山であり、ここを米英に先んじて抑えることが「戦わずして勝つの上策」につながるとの判断を示し、南部仏印を放置したまま手をこまねいているほうが米英との戦争を引き寄せる危険が増す、と結論づけています。

北部仏印進駐が南進のための拠点作りを目的に為されたことに対して、南部仏印進駐の目的には南進のための布石としての理由付けがなく、専ら日中戦争の解決のためという大義名分が立てられていることは注目に値します。

ー 米と重要物資の確保 ー

米英蘭と中国との連携を遮断する以外にも、南部仏印を勢力圏に取り込む理由は複数存在しました。そもそも南部仏印は天然ゴムや錫・亜鉛・タングステンなど重要資源の生産地であるとともに、米の生産地でした。日中戦争を遂行する上で軍事上の重要資源を確保することは必須でしたが、この頃の日本にとって特に必要とされたのは、実は米でした。

1939(昭和14)年には朝鮮米が不作に襲われ、続く1940(昭和15)年には旱魃により、当時の日本は年間900万石もの米が不足している状況でした。国民が飢えないようにするためには外米を輸入するよりありません。

そこで米不足を補うために仏印とタイに頼り、米を輸入していました。ところが米英の妨害によって米を輸入できる量が次第に減っていたのです。

仏印とは輸入協定が交わされていましたが、6月に予定されていた10万トンは集荷不良を理由に5万トンに減らされ、7・8月についても半分に減らしたいとの申し出が為されていました。日本側はその背景に、米英の策動があったとしています。

タイに対してはイギリスより60万トンのタイ米が発注され、そのために対日輸出に支障が来していました。

米英による妨害工作を排除するためには南部仏印に進駐し、その圧を持って米の円滑な輸入を図ることが求められたのです。

米以外の重要物資についても似たような状況でした。たとえばゴムについてはイギリスが英領マレーから日本への輸出を5月から禁止しているため、日本は仏印に頼るよりありませんでした。しかし交渉は日本の思ったようには進まず、仏印では年に6万トンのゴムが生産されるなか、日本が輸入できるのは1万5千トンに過ぎませんでした。

ゴムはアメリカにとっても必要な資源だったため、仏印から大量の買い付けを実行していたためです。米英蘭の連携がある以上、仏印が米英を優先することは当然のことでした。

米にしても重要資源にしても、まともな商取引では入手できない以上、日本が軍事的な威圧を背景に圧力をかけようと画策したことも、軍部からすれば自然な行動でした。

タイと仏印を勢力圏に組み入れない限り米や重要物資の入手に困ることになり、日中戦争の遂行もおぼつかなくなると軍部は考えたのです。

ー 調停後のタイの動向 ー

独ソ戦
http://www.geocities.jp/yuzukoseu/page014.htmlより引用

昭和17年に発行された地図、日本の調停によりカンボジア・ラオスともにメコン川西岸域までのタイの失地回復が約された、地図でもタイ領が大きくカンボジア・ラオスに食い込んでいることが見てとれる
タイが親英に傾いていると知ったことも、南部仏印進駐の原動力でした。軍部はタイとの軍事協定を望んでいました。タイと仏印の間で領土を巡って紛争が起きた際、日本は調停にひと役かいました。この紛争はフランスの降伏を契機に、タイが従来からの懸念であった国境問題を解決するために仏印に対して仕掛けた紛争です。

はじめはタイが戦況をリードしていたものの、仏印軍の頑強な抵抗にあい、タイにとって好ましくない状況に陥っていました。日本の威信を示そうと、この紛争の調停に乗り出したのが松岡外相でした。1941(昭和16)年3月、日本の調停によりタイに有利となる形で講和が為されました。

この調停によりタイに恩を売ったと軍部は解釈していました。だからこそタイとの軍事同盟は簡単に結べるだろうと考えていたのです。

ところが懐柔策に転じたイギリスの手がタイに入っており、対日感情が思いの外厳しいことを知って軍部は焦ります。日本による調停を有り難迷惑と考えるタイ人が多くいるとの現地からの報告は、このままではタイとの軍事同盟は不可能との認識を軍部にもたらしました。

そこで、南部仏印進駐によって圧力をかけることで、タイと中身がある軍事協定を結ぶことが期待されたのです。

ー 日蘭会商の失敗と米英に先んじるために ー

独ソ戦
神戸大学 電子図書館システム --一次情報表示--より引用
大阪朝日新聞 1940.7.12-1940.7.14 (昭和15)、蘭印の石油資源を売ってほしいと日本は何度も交渉したが、英米の横槍によって阻まれ、叶わなかった

先にも触れた日蘭会商の決裂も、南部仏印進駐の大きな要因です。蘭印から石油などの輸入を図った日本に対し、蘭印は要求のほとんどを拒否するとともに、これまでの交渉でかろうじて容認した範囲の対日輸出に際しても保証を与えないと宣言するに至り、交渉は打ち切られました。

だからといって蘭印への武力行使はアメリカとの戦争さえ危惧されるため、自存自衛以外の目的では封じられています。南部仏印進駐によって蘭印に無言の圧力をかけ、その上で日蘭会商を再開することで石油などの輸入を図ることが、日本側の望みでした。

さらに、南部仏印進駐の動機となったのは、米英に先んじなければならないとする思いでした。南部仏印は資源の面からも軍事上の位置においても、重要な場所です。戦略上の重要地点である南部仏印に米英が進駐することを、日本側は極度に警戒していました。

当時はフランスがドイツに降伏したことにより、2つのフランス政府が存在していました。
フランス本国でドイツの影響下にあるヴィシー政権と、イギリスにある亡命政府としてのドゴール政権です。

独ソ戦
wikipedia:シャルル・ド・ゴール より引用
【 人物紹介 - シャルル・ド・ゴール 】1890年 - 1970年
フランスの軍人・政治家。第2次世界大戦勃発時は陸軍次官。フランスの降伏が迫るも抗戦継続を主張して孤立。逮捕される直前にロンドンに亡命。BBC放送からフランスに向けて歴史的な対独レジスタンスの呼びかけを行い、ロンドンに自由フランス委員会を設立した。本土のペタン政権からは反逆罪のかどで死刑を宣告されるも、レジスタンス結集に尽力。

パリ解放後に帰国を果たし、フランス共和国臨時政府の首班となった後に下野。のちアルジェリア問題でフランスが危機に陥った際、挙国一致内閣で首相となる。第五共和制を発足させ、初代大統領に選出された。

右翼の抵抗を抑えてアルジェリア独立承認をはじめとする非植民地化を推進。ヤルタ体制すなわち米ソ両国による世界の共同支配体制を拒否し、核兵器の開発・共産圏への接近・中国承認・アメリカのベトナム介入反対・NATO軍事機構からの仏軍の引き揚げなど、独自の外交路線を突き進めた。そのしわ寄せにより国民生活には重圧が強いられ、五月革命勃発。国民投票により敗北し、1969年に引退。翌年死去。

ドゴールが仏印の管理を米英に依頼する可能性は十分に考えられました。そうなると米英の軍が南部仏印に入ることになります。それはいざとなったときに、日本が自存自衛のために南進することを阻むための最前線基地になることを意味していました。

仏印が敵の手に落ちる前に確保することは、日本の命運を握る重大事でした。

このように、南部仏印への進駐は日本にとってできる限り速やかに実行しなければならない課題でした。南進するにしても北進するにしても、南部仏印進駐を果たすことでタイと仏印を軍事・政治・経済的に日本の勢力圏に取り込むことこそが、急務とされたのです。

ー 軍部と松岡外相の対立 ー

独ソ戦
東京)歴史語り継ぐ場に 近衛元首相の旧私邸を復元へ:朝日新聞より引用
1940年7月19日、荻外荘での会談。左から近衛文麿・松岡洋右・吉田善吾次期海相・東条英機次期陸相。松岡外相と軍部の対立こそが日本軍をして南部仏印進駐へと走らせた

次に武力行使も辞さない進駐へと舵を切ることになった経緯について見てみます。武力行使を自ら封じていた陸海軍を、短期間で武力行使容認へと方向転換させた最大の原動力となったのは、松岡外相の大言壮語でした。

南部仏印進駐の方針が決定されたのは、1月に合意された「対仏印・泰施策要綱」に遡ります。この方針に則り、陸軍は3月末までには南部仏印進駐を成し遂げるべきと主張しました。

それを遮ったのは松岡外相でした。南部仏印進駐を実行するためには仏印との交渉が不可欠です。しかし、外交交渉の責任者である松岡は進駐に反対し、交渉そのものを拒否しました。

松岡は南部仏印への進駐の交渉を始めるとなれば直ちに米英に筒抜けとなり、対英米戦を誘発することになると主張し、進駐には慎重な姿勢を崩しませんでした。

松岡のかたくなな態度に困ったのは軍部です。先にも紹介したように仏印とタイを勢力圏に取り込むことは、この年の4月から5月頃には陸海軍に共通する最優先の課題になっていました。ことに軍事上の重要拠点である南部仏印は米英にとられる前に確保しておく必要があったため、時間との戦いでした。陸海軍は松岡の説得を試みましたが、芳しい結果を得られないまま時が過ぎていくばかりです。

そんな松岡の態度に変化が表れたのは、訪欧後のことです。南部仏印進駐により「企図せざる対英米戦に陥る」との情勢判断にぶれはないものの、軍部に進駐のための交渉を促された松岡は、逆にシンガポール攻撃や対英米戦の決意を軍部に迫るようになったのです。

戦争指導班の『機密戦争日誌』には、次のように綴られています。
「シンガポール攻略の企図なき限り、(南部仏印進駐の)軍事協定はテコでもやらず。」

松岡が突如シンガポール攻撃を口にするようになったのは、訪独の際にドイツ側の要請を受けたからと考えられますが、真意については不明です。

シンガポール攻略を軍に迫る松岡は、当時の軍部よりもはるかに過激であったことは間違いありません。南部仏印進駐のための交渉を松岡に要請する軍部が、逆にシンガポール攻略を迫られ、対米戦の決意をせよとけしかけられたのでは、黙るよりありません。

軍部の総意は対米戦回避です。対米戦に確実に発展するであろうシンガポールを攻略する気など、軍部のなかにはさらさらなかったのです。

松岡は軍部が強気に出られないことを見越した上で、あえて過激なシンガポール攻略の覚悟を示せと軍に迫ることで、外交の主導権を握ろうと画策したと推測されています。

シンガポール攻略、対米戦突入の覚悟が軍にない限り、南部仏印進駐の交渉には入れないと突っぱねることで、結果的に南部仏印進駐を止めようと謀ったとの論です。

大言壮語を吐いて常に先手をとり、相手を煙に巻いて己が主張を通すことは松岡の常套(じょうとう)手段でした。

しかし、松岡の行き過ぎた大言壮語は軍人のプライドを傷つけ、ついには逆襲を呼び込むことになります。

ー ついに武力行使容認へ ー

独ソ戦
東條英機 歴史の証言 昭和十五年の日本と世界 二大重要国策より引用
国策などの重要案件は大本営政府連絡会議にて決せられた

武藤軍務局長の下で国策の起草にあたった石井秋穂は次のように記しています。

「六月五日の連絡会議後、陸海軍両軍務局長は松岡外相と懇談し、仏印南部に航空基地と港湾施設とを獲得し、かつ軍隊を駐屯させるという方策を、外交交渉に取り上げるよう要請したが、外相は反対した。

 そのさい外相は、『自分は統帥部に決意があるかと、すでに二度までも仕向けてみたが返事はなかった。泰や仏印はすぐに英米に告げる。英米は機先を制してやってくる。自分は実行と決すれば三日で話をつけるが、軍は大丈夫ですかい』と反問した。

 懇談から帰った武藤局長は……私に対し『もはや話は簡単ではない。南部仏印に我が軍隊を[武力]進駐せしめるという徹底した案を起草せよ。それで押していく。進駐だぞ』と命じた。」(「石井秋穂大佐回想録」)

昭和陸軍全史 3 太平洋戦争』川田稔著(講談社)より引用

軍部が松岡に要請したのは、あくまで平和的な外交交渉です。ところが松岡が軍にその気がないことを知りながら挑発した結果として、軍部は「南部仏印に我が軍隊を進駐せしめるという徹底した案を起草せよ」と反発するに至りました。

ここで武藤が言い放った「徹底した案」とは、武力公使による進駐を意味しています。松岡を説得するためには軍が自ら封印してきた南方武力行使の枷を取り外し、いざとなれば対米戦に突入する覚悟があるのだと示すよりないと軍部は判断したのです。

水面下での駆け引きはともかく、形の上では武力行使の決意を迫る松岡の主張を受け入れ、軍が従来の方針をかなぐり捨て「武力進駐も辞さず」と態度を改めたことになります。

こうして6月10日、独ソ開戦に際して日本がどう動くのかもまだ定まらないうちに、陸海軍の間で「南方施策促進に関する件」が合意されました。

外交交渉に失敗した際は武力を行使してでも南部仏印への進駐を図ること、自存自衛上やむを得ない場合は英米に対しても武力を行使するとの合意です。松岡を仏印との平和的な外交交渉に着かせるためだけを目的として為された合意でした。

それは松岡の望んでいた結果ではなかったものの、これまで武力行使の覚悟を軍に迫っていた松岡としては、軍が反発して武力行使を可とする態度に出た以上、これを容認するよりない立場に追い込まれたのです。

6月12日に大本営政府連絡懇談会が行われ、「南方施策促進に関する件」は了承されました。内心では忸怩(じくじ)たる思いを抱えていたであろう松岡も、これに表だって反対することもできず容認しています。

これにより、武力行使も辞さない南部仏印進駐のための外交交渉を始めることが、正式に決定されました。4月には対米戦を回避するために南方への武力行使はしないと合意を得たにもかかわらず、わずか2ヶ月の後には武力行使容認、対米戦も辞さずと日本の国策は180度向きを変えることになったのです。

ここで注目すべきは南部仏印での武力行使容認は、軍としてはあくまで松岡を外交交渉に着かせるための手段として講じた結果に過ぎず、軍が本気で米英との戦争を決意したわけではないことです。

参謀本部事務当局の日誌には「元来外相が大プロシキを拡げたる場合の提案なり、陸海本当の決意にあらず、外相説得の一手段なり」と、軍の本音が記されています。

『大本營陸軍部大東亞戦争開戦経緯 4』にも「論理を徹底させて松岡外相を納得させるために作られただけであり、大多数の人々にはこんな腹はなかった」と綴られています。

他にも「南方施策促進に関する件」の作成に関わった多くの人々が、同じ趣旨の感想を漏らしています。

軍としては対米戦を回避する姿勢を堅持したい意向であることに変わりなかったといえるでしょう。しかし、国策として「対米戦を辞せず」と記されたことは後々まで日本の動きを縛り続け、引き返すことのできない茨の道へと日本を引きずり込むことになります。

ー 軍部が読み違えたこと ー

それにしても不思議なことは当時の軍人が残した日記などを見てみると、南部仏印進駐を強行することによってアメリカが報復に出るとは、まったくと言ってよいほど考慮されていないことです。

参謀本部の日誌には「仏印進駐に止まる限り、禁輸なしと確信す」と明記されています。

それが当時の軍部の認識でした。南部仏印よりさらに南下することで英領マレーや蘭印に手を伸ばせば対米戦になると危惧されたものの、南部仏印に留まっている限りは対米戦の危険はないとの思い込みが、軍部を支配していたのです。

武力行使をも辞さない南部仏印進駐という重大な国策を決定したにもかかわらず、そのことがアメリカの国益に対してどのような影響を及ぼすのか、アメリカがどのように受け止めるのかといった議論がまったく為されていないことは、今から振り返ると不可思議なことです。

対米戦回避を信条とする陸海軍は、英領マレーや蘭印に進出する気など、この時はもっていませんでした。だからこそアメリカと戦争になるはずがないと高をくくり、南部仏印進駐を国策として定めたのです。

その読みが甘かったとわかるのは、進駐後のことでした。

いずれにせよ武力行使を念頭においた南部仏印進駐を国策としたことは、その文言を見る限りでは対米戦も辞さない日本の不退転の決意のもとに為されたように見受けられますが、実際にはそのような決意など少しもないまま、軍部と松岡外相の対立の果てに生じた結果と言えるでしょう。

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