第1部 2章(7/7)日本はなぜ植民地化を免れたのか

「日本とフィリピンの大東亜戦争」目次と序文はこちら

第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

2章 白人による有色人種殺戮と略奪の500年

前回の記事の続きとなっています。前回の記事はこちらから。
第1部 2章(6/7)植民地化されたインドネシアとインドの悲劇

2-13.日本はなぜ植民地化を免れたのか

その1.スペインによる日本征服の野望

大航海時代以来、覇権国は時代とともに移り変わりながらも、西欧列強によるアジアの分割支配は変わることなく続けられました。力尽くで欧米の植民地にされたアジア諸国の民は、白人に仕える奴隷民族としての扱いを受け、その苦難を数世紀にわたって堪え忍ばなければなりませんでした。

では、日本はなぜ西欧列強による侵略を受けることもなければ、植民地にされることもなく、江戸時代を通して世界史でも例を見ないほどの200年以上にわたる平和の時代を過ごせたのでしょうか?

この話題になると、日本が四方を海に囲まれており、西欧からもっとも離れた極東にあったからだとする説をよく見かけますが、まったく的を得ていません。

四方を海に囲まれていたのはフィリピンもジャワも、スマトラやモルッカ諸島とて同じことです。東南アジアの島国は16世紀以降、次々に欧米列強の侵略を受け、植民地にされています。

西欧から日本が地理的に離れていることはたしかですが、欧米列強はアジアを侵略する過程で、日本の近くにすでに多くの軍事拠点をもっていました。日本侵略はけして夢物語ではなかったのです。

たとえば、スペイン軍のいるフィリピンから日本へは当時の航海技術をもってしても、天候に恵まれさえすれば15日間程度でたどり着ける距離です。その気になれば十分に日本侵略の軍を起こすことは可能であったといえるでしょう。

では、スペインやポルトガルが日本に軍を送らなかったのは、はじめから「その気」がなかったせいでしょうか?

そんなことはありません。スペインにしてもポルトガルにしても、日本を支配下に組み入れる気は満々でした。

ポルトガルの船が種子島に漂着して鉄砲を伝えたのは1543年です。さらにイエズス会のポルトガル人フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸したのが1549年です。

一方、スペイン人は1584年に日本に現れ、マニラを拠点とした対日貿易を始めるとともに、宣教師による布教活動を活発化させています。

ポルトガルとスペインの両国が日本に姿を現したことには、理由があります。ローマ教皇の仲介により、ポルトガルとスペインが西経45度の子午線を基準に西方をスペイン、東方をポルトガルの進出範囲と定めたことは、「第2回 白人による有色人種殺戮と略奪の500年」のなかで紹介しました。

この子午線がちょうど日本列島を通っていたのです。そのため日本は、遠すぎて西欧列強の関心を呼ばないどころか、両大国の植民地争いの場となる宿命を負っていました。

サラゴサ条約
引用:トルデシリャス(紫)とサラゴサ(緑)に囲まれた真ん中がポルトガル、両端がスペインです。

もっとも1580年にスペインがポルトガルを併合し、スペイン国王がポルトガル国王を兼任することになったため、日本にとってのさしあたっての脅威はスペインに絞られました。

白人による植民地支配においてキリスト教が大切な役割を演じたことは先に紹介しましたが、日本とて例外ではありません。宣教師によるカトリックの布教は、日本侵略のためのはじめの一歩でした。

スペインが日本を侵略する目的は明国の征服のためです。そのことは宣教師たちが、スペイン国王や上司に盛んに送った書簡のなかにしたためられています。

その、いくつかを紹介しましょう。

1585年 イエズス会日本準管区長ガスパル・コエリョより フィリピン布教長アントニオ・セデーニョ宛て
「日本に早急に兵隊・弾薬・大砲、数隻のフラガータ船を派遣してほしい、キリスト教徒の大名を支援し、服従しようとしない敵に脅威を与えるためである。これで諸侯たちの改宗が進むだろう」

「日本66カ国すべてが改宗すれば、フェリペ国王は日本人のように好戦的で怜悧(れいり)な兵隊を得て、いっそう容易に明国を征服することができるであろう」

1584年 イエズス会日本布教長フランシスコ・カブラルより スペイン国王宛て
「明国を征服するために、日本に駐在しているイエズス会のバードレ(神父)たちは容易に2000~3000人の日本人キリスト教徒を送ることができる、彼らはうち続く戦争に従事しているので、陸、海の戦闘に大変勇敢な兵隊であり、少しの給料で馳せ参じるだろう」

1588年 アウグスティノ会士フライ・フランシスコ・マンリーケより スペイン国王宛て
「もし陛下が戦争によって明国に攻め入り、そこを占領するつもりなら、陛下に味方するよう日本において王たちにはたらきかけるべきである、キリスト教徒の王は四人にすぎないが、10万以上の兵が赴くことができ、彼らが我が軍を指揮すれば明国を占領することは容易であろう」

戦国日本と大航海時代」平川新著(中公新書)より「」内引用

こうした書簡からは、明を征服するために日本の軍勢を使おうとする意図や、戦国大名をキリスト教に改宗させることでスペインの思いのままに操ろうとする思惑が透けて見えてきます。

その2.かつて日本は世界最大の軍事大国だった

肝心の日本征服については、日本巡察を終えたイエズス会士ヴァリアーノが1582年にフィリピン総督に宛てた書簡のなかに「日本の国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるため、征服は困難だ」と綴られています。

これこそが、日本が西欧列強に侵略されたなかった本当の理由です。スペインやポルトガルが日本侵略を企てたのは、日本の戦国時代でした。分裂国家だった日本が信長・秀吉・家康によって統一され、中央集権国家として再生した時期です。

実は当時の日本は世界的に比べても、傑出した軍事大国でした。こんなことは教科書にも書かれていないため、初めて聞いた方は驚くことでしょう。

戦国時代までの日本社会の発展は、西洋文明とよく似ています。封建社会をともに経験し、ヨーロッパには騎士が、日本には武士が支配階級として定着しました。

しかし、その兵数には大きな違いがあります。日本の武士団はヨーロッパのどの国の騎士団よりもはるかに多く、総人口の7~10%を占めていました。一方、イギリスの騎士階級は1597年において総人口の0.6%に過ぎません。しかも日本の人口は、当時のヨーロッパのどの国よりも多かったのです。

もっとも兵数や練度だけでは軍事力を比較できません。最新兵器の数と質も、重要です。当時の最新兵器と言えば、なんといっても鉄砲です。

では、日本と西欧列強の鉄砲の数はどうだったと思いますか?

戦国時代、日本の有する鉄砲の数は、ヨーロッパのどの国よりもはるかに多かったことがわかっています。

このことはペリン・ノエルが著した「鉄砲を捨てた日本人-日本史に学ぶ軍縮」のなかに詳しく書かれています。

1569年にイギリス枢密院が、フランス侵攻の際に動員できるイギリス全体の兵隊と武器の数を総点検したデータを、フランス大使がスパイを通して入手しています。それによると兵隊は二万四千、そのうち約六千の者が銃を所持している、と報告されています。

一方、日本では1584年、やっと1カ国を納めつつあった戦国大名の竜造寺隆信が島原方面で有馬晴信・島津家久と対戦した際の軍勢は二万五千、そのうち約九千が銃砲隊であった、と記録されています。

イギリス全体の戦争で用いる銃の数よりも、たかが小国の戦国大名が持っている銃の数の方が多かったということです。

当時の日本は、ヨーロッパの国すべての銃を合わせたよりも多くの銃を持っていた可能性さえあります。

1543年に初めて伝来したはずの鉄砲を、なぜ日本は短期間のうちに大量に所有できたのでしょうか?

その3.日本が世界一の鉄砲所有国になった理由とは

日本が世界一の鉄砲所有国になったという事実から浮かび上がるのは、工業先進国日本の姿です。日本の工業は、なにも戦後になって突然進化したわけではありません。戦国時代の日本は、世界トップクラスの工業技術をすでにもっていました。

種子島に伝わった鉄砲を、種子島の領主時尭(ときたか)は千両の大枚をはたいて買っています。しかし、それから70年後、鉄砲の値段はわずか2両に下がっています。当初の五百分の一です。もちろん、このような劇的な価格引き下げは、鉄砲を大量生産できる技術があったからこそ初めて可能になったことです。

このことは西欧列強を大いに驚かせました。鉄砲は単にばらして、仕組みを知れば作れるほど単純なものではありません。日本に伝来するより早く、アラビア・インド・中国へと銃は伝わっています。どの国も必死になって銃を自国で作ろうと試みましたが、ことごとく失敗に終わっていました。

ところが日本だけは、わずか1年ほどで銃の複製に成功し、さらに大量生産まで成し遂げたのです。良質の銅と鉄に恵まれていたこと、そして当時の精密機械である銃を作れるだけの優れた工業技術を日本の職人が有していたことが、銃の大量生産を可能にしました。

しかも性能においても、ヨーロッパ生まれの銃をはるかに上回っていました。模倣から入っても、それを改良してさらに良いものを作り上げる技術は日本のお家芸ですが、すでに戦国時代からそれを実行していたのです。

日本は独自の工夫により銃の性能を高め、雨の中でも火縄銃を撃てる雨よけ付属装置の開発にまで成功しています。

さらに鉄砲を効果的に用いた戦術においても、ヨーロッパを寄せ付けていません。長篠の戦いで信長軍が武田の騎馬隊を打ち破った三段構えの鉄砲の陣容は、それから350年後の第1次世界大戦においてドイツ軍が見せた当時最新の戦い方と同じでした。

こうして日本全土にわたり大量の鉄砲を蓄えたこと、その質においても戦術においてもヨーロッパを上回っていたことで、戦国期の日本は世界最大の軍事大国にのし上がっていたのです。

当時、世界のどこを探しても、日本を侵略できるだけの軍事力をもつ国は存在していません。それこそが、アジアの大半が欧米列強の植民地となるなか、日本が独立を守れた最大の理由です。

その4.キリスト教が日本から追放された理由とは?

戦国期の日本が軍事力において西欧を上回っていたことはたしかですが、西欧列強が世界を侵略できたのは単に軍事力に優れていたからだけではありません。いくら鉄砲という近代兵器を擁していても、遠い西欧本国から送り出せる軍勢には限界があります。アステカやインカ帝国のように数十万の軍隊を要する強国を相手に、正面から戦いを挑んでも勝ち目はありません。

そこで利用されたのがキリスト教です。宗教によって国民が国王に寄せる忠誠心を削り取り、さらに内戦を利用して巧みに奸計を仕掛けることで、西欧列強はわずかな軍勢で大国さえも打ち負かし、支配体制を確立していったのです。

軍事的に日本と対決しても敵わないとみたスペインは、布教活動を通して大名を切り崩し、秀吉に敵対する勢力を育てようと画策しました。

この動きをいち早くつかんだ秀吉は、1587年にバテレン追放令を出しています。その内容は「神国日本にキリシタン国より悪魔の教えを説くために宣教師たちが渡来し、神社仏閣を破壊することは許せない、20日以内に日本を立ち去れ、ただし貿易に来るのは差し支えない」というものです。

宣教師のザビエルが来日して布教を始めて以来、わずか40年のうちに日本のキリシタン人口は約20万人から30万に達したとされています。あまりにも順調に信者が増えたため、ザビエルらは日本をキリスト教国に改造することさえ構想していました。

ところが秀吉の決断により、日本からキリスト教が締め出されることになったのです。その背景として、日本人を奴隷として売買することに宣教師たちがかかわっていることに、秀吉が本気で怒ったことをあげられます。

西欧列強が奴隷売買を行っていたのは、アフリカの黒人ばかりではありません。中国人や日本人の奴隷売買も盛んに行われていました。そのなかには、まだ幼い日本人の子供たちも含まれていました。ポルトガル人の渡来とともに、日本もまた奴隷市場へと組み込まれていたのです。

日本人が奴隷として売買されていることを知った秀吉は心底立腹し、これまでに連れ去った日本人奴隷はすべて自分が代金を払うから日本に連れ戻すようにと、宣教師たちに命じています。

日本人奴隷の売買を行っていたのは、主にポルトガルの奴隷商人たちですが、日本人が合法的に奴隷の身分となるように奴隷交易許可状を発給していたのは宣教師たちでした。

バテレン追放令を受け、日本準管区長ガスパル・コエリョは大量の火縄銃の買い入れを命じるとともに、有馬晴信や小西行長などのキリシタン大名に反秀吉連合の結成を呼びかけました。しかし、大名たちが全員これを拒否したことが、コエリョがイエズス会総会長宛てに出した書簡に綴られています。

それでもコエリョはまだあきらめずに、フィリピン総督や司教に対して援軍の派遣を要請しています。しかし、日本との全面戦争を恐れたスペインは動きませんでした。

秀吉のバテレン追放令は家康のキリスト教禁止へとつながり、日本にキリスト教が入ってくることを防ぎました。そのことは西欧列強から、日本に付け入る隙を奪うことを意味しています。キリスト教の布教禁止もまた、日本が欧米の植民地になることを避けられた大きな理由のひとつです。

その5.スペインの王、我が言を軽視すべからず!

秀吉といえば日本全国を平定したあと、朝鮮に出兵したことが教科書にも記されています。朝鮮出兵は朝鮮自体を征服するよりも、明国を征服するために行われたものです。

秀吉にはアジアを支配下におくという野望がありました。その野望を達成するために邪魔なのは、すでにアジアを侵略して植民地化しているポルトガルやスペインの存在でした。

1592年、秀吉はスペイン支配下にあるマニラのフィリピン総督に対して、驚くべき書簡を出しています。

その要旨は「フィリピンはまだ予と親交を有していない、よって予はその地を取りたい、だから旗を倒して予に服従すべきときだ、もし服従することが遅れるなら、予は速やかに征伐を行う、後悔することなかれ」というものです。

これはフィリピン総督に対する脅しです。両国の力関係は明らかでした。フィリピンにはわずか数千のスペイン兵しか留まっていません。秀吉が朝鮮出兵に向けた兵力の半分にあたる5万ほどをマニラに向けていれば、フィリピンからスペインは駆逐され、フィリピンは日本の支配下に入っただろうと、後世の歴史家は口を揃えています。

秀吉からの思いもかけない脅しを受けて、震え上がったのはフィリピン総督です。マニラには戒厳令が敷かれ、非常事態が宣言されました。スペイン国王に対してメキシコからの援軍を、あわてて要請しています。

マニラは臨戦態勢を整えるとともに、秀吉に向けて親書を送り、日本との親交を希望すると伝えてきました。

それに対して秀吉は「予の軍は高麗(朝鮮)を破壊して手中に収めた、フィリピンからの商船を妨げるものはないから、毎年来て貿易を行うべし、もし予が命に背反するものあれば良将をフィリピンに派遣して、これを罰するべし」と上から目線で答えています。

1593年には、さらに過激な書簡をフィリピン総督に送っています。
「予は日本全国と高麗を獲得した。多数の武将がマニラの占領を予に求めている。だが両国は貿易を行っているから敵とはいえない、ゆえに予は兵を派遣しない、支那に赴けばルソンははなはだ近く、予が親指の下にあり、我らは永久に親しく交わるべし、このことをスペインの王に書き送るべし、スペインの王、遠方にあるといえども予が言を軽視すべからず」

今度はスペイン国王にまで脅しをかけています。スペインは当時の覇権国であり、世界一の強国です。スペインの強大さについては宣教師たちから情報を得ることで、秀吉は十分に知っていました。そのスペインと戦争になっても互角以上に渡り合える自信が、秀吉にはあったのでしょう。

秀吉が正確に状況を把握しているわけはないものの、実際のところ後世から振り返ると、当時の日本の軍事力はスペインを十分に上回っていました。

秀吉の度重なる脅しに対してマニラは再び震え上がりました。フィリピン総督はスペイン国王宛ての書簡にて、マニラの防衛体制を強化するために、原住民に与えていた銃を回収すべきだとも記しています。日本が攻めてくれば、原住民が一斉に蜂起してスペイン軍に立ち向かってくるかもしれないと、その理由を綴っています。

秀吉配下の武将が、「フィリピンの原住民はスペイン人を憎んでいるから、日本人がフィリピンに行けば直ちに原住民はスペイン人を日本人に引き渡すであろうと」と語ったことが、マニラにも伝わっていたことを示す書簡もあります。

当時のフィリピン総督は、日本が攻めてくればスペインによる植民地支配が崩れることを十分にわかっていたといえるでしょう。

フィリピン総督の使者として来日した宣教師のジェズスは「日本がマニラを攻撃することはあり得ないというのは事情を知らぬ人の言葉」だと、指し迫った危機感を伝えています。

迫りつつある日本からの侵略に対抗するため、フィリピン総督はスペイン国王に奏上し、台湾などを支配下に置く必要を説いています。日本がマニラを攻めるには台湾を通ることになるから、港に要塞を築いて迎え撃とうとする策です。

台湾侵攻は実現しなかったものの、メキシコからは武器と兵員を積んだ船が派遣され、スペインは日本の侵攻に備えて戦々恐々としていました。しかし、日本がマニラに攻め込むことはありませんでした。1598年に秀吉が急死したからです。

秀吉の急死により、朝鮮出兵は結果的に失敗に終わりました。広大な明国を征服するには、日本は小国過ぎたのです。朝鮮出兵は秀吉の狂気が為したこととして片付けられることが多いものの、日本の強大な軍事力を西欧列強に印象づけたことにおいては、大きな意味があります。

アジアのほとんどを手中に収めた西欧列強は、日本征服も当然のごとく狙っていました。ところが、朝鮮出兵で見せた日本の軍事力の凄まじさに、逆に震え上がることになりました。軍事的に日本を征服しようと企む国は、もはや地上から消えたのです。

その6.強大な軍事力ゆえに鎖国は実現した

教科書には書かれていない史実ですが、世界の植民地化を目指す強国スペインに対し、アジアから反旗を翻し、秀吉は堂々と渡り合いました。こうした流れは明治以降にもまた、繰り返されることになります。

しかし、スペインは日本征服をあきらめたわけではありません。前フィリピン臨時総督ビベロはメキシコに帰国の途中で遭難し、房総半島に漂着したことで家康との会見の機会に恵まれます。

ビベロは日本各地を見聞して多くの書簡をしたためていますが、そこには日本征服計画が記されていました。

「武力による侵入の困難なること、真に確実なりとすれば、我らの王たる神の聞き給える聖福音宣伝の途により、彼らをして陛下に仕うることを喜ぶに至らしめるほか、選ぶべき途なし」

「キリスト教を弘布し、キリシタンの数増加するに至らば、現皇帝(家康)および他の皇帝(秀忠)死したる時は、新王は彼らを苦しむべきこと明らかなる者の中より選ぶことなく、陛下(スペイン国王)を挙ぐべしと考えられる」

戦国日本と大航海時代」平川新著(中公新書)より引用

日本を征服するために武力を用いても敵わないからキリスト教化を推し進め、キリシタン大名や一般のキリシタンによって徳川将軍を取り除き、新たにスペイン国王が日本の国王になるようにしようとする計画です。

キリスト教の布教を足がかりに植民地化を計るスペインのお家芸が、そこには暴露されています。

この頃になるとスペインばかりでなく、オランダやイギリスからも交易を求めて使者が来日するようになりました。家康の外交顧問を務めたイギリス人のウィリアム・アダムス(三浦按針)も、その一人です。

スペインがキリスト教の布教から侵略の手を伸ばすことを、家康はオランダ人とイギリス人からも聞いて知っていました。

そこで家康は1612年にキリシタン禁止令を出し、国内でのキリスト教の布教を全面的に禁止しました。貿易はよいが、布教は禁じたのです。

それでも布教にこだわるスペインとポルトガルに対し、1624年にスペイン船の来航を禁止し、1639年にはポルトガル船の来航を禁止しました。早い話が、日本から永久追放としたのです。

スペインとポルトガルは、これに抵抗することができませんでした。圧倒的な軍事力と奸計(かんけい)によって世界中を植民地にしてきた両国ですが、国交を断絶され、日本からはすごすごと引き下がるよりなかったのです。

イギリスは日本市場を獲得することができないまま自ら立ち去ったため、残ったのは日本側の意図に従い、キリスト教の布教にこだわることなく貿易だけを希望するオランダだけでした。

オランダは長崎の出島に封じ込められ、自由に日本の領土に入ることを禁じられました。さらにオランダ商館長は江戸への参勤も命じられ、これに従っています。参勤は将軍への服属を誓う儀式です。ジャワを侵略して植民地とし、スペインに代わって覇権国となったオランダですが、この屈辱を甘んじて受け入れたのです。

これより日本は、江戸末期にペルーが来航するまで200年以上にわたる鎖国に入ります。鎖国によって諸大名が勝手に外国と通じることができなくなり、外国からの侵略を防ぐことに貢献しています。

アジアを侵略したスペインもポルトガルもオランダもイギリスも、日本の一方的な鎖国宣言に従うよりありませんでした。他のアジアの国々にしても、可能であれば鎖国をして外国からの干渉を避けたかったに違いありません。しかし、それはかないませんでした。

日本が鎖国に踏み切り、200年以上にわたる平和を維持できたのは、日本が傑出した軍事力と政治力を持っていたからです。圧倒的な軍事力を備えていたがゆえに、どの国も日本の鎖国に逆らうことができなかったのです。

島原の乱を最後に、日本は国内においても国外においても戦乱から解放され、世界史でも例を見ない徳川の平和を享受することになりました。徳川の平和を支えたものは、圧倒的な軍事力であったことは記憶に留めておきたいものです。

思想で平和は訪れませんが、傑出した軍事力は平和をもたらしたのです。

その7.軍縮と鎖国がもたらしたもの

西欧列強は日本の軍事力を高く評価し、日本を明国と同様に ”Imperio” 、すなわち「帝国」と呼びました。秀吉や家康は、”Emperador” と呼ばれました。「皇帝」という呼び方は、当時のヨーロッパでは「神聖ローマ皇帝」だけに与えられたものです。スペインでさえ「国王」に過ぎません。

日本では大名が「国王」であり、将軍は「皇帝」と見なされたのです。こうした格付けは、当時の多くの文献に共通して見られる表現です。日本の軍事力が西欧列強にとっても脅威であったことが、こうした呼び方にも表れています。

戦国時代までは西欧の国々と同じく封建社会として発展してきた日本ですが、鎖国以降、ヨーロッパとは異なる発展を遂げることになります。

鉄砲の普及は西欧から騎士階級を奪いました。鉄砲が戦時における必須の武器となったことで、武闘集団としての騎士は必要とされなくなったからです。鉄砲は少し習えば誰にでも使いこなせるため、その使い手となったのは一般市民でした。

こうして市民の力が次第に強くなるとともに市民革命が起き、西欧の歴史は動き出しました。一方、日本は徳川幕府による平和な時代を迎え、市民革命も産業革命も起きていません。

なぜなら、日本では武士階級が幕末に至るまで生き続けたからです。その最も大きな原因は、日本が鉄砲を捨て去り、刀剣の時代に時計の針を戻したからです。

世界一の軍事力をもっていた日本は、江戸時代に当時の最先端の武器であった鉄砲の生産を徐々に規制し、その流通量を自ら落としていきました。このことは、世界一の軍事大国の為した紛れもない軍縮です。

鎖国は外国からの侵入を防ぐとともに、外国には自ら攻め入らないことを意味しています。当時の日本の軍事力をもってすれば、西欧列強のようにアジアに侵略の手を伸ばすことは十分に可能でした。実際に秀吉はそれを実行に移しています。

しかし、徳川の時代に移ると日本は西欧列強のように他国を侵略して植民地化する道を選びませんでした。鎖国によって国を閉じることで、他国からの侵入も許さなければ、他国の侵略に打って出ることも自ら封印したのです。

そうと決まれば鉄砲という近代兵器は不要でした。もし外国から侵略を受けても、日本全国に散らばる多数の武士がいるだけに、銃に頼らなくても刀剣や槍・弓だけで撃退することが可能だったのです。

秀吉の刀狩りと徳川幕府による銃の規制は、国と領民を守る仕事は武士に一任し、市民を武装から解放することに成功しました。外国からの脅威もなく内乱の兆しもなく、誰かに搾取されることもなく泰平の時代を生きることができた市民たちは、西欧のように革命を起こす必要などなかったのです。

その8.そして開国へ

徳川の時代、日本は軍事力の進化を自らの意志で止めました。そのため、200年の後にペルーが来航したときには、日本の軍事力は欧米に比べて大きく遅れをとることになりました。

それでも明治維新を成し遂げ、驚くほど短期間のうちに世界の列強へと日本は再び躍り出ます。それは奇跡とも讃えられますが、歴史に奇跡が起きた試しはありません。歴史を作っているのは、常に必然です。

よく「日本は開国の後、西欧に比べて500年文明が遅れていた、それをわずか数十年で近代化に成功し、西欧列強に並んだ」とする論を目にしますが、これは正しくありません。

開国の時点で日本は軍事力と工業力において西欧よりも明らかに劣っていましたが、江戸時代にすでに西欧を凌ぐほどの発展を遂げている分野も多々あるからです。

貧富の差がほとんどなく、富が広く分配されていたことは、短期間で近代化を成し遂げることができた最大の理由です。国内市場には欧米には見られないほどに交通網が整備され、道路・運河・航路といった産業基盤がすでに整っていました。

日本では十七世紀の始まる前には国内関税などが取り払われ、自由な商取引が行われていました。日本の市場は常に商品の供給過剰で悩まされていたため、大量生産に踏み切る必要がなく、産業革命を必要としませんでした。

自然が豊かで気候にも恵まれていたことに加え、日本独自の農業・商業システムが栄えたことにより、日本の国土だけで三千万の人口を養うことができたのです。

教育制度においても欧米をはるかに凌いでいました。鎖国時代の末期には、日本全土に1万5千以上の寺小屋があり、就学年齢に達した子供たちの70%が学校に通っていました。日本では農民でさえ、読み書き算盤ができるのが当たり前だったのです。

このことは欧米の社会では信じられないことでした。幕末の頃の成人男性の識字率はロンドンで20%、パリで10%未満程度でしたが、江戸では70%を超えていたと記している書籍もあります。少なくとも当時の日本の識字率は、欧米のどの国よりもはるかに高いものでした。

さて、幕末の頃の日本と欧米各国と、果たしてどちらが文明国だったのでしょうか?

日本が欧米と肩を並べる近代国家へと成長する礎を築けたのは、鎖国時代があったからこそです。その鎖国時代を実現できたのは、強大な軍事力を擁していたからこそです。

自ら軍事力を封印してきた日本が、欧米列強の侵略を防ぐために再び軍拡へと舵を切るのは、ペルー来航によって開国をした後のことです。

200年以上の長き眠りから覚め、日本は突如として帝国主義のただ中へと放り出されたのです。

次回からは大東亜戦争へと日本が突き進んでいく過程について振り返ってみます。

第2章.参照元まとめ

●参照URL

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タイーノの悲劇:mysteryhunter
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『歴史を取り戻す~先住民ネイティブ・アメリカンの闘い』第2話
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インディアン強制移住法:世界史の窓
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「スペイン領フィリピン」が世界史にもたらしたもの:歴ログ -世界史専門ブログ-
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イギリス東インド会社:世界史の窓
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イギリスのインド植民地支配/インドの民族運動(19世紀後半):世界史の窓
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ひど過ぎるハワイ併合の歴史: NAVER まとめ
ハワイ王国/ハワイ併合:世界史の窓
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フィリピン=アメリカ戦争/フィリピン戦争:世界史の窓
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強制栽培制度:世界史の窓
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綿工業/木綿工業:世界史の窓
産業革命はなぜ綿工業の分野からはじまったのか?その理由を簡単に解説:重悟のブログ
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インド大反乱/シパーヒーの反乱/セポイの乱:世界史の窓
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●参照文献

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『ヨーロッパ・帝国支配の原罪と謎』大沢正道著(日本文芸社)
『破約の世界史—この1000年、彼らはいかに騙し、裏切ったか』清水馨八郎著(祥伝社)
『侵略の世界史-この500年、白人は世界で何をしてきたか-』清水馨八郎著(祥伝社)
『殺戮の世界史: 人類が犯した100の大罪』マシュー ホワイト著(早川書房)
『学校が教えてくれない戦争の真実 ─日本は本当に「悪い国」だったのか (もっと日本が好きになる親子で読む近現代史シリーズ』丸谷元人著(ハート出版)
『人種差別から読み解く大東亜戦争』岩田温著(彩図社)
『竹山道雄と昭和の時代』竹山道雄著(藤原書店)
『「構造的人種主義」の生成過程からみるルワンダの紛争要因』佐藤里香著(Pitch Communications)
『アメリカ・インディアン悲史』藤永茂著(朝日新聞社)
『アメリカ・暴力の歴史』W・E・ホロン著(人文書院)
『物語アメリカの歴史 超大国の行方』猿谷要著(中公新書)
『人種差別の帝国-アメリカ人の醜い「白人至上主義」日本人のおぞましい「外国人差別」-』矢部武著(光文社)
『ハワイ王朝最後の女王』猿谷要著(文芸春秋)
『アボリジニで読むオーストラリア-もうひとつの歴史と文化-』青山晴美著(明石書店)
『タスマニア最後の「女王」トルカニニ』松島駿二郎著(草思社)
『世界の歴史〈21〉帝国主義の開幕』中山治一著(河出書房新社)
『世界の歴史がわかる本[帝国主義時代ー現代篇]』綿引弘著(三笠書房)
『講座世界史 5 強者の論理-帝国主義の時代-』歴史学研究会編(東京大学出版会)
『少年少女おはなし世界歴史 12 帝国主義のはじまり』吉田悟郎著(岩崎書店)
『日本人だけが知らない「本当の世界史」-なぜ歴史問題は解決しないのか-』倉山満著(PHP研究所)
『世界史史料 9 帝国主義と各地の抵抗 2』歴史学研究会編(岩波書店)
『GHQ焚書図書開封1 米占領軍に消された戦前の日本』西尾幹二著(徳間書店)
『GHQ焚書図書開封2 バターン、蘭印・仏印、米本土空襲計画』西尾幹二著(徳間書店)
『インドネシアの人々が証言する日本軍政の真実−大東亜戦争は侵略戦争ではなかった。』桜の花出版編集部編(星雲社)
『なぜ大東亜戦争は起きたのか?空の神兵と呼ばれた男たち-インドネシア・パレンバン落下傘部隊の記録-』高山正之著(ハート出版)
『インドの叫び』ボース・ラスビハリ著(三教書院)
『日本人らしさの発見――しなやかな〈凹型文化〉を世界に発信する』芳賀綏著(大修館書店)
『マゼランが来た』本多勝一著(朝日新聞)
『フィリピン歴史研究と植民地言説』レイナルド・C. イレート,フロロ・C. キブイェン著(めこん)
『物語 フィリピンの歴史―「盗まれた楽園」と抵抗の500年』鈴木静夫著(中央公論社)
『歴史経験としてのアメリカ帝国-米比関係史の群像-』中野聡著(岩波書店)
『国際秩序 18世紀ヨーロッパから21世紀アジアへ』細谷雄一著(中央公論新社)
『植民地化の歴史: 征服から独立まで(13~20世紀)』マルク フェロー著(新評論)
『新 歴史の真実』前野徹著(講談社)
『人種戦争〈上〉―有色世界の抑圧と反逆 (1971年)』ロナルド・シーガル著(サイマル出版会)
『人種戦争〈下〉―有色世界の抑圧と反逆 (1971年)』ロナルド・シーガル著(サイマル出版会)
『岩波講座東南アジア史 3 東南アジア近世の成立』池端雪浦著(岩波書店)
『岩波講座東南アジア史 6 植民地経済の繁栄と凋落』池端雪浦著(岩波書店)
『岩波講座東南アジア史 7 植民地抵抗運動とナショナリズムの展開』池端雪浦著(岩波書店)
『20世紀の歴史』木畑洋一著(岩波書店)
『20世紀特派員 1』サンケイ新聞社編(産経新聞ニュースサービス)
『日米開戦の真実』佐藤優著(小学館)
『日本人を精神的武装解除するためにアメリカがねじ曲げた日本の歴史』青柳武彦著(ハート出版)
『植民地残酷物語 白人優越意識を解き明かす』山口洋一著(カナリアコミュニケーションズ)
『平和研究講義』高畠通敏著(岩波書店)
『大航海時代の日本人奴隷-アジア・新大陸・ヨーロッパ-(中公叢書)』ルシオ・デ・ソウザ,岡美穂子著(中央公論新社)
『戦国日本と大航海時代』平川新著(中公新書)
『鉄砲を捨てた日本人―日本史に学ぶ軍縮』ノエル ペリン著(中央公論社)

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ドン山本
アジア在中のジャーナリスト
タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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