黄禍論と日本人差別2

「日本とフィリピンの大東亜戦争」目次と序文はこちら

第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

前回の記事の続きとなっています。前回の記事はこちらから。
黄禍論と日本人差別(1/4)黄禍論とは何か?

第3章.黄禍論と日本人差別

3-2.アメリカの対日憎悪

その1.黄色人種への敵意と憎悪

「人種差別」と聞いても、現代ではたいして実感を持てない人が多いことでしょう。もちろん、今この瞬間にも人種差別で虐げられている人々は世界に数え切れないほど多くいますが、日本にいる限りはそれを感じることはほぼありません。

人種差別を肌で感じたいのであれば、どこでもよいから海外で2~3年暮らしてみることをオススメします。嫌でも「人種差別」の深さを思い知ることになるでしょう。私たち日本人はほとんどの場合、差別される側です。

20世紀初頭の世界にあっては人種差別があることは常識であり、それが悪いという価値観は共有されていませんでした。

当時のアメリカの白人が黒人を差別していたことはよく知られていますが、同種の差別はアジアの黄色人種に対しても向けられていました。

アメリカに最初に移民した東洋人は、1848年のゴールド・ラッシュでカリフォルニアに渡った中国人です。労働不足に陥っていたアメリカでは、当初中国人は歓迎されていました。しかし移民の数が増えるにつれて、アメリカ人労働者との間に争いが起こるようになります。

その原因となったのは、人種偏見に基づく東洋人に対する敵意と憎悪です。中国人排斥運動は次第に盛り上がりを見せ、1885(明治15)年にはワイオミング州のユニオン・パシフィック鉄道の町で多くの中国人労務者が住む居住区が白人に襲われる事件が起きました。

暴徒と化した白人は中国人街に火を放ち、中国人50人が虐殺されました。この事件にかかわった白人は職場を追放されたものの、誰一人起訴もされていません。

アメリカの世論が中国人の排斥を支持することを受け、1902(明治35)年、中国人移民排斥法が制定され、中国人移民はアメリカから完全に締め出されたのです。清国にはこのあからさまな人種差別に抗議するだけの力がありませんでした。

この直後に増えていったのが日本人移民です。アメリカのハワイ併合により1900年に属領性が布かれたため、ハワイからアメリカ西海岸、主としてカリフォルニアに転出する日本人移民が増えたためです。

大半のアメリカ人は中国人も日本人も見分けがつきません。中国人に向けられていた敵意と憎悪は、そっくりそのまま日本人移民に降りかかりました。

ただし、中国人を虐殺したほどの憎悪をそのまま日本人に向けるわけにはいきませんでした。日本人移民の背後には、大国ロシアを打ち負かすほどの強大な軍をもつ独立国日本が控えていたからです。

こうしたやり場のない憎悪は日露戦争中から続く黄禍論と結びつき、日本人移民排斥へと向かいました。新聞は相変わらず黄禍論を展開し、日本と中国の合同軍が欧米に押し寄せる恐怖をあおりました。

その2.日本人児童隔離問題から始まる日本人排斥運動

アメリカの対日感情は悪化の一途をたどり、日韓人排斥連盟が結成されるとともに、日本人移民に対する風当たりも次第に強くなっていきました。

そんなとき、1906(明治39)年にサンフランシスコを大きな地震が襲いました。これに日本は同じ地震国として同情し、日本中で募金活動が行われました。日本が送った見舞金は24万ドルに達し、他の国から寄せられた見舞金をすべて合わせた額を上回るほどでした。

こうした日本からの善意に対して、カリフォルニア州は同年、市内の公立学校に通っている日本人児童をクレー街にある東洋人のための隔離学校に強制的に転校させる決議を採択しました。これが日本人児童隔離問題です。

こうしたアメリカの仕打ちは、日本から見てまさに「恩を仇で返す」ように映り、反米感情が高まることになりました。

アメリカでは当時、白人と黒人が同じ学校で学ぶことが禁じられていました。そうした隔離政策を日本人に対しても広げようとする決議であることは明らかです。

「蒙古人と触れあうことで、白人学童に悪影響が及ばぬよう、日本人学童を別の学校施設に移す」との決議ですが、当時サンフランシスコにいた日本人学童は、わずか93人に過ぎません。それだけの少人数でなにか問題が起きようはずもなく、単に日本人を辱めたいだけではないかとの指摘はアメリカ国内からもあがりました。

「蒙古人」と断っているのは、カリフォルニア州教育法に「インド人、中国人、並びに蒙古人の学童は公立の教育施設から隔離できる」との条文がすでにあったためです。日本人を蒙古人に当てはめることで、隔離を正当化しようと目論んだのです。

日本総領事は教育委員会に抗議しましたが決議の撤回を拒否されたため、カリフォルニア州知事に抗議の書簡を送りました。しかし、知事も撤回を拒絶したため、ついに日米の外交問題へと発展します。

日本政府は「日本人を劣等人種と宣言するに等しき侮辱行為で、我が国民の名誉を甚しく致損するもの」であると、激しく抗議しました。

セオドア・ルーズヴェルト大統領はこれに応じ、教育委員会の決議を批判するとともに、これ以上日本人への迫害が続くなら合衆国軍隊を派遣するとまで警告しています。

黄禍論と日本人差別

wikipedia:セオドア・ルーズベルト より引用
セオドア・ルーズベルト 1858年 – 1919年
アメリカ合衆国の軍人・政治家で、第25代副大統領および第26代大統領(在職1901~09年)。中国市場に参画するためにハワイとフィリピンの領有を画策し、アメリカが対外的に膨張していく基礎を築いた。日露戦争では調停役をつとめ、1906年のノーベル平和賞を受賞。

ルーズヴェルト大統領は「息子カーミット宛の手紙」のなかで、「余は日本の問題では痛く悩んでゐる。カリフォルニア、特にサンフランシスコの大馬鹿共は向ふ見ずに日本人を侮辱してゐるが、戦争となった暁には、その結果に対して責任を取るのは国民全体なのである」と綴っています。

ルーズヴェルト大統領は日本と戦争になることを恐れていました。アメリカの艦隊は大西洋に出ており、太平洋はがら空きです。バルチック艦隊なき今、太平洋に睨みをきかせているのは日本海軍だけでした。日本がもしフィリピンを襲ったならば、アメリカにはフィリピンを守る術がなかったのです。

現にフィリピンで発行されていた新聞『エル・レナシミエント』紙でも、次のような記事が掲載されました。

「仮に日米両国が戦うことになれば、日本は開戦後わずか四日で我が国に上陸が可能である。日本陸軍は時聞をかけることなくフィリピンの占領を完成させることができるだろう。あの旅順港にいたロシア艦隊攻撃に見せた日本の輝かしい戦果を、再びこの国で見ることができるかもしれない」
(『エル・レナシミエント』紙1908(明治41)年3月5日付)

様々な妥協案が提示されるなか、翌1907(明治40)年に日米紳士協定が結ばれ、事態は鎮静化しました。アメリカが日本人移民を一方的に排斥しないことを条件に、日本側からアメリカ本土への移民を制限すると約束したのです。これにより、日本人学童に対する強制隔離決議は撤回されました。

しかし、日本人移民排斥の運動は、けして絶えることがありませんでした。アメリカ人の日本人に対する敵意・憎悪は、さらに剥き出しの悪意に姿を変えて日本人移民を襲うことになります。

その3.日米開戦か、白船来航の衝撃

- 復讐の恐怖と裏返しの憎悪 ー

当時のアメリカ人が日本人に対して、なぜこれほどまでの敵意と憎悪を募らせたのか、今日から振り返っても日本人の側からは理解に苦しみます。あえて言えば、白人の中に数世紀にわたって積もり積もった罪の意識が、憎悪の温床なのかもしれません。

大航海時代以降、白人は有色人種を人間以下とみなし、徹底的に痛めつけてきました。強い者が弱い者を一方的に支配することは、彼らにとっての正義でした。しかし、その弱肉強食のルールが絶対的な正義であったのは、天地がひっくり返っても白人が有色人種に負けるわけがないという自信があったからこそです。

ところが今や、日本がロシアを破ったことにより、白人優位の神話は崩壊しました。そのときはじめて白人たちは、自分たちが弱者の身分に落ちる可能性があることを悟り、恐怖に打ち震えました。

有色人種を殺戮し、奴隷化し、搾取してきた構造が逆転すれば、今度は自分たちが有色人種によって同じことをされるかもしれないという恐怖です。

そうした恐怖が憎悪を募らせたのかもしれません。有色人種の側に、復讐しようなどという気持ちがまったくなかったとしてもです。

そもそもカリフォルニア州で日本人移民が増えることを白人が恐れたのは、アメリカがハワイを侵略する際にアメリカ人移民を送り込むという奸計を施した前科があったからとも言えるでしょう。同じことがカリフォルニアで起きることを白人は恐れたのかもしれません。もちろん日本人移民に、そのような野望など露ほどもありません。

しかし、海軍の将であったアラバマ州の下院議員は見当違いなことを言っています。
「カリフォルニアの日本人は(単なる移民ではなく)兵士であると考えなくてはいけない。しっかりと編制された軍隊なのである」

募る一方の日本人への敵対意識と憎悪は、もはや日米の開戦を避けられないのではないかといった世論をアメリカ国内に作り上げました。

こうした情報は日本にも伝わり、日本の世論もまた反米感情を高ぶらせていきました。日露戦争が始まる前は蜜月時代を築いていた日米関係が、日本の勝利とともに突然険悪に転じたことは多くの日本人にとって解せないことでしたが、片方が敵意を露わにすれば、こちらも対抗せざるを得ません。

- 白船来航 ー

そんな最中、アメリカは突如、対日威嚇(いかく)行動に打って出ました。1907(明治40)年12月、アメリカ大西洋艦隊はヴァージニア州の軍港を発ち、太平洋を通ってサンフランシスコを目指しました。

このとき、アメリカのなかには「我が海軍は、いよいよ日本と戦うために太平洋へ出発した」と煽る新聞までありました。そんな馬鹿なことがあるものかと一笑に付していた日本政府は、まもなくパニックに陥ることになります。

黄禍論と日本人差別
https://ja.wikipedia.org/wiki/より引用

ハンプトンローズを出港する白船艦隊

1908(明治41)年3月、マゼラン海峡を通過したアメリカ大西洋艦隊は「艦隊の行き先はサンフランシスコではない。世界一周である」と、突然発表したのです。

その発表は進路を変え、日本近海へ近づくという宣言でもありました。軍艦16隻を擁し、連合艦隊の2倍の規模をもつ大艦隊の接近に日本政府は青ざめました。

このときアメリカ艦隊は白いペンキで塗りたくられていたため、黒船来航にちなんで「白船来航」と呼ばれています。

まさか本当にアメリカ大西洋艦隊が日本に向かってくるとは予想もしていなかっただけに、日本政府はあわてふためきました。

アメリカ艦隊の突然の進路変更に、世界中のマスメディアは釘付けになりました。猪瀬直樹著「黒船の世紀」より引用します。

すでに日本の外務省は、世界各地の在外公館から寄せられた未確認情報を分析していた。事態は容易ならざる方向に動いていたのである。

たとえば、駐フランス大使の栗野慎一郎は、1月5日にこう打電してきた。「フランスのジャーナリズムは、まるで日米戦争が避けられないかのごとく報じている。日本の外債は暴落した」

同じ日にスペイン駐在の稲垣満次郎公使からも報告が入った。報告は、米西戦争に負けたばかりの国情が反映されたものだった。 「日本がアメリカと戦争をすると決めたら軍資金の援助をするつもりだから遠慮なくいってくれ、と当地の貴族や資本家から申し出があった」

黒船の世紀 <外圧>と<世論>の日米開戦秘史』猪瀬直樹著(角川ソフィア文庫)より引用

黄禍論と日本人差別

wikipedia:栗野慎一郎 より引用
栗野慎一郎(くりの しんいちろう) 1851(嘉永4)年 – 1937(昭和12)年
明治・大正時代の日本の外交官。初代駐フランス特命全権大使。アメリカ・イタリア・フランス・ロシア各国公使を歴任。日露戦争開戦時には駐露公使としてロシア政府に宣戦布告文を渡す大任を果した。日英同盟に対して日露協商を主唱した親露派。初代駐フランス大使に就任後は日仏協約締結に尽くした。

黄禍論と日本人差別

wikipedia:稲垣満次郎 より引用
稲垣満次郎(いながき まんじろう)1861(文久元)年 – 1908(明治41)年
明治時代の外交官。シャム(タイ)初の弁理公使。著書『東方策』にて、日本の太平洋進出を唱えた南進論者の先駆として著名。南北シーレーンの確保による海洋国家としての日本の進路を提唱した。スペイン公使を務めていた際に客死。

世界各国のジャーナリズムはこのとき、日米戦争が起こるのではないかと本気で思っていたことがうかがえます。アメリカの世論は、それほどまでに日本人に対する敵視で沸き返っていたのです。

- 日本の仕掛けた友好国キャンペーン ー

アメリカ国内では反日運動が盛り上がり、対日戦争やむなしというキャンペーンが新聞各社によって繰り広げられていました。白船来航という威嚇に対して、日本がフィリピンおよびハワイの占領を狙って軍事行動を起こすのではないか、といった憶測がまことしやかに流れました。

事態が刻一刻と緊迫するなか日本政府はどうしたのかといえば、国をあげてアメリカ艦隊を歓迎一色で塗りつぶす作戦に出ました。日本にはアメリカと事を構える気など、まったくありません。アメリカとは逆に、日本はアメリカの友好国であるというキャンペーンを張ったのです。

アメリカ艦隊に日本への招待を申し入れると、横浜に到着した大艦隊を連合艦隊の祝砲で迎え入れ、大歓迎式典が催されました。国内の新聞は朝日新聞が「Welcome」のタイトルで英文の社告を載せるなど、どの新聞も卑屈なまでに歓迎記事一色で塗りつぶされました。

黄禍論と日本人差別
https://kozan.blog.so-net.ne.jp/2008-08-28より引用

白船来航時の横浜の風景

こうした事情がアメリカに伝えられると、多少なりとも対日感情が和らぎました。

このときのことをルーズヴェルト大統領は後年、「日本が攻撃を仕掛けてくるとは十中八、九信じていなかったが、1割の可能性は否定できなかった」と回想しています。

1割とはいえ日米戦争になる可能性があるにもかかわらず、白船来航という明らかな威嚇を仕掛けてきたことは驚くべきことです。

日本にはアメリカと戦争を始める気はまったくありませんでしたが、白船来航による日米開戦の危機はたしかにあったのです。

大艦隊が無事にノーフォークに帰還したとき、出迎えたルーズヴェルト大統領は述べています。
「私が大統領として世界平和に貢献したとすれば、この航海の成功がその象徴である」

黄禍論と日本人差別
https://ja.wikipedia.org/wiki/より引用

「コネチカット」砲塔上のセオドア・ルーズベルト。1909年2月22日、ハンプトン・ローズにて

一方、日本政府はただ脳天気にアメリカ大艦隊を歓迎したわけではありません。大艦隊が日本を立ち去った二週間後、日本の連合艦隊は米艦隊の来襲を想定し、実戦さながらの演習を行っています。そのことは国民には伏されました。

白船来航は今日の歴史書や教科書には、ほとんど載っていません。しかし、白船来航によって日米関係がこれまでとは異なる緊張をはらむようになったことを思えば、大東亜戦争へと至る道のりにおいて白船来航は重要な転換点になったといえるでしょう。

渡辺惣樹著『日米衝突の根源 1588-1908』のなかには、艦隊の派遣を決断したルーズヴェルト大統領の本音が紹介されています。

「(略)ルーズベルトは、日本との戦いの恐れを語りだした。この一年半ずっと悩んでいたというのだ」

「恐らく僕ほど日本との戦争を心配している者は他にいないだろう。もちろんすぐには開戦とはならないが、その日はいつかやってくる。(中略)その日をできるだけ遅くすること、その準備をしっかりしておくこと、戦いを恐れない冷酷なまでの強い意志を彼らに示すこと。こうしたことが絶対に必要だと言うのだ。だからこそ白い艦隊を太平洋に派遣し横浜に寄港させることにしたのだ、と」

日米衝突の根源 1588-1908』渡辺惣樹著(草思社)より引用

すでにこのときには日米ともに水面下では、日米開戦に向けて動き始めていたのです。

その4.排日土地法というあからさまな人種差別

カリフォルニア州の日本人排斥の炎が再び燃えさかったのが、1909(明治42)年の排日土地法案です。

この頃の排日運動をリードしたのは政治家です。人種偏見に囚われた人が多いカリフォルニア州においては、排日を主張しなければ大衆から熱狂的な支持を得ることができませんでした。選挙で当選したければ、排日をあおるよりなかったのです。

「カリフォルニアを白く保とう」と人種差別を露わにしたスローガンを叫びながら、排日運動は激化していきました。

1912(大正元)年、日本人嫌いで知られるウィリアム・ハースト系の新聞に衝撃的なニュースが大きく報道されました。メキシコ太平洋岸の最良の港であるマグダレナ湾に、日本が大型植民地の建設を計画している、との記事です。

さらに2日後には姉妹紙である『サンフランシスコ・イグザミナー』紙で、植民の規模は7万5千人を数え、すでに入植は終わっていること、入植者のほとんどが兵士であることが報じられました。

もちろん、そのような事実はまったくありませんでした。実はそこにはわずか2人の日本人がアワビの缶詰加工の工場を経営し、現地のメキシコ人を雇用しているに過ぎなかったのです。日本人が群れをなして入植したという事実もなければ、まして兵士など一人もいるはずがありません。

日本政府もメキシコ政府も入植の報道を否定しましたが、ハースト系の新聞は嘘とわかっていながらもなお、カリフォルニアに忍び寄る日本の脅威を報道し続けました。

部数を増やせさえすれば嘘でも何でも書いても構わないとするイエロージャーナリズムが、当時のアメリカでは支持されていたのです。無責任なマスメディアに煽(あお)られ、排日運動はますます勢いを増すばかりでした。

排日を煽った新聞『サクラメント・ピ-』の社主はアメリカ上院で証言を行い、「日本からの移民を禁止しないと、アメリカは日本の一州にされてしまう」と本気で訴えました。

こうした日本への恐れは一般大衆ばかりではなく、政府内や軍部首脳の間にも共有されていました。

有名な『海上権力史論』を著したマハン提督も言っています。
「もし日本がさらに労働者をアメリカに移住させる権利を要求するならば、早晩戦争になるだろう、自分に言わせれば、ロッキー山脈以西がアジア人で埋められてしまう権利を認めるくらいなら、明日にでも戦争をするほうをむしろ選ぶだろう」

黄禍論と日本人差別

wikipedia:アルフレッド・セイヤー・マハン より引用
アルフレッド・セイヤー・マハン 1840年 – 1914年
アメリカの海軍軍人・戦略家。ニューポート海軍大学で戦術と海軍史を講義、二度同校長を務めた。大海軍建設・商船隊拡充・海外基地・植民地獲得を包含した「海上権力」の理論を『海上権力史論』として著し、アメリカのみならず帝国主義的海外進出を進めていた列強に多大な影響を与えた。海上権力の重要性を強調する海外膨張(平たく言えば海外侵略)論は海軍兵学だけでなく近代の国際政治のうえにも強い影響を及ぼした。その理論は今日においてもアメリカ海軍の兵学思想の中核をなしている。1899年の第1回ハーグ平和会議にアメリカ代表として出席し、国際仲裁裁判方式や軍縮に反対した。

では、多くのアメリカ人が危機感を抱くほどに、実際に日本からの移民は多かったのでしょうか?

20世紀初頭から排日移民法によって日本人移民が全面的に禁止されるまでの四半世紀の間に、アメリカに渡航した日本人移民の総数は、ニューヨークに上陸したヨーロッパ人移民の一カ月分にも及ばないほどのごく少数でした。

1920年の統計では日系移民の数は二世を加えても、アメリカ総人口の0.1%に過ぎません。カリフォルニア州に限っても、日本人移民の割合は推計で2.1% ほどに留まっています。カリフォルニアのアメリカ人が危機感を抱くほどの人数でないことだけは、たしかです。

それでもアメリカ人は日本人移民を嫌いました。日本のなかには、日本人移民の生活態度にこそ問題があるとし、もっと文化的になれば摩擦は起こらないとする論もありましたが、アメリカで排日運動が盛り上がった本質は、肌の色の違いです。

移民の数の大小の問題ではなく、黄色い肌をした生理的に受け付けない人種が同じ空間にいることの嫌悪感こそが、排日運動の根源にあった正体です。

イギリス外務省は移民の排斥について次のように報告書にまとめています。

現時点における「人種平等」の問題は、主として以下の国々に関係がある。すなわち、日本、中華民国、英領インド、アメリカ合衆国(特にカリフォルニアと太平洋岸の諸州)、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカである。最初の三ヵ国は最後の五ヵ国の領域内における移民の自由と差別による法的権利剥奪の停止を要求している。この問題は経済的または政治的な観点から論じることもできるが、本質的には人種問題である。

日本人移民をカリフォルニアから締め出そうとする動きはますます燃えさかり、1913(大正2)年には排日土地法が成立し、日本人による農地の所有は禁じられました。

このあとも、アメリカ人は多大な情熱をもって排日運動を激化させていったのです。

続きはこちら
黄禍論と日本人差別(3/4) 世界で初めて提議した人種平等法案 なぜパリ講和会議で人種差別撤廃案は通らなかったのか

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ドン山本
タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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