【フィリピンミンダナオ島IS騒動②】アメリカ軍の差別が生んだミンダナオ紛争の始まり

2017年、フィリピン中を震撼させたミンダナオ島でのIS勢力による闘争。

現在は収束しましたが、一体なぜ、フィリピンのミンダナオ島にISが押し寄せたのか、知らない日本人も多いのではないでしょうか?

初回の記事では「なぜ彼らはミンダナオ島に集結したのか」を解説しましたが、今回はミンダナオ島の歴史を紹介し、ミンダナオ紛争のはじまりをご紹介します。

1.歴史に見るミンダナオの悲劇

カミギン島の十字架
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1-1.スペインによるキリスト教徒とイスラム教徒の分断

ミンダナオは今でこそフィリピンの一部とされていますが、長らくフィリピンとは異なる歴史と文化を育んできました。行政的にフィリピン諸島がひとつになったのは、ミンダナオがアメリカ植民地政府に組み入れられた1920年のことに過ぎません。

それ以前のミンダナオには、スールー王国やマギンダナオ王国など複数のイスラム王国が栄えていました。

もともとフィリピンにイスラム教が伝来した歴史は古く、ムスリム商人によってすでに10世紀には広まったとされています。13世紀までにはミンダナオ南部を中心にイスラム教が浸透し、イスラム王国としてのアイデンティティが確立されました。

強国スペインによってフィリピン諸島が侵略され、ルソン島とビサヤ諸島の大半が植民地となったあとも、ミンダナオだけはスペインと最後まで戦い抜き独立を守っています。

このとき、スペインの支配下に入ったルソン島とビサヤ諸島の人々は、そのほとんどがキリスト教に改宗させられ、現在に至っています。そのため現在のフィリピンは、国民の9割以上がキリスト教徒です。

スペイン人は、彼らのスペイン・カトリック文化を受け入れたフィリピン人を「インディオ」と呼びました。

一方、スペイン・カトリック文化の影響を受けることなく、イスラム教に基づく文化を守り通したミンダナオに住む人々のことを、蔑(さげす)みの意味を込めて「モロ」と呼ぶようになりました。

人種や慣習など多くの共通点を持つフィリピン諸島に暮らす人々が、インディオとモロというふたつの集団に分かれて、互いに敵対心を剥き出しにする歴史は、このときからはじまります。

スペインは度々モロに対して軍事侵略を繰り返しました。そのとき、軍船の漕ぎ手や兵士として駆り出されたのはインディオの人々です。

侵略による被害を受けたモロの人々は、その報復と労働力を調達するためにフィリピン諸島中北部に遠征し、キリスト教徒の町を襲いました。イスラム王国は奴隷制に基づく国家です。キリスト教徒を奴隷として連れ去り、王国の生産活動のために働かせることが国を豊かにする基本でした。

モロの人々にとって、スペインの軍事侵略に対抗するためには富国強兵を推し進めるよりなく、自衛のためにやむなくキリスト教徒の町を襲撃するという事情がありました。

しかし、ルソン島とビサヤ諸島の人々にとっては、モロは自分たちに災厄をもたらす恐怖の存在でしかありません。これにより、双方の間に憎悪の連鎖が、数世紀に渡って繰り返されることになったのです。

1-2.アメリカが植え付けた差別

19世紀も半ばを過ぎると、スペインは蒸気船を就航させるようになり、モロは次第に劣勢に追いやられました。奴隷交易の拠点をスペインに制圧されたことで、モロは急速に力を失っていきます。

王朝は分裂し、かろうじて独立は保ったもののスペインの保護国とならざるを得ませんでした。

やがて、フィリピンをふたつに分断したスペインが立ち去る日が来ます。1898年に結ばれたパリ条約によって、フィリピンはスペインからアメリカに譲渡されたのです。

フィリピンを植民地にしたアメリカは、ミンダナオにイスラム教徒の主権が存在することを認めました。軍事的侵攻に失敗したスペインの二の舞を踏まないために、ミンダナオに残っていたイスラム王国であるスールーにアメリカの宗主権を認めさせることで、間接的にミンダナオを支配しようとしたのです。

アメリカの植民地政策は、フィリピン人を3つの類型に分けることからはじまりました。

文明度の低い人々・半文明化した人々・文明化した人々の3種類です。

このうち「文明化した人々」にあげられたのは、ビサヤやルソンの平地に住むキリスト教徒たちです。「文明度の低い人々」とされたのは、各地の山地に住むネグリトと呼ばれる、狩猟採集民やイゴロットと呼ばれる山地民です。

モロ
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モロの人々は、「半文明化した人々」に区分けされました。そこにあったのは、キリスト教徒であれば文明人であり、キリスト教徒でなければ未開人と決めつけるあからさまな差別です。

キリスト教徒ではないモロの人々や山の民は、アメリカ本国のインディアンと同様に野蛮人と見なされ、アメリカによる教化と文明化の対象にされました。

こうした差別は政治にも反映されています。キリスト教徒が多いほとんどの地域では地方自治が認められましたが、モロの人々が住むミンダナオと、山の民が居住する地域だけは例外でした。

未開人には自治能力がないと決めつけられ、地方の行政職の大半は外部からやってきたキリスト教徒によって独占されたのです。

宗教だけに基づく不平等な階層分けは、「ムスリムは自分たちとは異なる後進的な人々だ」と決めつける差別意識として、今日に至るまでフィリピンの人々に浸透しています。

やがてミンダナオはアメリカの軍政下におかれ、2003年にはモロ州が設立されました。その目的は、後れた地域を文明化し進歩させることでした。そのために、イスラムの政治制度や社会制度を解体させることが政治の主眼におかれました。

イスラム教徒には人頭税が課せられ、イスラームの教えに則っていた一夫多妻制や奴隷制度などが廃止されました。それはモロの人々にとって、長年培ってきたアイデンティティが否定されるも同然のことでした。

こうしたイスラム教に基づく社会を破壊しようとするアメリカに対して、モロの人々の反発は強まり、ついに武力衝突へと発展します。

各地で激しい戦闘が繰り返されるなか、最大の悲劇となったのはダホ山の戦いです。イスラム教徒のタウスグ族千人ほどがダホ山に砦を築き、アメリカ軍に抵抗しました。

しかし、圧倒的な火器を擁するアメリカ軍は見せしめをかねて猛攻撃をはじめ、わずか3日で砦は落ちます。

砦にはタウスグ族の女性や子供たちも避難していましたが、アメリカ軍による容赦ない殺戮が行われ、女性や子供も含めて600人が虐殺されました。

100年ほど前の出来事ですが、そのときの憎悪は今もタウスグ族の人々から消えてはいません。

2003年、フィリピン政府は米比合同軍事演習をダホ山に近いスールー州で行おうとしましたが、タウスグ族の人々の強い抵抗にあい、撤回しています。

余談ですが、米比戦争でも米軍による虐殺は数々の村で行われており、フィリピンの各地方では未だに反米の気運が渦巻いています。

その後も、モロの人々は銃をとりアメリカと戦いましたが、1915年に協定が結ばれスールー王国は滅亡しました。アメリカ-モロ戦争では、2万人以上のモロ族がアメリカ軍に殺害されたと言われています。

こうしてミンダナオは1920年にルソン・ビサヤと同じ政治体制に組み込まれ、モロの人々ははじめてフィリピン人として扱われるようになったのです。

1-3.入植がもたらしたキリスト教徒との対立

当時、イスラム教徒はフィリピンの全人口のわずか4%を占めていたに過ぎません。しかし、モロの人々が支配していたミンダナオは、フィリピン全土の3分の1を占める広大なものでした。

農地
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天然資源にも恵まれた広大な大地にもかかわらず人口は少なかったため、ミンダナオには未開拓の農地があり余っていました。耕す土地が不足しているキリスト教徒の農民からすれば、そこはまさに別天地です。

キリスト教徒の農民の要求に応えるために、アメリカ植民地政府は彼らのミンダナオへの入植をすすめる政策をとりました。ミンダナオの開発のために、ルソン島とビサヤ諸島から多くの農民が誘致され、入植が奨励されたのです。

アメリカ人の実業家や退役軍人も、ミンダナオ各地に農園や鉱山を作りました。

入植した人々は、土地登記制度を利用して土地の所有権を合法的に広げていきます。それは、モロの人々には理解しがたい制度でした。

多くの人々は土地登記の制度についていくことができず、公有地や慣習法に基づいて先祖代々所有していた土地が、次々とキリスト教徒に奪われていきました。

土地を失ったモロの人々の暮らしぶりは激変し、次第に貧困へと追いやられていきました。このときからモロの人々の間に、自分たちの土地を収奪したキリスト教徒への憎悪が芽生えることになります。

キリスト教徒の入植は増加の一途をたどり、1918年には17万だったコタバト州の人口は数年後には30万人にふくれあがり、ダバオ市の人口は2万から10万人へと急激に増えました。

ミンダナオの各地でこのような入植による人口増加が進んだことで、いつのまにか非キリスト教徒は少数派へと様変わりしたのです。

フィリピン独立後もキリスト教徒による入植政策は推し進められ、ムスリム(イスラム教徒)の人々はマイノリティとして社会の隅に追いやられることになります。

そんな中、スペインの統治以来続くキリスト教徒とイスラム教徒の分断のなかで培われた差別意識が、ムスリムの人々をさらに苦しめました。

キリスト教徒とイスラム教徒の溝は埋まることなく、両者の対立はときに武力を用いた闘争へと発展しました。

力ずくで土地を奪われる危険を感じたキリスト教徒の農園主や有力者は私兵を雇い、ムスリムの襲撃に備えました。一方、ムスリムの有力者も自警団を組織し、双方で軍事力を高め合う悪循環に陥ったのです。

1960年代末になると、キリスト教徒の私兵によるムスリム住民の殺害事件が幾たびも繰り返されるようになりました。

そうして1968年3月、ムスリムの人々にとって、さらなる追い打ちを掛ける事件が起きます。

マニラ湾のコレヒドール島で軍事訓練を行っていたムスリム60人ほどが、政府軍によって殺されたのです。この一件はジャビダ事件と呼ばれ、マニラのムスリム学生や知識人を中心に、政府への激しい抗議運動が展開されました。

ジャビダ事件は軍による人権侵害という単純な図式では語りきれません。ムスリムの人々にとってこの事件が象徴していたのは、スペインによる植民地支配から途切れず受け継がれてきたフィリピン中央政府の姿勢です。

すなわち「ムスリムは敵であり、排除しなければならない」という明快な論理です。

ジャビダ事件を境に、ムスリムの人々の間には防衛ジハードが強まることになりました。「ジハード」とはイスラム教徒の宗教的な義務とされているものです。イスラム世界を守るために、敵の侵略に対して戦う「聖戦」を意味しています。

イスラム教の聖典には「己の財産と生命を投げ打って奮闘した者は、神の目からは最高の地位にある」と書かれています。聖戦で命を落とした者は殉教者とされ、楽園に行くことが約束されていました。

「政府とキリスト教徒が自分たちを敵とみなし排除しようとするなら、自分たちも銃をとって戦うよりない」と考えるムスリムは、次第に増えていったのです。

2.ミンダナオ紛争のはじまり

Mindanao Independence Movement 1968
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ジャビダ事件から2ヶ月が過ぎた1968年5月、ムスリム独立運動が発足しました。南部ミンダナオをフィリピンから分離して、イスラム共和国を樹立することが宣言されたのです。

自らの生存をかけてフィリピンからの分離独立を目指すという過激な手段が登場したのは、このときがはじめてです。

ムスリム独立運動は、当時のマルコス大統領との間で和解が為されたため、3年で姿を消しました。

しかし、ムスリム独立運動はその地に入植して暮らしていたキリスト教徒にとっても死活問題であったため、キリスト教徒とイスラム教徒の宗派間の戦いを呼び起こすことになりました。

その頃、南部ミンダナオの国会議員や地方政府の要職に就いたのは、中央政府のエリートと友好な関係を結んだムスリム有力者たちでした。彼らはムスリム世界を代々支配してきた富裕層です。

彼らの多くは富と権力を拡大することばかりを優先し、キリスト教徒とムスリムの間に横たわる土地問題や、ムスリムの抱える経済や社会的な格差についての問題には手をつけようとしませんでした。

そのため、ムスリムの人々の暮らしぶりは悪化する一方で、良くなるきざしはまったく見えないままでした。

ムスリム社会に絶望感が広がるなか急速に力を伸ばしてきたのは、ムスリム政治家の腐敗ぶりを批判する若きムスリム・リーダーたちです。

フィリピンからの分離独立を目指すというムスリムにとっての夢は、彼らによって紡がれていきました。

彼らのなかには話し合いではなく、武力によって一気に分離独立を為そうとする急進的なグループもいました。

彼らはマレーシアで軍事訓練を受け、1970年に入るとフィリピン大学の講師であったヌル・ミスアリをリーダーとする武装組織・モロ民族解放戦線(MNLF)が設立されたのです。

スペインが植民地時代につけた蔑称である「モロ」をあえて用い、「モロ民族」という言葉で自分たちを位置づけたのは、フィリピンのムスリムは宗教の相違だけで戦うのではなく、端から人種が異なるのだと内外に示すためでした。

自分たちはフィリピン人ではなく、モロ族だと宣言したのです。

「500万人の圧迫されたバンサモロの人々は、犯罪的に土地を奪い取られ、尽きることのない苦労や悲惨さのなかに喘いでいる。

私たちはフィリピン政府による植民地主義の恐怖、圧制、暴力からモロ族を解放したいと思っている。私たちの無実の兄弟・姉妹が、恐ろしい規模の大量殺戮キャンペーンで殺害された。(略)私たちはバンサモロの人々のための自由で独立した国を確保する」

モロ民族解放戦線の掲げた理念は、多くのモスレムの人々の共感を呼び、支持されました。

1972年9月、マルコスによって戒厳令が布告されました。それとともに議会が停止され、議会制民主主義によって事態を改善しようとしていた穏健派のムスリムたちを失望させることになります。

さらにムスリムの人々を襲ったのは、これまでの政府による自分たちへの仕打ちを通して植え付けられた疑念でした。ムスリムの住民たちは、マルコスが軍を動かしてすべてのムスリムを抹殺するのではないかという恐怖にさいなまれたのです。

危機感が高まるなか、マラウィ市での武装蜂起を皮切りとして、ミンダナオ南部の各地で武装闘争がはじまりました。それはムスリムの人々にとって、自分たちを滅ぼそうとする中央政府に対する防衛的ジハードでした。

マルコスは兵力を増強して鎮圧にあたり、南部ミンダナオでは激しい戦闘が続きました。

こうして、泥沼のミンダナオ紛争がはじまったのです。

その後、ムスリム住民の殺害事件が相次いでいる実態が世界中に報道されると、リビアをはじめとするイスラム諸国からの抗議が、フィリピンに寄せられるようになりました。

マルコス政権は「フィリピン政府はすべてのムスリムの抹殺を計画している」という疑いを打ち消すために、モロ民族による自治区を認める方向に舵を切りました。

いったんは協定が結ばれたものの、自治区は名目だけに過ぎず、モロ民族に実権は与えられなかったため、モロ民族解放戦線は再び武装闘争を開始しました。

その後、ラモス政権が誕生すると、政府側も長引くミンダナオ紛争を解決するために、ムスリム側に歩み寄る姿勢を見せ始めました。

ミスアリの率いるモロ民族解放戦線はこれに応え、フィリピンからの分離独立を求めるのではなく、段階を追ってまずは自治区としての権利を獲得し、ムスリムの人々が安心して暮らせる社会を築く方向へと方針を改めました。

1996年にインドネシアの仲介により、政府とモロ民族解放戦線の間で和平協定が締結されました。

ミスアリは選挙で選ばれ、ミンダナオ自治区長官に就任します。モロ民族解放戦線の一部は国軍に編入され、ミンダナオ紛争もようやく終結するかと思われたのですが、そう簡単に事は運びませんでした。

長引くミンダナオ紛争の果てに、多大な犠牲者を出していたムスリムの人々のなかには、政府に懐柔されるまま自治区で満足することをよしとせず、武力闘争を続けることであくまでフィリピンからの分離独立を求めようとする勢力が、すでに育っていたのです。

モロ民族解放戦線から1984年に分派したモロ・イスラム解放戦線(MILF)や、1991年に分派したアブ・サヤフが、これです。

多数派のモロ民族解放戦線が政府と和平を結んだあとも、彼らは南部ミンダナオのフィリピンからの分離独立を求め、武力闘争を続けました。

潮目が変わったのはアキノ前大統領のときです。

ミンダナオ和平
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日本政府の仲介により、アキノ大統領とモロ・イスラム解放戦線の最高指導者ムラド・エブラヒムとの極秘会談が日本で為され、翌2012年10月にミンダナオ和平に関する「枠組み合意」が署名されました。

これにより、2016年に新たにバンサモロ自治政府を創設することが約束され、南部ミンダナオ最大の武装勢力であったモロ・イスラム解放戦線との和平交渉が推し進められたのです。

フィリピンからの分離独立とはいかないまでも、これまでとは違って実質的な行政権をもった自治政府ができれば、イスラム法にかなった社会を築ける可能性も広がります。

フィリピン政府にしても、国土の3分の1を占めるミンダナオに独立されては、国家としての運営が立ちゆかなくなります。バンサモロ自治政府の樹立は、政府にしてもムスリムの人々にしても、許せる範囲ぎりぎりの妥協案と言えるでしょう。

ただし、自治政府への移行はけして簡単なことではありません。自治政府の行政細則などの詳細を定めるバンサモロ基本法案は、未だ国会で可決されていません。2016年には樹立されるはずだった自治政府は、棚上げになったままです。

ミンダナオ和平への道筋は示されたものの、具体的なプロセスがなかなか見えないなか、アブ・サヤフとマウテグループを中心とするIS系武装勢力によるマウティ市占拠が起こったのです。

最後の章では「ドゥテルテはなぜ、ミンダナオから米軍を追い出そうとしたのか」についてご紹介します。

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ドン山本
アジア在中のジャーナリスト
タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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