「日本とフィリピンの大東亜戦争」目次と序文はこちら

第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

前回の記事の続きとなっています。前回の記事はこちらから。
黄禍論と日本人差別(2/4)アメリカの対日憎悪

第3章.黄禍論と日本人差別

3-3.世界からノーを突きつけられた人種平等の夢

その1.第一次世界大戦での日本

1914(大正3)年6月、第一次世界大戦が起きました。日本は中立を表明しましたが、日英同盟に基づきイギリスからの支援要請があった場合には、改めて出兵を検討することとしました。

第一次世界大戦に参加した国を表した図(作・ふじわらのりこ)

やがてイギリスからドイツ海軍を撃破するための参戦を求められたため、日本は同意してドイツの基地がある青島を攻略し、これを占領しました。

このときのドイツ兵捕虜と日本人の心温まる交流は有名です。日本でベートーヴェンの第九交響曲合唱がはじめて演奏されたのは、徳島郊外の板東町におかれたドイツ人捕虜収容所でした。

イギリス・フランス・ロシアなどからはさらに日本陸軍の欧州派兵を求められましたが、加藤高明外相は「帝国軍隊の唯一の目的は国防にあるが故に、国防の本質を完備しない目的のために帝国軍隊を遠く外征させることは、その組織の根本主義と相容れない」と弁明し、出兵を拒否しています。

黄禍論と日本人差別

wikipedia:加藤高明 より引用
加藤高明(かとう たかあき)1860(安政7)年 - 1926(大正15)年

明治-大正時代の外交官・政治家。第24代内閣総理大臣。岩崎弥太郎の女婿。三菱社員から官僚を経て代議士となり、外相。第2次大隈内閣外相として中国に対華二十一ヵ条要求を受諾させた。憲政会を組織して、第二次護憲運動に参加。護憲三派内閣として第一次加藤高明内閣を組織。普通選挙法・治安維持法を制定した。第二次内閣の在任中に過労がもとで急死。「頑固(がんこ)一徹・剛腹」の人として知られる。

海軍にも地中海派遣の要請が寄せられましたが、「日本海軍は外敵防御の標準で組織されており、外征を企てる余力はない」と拒否しました。アジアの治安のためであれば出動するものの、日本とはなんら関係のない欧州のためには出兵しないという明確な意思表示です。

しかし、ドイツの潜水艦による攻撃のため連合国の船舶が多大な被害を出すに及び、再度の地中海派遣にやむなく応じています。その際日本は、ドイツが領有していた山東省と南洋諸島の権利を日本が譲り受けることをイギリスに承認させました。

第一次世界大戦は連合国の勝利に終わり、日本は戦勝国の一つに名を連ねることになったのです。

その2.高まり行く人種差別

第一次世界大戦の数年前から戦争の期間を通じ、人種差別は頂点に達しました。日本人への露骨な人種差別は英米で留まるところを知らず、自然科学と社会科学の分野においても、西洋の一流の学者が「日本人の人種的劣等性は経験的に実証できる」と論じるなど、日本人を蔑視(べっし)する動きは強くなる一方でした。

第一次世界大戦を戦っている間にも、敵からも味方からも日本人を小馬鹿にした戯画が描かれ、日本人の怒りを誘いました。日本人は黄禍をもたらす威嚇的で、細い吊り目の、人種的に劣等な生物として戯画化されました。

こうした状況に対して大隈重信首相は演説をぶっています。

彼(大隈重信)は、このような差別は単に日米間の問題ではないと言明した。「事態の根底にある人種的偏見の明白な表明をみると、その意味するところは深く、その範囲は広い。満足すべき解決策が得られれば、東西の相異なる文明の調和が勝利を収め、人類の文明史に一時代を画するであろう。

一方、もしも解決策が得られないとなれば、異なる思想や異人種の文化体系を調和させる可能性はないと絶望せざるをえない。この意味で、この難題の重要性は国際的なものである」。

大隈首明は「劣等視は廃止しなければならない」と述べ、日本は「平等獲得をめざす」と宣言して演説を終えた。

国家と人種偏見』ポール・ゴードンローレン著(阪急コミュニケーションズ)

黄禍論と日本人差別

wikipedia:大隈重信 より引用
大隈重信(おおくま しげのぶ)1838(天保9)年 - 1922(大正11)年

明治-大正時代の政治家。第8・17代内閣総理大臣。早稲田大学創立者。明治14年の政変で失脚するも翌年立憲改進党を組織。伊藤・黒田内閣の外相として条約改正にあたったが、玄洋社員に爆弾を投げられて右足を失い辞職。板垣退助と憲政党を結成し、日本初の政党内閣(隈板《わいはん》内閣)を組織。第二次内閣の際、第一次大戦に参戦。対華二十一ヵ条要求を強行した。

今や人種偏見を正し、国際社会に人種平等をもたらすことは、日本にとっての最大の目標となったのです。

その3.英米本位の平和主義を排す

第一次世界大戦はヨーロッパを主戦場とした大戦でした。白人同士のいがみ合いによって多大な戦死者が生じ、その反省から平和を求める声が西欧列強からも聞かれるようになりました。

大戦後の世界秩序をいかにすべきか、その方向性が定まっていないなか、今後の世界体制の在り方を論ずる大規模な国際会議がパリで開かれることになりました。パリ国際会議ではアメリカのウィルソン大統領によって、国際平和機構「国際連盟」の設立が提案されることになっていました。

黄禍論と日本人差別

wikipedia:ウッドロウ・ウィルソン より引用
ウッドロウ・ウィルソン1856年 - 1924年

アメリカの政治家。民主党から出馬し、セオドア=ローズヴェルト(革新党)を破って当選し第28代大統領(在職1913~1921年)となった。第一次世界大戦が始まると当初は中立を宣言し交戦国間の調停を模索したが、後にドイツに対する宣戦布告をおこなった。民族自決を旨とする14カ条の原則を発表し、戦争の終結と戦後世界の構想に向けての大きな指針となった。

しかし、独立を認められたのは白人である東欧の諸民族だけに限定され、非白人であるアジア諸民族の独立の要求は認められなかった。国際連盟の創設を提唱するも、議会で否決されたためアメリカの加盟は見送られる。大統領就任中に病に倒れ、2年に渡り妻が国政を見ていたことが死後に明らかとなり、波紋を呼んだ。

その会議に先立ち、1918(大正7)年12月15日の雑誌『日本及日本人』に掲載された近衛文麿による「英米本位の平和主義を排す」と題された論文が、国境を越えて世界的に波紋を投げかけました。

黄禍論と日本人差別

wikipedia:近衛文麿 より引用
近衛文麿(このえ ふみまろ)1891(明治24)年 - 1945(昭和20)年

大正-昭和時代前期の政治家。第34・38・39代内閣総理大臣。五摂家の筆頭の家柄に生まれる。パリ講和会議には西園寺公望らの全権随員として参加。貴族院議長を経て以後三度組閣。第一次内閣にて日中戦争中に「国民政府を相手にせず」の近衛声明を発表し和平の道を閉ざした。東亜新秩序声明を出す。第二次内閣では武力南進方針を採用し、日独伊三国同盟の締結、大政翼賛会の創立を行う。第三次内閣で日米交渉に当たるも東条英機と対立して総辞職。敗戦後に国務相として入閣、憲法改正などにあたった。戦犯に指名され、服毒自殺を遂げた。

近衛の主張は、領土も少なく植民地も少ない日本が、世界を支配する英米の利害に基づいた国際秩序の固定化を許してはならない、とするものです。さらに「黄人に対する差別的待遇を規定せる一切の法令の改正を正義人道の上より主張せざる可らず」とぶち上げ、人種差別の是正に向かって戦う意志を明らかにしました。

これに対し駐日米国大使のモリスは、英米やその植民地において黄色人種が差別を受けていることを是正すべきとする近衛の論が、日本の数多くの識者の支持を得ていることに着目し、注意すべきことを国務省に報告しています。

ニューヨークの著名な法律家であったガイ・モリソン・ウォーカーは、近衛の論に対して「日本の二面性」が表れていると強烈に批判しました。白人に対して人種平等を訴える一方で、日本は中国人などアジアの隣人を差別していると主張し、米国内の新聞にも掲載されるやアメリカ人の支持を集めました。

日本の左翼史観に染まった歴史書を見ていると、同じ論調で日本を批判的に捉えているものが多々見受けられます。たしかに日本人のなかに、日清戦争以後は中国人と韓国人を蔑視する傾向が見られたことは間違いありません。それを差別的に感じた中国人と韓国人による反日運動があったことも、歴史の証明するところです。

アジア人に対する差別意識は、今日の日本人にも広く見られる傾向です。

しかし、国家の理想とする主張と現実の間に溝があるのは、仕方のない面があります。自らの襟を正さなければ主張できないのであれば、そもそも外交は成り立ちません。

たとえば、大東亜戦争においてアメリカは民主主義を守るための戦いだと主張しましたが、当時のアメリカは黒人差別が酷く、民主主義国家とはとても呼べないような体たらくでした。

たとえ日本に二面性があったとしても、それをもって日本がパリ会議で提議した人種平等法案がまやかしであると断じることはできません。

あるいは日本が本当に求めたのはアメリカの日本人移民排斥を取り除くことであり、そのための隠れ蓑(みの)として万民が反対しにくい人種平等法案を持ち出したに過ぎないと指摘する歴史書も多くあります。

人種平等法案が通れば有色人種である日本人もまた恩恵を受けるだけに、それが国益に適う行為であったことに異論はありません。では果たして、人種平等法案は日本一国の利益だけを求めた志の低いものだったのでしょうか?

少なくとも日本が提議した人種平等法案は世界中の有色人種を魅了し、世界はパリ会議の行方を固唾(かたず)を呑んで見守りました。日本政府の内心の意図まで覗き見ることはできないものの、結果的に日本は有色人種の大義のための旗手と世界から見なされることになりました。

日露戦争での日本の勝利同様に、人種平等法案もまた、その後の世界の歴史を大きく変えることになります。人種平等法案を世界に問うた意味は、極めて大きいと言えるでしょう。

その4.人種差別撤廃条項の水面下交渉

世界で初めての国際平和機構「国際連盟」の設立にあたり、日本政府はこれを人種差別撤廃の契機にしようと画策しました。国際連盟規約に人種差別撤廃条項を盛り込むことが、目標でした。

まずは、アメリカの同意を取り付けるための水面下工作が始まりました。

日本側の提案は「外国人に与える待遇、及び権利に関して、法律上も事実上も誰に対しても、人種あるいは国籍によって差別を設けてはならない」とするものでした。

この法案の意味するところは、その国に居住する外国人をその国の国民と同様に扱えと求めるものではありません。その国に居住する外国人に対する法律を、国籍や人種によって変えてはならない、という意味です。

この法案はアメリカにとって大いに不都合でした。カリフォルニア州で定められた排日土地法は、明らかにこの法案に違反していることになるからです。

そこで日本はトーンダウンした法案を提示しました。「その国に居住する外国人に対し、法律上も事実上も正当な権力内において、できるだけ均等の待遇、および権利を与え、人種あるいは国籍によって差別を設けてはならない」とするものです。

「正当権力内において」の一文を加えることで、法律そのものが人種差別を肯定している場合には、この法案に反対しているとは言えなくなります。この法案に対してアメリカ側は賛意を示しました。

ところがオーストラリア首相のヒューズは、強硬に人種平等条項に反対しました。人種差別撤廃条項が国際連盟の規約に入れられるのならば、オーストラリアは国際連盟そのものに加盟しないと主張したのです。

黄禍論と日本人差別

wikipedia:ウィリアム・モリス ヒューズ より引用
ウィリアム・モリス ヒューズ1862年 - 1952年

オーストラリアの政治家。第7代首相。労働党の連邦議会議員から、その後首相となる。ベルサイユ講和会議では、賠償問題委員会副委員長を務めた。国際連盟憲章への人種平等条項挿入には強硬に反対した。

オーストラリアは当時、白豪主義を国是としていました。オーストラリアはそもそも人種差別を前提とした国であり、露骨な人種差別を政策に取り入れていました。先住民族アボリジニの虐殺も、国家政策として推し進められた過去があります。

国民の大半が人種差別を支持していたのです。
ヒューズとしては、ここで人種差別撤廃条項を認めてしまうと国民からの支持を失い、次の選挙では当選できなくなります。そのため、なんとしても人種差別撤廃を匂わせる条項を国際連盟規約に入れるわけにはいかなかったのです。

ヒューズが頑として譲らないため、米英の態度も次第に人種差別撤廃条項を認めない方向へと変わっていきました。

日本の世論は、これに猛反発します。帝国議会においても「世界はヨーロッパ人だけのものではない。人口の点では、日本と中国はほかの国を束ねたよりも多いのだから、人種差別が廃止されないかぎり、国際連盟はありえない」と、強硬論が飛び交いました。

その5.純然たる正義を求めて

日本側は戦術を切り替えることにしました。国際連盟の前文に人種差別撤廃条項を挿入させることは難しいと判断し、宗教の自由を保障する連盟規約21条に人種差別撤廃に関する一文を加える作戦に出たのです。

もはや水面下の交渉では埒(らち)があかないと見た日本の牧野全権は、国際連盟委員会に直接訴えることを決意しました。「ジャップには絶対喋らせない」というアメリカ側の圧力をはね除け、突然起立した牧野は正式の声明を読み上げました。

「有史以来、偏見は紛争や戦争の無限の原因であったし、将来はさらに激化するおそれがある」、と牧野は格調高く切り出し、人種や国籍による差別をなくすための一文を連盟規約21条に入れることを提案したのです。

黄禍論と日本人差別

wikipedia:牧野伸顕 より引用
牧野伸顕(まきの のぶあき)1861(文久元)年 - 1949(昭和24)年

明治-昭和時代前期の政治家・外交官。大久保利通の次男。吉田茂の岳父。文相・外相・内大臣などを歴任。パリ平和会議の全権委員、日本側の中心としての役割を果たした。その後、内大臣となり天皇側近の実力者として重きをなすも、二・二六事件で襲われ、引退した。

このとき議長を務めていたイギリスのセシルは即座に、この問題は「激烈な論争の対象」となるため討論は延長すべきだと主張し、日本側の提案は受け入れられませんでした。

黄禍論と日本人差別

wikipedia:ロバート・セシル より引用
ロバート・セシル1864年 - 1958年

イギリスの弁護士・政治家・外交官。国際連盟の創設者の一人。パリ講和会議にて国際連盟に関するイギリスの代表を務めた。人種差別撤廃に関しては個人的には日本の立場に賛成するとしたものの、イギリス代表として強硬に反対した。長年の功績を称えられ、ノーベル平和賞を受賞。

この会合が終わるとアメリカのウィルソン大統領は、連盟規約案をそのまま印刷して配布するよう指示しただけで、いったんアメリカに帰国してしまいました。そこには日本側が提案した人種平等条項について、ひと言もふれられていませんでした。

このままでは公開討論どころか、人種平等条項の提案があったという事実さえ歴史から葬られてしまいます。日本側の画策があったのかどうかは不明ですが、それまで密室内で水面下で行われていた話し合いや秘密委員会でのやり取りなどが公表され、すべての代表団は日本が人種平等条項を目指して戦っていることを知るようになりました。

ここに来て人種平等条項は、世界中の抑圧された人々の注目するところとなったのです。

日本側はこの間題を押しまくった。白人種が世界の有色人種に課している「恥辱のバッジ」に抗議する議会や大衆集会からの圧力が高まった。個々の市民が人種差別を解消するために組織に働きかけたし、また国際関係における人権の重要性を強調した論文が数ヵ国で発表された。

国家と人種偏見』ポール・ゴードンローレン著(阪急コミュニケーションズ)より引用

全米黒人新聞協会は次のようなコメントを発表した。「われわれ黒人は、講和会議の席上で、人種問題について激しい議論を闘わせている日本に、最大の敬意を払うものである」「全米千二百万の黒人が息をのんで、会議の成り行きを見守っている」。

国民の歴史』西尾幹二著(産経新聞ニュースサービス)より引用

日本全権団は他国の代表とも交渉を重ね、ひとつひとつ支持を広げていきました。反日感情が強かった中国も、同じく虐げられてきた有色人種の痛みを理解し、日本の主張に賛成してくれました。

説得のために日本全権団は、ほとんど毎日アメリカ代表団を訪問しましたが、アメリカは拒否の姿勢を崩しませんでした。上院議員が語った「アジア人に平等権を適用すれば、われわれ自身の国民的生存を危機に陥れ、西欧文明を破壊することになる」との言葉に、アメリカの本音が透けています。

牧野全権は記者会見で「日本がこの問題で敗北すれば、国際連盟に加盟しないこともありうる」と言明し、「われわれは一戦を交えないほど誇りを失ってはいないし、誇りゆえに、関係諸国との協議において誰もが二級の座と認めている場所を受諾するわけにはいかない。

われわれが求めるものは純然たる正義のみである」と、日本が人種平等条項を最重要の問題として切実に求めていることを国際社会に向けて訴えました。

その6.絶対多数の賛成、されど人種平等の夢はついえ……
国際連盟委員会 - 前列左から珍田捨巳(日本駐英大使)、牧野伸顕(日本元外相)

日本は辛抱強く交渉を続けましたが、各国の承認を獲得するためには提案を弱めて修正案を出すよりないと判断し、最後の妥協をしました。「人種」という言葉をあえて避け、「国家平等の原則と国民の公正な処遇」の支持を求めるだけの、攻撃性のない宣言に変更したのです。

日本全権団の間でも、このような妥協をしたのでは「まったく無意味だ」とする意見もありましたが、人種平等を勝ち取るための第一歩を踏み出すことがなにより大切と考え、広範な支持が得られやすい妥協案で行くことを決めました。

1919(大正8)年4月11日、国際連盟委員会最終会合の場において牧野は修正案を提出し、人権と人種平等についての日本の訴えを繰り返しました。その演説について、次のように記されています。

演説を終えた牧野は、唖然として言葉を失った聴衆に見守られながら、着席した。「問題提起は見事に行われ、満場の支持を得たように思われた」とアメリカ代表の一人は記録している。その他の者たちも、演説について、「説得力があり」「印象的で」「威厳に富み」「力強く」「称讃に値し」、日本案に反対している連中にとっては「きわめて厄介な」ものだったと書いている。あらゆる点からみて牧野は非常に雄弁で、胸を打つ演技をした。

国家と人種偏見』ポール・ゴードンローレン著(阪急コミュニケーションズ)より引用

その後も議長のウィルソンの妨害がありましたが、各国の代表の過半数が日本の案に賛成する演説を行っています。

このままうやむやなままにやり過ごそうとしていたウィルソンに対し、牧野は採決を取るように強く主張しました。ウィルソンはしぶしぶながら落ち着かない様子で採択を取りました。結果は16票中11票が日本の提案に賛成票を投じるものでした。絶対多数で日本の提案が認められたのです。

これでようやく人種平等条項が取り入れられると日本代表団が胸をなで下ろしたのも束の間、ウィルソンは即座に議長席から、「修正案は成立しませんでした、委員会の全会一致の賛成が得られなかったため採択されません」と宣告したのです。

パリ講和会議では人種平等条項以外にも様々な議題が取り上げられ採決されていましたが、これまで全会一致の「規則」は一度たりとも適用されていませんでした。

アメリカがごり押ししていた懸案もいくつかありましたが、すべて多数決で認められています。ところが突然、ウィルソンは人種平等条項に関してだけは全会一致でないから無効だと言い出したのです。各国の代表団の誰もが耳を疑いました。

しかし、多数決による決議はウィルソンの持ち出した苦し紛れの屁理屈によって否決されてしまいました。

牧野は過半数の賛成票があったことを議事録に留めるように釘を刺しましたが、それ以上、どうすることもできませんでした。日本が追い求めた人種平等の夢は、ここについえたのです。残ったのは、空しさだけでした。

その7.人種平等条項の否決がもたらしたもの

パリ講和会議にて人種平等条項が否定されたことを知った日本の世論は、怒りに染まりました。白人の持つ偏見の深さと良心の麻痺を非難する声も上がったものの、怒りの矛先は真っ先に日本代表団に向けられました。

「怠惰・憶病・無能」の言葉が代表団に浴びせられのも、国際社会において人種平等が支持されるに違いないという日本人の期待が、それだけ大きかったことの反動でもありました。

白人の人種差別に苦しめられてきた幾多の黄色人種・黒人にとっても、人種平等をけして認めようとはしない白人に対する憤りは、抑えがたいものになっていました。アメリカの多数の黒人は完全な市民権を求めて立ち上がることを決意し、行動を開始しました。

1919年5月に黒人運動のリーダー役を務めていたデュボイスは「民主主義をめざして前進せよ! われわれはフランスで民主主義を救った。大いなるエホヴァの力によって、われわれはアメリカでも民主主義を救うだろう」と、黒人に向かって呼びかけました。

黄禍論と日本人差別
wikipedia:ウィリアム・エドワード・バーグハード・デュボイス より引用
ウィリアム・エドワード・バーグハード・デュボイス 1868年 - 1963年

アメリカの黒人解放運動家・思想家・歴史家・社会学者。公民権運動指導者、汎アフリカ主義、ブラック・ナショナリズムの先駆者、全米黒人地位向上協会の創立者。ハーバード大学で黒人として初めて博士号を得る。アメリカ黒人の市民権確立に生涯を尽くした。第二次世界大戦後は冷戦に抗して平和運動に尽力。アメリカに幻滅を感じ、晩年に米国籍を放棄してガーナに帰化した。

シカゴ・ノックスヴィル・オマハ・首都ワシントンにおいて、大規模な人種暴動が発生しました。

デュボイスはパリ講和会議にて、人種問題について審議されることに大きな期待を寄せていました。1919年の2月には第一回汎(はん)アフリカ会議をパリで開き、日本を全面的に支持することを表明しています。

注)汎アフリカ会議とは、かつて大陸のほとんどがヨーロッパ諸国の植民地だった為に発生した問題に取り組む計7回の会議である。帝国主義による植民地統治と人種差別の終了を訴え、人権と経済発展の平等を求めた。

今から振り返れば、日本がパリ講和会議にて人種平等の訴えをしたことは、パンドラの箱を開けることに等しかったのかもしれません。有色人種とて人間である、肌の色が違うことで差別されるのはおかしい、人種・国籍にかかわらず人は平等である、日本は国際会議の舞台で初めて人種平等こそが正義なのだと、欧米の白人に向かって言い放ったのです。

15世紀に始まる大航海時代以来、白人に一方的に殺され、奴隷にされ、略奪され続けてきた有色人種が叫びたかった思いを、日本は人種平等条項として欧米にぶつけました。

人種平等の夢は有色人種にとっての大義であり、正義です。500年にわたる白人支配のなかで自分たち有色人種よりも白人のほうが優れていると思わされていた人々は、人種平等の声を上げることさえできませんでした。

しかし、日本は人種平等の理念を欧米列強に正面から叩き付けました。それは有色人種の国家として、世界でただ一国だけ列強に名を連ねた日本にしかできないことでした。力及ばず人種平等の大義は白人社会に完全に否定されたものの、一度生まれた希望の炎はもはや打ち消すことはできません。

人種平等の大義は有色人種の人々の胸に宿り、白人に対する抵抗運動へと発展していったのです。それは人種意識と民族主義をひとつにし、虐げられた人々の団結を促しました。

たとえば中国においては大亜協会がますます人種問題に焦点を絞っていて、機関誌『大亜』は「欧米の白人の圧迫により」苦しめられている「アジア一〇億の民」に向かって明瞭な言葉で語りかけた。

一九二〇年にはナイジェリア、シエラレオネ、ガンピア、黄金海岸(現ガーナ)の代表がアクラに結集して、民族自決と人種差別廃止を促進するために英領西アフリカ民族会議を設立した。

これと呼応してインド国民議会は、大英帝国のすべての自治領と植民地における人種平等を要求し、一九二一年の帝国評議会でも再びこの要求を繰り返した。

同年中に、フランス植民地の知識人が同じ目的で植民地同盟を結成し、また別のグループは黒人防衛連盟を創設した。その直後に、基本的に同一の目標へ向かって行動する西アフリカ学生同盟(WASU)がロンドンに樹立された。

そのほかにも、日本、中国、インド、フィリピン、東インド、マレー部族国家、エジプト、トルコの代表で構成する「有色人種国際会議」が組織され、「一部白人国家の移民政策の人種差別廃止を支援し、白人種による社会的・種族的優位観念と戦う」ことを決議した。

このあと、さらに二つの汎アジア会議が植民地支配と、人種差別とに反対する非白人の抗議の声の高まりにこたえて聞かれた。

国家と人種偏見』ポール・ゴードンローレン著(阪急コミュニケーションズ)より引用

人種平等の夢は、すべての有色人種に受け継がれ、欧米列強の支配を揺るがせたのです。

その8.人種問題の解決策とは

人種平等条項は有色人種の側からは大義でしたが、人種差別によって国益を貪ってきた欧米列強から見れば反逆であり、自分たちの支配に対する挑戦でもありました。日本はパリ講和会議の後も、人種平等が実現するまでけしてあきらめないことを表明し、今度も人種平等を目指す決意を世界に向けて訴えましたが、白人にとってこれは見過ごせないことでした。

白人にとって日本は、自分たちが築いてきた秩序を破壊する十字軍そのものでした。白人優位の世界を守る上で日本は明らかな敵対者であり、もはや黄禍は幻想ではなく現実の脅威になったのです。

パリ講和会議を終えて、イギリス外務省は次のように報告書をまとめています。

「人種平等」の問題は高度に可燃性の問題である。……白人種と有色人種は、融合することはできないし、融合することもないだろう。どちらかが支配階級にならざるをえない。……ゆえに、当面の現実の政治においては、人種問題には解決策は存在しない。

被差別国のなかでは、「虐待をこうむっている有色人種のなかでただ一国だけが発言に耳を傾けさせるに十分な実力をもっている。すなわち、日本である。日本は、唯一の非白人一等国である。人種以外のすべての点で日本は世界の支配的大国と肩を並べている。

しかし、日本がいかに軍事力で強大になろうとも、白人は日本を対等と認めることはしないだろう。日本がその主張を貫くことができれば、彼らはわれわれよりも優位に立つ。それができなければ、われわれよりも劣等のままだろう。いずれにしても、日本は対等ではありえない」。

国家と人種偏見』ポール・ゴードンローレン著(阪急コミュニケーションズ)より引用

イギリス外務省の報告書は、白人の本音を赤裸々に語っています。白人社会は人種差別を当然のことと受け止めており、人種平等を認めることはけしてないと断言しています。それゆえに白人と有色人種が理解し合うことは永遠にない、白人と有色人種はどちらかが支配階級になるよりないのだと、主張しています。

つまるところ、人種問題を解決するには武力による決着しか残されていないのだと言っているも同然です。

その9.人種戦争への奔流

日本でも同種のことを新聞が主張しています。1924(大正13)年12月24日付けの国民新聞には「人種的闘争の暗流」と題した論説が掲載されました。

「世界は、往年ヴェルサイユ会議に際して、日本が人種平等を提案せることを記憶して居るであろう。それは、実に人道上正義の声であったのであるが、併し無残にも一二強国の為めに一蹴し去られた。

口先では正義人道、世界平和というような声は、月並的文句として、世界の隅々で唱えられる処であるが、背後に実力の無い声は結局空声に終らざるを得ぬ、若し、あの場合に於て、日本が絶大な実力をもって居たならば、人種平等案の知きは、之を押し通すことが出来たであろう。而して世界の弱小国は、今日其の余慶に鼓腹することが出来たであろう」

人種差別から読み解く大東亜戦争』岩田温著(彩図社)より引用

日本の側も、軍事力さえ強ければ人種平等を叶えることができたのだと主張しています。さらに記事は、こう結んでいます。

「世界政局の底流は、既に人種的闘争に向って奔流しつつあるのである」

人種戦争への萌芽(ほうが)は確実に世界を覆い、やがては大東亜戦争へと奔流となって流れ込むことになるのです。

その10.剥き出しの人種差別

人種平等法案の騒動を経たことで、アメリカ国内で日本人を敵視する空気は異常な膨れ上がりを見せていました。

1920(大正9)年には、既存の法律よりもさらに過激な排日土地法案が住民投票によって可決されています。

当時の排日ポスター

地図上の白い部分であるカリフォルニアに手を伸ばす日本を、アメリカが牽制(けんせい)しているポスター

1922(大正11)年、日本人はどれだけアメリカに長く居住しようとも、永久に市民権を持てない人種であると断定する最高裁判決が下りました。
この判決を受け、ついに排日移民法案が持ち上がります。「帰化資格のない移民」の入国を禁じることで、日本国民の移民を一切認めないとする法案です。

報告書には次のように記されました。

「同化しない人種の端的な例が東洋人移民であり、彼らはアメリカの社会、政治、経済にとっても脅戚となりかねない存在である。そのため、現行の移民法によってすでに排斥されている東洋人移民だけではなく、日本人移民の完全な排斥も必要である」

日米紳士協定を守ってきた日本は、この法案を回避するために手を尽くしますが無駄でした。1924(大正13)年に排日移民法が成立し、それ以後の日本人移民は全面的に禁止されました。この法律はカリフォルニア州だけではなく、全米で施行された法律です。

排日移民法に反対するデモ

移民の排斥は国家の権限であり、他国が干渉できないことはたしかなのですが、そこにあからさまな人種差別が認められるのであれば、差別された民族が怒りの声を上げることも当然です。

同年6月5日、東京大阪の主要新聞社19社連名の下に共同宣言が発表されました。

「排日移民法の成立は内容に於て人道に背き正義に反するのみでなく、日米両国の伝統的親誼を無視したる暴挙である。わが国民は隠忍自重するも決してこの様な差別的待遇に甘んずるものではない、吾人は輿論の代表としてここにわが民族の牢固なる決意を表示し併せて米国官民の反省を求むる」

他の黄色人種と同様に日本人もまた排斥されたことは、日本国民の誇りを深く傷つけました。排日移民法の制定に日本国民は激怒します。

日米紳士協定により、日本からアメリカへ渡る移民は年に250名程度に制限されていました。すでに極めて少数に減っていたため、今さら移民を禁止されたからといって日本の国益が害されることはありません。

しかし、たとえ実害は皆無であったとしても、日露戦争の勝利によって欧米列強とようやく対等になったと思っていた多くの日本人は、露骨な人種差別をされたことの恥辱と怒りに震えました。

読売新聞は「有色人種への挑戦」であると憤り、時事新報は「日本国民に対する最大の冒涜(ぼうとく)にして損傷」だと怒りを表明しました。
京都帝国大学教授の末広重雄は大阪新聞に次のように寄稿しています。

「もっとも之(排日移民法)に依って直接に我国の蒙(こうむ)る不利はさして大なるものでないとしても、日本国民の顔に『劣等国民』『望ましからぬ国民』の熔印(らくいん)を押すものであるから、一等国民として実に忍ぶべからさる悔辱である。国民の名誉の問題としては、極めて重大なる意義を有するものと云わねばならぬ」(括弧内引用者)
(「正義人道に背く米国両院の態度」『大阪朝日新聞』一九二四年四月二十五日ー二十八日付)

人種差別から読み解く大東亜戦争』岩田温著(彩図社)より引用

一方、アメリカにおいても排日移民法の成立を危ぶむ声が上がっていました。

この前後、ヒューズ国務長官はロッヂ上院議員に手紙を送り、次のやうに深刻な憂慮の気持を伝へたのであった。

「私は事態を非常に心配してゐる。日本に対してのみならずアメリカに対しても、全く不必要な、しかもいやしがたい傷をつけられてしまった。日本人の心に深い恨みの念を植ゑつけるのは極めて無分別なことであった。もとより日本との戦争を懸念したり恐れたりする必要はないが、これから東洋に於て友情と協調の代りに傷心と敵意とを期待していかなければならないだらう。

このやうな種をまいた結果がどうなるか、考へるだけでも恐ろしい。我々が東洋で友好的な雰囲気を作り出さうと懸命に努力してきたために、かなりの成功があったが、これも今となっては水泡に帰してしまった」(C.C.Tansill:Back Door to War)

大東亜戦争への道』中村粲著(展転社)より引用

黄禍論と日本人差別

wikipedia:チャールズ・エヴァンズ・ヒューズ より引用
チャールズ・エヴァンズ・ヒューズ 1862年 - 1948年

アメリカの政治家・法律家。ニューヨーク州知事を経てアメリカ合衆国最高裁判所判事を務める。大統領選に出馬したがウィルソンに敗れた。国務長官を務め、ワシントン会議を主宰して9ヶ国条約を結び、門戸解放主義を列強に認めさせた。のち、合衆国最高裁判所長官。

日本人移民の排斥は日本国民にとって三国干渉以来の屈辱であり、「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」の四文字が再び新聞紙上を賑わせたのです。

日本人は思い知らされました。どれだけ強大な軍事力をもち、どれだけ経済が発展しようとも、あるいはどれほど高い文化を育んでいようとも、生まれながらに背負っている肌の色を変えることはできません。白人が抱える人種差別という深い闇は、対等を夢見ていた日本人を奈落の底へ突き落としました。

人種差別への怒りは、そのまま欧米列強に対する憤りへと姿を変え、白人との対決を支持する世論の構築へと繋がっていきました。

これまで見てきたように、人種戦争論をはじめに持ち出したのは欧米です。しかし明治末期になると日本でも有色人種対白人の宿命的な対立が戦争を呼び込む、といった考えが国民の間に、さらには政府指導者のなかでさえ抱かれるようになりました。

昭和天皇は大東亜戦争へと至った理由について次のように語っています。

「この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦后(ご)の平和条約の内容に伏在している。日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである。又青島還附を強いられたこと亦然(またしか)りである。かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がった時に、之を抑へることは容易な業ではない」(『昭和天皇独白録』文藝春秋より引用)

人種平等法案の否決からアメリカの排日移民法制定までの一連の流れは、極めて大きな禍根(かこん)を日本国民に残しました。もはや避けることのできない人種戦争へ向けて、時計の針は確実に回り始めたと言えるでしょう。

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