【フィリピンミンダナオ島IS騒動①】なぜISはミンダナオ島に集結したのか
https://bdnews24.com/world/south-east-asia/2017/06/11/philippines-duterte-not-aware-of-us-support-against-islamists-in-marawi

2017年、フィリピン中を震撼させたミンダナオ島でのIS勢力による闘争。

現在は収束しましたが、一体なぜ、フィリピンのミンダナオ島にISが押し寄せたのか、知らない日本人も多いのではないでしょうか?

今回はフィリピンのミンダナオ島に何が起きたのか、ISが集結する理由が歴史的背景にありました。その歴史的背景とともに、ミンダナオ島で起きた出来事を時系列ごとに説明したいと思います。

1.ミンダナオでなにがあったのか

http://newscdn.newsrep.net/h5/

1-1.ミンダナオ内戦の終結 IS勢力は一掃された

https://www.rappler.com/nation/

「皆さん、私はここにマラウィ市が、テロの影響から解放されたと宣言します。これは復興の始まりを告げるものです」

戦闘がはじまってから148日目にあたる2017年10月17日、ドゥテルテ大統領は勝利宣言を行いました。

一時はIS系の武装勢力に占拠され、アジアにISの拠点ができるのではないかと危ぶまれたマラウィ市ですが、フィリピン空軍の空爆が功を為し、IS勢力を追い払うことに成功しました。

戦いが長期化する見通しもあっただけに、大方の予想よりも早く終結したといえるでしょう。

実はこの時点ではまだ、マラウィが完全に解放されたわけではありませんでした。IS系武装勢力は数人の人質をとったままマラウィに潜伏しており、包囲作戦はなおも続行されました。

https://wtop.com/government/2017/06

しかし、IS系武装勢力を率いていた2人のリーダーであるアブサヤフのイスニロン・ハピロンと、マウテグループのマウテ兄弟は戦闘中に死亡したと伝えられており、司令塔を失った反乱軍は一気に弱体化したようです。

10月21日にはフィリピン軍のダーニロ・パモナグ司令官による勝利宣言も行われました。

「すでに終わったと言いたい。軍の完全な勝利だ」

ドゥテルテ大統領による勝利宣言が為された後も沈黙を守っていたパモナグ司令官の言動は、大いに注目されていました。反米を露わにするドゥテルテ大統領と、親米派の多いフィリピン国軍とは衝突することも多く、必ずしも見解が一致しないからです。

ドゥテルテ大統領より数日遅れはしたものの、パモナグ司令官による勝利宣言も為されたことで、今回のミンダナオ内戦が本当に終息したことを内外に示したことになります。

あとは反乱軍の残党を一掃しながら、イスニロン・ハピロンの3人の息子を見つけることが急務とされました。血縁関係の強いフィリピンでは、ハピロンの3人の息子に信望が集まっており、彼らがリーダーとなって戦闘を続ける恐れがあるためです。

やがて10月23日、ロレンザーナ国防相はマラウィ市を占拠したIS系武装勢力の掃討作戦について「終了を宣言する」と述べ、すべての作戦が完了したことを明らかにしました。

人質は全員解放され、マラウィ市内全域のIS系武装勢力が壊滅したことも言明しました。ようやくマラウィでの内戦が終結したのです。

ですが、今回のマラウィの戦いでは多数の犠牲者が出ました。

戦闘開始から勝利宣言までに軍と警察の死傷者数は165人を数え、反乱軍は897人が死亡したとされています。さらに戦闘に巻き込まれたり、空襲によって犠牲となった民間人も相当数にのぼると見られています。また、反乱軍に殺害された民間人も、少なからずいます。

https://asiancorrespondent.com/2017/09/

その果てに残されたものは、見渡す限りどこまでも広がる廃墟でした。人口20万人を抱えるマラウィ市は、大きく様変わりを遂げたのです。わずか五ヶ月前までの平和に満ちた街並みは、もうどこにもありません。

あたりには黒焦げのがれきが散乱し、市中心部の建物は骨組みしか残されていません。腐敗した死体からの悪臭が、マラウィ市を覆っていました。

いったいミンダナオで、そしてマラウィでなにが起きてこうなったのでしょうか?

内戦の経過を時系列で追ってみます。

2.時系列で追うミンダナオの四ヶ月

http://accelsports.com/stores/mindanao/

ミンダナオはフィリピン南部に位置しており、フィリピンで二番目に大きな島です。過去に幾度となく内戦が繰り返された島だけに、ミンダナオまで足を伸ばす日本人は多くありません。

そのため、日本人には馴染みのない島に思えますが、ミンダナオからの恩恵を私たちは案外受けています。

http://2016.mb.com.ph/2016/07/30/

たとえばスーパーに並ぶバナナやパイナップルのほとんどは、ミンダナオで生産されて運ばれたものです。マグロもミンダナオから日本へと多くが輸出されています。

そんなミンダナオ島の南西部には、「バンサモロ」と呼ばれているイスラム地域があります。この地では1970年以降、独立を求めるイスラム武装勢力と政府軍による武力衝突が続いていました。

いわゆるミンダナオ紛争です。

ミンダナオ紛争は東南アジアで最も長く続いた紛争として、歴史に名を留めています。その間、避難民は数百万人を超え、死者は15万人を数えています。

2014年、前アキノ大統領のときに包括和平合意が結ばれ、これでようやくミンダナオにも平和が訪れると思われていた矢先、世界の注目が再びミンダナオに引きつけられる事態が発生しました。

和平合意に不満をもち、あくまで分離独立を求める武装イスラム勢力がマラウィ市に集結し、政府軍と激しい戦闘に入ったからです。

バンサモロの大地に再び、おびただしい血が流されました。

2-1.ついに戒厳令へ

IS系組織がミンダナオで活動している兆候は、事件前からすでにありました。

今年に入ってだけでも、2月16日にはマラウィ市でマウテ・グループが国軍兵士らを襲撃し2人が死亡しています。その直後「ISIL東アジア」名の犯行声明が出されていました。

2月26日にはスールー州ホロ島にて、ISに忠誠を誓うアブ・サヤフ・グループが拉致していたドイツ人男性を処刑し、欧米のマスメディアでは大きく取り上げられました。

3月にはミンダナオのママサパノで路肩爆弾が爆発し、国軍兵士が負傷しています。この事件のあとにも、「ISIL東アジア」名の犯行声明が寄せられていました。

4月にはボホール島でIS系武装勢力と国軍が戦闘状態に入り、双方で9名の死者が出ています。

さらに5月6日にはマニラで小包が爆発し、配達人と受取人の双方が死亡しています。この小包はISと対立するシーア派指導者宛てに配達されていたため、IS系組織の犯行と見られています。

こうしたIS系のテロ組織の犯行に対して、フィリピン警察と軍は組織のトップに狙いを定め追いかけていました。

http://news.abs-cbn.com/news/

その人物とは、イスラム主義武装組織「アブ・サヤフ」を長年に渡って率いてきたイスニロン・ハピロンです。

ハピロンらは複数の山岳拠点をもち、移動と潜伏を繰り返していました。情報を得て国軍の治安部隊が山岳拠点を襲撃しても、ハピロンらは巧妙に逃げ回り、捕獲には至りませんでした。

そのハピロンが山を下り、マラウィ市に潜伏しているとの情報が国軍にもたらされたのです。

「彼らがマラウィに潜入していることに気づかなかった。山岳拠点ばかり気にしていた」と、後にロレンザーナ国防相は記者団に語っています。

5月23日、国軍と警察部隊はハピロンが潜むマラウィ市の隠れ家に対して奇襲攻撃を仕掛けました。

イスラム過激派掃討作戦のはじまりです。

ところが、軍と警察のまったく予期しない事態が発生しました。ハピロンは逃げるどころか、入念な準備をして国軍と警察部隊を待ち構えていたのです。

ハピロンの率いるアブ・サヤフの戦闘員は、短期間のうちに百人ほどにふくれあがっていました。その多くは外国人戦闘員とマラウィで新たに募った戦闘員です。

4月にマラウィで行われたイスラム教の祈祷イベントに紛れ、ISに関連する外国人がアブ・サヤフの支援に多数駆けつけていたことが、あとからわかっています。

そのなかには、中東でISのために戦ってきた歴戦の強者も混じっていました。頭数は少ないものの、彼らは戦闘のプロです。IS系外国人が中心となって仕掛けてくる戦略に、これから数ヶ月、国軍は悩まされることになります。

さらに国軍と警察を驚かせたのは、それまで別に活動していたはずのマウテグループがアブ・サヤフに合流したことでした。

マウテグループだけでも250~300人規模です。さらに2つの組織が加わることで、IS系武装勢力がマラウィ市に集結する事態となったのです。

武装した多数の護衛団に阻まれ、国軍と警察部隊は撤退するよりありませんでした。軍の撤退を見届けると、携行式ロケット弾と高性能ライフルで武装した約400人の戦闘員は、50口径の機関銃を搭載したトラックに分乗し、マラウィ市の主要各所に素早く展開しました。

彼らが真っ先に襲撃したのは刑務所と警察署です。武器弾薬を奪うことが目的でした。

こうしてわずか数時間のうちに、マラウィ市はアブ・サヤフとマウテグループを中心とするIS系武装勢力に制圧されたのです。

http://filamvoicemaui.com/what-do-you-think-3/

市内にはISの黒い旗がはためき、街路では覆面をした戦闘員が「マラウィを手中に収めた」と拡声器を使って叫び、住民にISの旗の下で戦うようにと参加を呼びかけました。

マラウィ市にはイスラム教徒が多いため、なかには呼びかけに応じる者もいました。

「呼びかけに応えた者には武器を配っていた」と、地元住民が語っています。

マラウィ市にいた20万人の住民は戦闘がはじまるとともに一斉に逃げだしましたが、逃げ遅れた数百人は人質として捕らえられました。

IS系武装勢力が、短時間のうちにマラウィ市を制圧した手口はあまりに鮮やかでした。中東での戦闘で培われた専門的な軍事作戦が展開されたことは、疑う余地がありません。

マラウィ市がIS系武装勢力の手に落ちたことを知ったドゥテルテ大統領は、23日の夜、訪問先のロシアにてミンダナオ全島に戒厳令を布告しました。

戒厳令とは:自治体などがもつ行政権を軍が一時的にすべて握る仕組みのこと。戒厳令下では市民の権利が制限され、夜間外出禁止・令状なしの身柄拘束や家宅捜索・抵抗者への発砲・殺害が可能となる

フィリピンで戒厳令が布告されるのは、1972年のマルコス大統領、2009年のアロヨ大統領に次いで三回目に当たります。
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当初、25日まで予定されていたプーチン大統領との会談を切り上げ、ドゥテルテは急きょ帰国しました。

その際「ISと戦うために、フィリピンはロシア製の近代化された兵器が必要だ。これまではアメリカ製の武器を調達してきたが、今や状況はそう簡単ではない」とドゥテルテが切り出すと、プーチン大統領は快く了承したと伝えられています。

2-2.アブ・サヤフ、マウテとは何者か?

http://news.abs-cbn.com/list/tag/abu-sayyaf-in-bohol

帰国したドゥテルテ大統領の檄(げき)は激しいものでした。

「すでにフィリピンにISがいるのは明白だ。テロリストどもよ、今ならまだ話し合うが、応じないなら全面戦争で叩き潰す」と、力強く宣言しました。

軍に対しても強硬な姿勢を貫いています。

「軍への命令は、武器を持って抵抗するものは直ちに殺害せよというものだ。殺害して排除しない限りテロリストは将来再び問題を起こす。彼らの息の根を止めなければならない」

マラウィ市から武装勢力を追い出そうと国軍は威信をかけて攻撃を仕掛けますが、統制のとれた武装勢力を追い出すのは至難の業でした。武装勢力は学校や病院・教会などを次々と占拠し、5月28日までに市内の75%を占領することに成功します。

軍事力に優れた国軍が成果を上げられないのは、武装勢力が人質にとった市民を人間の盾として使っていたからです。

主要な街路の交差点などに民間人を立たせてバリケードを築き、狙撃兵を配して国軍の兵士を待ち伏せる戦略を武装勢力はとりました。そのため、国軍は思うように進撃することができなかったのです。

さらに壊れた建物の下にはまだ多数の市民が隠れていたため、その救出にも時間と神経を割く必要がありました。

多くの民間人が人間の盾とされたり市内の各所に隠れていたため、国軍は狭い範囲での爆撃や砲撃しかできず、思うように戦果を上げられずにいました。

さらに、マラウィ市に張り巡らされた頑丈な地下トンネルや地下壕は、武装勢力にとってこの上なく都合のよい存在でした。地下の施設を利用して食料や武器を蓄えることもできれば、神出鬼没に国軍を襲うこともできたからです。

有効な対策もないまま戦局は行き詰まり、長期化の様相を見せていました。

その間にも、キリスト教徒を筆頭に複数の民間人が処刑された情報が飛び交うなど、殺人をも辞さない暴力と恐怖で人々を支配するISの手口が、そのままマラウィで再現されました。

このままミンダナオがISの拠点になるかもしれないという恐怖に、インドネシアやマレーシアなどASEAN各国をはじめ、世界中が打ち震えました。

それにしても、今回のような大がかりな作戦を実行したアブ・サヤフ、そしてマウテ・グループとはどのような組織なのでしょうか?

アブ・サヤフは、1991年にモロ民族解放戦線から分かれたグループです。

ミンダナオ島周辺のイスラム社会をキリスト教徒中心のフィリピンから独立させることを目的に、アフガン・パキスタン国境地帯で戦っていたイスラム聖戦士の一人、アブドラク・ジャンジャラーニが帰国後に結成した武装集団です。

初期において、その資金源は911のテロを起こしたアルカイダのオサマ・ビンラディンであったとされています。

ジャンジャラーニはゲリラ戦を指揮していましたが、1998年に警察部隊との銃撃戦で命を落としました。指導者を失ったことでアブ・サヤフはふたつに分裂し、いつのまにか独立運動という大義を忘れ、強盗や身代金目的の誘拐を繰り返す集団に成りはてたのです。

かつては4,000人を誇った構成員も、100人もいないほどに弱体化していました。それでも、2004年には116人が死亡したマニラ湾のフェリー爆破事件を引き起こすなど、凶悪なテロ行為が目立っています。

アメリカとフィリピン政府からは、アブ・サヤフはテロ組織として指定されており、リーダーであるイスニロン・ハピロンには多額の懸賞金がかけられています。

アブ・サヤフがより先鋭化していったのは、失態によりアルカイダの資金源を絶たれたあとからです。アルカイダに見放されて困っていたハピロンは、2014年6月にISが建国を宣言するといち早く支持を表明し、忠誠を誓いました。

こうして2016年に、ハピロンは東南アジアにおけるISのアミール(司令官)に任命されたのです。ISに忠誠を誓うイスラム系武装集団は、ミンダナオに複数存在していましたが、これを機にハピロンの下に次第にひとつにまとまっていきます。

http://news.abs-cbn.com/news/06/22/17/

その課程で中心的な役割を果たしたのが、マラウィの名家の出身であるオマル・マウテとアブドゥラ・マウテの兄弟です。

アブ・サヤフが西にある沖合の島々を拠点としていたことに対して、マウテ兄弟が率いるマウテグループは、マラウィがある南ラナオ州を拠点に2012年に作られた新興勢力です。

マウテ兄弟が裕福な名家出身であることは、オサマ・ビンラディンとよく似ています。彼らはペルシャ湾岸諸国留学中に、過激派の思想に共感したといわれています。

その後、マウテ兄弟は警察官となり、麻薬組織と接触しながら組織のメンバーや犯罪者を傘下に取り込み、自らマウテ・グループを立ち上げました。

麻薬の取引で得た資金で大量の武器を購入し、マラウィからキリスト教徒やシーア派ムスリム、多神教の信徒を一掃する機会をうかがっていました。

アブ・サヤフもマウテグループも個別に活動しており、これまで共同で戦う動きはまったくありませんでした。

しかし今回、マラウィにISの拠点を築きたいという思いがひとつに重なり、他の武装勢力を巻き込みながらIS系武装勢力の一斉蜂起へとつながっていったのです。

2-3.なぜISがミンダナオに集結したのか?

http://ncci1914.com/2017/06/09/

IS系武装勢力が、今回のように手際よくマラウィ市を制圧した背景には、主にシリアでISの戦士として戦ってきた外国人戦闘員の存在があります。

もともとアブ・サヤフは、ミンダナオにイスラム国家を樹立することを目的とする武装集団でしたが、近年は身代金目的の誘拐を繰り返すなど、もっぱら金銭を得るためにテロ活動をする集団になっていました。

ハピロンがISに忠誠を誓ったのも、ISの名を用いることで身代金を釣り上げたかったからだとする指摘もあります。

誘拐・拉致を繰り返したのは、政治目的を達成する活動のための資金にしたかったからなのか、それとも単に私腹を肥やしたかっただけなのか、ハピロンの真意がどちらであったのかは不明です。

しかし、多数のキリスト教徒が少数のイスラム教徒を支配する構図をひっくり返し、イスラム教徒だけが暮らす独立国をミンダナオに打ち立てようとするアブ・サヤフが掲げた大義は、ISのために命を賭けて戦ってきた戦士たちを引きつけるだけの力をもっていました。

彼らがなによりも大切にしたものは大義です。暴力と恐怖が支配するISの活動は、私たちからは受け入れがたいものですが、そこに彼らなりの正義があることも、またたしかなことです。

厳格なイスラム法が支配する規律ある社会こそが、彼らにとっての正義です。それを邪魔しようとする者は、どんな手段を使ってでも排除しようとします。

それは、ドゥテルテ大統領が「私の軍への命令は、武器を持って抵抗するものは直ちに殺害せよというものだ」と言明したことと、本質的には変わりません。

自らが信じる正義を守るためには、他者を犠牲にしても構わないとする論理が、双方の側にあります。

中東で戦ってきた外国人戦闘員にとって、彼らの正義を貫き通す場所としてミンダナオは魅力的な地でした。

ミンダナオのイスラム教徒は常にキリスト教徒に圧迫され、激しい貧困のなかに取り残されてきました。理不尽に迫害されているミンダナオのイスラム教徒を救うためには、新たな国家を樹立するより他ありません。

その大義を果たすために命を賭けることは、彼らにとっての本望でした。

そのため、隣国のマレーシアやインドネシアはもちろん、チェチェンやイエメン、パキスタンやバングラデシュ、サウジアラビアやシンガポール出身の過激派戦闘員が続々とマラウィ市に集まったのです。

ISの最大拠点だったイラク北部モスルの奪還作戦が激しさを増しており、ISはもうダメかもしれないという空気が広がっていたことも、彼らの軸足をミンダナオに移すことに拍車を掛けました。

中東での戦闘を見限り、マラウィに合流したISの落ち武者も100人近くいると推察されています。

ISには2014年の建国以来、80を超える国から1万5千人以上の外国人戦闘員が集まりました。IS崩壊に伴い、その多くが世界中に拡散し、各地でテロ活動を続けています。

その一部の外国人戦闘員が、ミンダナオに横たわる大義に引き寄せられ、マラウィに集ったのです。

さらに、シリアやイラクに渡航しようとして果たせなかった東南アジアのイスラム教徒やテロ組織のメンバーも、マラウィに合流していると見られています。

フィリピンはアメリカの影響もあり、周辺諸国と比べて出入国が緩やかです。東南アジアに広がるイスラムネットワークと海路でつながっているため、昔から武器や人の移動が頻繁に行われてきました。

東南アジアの過激派戦闘員が集まりやすい条件を、ミンダナオははじめから備えていたといえるでしょう。

マウテグループの指導者の1人が、東南アジア地域のIS支持者に向けて中東に渡航できないのであれば、アブ・サヤフを率いるハピロンのもとに参集するようにと呼びかけた映像も残されています。

ミンダナオに漂うイスラム教徒にとっての大義は、今も昔もイスラム教徒を引きつけて止みません。

ただし、ミンダナオのイスラム教徒をすべて過激派と見ることは間違っています。武力に訴えてまで大義を果たそうとする過激派は、イスラム教徒のなかのごく一部の人々に過ぎません。

大半のイスラム教徒は現実と折り合いをつけながら、自治権を拡大する方向で動いています。このあたりの事情については、次回で詳しく紹介します。

2-4.激化する内戦

https://jihadprincess.deviantart.com/art/

戦闘に慣れた外国人ジハーディスト(聖戦主義者)が加わったことで、マラウィでの戦いはより激しさを増していきました。

ダバオで会見したカリダ司法局長は、「今ミンダナオで起きていることはフィリピン人による反乱、反政府行動というレベルをはるかに超えた外国人テロリスト、外国テロ組織も加わったフィリピンへの侵略、内戦状態といってもいいものだ」と現状の深刻さを訴えたほどです。

時間が経過するごとに、東南アジアにカリフ制国家を築こうとするISの思惑が次第にはっきりしてきました。

カリフ
カリフ(英語: Caliph)とは、預言者ムハンマド亡き後のイスラーム共同体、イスラーム国家の指導者、最高権威者の称号である。(wikipediaより引用)

それとともにISの脅威を取り除くために、周辺各国が協調する動きが高まりました。

インドネシアとマレーシア、フィリピンは、これ以上のIS支持者らの密航を阻止するために、6月よりミンダナオ島周辺のスールー海で合同の海域パトロールを始めました。

上記3カ国に、オーストラリアとニュージーランドを加えた5カ国による対策会議も7月に開かれています。

また、周辺各国ではISの推し進める過激思想が若者の間で広がらないように、ソーシャルメディア規制などの対策を急ぎました。ソーシャルメディアは、テロ事件での仲間の勧誘に広く使われています。

イスラム教徒の人口で世界最大を誇るインドネシアでは、ソーシャルメディア「テレグラム」の使用を一時的に禁止する措置をとりました。

IS系の過激思想が広がる事態だけは、なんとしても避けたい事情が東南アジア各国にはありました。

イスラム過激派は中東だけに巣食っているわけではありません。東南アジア一帯には古くからイスラム王国が栄えた歴史があり、今でも多くのイスラム教徒を抱えています。キリスト教徒が大多数を占めるフィリピンの方が、むしろ特殊といえるでしょう。

イスラム教徒の数からしても、歴史的に見ても、中東で起きたISの建国宣言が飛び火する可能性を常にはらんでいるのが、東南アジアなのです。

一方、ISは6月に発行した機関誌にて、IS系武装集団によるマラウィ占拠を特集として取り上げ、「われわれは戦闘員を受け入れ、歓迎する」と手放しで支持する方針を打ち出し、全世界に向けて発信しました。

東南アジアはISの描くカリフ制国家の構想のなかには、もともと入っていなかった地域です。

しかし、イラクやシリアで敗勢に追い込まれているISとしては、フィリピンで存在感を示したいという切羽詰まった事情があったのでしょう。

ISのお墨付きを得たことで、武装集団の意気がますます上がったことは説明するまでもありません。マウテ兄弟の誘いに乗って、武装集団の仲間入りをする民間人も増えつつありました。

もはや国軍だけで武装集団に対処するには無理があり、6月からは米軍の特殊作戦軍が100人前後の規模で投入されました。

在フィリピン米国大使館は「フィリピン政府の要請により、米特殊部隊がマラウィで続行中の作戦において(フィリピン軍を)支援している」と声明を出しています。

フィリピンの法律では、外国人部隊の活動が制限されているため、実際に米軍がどのように戦闘を支援しているのかを明らかにすると差し障りがあります。

そのため、表向きは安全上の理由を掲げ、詳細については一切明らかにされていません。

おそらく「支援」という言葉では済ませられないほどの大がかりな作戦が、米軍によって展開されたものと推察されています。

8月に入ると、戦闘に加えて異常気象が襲いかかり、マラウィ市とその周辺に暮らす人々に重大な危機が訪れました。100万を超える人々が自宅から避難するよりない状況に置かれており、食料もなにもかも足りない窮状に陥ったのです。

これ以上、戦闘が長引くと破滅的な人道危機が訪れると判断した国軍は、空爆を強化しました。そんななか、9月4日には国軍がマウテグループを率いていたマウテ兄弟の死亡を確認したというニュースが流れます。

ハピロンと並び、今回の内戦の主役を果たしていたマウテ兄弟の死は、武装勢力にとって大きな痛手でした。統制を欠いた武装勢力は次第に押し返され、マラウィでの支配地域も次々と失われていったのです。

10月16日には、フィリピンにおけるISの首長ハピロンが戦闘中に死亡したことも報道され、マラウィで起きた内戦は終息することになりました。

そして、冒頭で紹介したドゥテルテ大統領の勝利宣言へとつながったのです。

カリスマ性を備えたリーダーがいないといかに組織が弱体化するのかを、武装勢力は図らずも露呈することになりました。

しかし、イスニロン・ハピロンやマウテ兄弟の遺志を継ぐ者は必ずあとに続きます。

内戦が一時的に終息したとしても、貧困と不平等の狭間に取り残されたイスラム教徒にとって、父祖から受け継いだミンダナオの地にイスラム国を建設しようという大義が廃れることはけしてありません。

大義のために命を賭す者たちは、続々と現れることでしょう。その根底に流れているのは、憎悪の連鎖です。憎悪の連鎖を断ち切ることなくして、ミンダナオ紛争の解決には至りません。

マラウィ内戦を契機に、ミンダナオで憎悪が連鎖する歴史に基づく事情と、ミンダナオがこれからどうなるのかという展望について、次回は紹介します。

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ドン山本
アジア在中のジャーナリスト
タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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