レイテ島慰霊の旅 ~レイテに降る涙雨 2/3

第2回 リモン峠を往く

前回はカンギポット周辺の慰霊碑をめぐりましたが、今回はカンギポットを離れ、第1師団が米軍と死闘を繰り広げたリモン峠へと向かいます。レイテの戦いでもっとも多くの日本兵が戦死を遂げたのは、リモン峠からカンギポットにかけてでした。

およそ3万人の日本兵が散華したとされています。

4.工兵碑

リモン峠に向かう国道沿いに、工兵碑がひっそりと建っています。

フィリピンレイテ島2日目6
石段を上った先にたたずむ工兵碑

「工兵碑」の位置・行き方については【レイテ】工兵碑(CAPOOCAN) を参照してください。

今回は時間がないため、工兵碑には道から手を合わせたのみです。「工兵」とは直接戦争に参加するのではなく、軍用道路などを施設する後方部隊に属する兵のことを指します。

リモン峠の戦いで苦境に陥った日本軍は、武器も満足に持たない工兵をも戦闘に参加させることを余儀なくされました。それでも工兵たちは勇敢に戦いました。爆弾を抱いて米軍の戦車に飛び込み、戦車を破壊することで友軍を救った工兵がいたことが記録に残されています。

工兵第一連隊690名は、一人残らず全員が戦死を遂げました。

5.リモン峠頂上の慰霊碑

工兵碑を後にリモン峠への道を進むと、やがてリモン川が見えてきます。リモン川の河原で米軍と対峙した日本軍は、絶え間のない米軍の砲撃にさらされ、ここで多くの兵が命を落としました。水かさの増したリモン川の下流へと死体は流され、川面を真っ赤に染めたと伝えられています。その当時、リモン川は「血の川」と呼ばれました。

リモン川を渡り、ジグザグの登り道を進みます。この道をかつて、第1師団の兵たちが進軍しました。ルソン島を経てオルモックに上陸した第1師団に与えられた任務は、カリガラ平野に進出しそこを拠点にタクロバンから上陸した米軍を駆逐することでした。

カリガラ平野には第16師団がいるはずでした。ところがカリガラ平野を目指してオルモック街道を北上する第1師団の兵が目にしたものは、あまりに痛々しい姿でリモン峠を下ってくる第16師団の兵たちでした。

片腕を吹き飛ばされた兵や、全身に火傷を負い泣きながら下ってくる兵もいました。そこにはヒロイズムだけでは語り尽くせないリアルな戦争が横たわっています。車窓の向こうに、75年前の敗残兵の姿がしばし映ったような気がしました。

カリガラ平野は、レイテにおける戦略上の最重要地点でした。米軍がレイテを攻略しようと考えたのも、広大なカリガラ平野があったからこそです。マニラまで560キロのこの地に飛行場を作れば、ルソン島攻略の大きな拠点になるからです。

タクロバンから上陸した米軍は疾風のごとくカリガラ平野に侵攻し、わずか2万に過ぎない第16師団を壊滅させました。米軍としてはカリガラ平野を制圧することで、レイテ攻略を終了させる予定でした。

ところが米軍にとって思いがけないことが起きます。日本軍がルソン島から大部隊をレイテ島へ送り込んできたのです。制空権も制海権も持たない日本軍が20万以上の米軍を前に、数万の新たな兵団を投入してくるという無謀さに、米軍は驚きました。それは米軍にとって、自殺行為としか思えない不可解な行動でした。

米軍はオルモックに上陸した日本の新手の部隊を討伐するために、カリガラ平野からオルモックを目指しリモン峠を進みました。

かくして、カリガラ平野に向かう第1師団と米軍はリモン峠にて鉢合わせとなり、レイテの戦いのなかで最も激しい戦闘が繰り広げられたのです。

そのリモン峠の頂上に、第1師団の複数の慰霊碑が建立されています。木片で囲まれた小屋のなかには「陸軍第一師団戦没者英霊」と記された木の慰霊塔が安置されていました。

フィリピンレイテ島2日目5
「慰霊の印は木で作り、朽ちるときが来たら朽ちたらいい。リモン峠からカンギポットにいたる山野全体が日本軍の慰霊碑なのだから」との片岡師団長の意を汲み、第一師団の慰霊塔は木で造られている。

「リモン峠頂上の慰霊碑」の位置・行き方については【レイテ】リモン峠頂上の慰霊碑(CAPOOCAN) を参照してください。

この慰霊碑のある場所からほど近いところに平地が開けており、そこに最前線に送られた1500人の兵が野営をしていたそうです。リモン峠を登ってくる米軍と、第1師団の兵は幾度となく死闘を繰り返しました。

フィリピンに来るまでは満州で戦っていた第1師団にとって、米軍と接するのはこれがはじめてです。米軍の砲撃の凄まじさに、兵たちは言葉をなくしました。最新の砲台と豊富な砲弾を擁する米軍は、一度打ち始めると1時間ほども絶えることなく砲撃を浴びせてきます。

対する第1師団の兵装は、悲しいほどに時代遅れのものでした。満州で使っていた新式の銃を返納した代わりに渡されたのは三八式の銃です。三八式は日露戦争時に作られた旧式の銃でした。新式銃では弾薬の補給がままならないために、旧式銃を供与されたと考えられています。

米軍の自動小銃は1分間に400発を発射できましたが、三八式銃は1分間に15発しか発射できません。明治時代に作られた時代遅れの銃と米軍の持つ最新の銃との差は明らかでした。しかも米軍が豊富な弾薬数を擁し、ほぼ無尽蔵に銃撃できたことに対し、補給の見込みがたたない日本軍の弾薬数には限界があり、一発を大切に撃つよりありません。

大砲も明治に使われた三八式野砲を改造したものに過ぎず、米軍との火力の差は明らかでした。米軍の野砲は15分間に4000発の砲撃が可能でした。対して日本軍の砲兵は「せめて各砲門1日15発は発射したい」と切望しました。されど手持ちの砲弾が少なく、そのような贅沢はなかなか許されませんでした。

米軍が160門の野砲から一斉に火を噴いたことに対して、日本軍の野砲は27門に過ぎず、敵をぎりぎりまで引きつけてから散発的に砲撃するのがやっとだったのです。

さらに米軍は複数の戦車を擁し、航空機を飛ばして空から自由に爆撃を行えます。最新装備を誇る米軍の圧倒的な火力の前に、明治の軍隊とさほど変わらない日本軍が相まみえればどうなることか、予想することはさほど難しいことではないでしょう。米軍とて同じです。すぐに第1師団を粉砕できると考えていました。

ところが第1師団は米軍の予想を裏切り、リモン峠一帯の山地に防衛線を展開し、オルモック目指して南下する米軍を阻止する戦いを堂々と繰り広げました。

第1師団にとって幸いだったことは、カリガラ平野に降りてから米軍と戦うのではなく、リモン峠にて対峙できたことでした。リモン峠の道は狭く、戦車は一台ずつ通るのがやっとです。火力では負けていても、一台ごとに撃破するのであれば肉弾攻撃でも太刀打ちできたのです。

まさに「砲弾対肉弾」の熾烈(しれつ)な戦いでした。それでも第1師団は地の利を最大限に活かし、戦力に勝る米軍を跳ね返しリモン峠を守り抜きます。

米軍の連隊長は「敵と交戦した者は、その見事な戦闘ぶりによって感銘を受けた。向こう見ずな攻撃、無益な犠牲や一般に戦術の初歩に反した行動は見られなかった。」と、第1師団の戦いぶりに対して賛辞を送っています。

フィリピンレイテ島2日目4
最前線のこの地で戦った第1師団第57連隊の鎮魂碑、2500名の第57連隊のうち、カンギポット山に生きてたどり着けたのは、わずか90名に過ぎなかった。

およそ50日にわたって第1師団は米軍の猛攻に耐え、圧倒的な戦力差からして本来は支えられるはずのないリモン峠の戦線を守り抜き、リモン峠から先への米軍の侵入を阻みました。

しかし、ついに限界は訪れます。第1師団壊滅の直接的な原因となったのは「カリガラ平野に進出して敵を殲滅(せんめつ)せよ」との上からの命令でした。

軍隊はいかなる理不尽な命令であろうとも、命じられた以上は命に代えてもそれを実行に移すことが義務づけられています。たとえ全滅するとわかっていてもです。

兵士の一人ひとりが、その命令が正しいかどうかと考えて行動していたのでは、そもそも戦闘は成り立ちません。意味がわからなくても、命じられた以上はその通りに行動するよりないのが軍隊の冷徹な秩序です。

兵たちがあたかも将棋の駒のように命じられたままに動くことこそが、米軍さえも感嘆した「強い軍」を支えた根本原理といえます。

この命令により第1師団は米軍と正面からぶつかるよりなく、斬り込み隊による特攻攻撃が何度も敢行され、多くの兵の命が失われました。

斬り込み隊による玉砕は、南洋のさまざまな島において繰り返されました。たいていはすでに弾薬は尽き銃を撃つことさえできないため、銃の先端に取り付けた剣だけを頼りに、多くの敵兵が機関銃を手に待ち構えている敵陣に正面から突っ込んでいくのが斬り込み隊です。

斬り込み隊に対して猛烈な射撃が浴びせられるのは当然で、その状態で敵陣に到達できる日本兵など、ほぼ皆無です。敵になんの損害を与えることもできずに、斬り込み隊は全滅したのです。ただし、米兵に得体の知れない恐怖感だけを与えたことはたしかです。

神風特攻隊も斬り込み隊も生還の望みがない突撃を敢行したことにおいて、その本質に違いはありません。

こうして第1師団は勇敢に戦い抜き、1連隊も49連隊も一時はカリガラ平野に進軍し、マナガスナス・カポーカン道を完全に遮断することに成功しています。戦力において圧倒的に不利であったにもかかわらずです。

しかし、その代償は、あまりにも大きなものでした。多くの将兵を失った第1師団は、もはや軍として成り立たないほどに壊滅的状況に陥ったのです。

防戦がやっとであった戦いの渦中に攻撃に転じることを命じられた以上、ほぼ全滅するのはわかりきった結果でした。最前線の状況を軍上層部が把握していない事態は、レイテに限らずこの当時の日本軍の戦いで度々繰り返されています。

12月21日、ついに転進命令が出され、リモン峠を下りてカンギポット山へと第1師団の残存兵は撤退をはじめました。およそ1万3500人の第1師団のうち、このとき生き残っていた兵は、わずか2500人に過ぎません。

その後、第1師団のおよそ800人の兵がセブ島へと渡ったことは前述の通りです。結局、第1師団から生きて本国の土を踏めたのはレイテから50人、その他の諸島から数百人程度でした。精鋭で知られる第1師団の大半は、レイテ島に骨を埋めたのです。

そのリモン峠に、石田さんの読経の声が染み渡ります。あれから75年の歳月を見守ってきたリモン峠から吹く風は、青く霞むカリガラ湾へと抜けていきます。その風に運ばれ、海を越えて靖国神社へと、彼らの魂は還っていったのかもしれません。

フィリピンレイテ島2日目3
リモン峠の頂上から見渡せるカリガラ湾(ドローンに付けたカメラより上空から撮影)

6.歩兵第9連隊の鎮魂碑・地蔵尊

軽い昼食をとったあと、再びオルモックへと引き返し、ダナオ湖周辺の慰霊碑を回りました。はじめに立ち寄ったのはドロレス小学校の敷地内におかれた歩兵第9連隊の鎮魂碑と地蔵尊です。

道路に面しており、柵の中に入らなくてもお参りすることができます。敷地内だけに小学生によって清掃が施され、慰霊碑の一角はきれいに保たれていました。

フィリピンレイテ島2日目2
歩兵第9連隊の鎮魂碑は学校の敷地内にあり、普段は柵で囲まれている。道路に面しているため、柵があっても慰霊はできる。

「歩兵第9連隊の鎮魂碑・地蔵尊」の位置・行き方については【レイテ】歩兵第9聯隊 鎮魂碑・地蔵尊(ORMOC) を参照してください。

歩兵第9連隊は、レイテ島の守備に初期から配置されていた第16師団に属しています。1万8600人の第16師団は、タクロバンとパロ周辺、そしてドラグに上陸してきた米軍20万と激突しました。上陸する米軍と真正面から戦うことを命じたのは大本営です。

平地において真正面から10倍の兵力と圧倒的な火力を擁する米軍と戦えば、第16師団が総崩れとなるのはやむを得ないことです。しかし、戦中から戦後まもなくは第16師団の戦いぶりに対して批判が寄せられるという悲運に見舞われています。

敗れても玉砕すれば誉め讃えられ、敗走すれば非難される、それが当時の日本を覆っていた空気でした。

第16師団の一部はその後、ブラウエン飛行場奪還作戦に参戦するなど最後までレイテにて戦い抜きました。しかし、第16師団の残存兵が脊髄山脈に逃れ、遊兵と化してさまよっていたことも事実です。

「遊兵」とは部隊から離れ、軍隊の指揮系統から外れた兵のことです。小隊を指揮する隊長が戦死を遂げたことで図らずも遊兵となることもあれば、戦闘中に部隊と離れ、帰還するにも全滅を遂げたなど部隊の消息を掴めないまま遊兵となる場合もあります。なかには自らの意志で部隊から離れ、遊兵となった例もあるようです。

一度遊兵と化すと、過酷な運命が待っていました。

この頃、マニラからの補給が途切れたとはいえ、数少ない食料を部隊に届ける輜重兵(しちょうへい)は、まだ少数ながら密林の中で任務を果たしていました。

しかし、遊兵は部隊とは見なされないため、食糧の補給を受けることができません。遊兵は自らが生き残るために、密林の中をさまようよりありませんでした。

とはいえ密林の中には、口にできる食料はほとんど見当たりません。ジャングルといえばバナナやココナッツ・パイナップルなどが生えていると思いがちですが、それらは人が栽培することではじめて実を結ぶものであり、密林の中に自生していて、人が食べられる果物は皆無です。

食べられるものと言えば蛇やトカゲ、カエルやミミズなどですが、命を繋ぐに十分なだけの量を得ることは厳しい状況でした。

そのうちには輜重兵による食料の配送もなくなり、かろうじて部隊としての機能を有している兵も遊兵も、脊梁山脈の密林の中で食料を求めてさまよう地獄絵が展開されました。

さらに米軍による追撃もあれば、フィリピン人ゲリラによる襲撃もありました。しかし、そうして戦死した兵以上に多かったのは、食料を口にできないまま餓死したり、体力が衰えたことで病に倒れて死んでいく兵たちでした。

密林の至る所に日本兵の白骨化した死体が横たわり、生き残った兵はそれを道標として進みました。

もはや重い兵装を維持する体力もなく、銃を捨てる兵が相次ぎました。それでも兵たちが最後まで手放さなかったのは、飯ごうです。

飯ごうと言っても米があるはずもなく、密林に生えている野草を煮て食べるためでした。兵たちは飢えと病に苛まれながら、日本で待つ家族のもとへ帰ることだけを願い、必死で生きながらえようとしました。

その過程で起きた悲劇は、現代を生きる私たちの想像を超えています。深く知りたい方は大岡昇平著「野火」などを一読してみるとよいでしょう。

ただし、生存者の証言を元に書かれたとはいえ、「野火」はあくまで小説です。現実にどのような事態が進行していたのかを想像するのは、個々の判断に任されます。

密林をさまよう兵たちが目印としたのは、ダナオ湖です。水と魚を求め、多くの日本兵がダナオ湖へたどり着いています。

しかし、ダナオ湖は火山湖であるため魚はいません。魚の代わりに待ち構えていたのは、かつてこの地を本拠地にしていたフィリピン人ゲリラでした。ゲリラは湖を取り巻く稜線から現れ、湖岸で一息つく日本兵に襲いかかりました。

日本兵を捕虜として米軍に差し出せば報奨金が出たこともあり、生きたまま連行された日本兵もいれば、激しい憎悪から殺された日本兵もいます。

第9連隊の慰霊碑の裏にも、そのことが刻まれています。慰霊碑周辺での戦闘で命を落とした兵もいれば、ダナオ湖のあたりで消息を絶った日本兵も多数いたのです。

第16師団1万8600人のうち、日本に生還できたのは、わずか580人でした。

フィリピンレイテ島2日目1
なにをしているのかと、興味深げに集まってきた地元の小学生たち。

石田さんが読経をはじめると、物珍し気な表情を浮かべた4、5人の小学生が集まってきました。彼らは、この碑のことをなにも知りませんでした。敷地内にあるとはいえ、小学校で慰霊碑の由来を教えることもないようです。

慰霊に度々訪れている石田さんは、その都度集まってきた子供たちにお菓子などを手渡しているそうです。この日はお菓子を用意していないため、アイスクリームを買える程度のお小遣いを子供たちに手渡すと、子供たちはアイスクリームの屋台に向かい、歓声を上げて駆けだしていきました。

次代を担う子供たちが「これを機に、あの戦争の歴史について少しでも興味をもってくれればうれしいですね」と、石田さんは顔をほころばせました。

7.オルモック街道

クルマは再びオルモック街道を走ります。思えばオルモック街道は、兵たちの運命を大きく隔てた道でした。

ダナオ湖周辺までたどり着いた日本兵がカンギポット山へと向かうために、どうしても渡らなければいけないのがオルモック街道でした。

オルモックを米軍が制圧して以来、街道は米軍の厳重な管理下におかれました。オルモック街道を渡ろうとして米軍に狙撃され、亡くなった日本兵も数多くいます。

実は夜間は警備が手薄なため、よほど運が悪くなければ夜陰に紛れて街道を突っ切ることも可能でした。ですが、実際に渡ってみなければそんなことはわかりません。

そのため日本兵のなかにはオルモック街道の横断をあきらめ、再び脊梁山脈に戻る者も少なからずいました。密林のなかをさまよっても、カンギポットに到達しても、兵たちを待っている運命は過酷なものでしたが、カンギポットの方がまだしも救いがありました。

脊梁山脈の深く閉ざされた密林のなかは、まさに地獄だったのです。そこからの生存者はほとんどいません。

次回はレイテ慰霊の旅の最終回です。米軍の砲弾で破壊された跡を往時のままに保つコンクリートハウスへと向かいます。

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