「日本とフィリピンの大東亜戦争」目次と序文はこちら

第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

前回の記事の続きとなっています。前回の記事はこちらから。
第1部 第3章 帝国主義時代(3/3)なぜ朝鮮は日本にとって重要だったのか

第3章.大東亜戦争への道筋 -日露戦争がもたらしたもの-

2-1.中国・朝鮮とともに!

その1.アジア主義の始まり

欧米列強の暴力が世界を覆っていた時代にあって、あえて小国に留まり軍備を縮小し、平和的外交を貫くという選択肢は、現実的ではありません。小国主義を実行したタイは独立を守り抜きましたが、それはタイの地理的条件が欧米列強の緩衝地帯として作用したからこそです。

しかし、日本列島は緩衝(かんしょう)地帯どころか、欧米列強が侵略の手を他国に伸ばす上で、極めて重要な位置を占めていました。ロシアの南下政策、アメリカの太平洋侵略、イギリスのインドから中国への侵略など、三方からの危険にさらされていたのです。

繰り返しになりますが、日本が欧米列強に侵略されることなく生き残るためには、小国から大国へと脱皮し、軍事力によって対抗するより他に道はなかったといえるでしょう。

前述のように経済的な事情からも、孤立した小国のままでは、いずれ亡国へと至ることは明らかでした。そこで日本のなかには、まだ欧米に侵略されていない朝鮮と、半植民地状態で苦しんでいる中国とともに協力し合い、欧米列強に対抗する道を模索しようとする機運が高まりました。

中国と朝鮮は地理的にも文化的にも日本に近く、歴史的にも古くから交流がありました。ともに欧米列強による侵略にさらされている今、手を取り合って対抗しようと考えるのは自然なことです。

こうした興亜の思想は、アジア諸国が連携することで欧米に対抗しようとする「アジア主義」へと受け継がれていきます。

その2.朝鮮をめぐる情勢

中国・朝鮮との連携を求めた日本は、明治4年に清国との間に日清修好条規を取り交わしました。この条約は、領事裁判権と治外法権をともに承認し合う平等条約です。

日本と中国は明治の初めから敵対関係にあったわけではありません。日清修好条規には両国が互いに侵略することなく、永久に親善関係を築くことがうたわれています。室町時代以来絶たれていた日本と中国の正式な国交が、ここに回復したのです。

ところが、朝鮮との国交を開くことは困難を極めました。当時の朝鮮は清の属国でした。朝鮮は中国と陸続きという不幸な立地条件ゆえに、千年以上にわたり中国の属国として隷従してきました。

清国十万の軍勢に侵略され、降伏したのは1637年のことです。「清には君臣の礼をもて仕えよ」から始まる屈辱的な条約を結ばされた朝鮮は、清の勅使(ちょくし)を迎える際には国王が毎回土下座を強要されました。

当時の朝鮮は江戸時代の日本と同様に完全な鎖国体制を敷いていました。しかし、朝鮮が鎖国にこだわることは日本にとって脅威でした。朝鮮がかたくなに鎖国を貫き通そうとすれば、欧米列強に力尽くで侵略されることが目に見えていたからです。

朝鮮の宗主国である清は、残念ながら頼りになりません。清仏戦争でフランスに敗れたことで属国だったベトナムを奪われ、アヘン戦争でもアロー戦争でもイギリスに敗れた清に、朝鮮を守るだけの力がないことは明らかでした。

朝鮮も開国し、近代国家へと変わることを日本は望みました。ロシアの侵略を跳ね返すだけの軍事力を朝鮮が備えてくれなければ、日本が困るのです。

そこで、日本はまず日朝の国交回復を図るために何度も使者を送りますが、朝鮮はかたくなにこれを拒否しました。朝鮮は日本に侵略されるのではないかといった警戒もあり、また排日の空気も強く、日本人を蔑む感情にも根強いものがありました。

なぜ朝鮮人が日本人を蔑むのかと言えば、中国の華夷(かい)秩序が影響していたからです。中国には中国こそが世界の中心であり、その周囲は未開の野蛮人(夷)であるとする思想が古くからあります。

華夷秩序では中国に近い国ほど偉く、離れるほどにランクが下がっていくと考えられていました。朝鮮と日本では朝鮮の方がはるかに中国に近いため、ランクが上です。そこで、朝鮮の人々は日本人よりも自分たちの方が偉いのだという意識をもつに至ったのです。

現代の感覚からすれば馬鹿げた論ですが、すでに飛鳥時代には華夷秩序から抜け出した日本とは異なり、中国の属国として虐げられてきた朝鮮の人々は、その華夷秩序の世界のなかで生きてきました。長い歴史のなかで培われた日本人を蔑む感情は、一朝一夕で消えるものではありませんでした。

朝鮮が日本との国交を拒む間にも、刻一刻とロシアによる南下が迫っています。のんびりと構えている時間的な余裕は、もはやありませんでした。日本のなかには排外的な朝鮮に対して武力をもって開国させ、強引に国交を開こうとする論もありました。

その3.つぶされた朝鮮改革のきざし

明治初年から8年間にわたって交渉を続けたものの、朝鮮は開国に応じようとしませんでした。そんなときに起きたのが1875(明治8)年の江華島事件です。朝鮮西岸海域を測量していた日本の軍艦が朝鮮から砲撃を受けたことをきっかけに、日朝間の武力衝突が起こった事件です。

江華島事件によって朝鮮の排外的な姿勢は崩れ、日朝修好条規が結ばれ、日朝間の国交が回復したのです。この条約は、日本が欧米列強と取り交わした不平等条約をそのまま朝鮮に押しつけるような内容でした。

ただし、第一条には「朝鮮国は自主の邦(くに)にして日本国と平等の権を保有せり」と記されています。朝鮮が清の属国ではなく、日本と同じ独立国なのだと宣言する条文でした。

朝鮮が清の属国としての立場を離れ、独立によって近代化への道を急いでほしいという日本の願いが、第一条に込められています。

この条文は、世界に向けての強烈なメッセージになりました。当時の地球儀には朝鮮という国はありません。朝鮮半島のところには「シナ」と表記されていました。ところが、日本と朝鮮が国際条約を結んだことにより、欧米列強も続々朝鮮と条約を結ぶことになったのです。

こうして朝鮮が事実上、清の属国としての立場を離れたことは、日本にとって有利でした。朝鮮にも近代化を成し遂げようとする勢力が起こり、日本も朝鮮の軍事改革を支援しました。

しかし、軍事改革で取り残された兵を中心に暴動が起きると多数の日本人が虐殺され、日本公使館が襲撃されました。清はこの機に乗じて5千の兵を派遣して暴動を鎮圧しています。

通常、一国の外交官が殺害され公使館が襲われたとなれば戦争にさえ発展しかねない緊急事態ですが、日本はあくまで話し合いでの解決を目指し、賠償のみで解決しています。

清から派遣された軍はそのまま朝鮮に居座りました。朝鮮改革の機運が確実に芽吹いていたにもかかわらず、清は再び朝鮮に影響力を及ぼしては、その近代化を阻んだのです。

追い詰められた朝鮮の改革派はクーデターを起こしましたが、清の圧倒的な軍勢の前に押しつぶされ、徹底的に弾圧されました。この事変で日本公使館は焼き払われ、女性を含む多くの日本人が惨殺されました。

清には朝鮮を手放す気はなく、宗主国として相変わらず朝鮮を支配し続けたのです。二度にわたる事変で日本人が虐殺されたことは、日本の世論に怒りをもたらしました。朝鮮を近代国家に育てようとする改革派をどれだけ支援したところで、清軍が現れて白紙に戻されたのでは意味がありません。朝鮮を改革するためには清の支配を断ち切るよりない、とする論が大勢を占めました。

世論が高まるのとは裏腹に、明治政府はあくまで話し合いによる解決を目指し、弱腰外交と国民から非難されるほどでした。

その4.日清戦争へ

そんな明治政府が方針を転換させたのは、1894年(明治27年)に起きた東学党の乱がきっかけです。これは宗教に関連する農民一揆が政治暴動化したものですが、これを好機とみた清は朝鮮に出兵しました。その大義名分は「属邦保護」のためでした。

朝鮮を属国としてつなぎ止めることにこだわる清のかたくなな態度に、明治政府もついに重い腰を上げます。「朝鮮が清国の属邦たることを承認せず」と反論し、朝鮮半島へと出兵しました。

こうして日清両国の軍は朝鮮で衝突し、日清戦争となったのです。1894年(明治27年)のことです。日本の世論はこの開戦を「朝鮮の独立を助ける義戦」であるとして歓迎しました。

京城(ソウル)にいたシル米国弁理公使は、日清戦争を次のように評価しています。

「日本は朝鮮に対して非常に好意的であるやうに思へる。日本が欲することは、朝鮮に対する支那の宗主権といふ束縛を一挙に断ち切ること、そして次には朝鮮国民に平和と繁栄と啓蒙をもたらすやうな改革を援助することによって、その弱き隣国が独立国としての地位を強化するのを助けること、これだけであるやうに思へる。この動機は、多くの聡明なる朝鮮国史官を満足させるものであり、また米国の否認すべきものでもないと考へる。

大東亜戦争への道』中村粲著(展転社)より引用

アメリカもイギリスも最も恐れていたのは、ロシアの南下により朝鮮がロシアに飲み込まれることでした。アメリカは日清戦争が始まるとまもなく中立を表明しています。当時のアメリカは日本に対して好意的でした。

日清戦争では連合艦隊が黄海海戦で北洋艦隊を壊滅させ、陸では日本陸軍が平壌と南満洲の要地を占領し、さらに遼東半島に上陸して金州、旅順を占領しました。近代化を成し遂げた日本の軍事力が、旧態依然としたままの清軍を圧倒した結果です。清は日本と講和せざるを得ませんでした。

これにより「眠れる獅子」と恐れられていた清は張り子の虎であったことがばれ、欧米列強による清への浸食は、ますます過激化することになります。

その5.とある虐殺事件の真偽

日清戦争の最中、日本が旅順で虐殺を行ったとする報道が、アメリカの『二ューヨーク・ワールド』紙に掲載されています。

「日本軍は旅順陥落の翌日から4日間、非戦闘員、婦女子、幼児など約6万人を殺害し、殺戮を免れた清国人は旅順全市でわづか36人に過ぎない」と記事には記されていました。

しかし、大東亜戦争での南京事件とは異なり、旅順虐殺報道の真相は今日でははっきりしています。この報道はフリーのジャーナリストであったジェイムズ・クリールマンが、はじめ『ニューヨーク・トリビューン』紙に原稿を持ち込んだものの、真実性がとぼしいとの理由で掲載を拒否され、『ワールド』紙に持ち込んだ記事です。

実は『ニューヨーク・ワールド』紙は事実報道でなくても、事件をセンセーショナルに加工することで販売部数を伸ばすことを編集方針とするイエロー・ジャーナリズムの新聞でした。

アメリカ国務省はこの報道に驚き、エドウィン・ダン駐日公使に調査を命じました。その結果は、「該当の記事は、極めてグロテスクに誇張されたものである」との報告でした。

日露戦争

wikipedia:エドウィン・ダン より引用
エドウィン・ダン1848年 - 1931年

アメリカの外交官・駐日公使。もとは獣医師。明治期のお雇い外国人として開拓使に雇用され、北海道における畜産業の発展に大きく貢献した。1人で馬を使役し、洋式の大型農具を用いて農作業を行う技術を普及させたことが、北海道における大規模農業の礎になったといわれる。また、北海道の気候に適合した農作物の発見に努めた。

また、現地からの報告を行ったイギリスの『セントラル・ニュース』紙は「公正な戦闘以外では、一人の中国人も殺されていない」と反論しています。

ありもしない虐殺報道を報じることは、中国の常套(じょうとう)手段です。戦争中にはこうした「プロバガンダ戦争」が起こりがちです。では、旅順虐殺報道がなぜ立ち消えたのかと言えば、それが真実ではなく、かつ日本が清国に勝ったからです。もし日清戦争で日本が負けていれば、旅順虐殺は歴史的な事実として今日でも語り継がれていたことでしょう。

その6.軍拡を導いた三国干渉

西欧列強の予想を裏切って日清戦争に勝利を収めた日本は、下関で清国と講和条約を結びました。朝鮮が完全な独立国であることを認めること、賠償金を支払うこと、そして遼東半島と台湾及び膨湖島を割譲することなどが、この条約で定められました。

ところが条約の締結後に、ロシア・ドイツ・フランスの三国は日本に遼東半島を返せと勧告してきたのです。ロシアは「遼東半島を日本が所有することは清国の都を危うくするのみならず、朝鮮の独立を有名無実とするもので、右は極東永久の平和に障害を与えるものである」と述べています。

これが「三国干渉」です。要求を拒めば三国を相手に戦争を行うことになりますが、当時の日本には軍事的にも経済的にも三国に対抗できるだけの力はありません。すでにロシアは東洋艦隊を南下させることで、日本に圧力をかけていました。どれだけ理不尽な要求であっても、弱小国は強国に従うより他に道はなかったのです。道理よりも、力がすべての時代でした。

「魚(朝鮮)を釣り上げようとする日本と清、横どり(漁夫の利)をたくらむロシア」を描いた有名な諷刺画。 ジョルジュ・フェルディナン・ビゴー画
多くの日本人が日清戦争で命を落とし、その代償として得た遼東半島を手放すことは、日本にとって耐えがたいことでした。しかし、日本は涙を飲んで遼東半島を放棄しました。

では、遼東半島はその後どうなったのかといえば、結果的にすぐにロシアのものになりました。ロシアは旅順と大連を清から租借し、日本が返した関東州をそっくり手に入れることに成功しています。これにより実質上、満州はすべてロシアの領土となったのです。

この屈辱に日本の世論は激高しました。この時期、日本中でしきりに使われたのが「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」の四語でした。「臥薪嘗胆」は古代中国の呉越に絡む故事で、固い薪の上に寝て、苦い胆(肝)を口にすることで、復讐の志を奮い立たせることを意味します。

三国干渉は日本の世論を一気に軍拡へと導きました。官吏の給与を一割カットすることで、軍拡に回そうとする動きまであったほどです。多くの日本人の犠牲の上に取得した遼東半島をロシアにだまし取られた恨みは深く、満州の地をロシアから奪い返すことは日本人全体の悲願となったのです。

旅順半島は後の満州国の一部です。三国干渉から 1931年に起きた満州事変までは、一本の線で繋がっています。

中国・朝鮮とともに立ち上がり、欧米列強に対抗しようとした日本の思いは届きませんでした。朝鮮の独立を達成するためとはいえ中国(清)との戦争へと至ってしまったことは、アジアの連携を模索する日本にとっても痛恨事でした。

満州が事実上のロシアの領土と化した今、朝鮮をロシアの侵略から守ることが日本の生存をも左右する一大事でした。

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