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第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

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第1部 3章 満州事変(5/5)なぜ満州国は崩壊したのか?開拓史上最大の悲劇

5.泥沼の日中戦争へ

5-1.日中戦争は何を語るのか

今回より日中戦争について追いかけていきます。2019年のNHK大河ドラマ「いだてん」では時代背景として日中戦争がクローズアップされることもあり、このところ日中戦争への関心が高まっているようです。

日中戦争への理解が深まれば、NHK大河ドラマ「いだてん」を何倍も楽しめることでしょう。

その1.南京事件が象徴するもの

日中戦争

図説 日中戦争』森山康平著(河出書房新社) より引用
南京城光釜門上で東京の方を向き、宮城遥拝する部隊

 
学校の授業では時間切れとなることが多いため、日中戦争について具体的なことはほとんど教わらないようです。

それでも、日中戦争の最中に起きた「南京事件」あるいは「南京大虐殺」だけは広く知られています。

『広辞苑』で南京大虐殺を引いてみると、次のように書かれています。

「日中戦争で南京が占領された1937年12月前後に南京城外で、日本軍が中国軍の投降兵・捕虜および一般市民を大量に虐殺し、あわせて放火・略奪・強姦などの非行を加えた事件。」

中国側は南京城内だけで30万人の中国人が日本軍によって虐殺されたと主張しています。この南京事件をめぐっては、その真偽をめぐって様々な論が今日に至るも交わされています。

南京事件が論争の的になっているのは、南京事件こそが対立する歴史認識の象徴になっているからです。

南京事件は東京裁判において「6週間のうちに20万人が殺害された」と断罪されています。判決文にて具体的に記された目を覆うばかりのその惨状は、同じ人間とは思えない日本軍の暴虐さを世界に向けて印象づけました。

短期間のうちに行ったとされる20万人から30万人の大虐殺は、ナチスの実行したホロコーストに匹敵するものです。かくして「ナチス = 悪」と同じように「日本軍 = 悪」というイメージが世界中で共有されることになりました。

南京事件における日本軍の残虐さは、明治以降の日本の軍国主義が抱える侵略性と暴力性の象徴でもありました。南京事件を見つめることは、明治以降の日本の歩んできた道のりを見つめることでもあります。

日本軍が極悪非道な侵略軍であったという歴史認識は、戦後の教科書に滔々(とうとう)と流れる東京裁判に基づく史観です。南京事件はその極悪非道ぶりを証明するための、もっとも目立つ道標なのです。

一方、東京裁判史観とは相反する歴史認識をもつ側にとっては、南京事件という道標自体が間違っていること、幻に過ぎないことを証明できれば、日本の誇りを回復するための大きな一歩となります。

このように南京事件は歴史認識問題の総本山とも言えるほどの、大きな意味をもっています。

では、南京事件の真相とは? 虐殺はあったのかなかったのか?

その答えは日中戦争を掘り下げていくことで、自然に見えてきます。

その2.日米開戦は日中戦争が招き寄せた

真珠湾攻撃直後の1941(昭和16)年12月12日、東條内閣は支那事変(日中戦争)も含めて「大東亜戦争」とすると閣議決定しています。つまり、大東亜戦争は1937年に端を発する日中戦争から始まった、ということです。

そもそも日米が開戦に至った根本の原因は、日中戦争をめぐる日米の駆け引きに求められます。

日中戦争において日本軍は中国軍を圧倒し、中国の主要都市をすべて占領しました。誰が見ても、すでに「勝負あった」の状態です。通常であれば中国が講和に応じ、戦争はさっさと終わってよいはずです。

ところが日中戦争は長期化し、出口がまったく見えない状況に陥りました。事態が複雑化した最大の原因は、日中戦争の途中から米英仏などが中国を陰から支援したためです。

やむなく日本は日米交渉を開始し、日本軍を中国大陸から撤退させることを条件に満州国を認めてもらい、日米通商の正常化を図ろうとしました。その日米交渉がこじれにこじれ、日米開戦へと至ったのです。

つまり、もし日中戦争が起きていなければ、あるいは長期化する前に短期講和を結べてさえいれば、日米開戦は起きなかったといえます。その機会は何度もありました。しかし、日本はことごとく好機を逸し、日米開戦へと駒を進めてしまいます。

こうした事実からわかるように、日米開戦に至った原因を考える上で日中戦争は極めて重要です。

東京裁判史観によれば、日中戦争は日本による中国への一方的な侵略とされています。今日の歴史認識では日本は「悪」であり、中国は「善」です。欧米諸国が中国に加担したのも、欧米の世論が当時からそのような共通認識をもっていたからこそです。

太平洋を舞台とした戦争は、日中戦争の延長線上に起きています。侵略軍という悪のらく印を押された日本軍のイメージは日中戦争によって形成され、太平洋での戦争にそのまま受け継がれていきました。

しかし、そのような単純な歴史認識は、果たして手放しに正しいと言えるのでしょうか?

「侵略」の定義にもよりますが、日中戦争には「日本による中国への侵略だ」と一方的に断罪できかねる面も多々あることが、多くの研究者において指摘されています。

日中戦争には複雑な要因が絡み合っています。中国においては国民党と共産党による内戦が起きており、日中戦争が始まってからも両者はけして一枚岩とは言えない状況でした。当時の中国は国民党と共産党、そして日本軍による三つどもえの戦いが繰り広げられていたのです。

中国共産党の背後にはソ連のコミンテルンが控え、世界の共産化に向けて着々と準備を進めていました。欧米にしても日本にしても中国国民党にしても、共産主義を防ぎたいことにおいては利害が一致していました。

その一方で西欧諸国にとって中国は相変わらず利権の宝庫でした。租界をはじめとして中国大陸に築いた利権を、列強は手放そうとはしませんでした。

アメリカにとっても中国は残されたフロンティアです。門戸開放と機会均等を訴え、東亜を一つにしようとする日本の動きをけん制しました。

国民党政府の背後にはアメリカが控え、共産党の背後にはソ連がつき、日中戦争は中国大陸を舞台とした、日本・アメリカ・ソ連の代理戦争の様相を呈していました。

そのなかで日本は日本なりの大義を掲げ、日中戦争を戦いました。日本にも正義はあったのです。

日本はなぜ日中戦争を戦ったのか、それは一方的な侵略であったのか、早期講和の機会をなぜ逃がしたのか、日本の占領は中国に何をもたらしたのか、日中戦争がなぜ太平洋の戦争へと発展したのか、そうした視点から日中戦争を今回よりたどってみます。

日中戦争

ビジュアルワイド図説日本史』(東京書籍株式会社) より引用  

5-2.いっときは近づいた東亜連盟の夢

日中戦争

図説 日中戦争』森山康平著(河出書房新社) より引用
日中戦争時代の中国と満州の地図

 
満州国境から北京までは、かなり近いことがわかる。

満州事変は1933(昭和8)年5月に締結された塘沽(とうこ=タンクー)協定をもって、日中間に停戦協定が成立しました。この協定で日本軍は長城線まで退くと同時に、中国軍も撤退することになり、河北省東北隅に非武装地帯が設定されることになりました。

ここで重要なのは、長城線です。すでに説明した通り万里の長城の外側に広がる満州は、歴代中国にとっての外国(化外の地)です。その意味では長城線を越えない限りは中国への侵略とはなりません。

しかし、一歩でも長城線を越えるとなると、そこからは中国に対する侵略と見なされても文句は言えません。関東軍の熱河侵攻に政府から許可が下りたのも、熱河が長城の外側に位置したためです。

中国から見て長城の外側に当たる熱河まではよいとしても、中国の領土に侵入しないために「長城線は絶対に越えてはならない」、それが関東軍に課された命令でした。

ところが結果的に、その命令は守られませんでした。中国軍によって度重なる挑発が繰り返されたためです。

日本軍が長城線からは出ないと見ると、中国軍は地の利を活かして盛んに攻撃してきました。長城壁にいる中国軍に見下ろされる位置にあった日本軍は、苦戦を強いられました。このままでは、いつまでも不利な戦いを続けるよりありません。中国軍の攻撃は止まないため、戦略上やむなく日本軍は長城を越えたのです。

塘沽協定により日中両軍の間に非武装地帯が設けられたことは、中国が満州国の存在を黙認し、河北省19県の統治権を喪失することを意味しています。日本にとってはけして悪い条件の停戦協定ではありませんでした。

塘沽協定における非武装地帯

日中戦争

日中戦争への道 満蒙華北問題と衝突への分岐点』大杉一雄著(講談社)より引用  
 
しかし、冷静に歴史を振り返るなら、塘沽協定により満州事変の幕引きが中国との間であいまいに終わったことが、のちの支那事変を招き、日中戦争を呼び込むことになったのです。

その1.東亜連盟とはなにか?

日中戦争

http://2nd.geocities.jp/custom_3297/newpage2.html より引用
昭和20年9月14日、雨中のなか開かれた盛岡大会にて「東亜連盟論」について演壇から演説する石原莞爾

 
日中戦争の時代を振り返ったとき、そこに常に一つの大きなテーマが貫いていることがわかります。それは「東亜の連携」です。

欧米列強によって無理やり植民地とされ、人種差別に基づく圧政に苦しむアジアの人々が共に手を携えて助け合い、民族自決を目指す構想は、明治以降のアジアにたしかに根付いていました。

アジアの人々が連携して欧米列強と対抗することを目指す大アジア主義・汎アジア主義の潮流は、一筋の希望の光としてアジア全土を覆っていたのです。

ことに東亜にある日本・中国・朝鮮の連携は、開国以来の多くの日本人が夢見てきたことです。日本と朝鮮がひとつになった今、残すは中国だけです。日本と中国が連携すれば、アジアから欧米列強を追い出すことも夢ではなくなります。

こうした東亜の連携を目指す構想のひとつが、石原莞爾の唱えた「東亜連盟」です。東亜連盟論とは日本・満州・中国を中心とするアジア諸国の連盟を結成し、やがて起こるアメリカとの世界最終戦争に勝利し、世界平和を成し遂げる、という思想です。

日中戦争

wikipedia:石原莞爾 より引用
石原莞爾(いしわら かんじ) 1889(明治22)年 - 1949(昭和24)年

陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。「世界最終戦論」など軍事思想家としても知られる。東亜連盟の指導者。 関東軍作戦参謀として、柳条湖事件から満州事変、及び満州国建設を指揮した。これらは軍中央の意向を無視した暴走であったが、実績が認められ参謀本部作戦部長となる。日中戦争に反対し、後に東條英機との対立から予備役に追いやられた。のち、立命館大学国防学研究所長。病気及び反東條の立場が寄与し、戦犯指定を免れた。

なぜ「最終戦争」なのかといえば、戦争兵器の急速な進歩発達のため、もしそれが使用されれば人類絶滅のおそれのある強力兵器がやがては発明され、その結果として戦争は不可能となり、世界の統一と平和が実現すると、石原が先を見通していたからです。

核兵器がまだない時代に、すでにその出現を予感していたのは驚くべきことです。

石原はアメリカとの最終戦争に東亜連盟が勝利することで、世界の被圧迫民族が解放され、植民地主義と帝国主義が終焉(しゅうえん)を迎えると信じていました。

そのために、今は東亜連盟を目指して日本と中国とが手を携えることが大切であり、両国が争うことなく互いに軍事力を養う時期だと石原は考えていたのです。

満州事変後の石原は東亜連盟論に傾倒していきました。しかもそれは、けして夢物語ではありませんでした。

実際に満州事変後の中国は、石原の構想した東亜連盟論に同調するかのように親日へと舵を切りました。にわかには信じがたいことですが、石原が構想した通りに事態は動き出していたのです。

その2.広田外相の演説から始まった日中の雪解け

満州事変から大東亜戦争までは一般に「十五年戦争」と呼ばれています。十五年で括られると、満州事変から日中戦争を含む大東亜戦争へと至る流れが淀みなく続いている印象を受けますが、事実は異なります。

満州事変の後、日中関係は好転し、一気に融和ムードが両国を包み込んだのです。広田外相が1935(昭和10)年1月22日の議会演説にて「不侵略」を表明したことが、その先駆けとなりました。同26日にも衆議院にて「自分の在任中に戦争は断じてない」と断言したことは、中国の南京政府にも大きな反響を呼んだのです。

日中戦争

wikipedia:広田弘毅 より引用
広田弘毅(ひろた こうき) 1878年(明治11)年 - 1948(昭和23)年
明治-昭和時代前期の外交官・政治家。駐ソ大使・外相を歴任、二・二六事件の直後に第32代内閣総理大臣に就任。日独防共協定に調印。第一次近衛内閣の外相となり、終戦直前にソ連の仲介による和平交渉にあたるも失敗。「エリート外務官僚であったが静観主義をとり、軍部に追随した」と評価されている。戦後、A級戦犯として南京虐殺事件の外交責任を問われ、文官中ただ一人絞首刑となる。

蒋介石は広田演説を絶賛し、2月1日には記者団に次のように語っています。

「広田外相の議会演説に吾人は誠意を認める。中国の過去に於ける反日感情と日本の対華優越態度を共に是正すれば隣邦親睦の途を進めることができる。吾が同胞も正々堂々、理智と道義に従ひ一時の衝動と反日行動を抑へ、信義を示したならば日本も必ず信義を以て応ずるものと信ずる」

大東亜戦争への道』中村粲著(展転社)より引用

日中戦争

wikipedia:蒋介石 より引用
蒋介石(しょう かいせき) 1887年 - 1975年

中華民国の政治家・軍人。日本留学後、孫文の革命運動に加わり、中国国民党の軍事指導者として頭角を現す。革命軍を養成して北伐を成功させた。その後、国民政府主席となり、反共政策を推進。あと一歩の状況まで中国共産党を追い詰めるも、抗日戦争では国共合作により共産党と協力した。戦後、国共内戦に敗れ、1949年台湾に退き、死ぬまで中華民国総統を務めた。

さらに蒋介石に次いで、国民党政府内のナンバー2と見られていた汪兆銘行政院長も南京にて日本との友愛を深めるべきと述べ、1924(大正13)年に神戸で行われた孫文の大アジア主義演説こそが、日中外交の根本であると説きました。蒋介石は即座に汪の演説に対して賛同と協力を約す電報を打っています。

日中戦争

wikipedia:汪兆銘 より引用
汪兆銘(おう ちょうめい) 1883年 - 1944年

中国の政治家。清末日本の法政大学に留学中、中国同盟会に加入。清朝要人の暗殺に失敗して死刑の宣告を受けたが、辛亥革命の成功により釈放。広東政府要人として孫文を助け、その死後は中国国民党左派の指導者として蒋介石と対立した。

まもなく共産党と絶縁し武漢政府主席となるが、蒋介石との蒋・汪合作政権をつくり、行政院長・党副総裁を歴任。日中戦争が始まると和平救国を唱えて、日本との提携を主張。重慶を脱出し、反共と対日和平を掲げて南京国民政府を樹立するも、事実上日本軍の傀儡政権で終わった。名古屋にて客死のあと遺体は南京郊外の梅花山に埋葬されたが、国民党によって終戦後、墓を破壊された。中国では「日本に寝返った最悪の裏切り者」と評価されているが、近年では汪を再評価する研究も発表されている。

孫文の大アジア主義演説は、とても有名な演説です。演説のなかで孫文は、武力を用いて人を圧迫する西洋文化を「覇道文化」、それとは対称的に徳をもって人を慕わせる東洋文化を「王道文化」と位置づけました。

日中戦争

wikipedia:孫文 より引用
孫文(そん ぶん) 1866年 - 1925年

中国の政治家・革命家。中国国民党の創設者・指導者。中華民国の創始者として「国父」と称される。初め医師となったが、救国の志を抱き革命運動に入る。東京で中国同盟会を結成し、民族・民権・民生の三民主義を掲げた。辛亥革命の際、臨時大総統に就任したが、まもなく袁世凱に譲る。清朝を打倒しただけで革命は失敗に終わった。袁世凱の独裁化に抗して第二革命を開始。国共合作を成し遂げ国民革命を志向したが、実現をみないうちに没した。「大アジア主義」を唱え、後世に多大な影響を与えた。

欧米の植民地となっているアジアの現状を嘆き、アジアの諸民族は団結して欧米からの独立を目指すべきと説き、その際には「王道」を貫くべきと主張しました。最後に「日本が将来、西洋覇道の犬(手先)となるのか、それとも東洋王道の牙城となるのか、それは日本国民が慎重に考えるべきだ」と結んでいます。

孫文が夢見たように、アジア諸国が団結するために日本と中国が手を携えて欧米列強に対抗しようとする思想は、日本でも開国以来連綿と受け継がれてきました。

それはまさに、欧米列強が「黄禍」として恐れてきたことです。アジアをアジア人の手に取り戻すことは、欧米から見れば反逆であり悪夢以外のなにものでもありません。

しかし、何百年もの間虐げられてきたアジアの人々から見れば、独立のための解放戦線です。日中の間にわだかまっていた暗雲が次第に取り払われ、「アジアはひとつ」のかけ声がたしかに強まっていました。

その3.対日親善の風

中国は単に対日親善の声明を出すに留まらず、排日の取り締まりを具体的に行動として表しました。全国の新聞通信社に排日言論の掲載禁止を命令し、排日・排日貨停止案が可決されました。

さらに排日世論を指導してきた中央党部宣伝部長が罷免され、各市教育長に対して政府の検定なき教科書の使用を禁ずる命令を発しています。排日に染まった教科書を改訂するためです。

これまでかたくなに排日運動を続けてきた中国が、180度方針を転換したことは間違いありません。

日本も中国からの歩み寄りに応え、中国にある日本公使館を日本大使館に昇格しています。中国はこれを大いに歓迎しました。なぜなら大使館は相手が一等国であると認めたときに置くものであり、当時の中国にはどの国も公使館しか置かず、大使館はひとつもなかったからです。

つまり、日本が中国に大使館を置くということは、中国に敬意を払ったことを意味します。汪兆銘は「これで両国は東亜の大道を手を取って歩けるのです」と喜びを表しています。

しかし、南京政府が対日親善を進めたからといって、中国人の寄せる対日憎悪がすぐに消えるはずもありません。北支では日本と満州に対して敵意を露わにする行動が続いていました。関東軍はこれを蒋介石の二重政策であるとして批判しています。

日中関係をさらに改善するために、広田外相は「広田三原則」を提唱しました。すなわち、排日取り締まり・満州国黙認・共同防共の三原則です。

「共同防共」とは、外モンゴル方面からの共産化勢力は日本・満州・中国にとっての共通の脅威のため、日本と中国が協力し合う、というものです。

ソ連の共産主義とソ連共産党の支援を受けている中国内の共産党勢力は、中国南京政府にとっても日本にとっても共通の敵です。もともと蒋介石が親日へと方針を転換したのは、中国内の共産党を壊滅させるためでした。日本と手を組み共産党をつぶすことができれば、南京政府が中国を統一できます。いつの時代も、敵の敵は味方なのです。

しかし、「広田三原則」を巡っては日中間で利害が対立する問題も多く、なかなか交渉は捗りませんでした。その最中、交渉に当たっていた汪兆銘が左翼の凶弾を受けて重傷を負う事件が起きたことで中国側の担当が入れ替わり、交渉はさらに滞ることになったのです。

その4.遠ざかる東亜連盟の夢

交渉を阻む大きな理由がもう一つあります。それは、華北自治運動の高まりでした。華北に住む人々が満州国に刺激されて中国から独立を計った動きですが、その背景には日本陸軍による華北分離工作がありました。

来たるべきソ連の侵略に備え背後を固めるために華北に自治政府を作らせ、日本と同盟させることを陸軍は画策したのです。このような動きを中国が「日本は満州事変の焼き直しをする気だ」と警戒感を募らせたのは当然のことといえるでしょう。

塘沽協定の停戦ラインでは 1934(昭和9)年冬から1935(昭和10)年1月にかけて、中国軍と日本軍の小規模な衝突がたびたび発生しました。日本軍は華北から抗日勢力を一掃する必要があると考え、軍事力を背景に国民政府と2つの協定を結んでいます。

梅津・何応欽(かおうきん)協定では河北省から国民党勢力と中国軍を撤退させ、土肥原・秦徳純協定では察哈爾(チャハル)省からも国民党勢力と第29軍を撤退させています。これらは関東軍の独断により決行され、政府をあわてさせました。

日中戦争

wikipedia:梅津美治郎 より引用
梅津美治郎(うめづ よしじろう) 1882(明治15)年 - 1949(昭和24)年

明治-昭和時代前期の軍人。最終階級は陸軍大将。支那駐屯軍司令官のとき梅津・何応欽協定を結ぶ。二・二六事件以降陸軍を掌握し、陸軍次官として粛軍人事と軍部の政治介入をすすめる。第1軍司令官・関東軍総司令官などを経て、陸軍最後の参謀総長に就任。硫黄島陥落後も戦争継続を主張、ポツダム宣言受諾をめぐる御前会議でも本土決戦を支持した。東京湾上のミズーリ号で大本営を代表して降伏文書に調印。A級戦犯として終身禁錮を宣告され、獄中病死。

日中戦争

wikipedia:何応欽 より引用
何応欽(か おうきん) 1890年 - 1987年

中国・台湾の軍人・政治家。日本陸軍士官学校 11期卒業。留学中に中国革命同盟会に加入し辛亥革命・第二革命に参加。東路軍総指揮・国民政府委員・国民革命軍総司令部参謀総長・国民党中央執行委員などを歴任。蒋介石の側近として対共産党戦を指揮した。梅津=何応欽協定を締結。日中戦争中は軍政部長・参謀総長の要職につき反共工作を指導。国防部長・行政院院長となったが共産軍による上海陥落で辞任。革命後は台湾へ渡る。日本政府から勲一等旭日大綬章を受章。

日中戦争

wikipedia:土肥原賢二 より引用
土肥原賢二(どいはら けんじ) 1883(明治16)年 - 1948(昭和23)年

明治-昭和時代前期の軍人。最終階級は陸軍大将。中国通の専門家として知られ、満州事変勃発当時は特務機関長として清朝廃帝の溥儀の天津脱出、満州移送をはじめ、各種の対中国謀略活動にあたる。日中戦争時には土肥原機関を設立、冀東(きとう)防共自治委員会(のち政府)を発足させた。土肥原-秦徳純協定に調印。第5軍司令官・陸軍士官学校校長・航空総監などを経て教育総監となる。終戦後は極東国際軍事裁判でA級戦犯として絞首刑。

日中戦争

wikipedia:秦徳純 より引用
秦徳純(しん とくじゅん) 1893年 - 1963年

中華民国の軍人。直隷派に帰属し、河南省一帯で陸軍第24師師長として国民軍や中国国民党の北伐軍と戦った。北伐軍の馮玉祥に降伏して帰順。国民軍副総参謀長・第2方面軍参謀長などを歴任。反蒋介石戦争敗北後は張学良に降伏。張が下野すると、蒋の腹心である何応欽らが主管する軍事委員会北平分会の委員に任命される。中国側代表として、日本側代表の土肥原賢二と交渉。土肥原・秦徳純協定を締結した。

このことは中国の人々から見れば、自国内に日本軍がどんどん侵入してくるようにしか映りません。蒋介石が排日の動きを禁じたところで、中国のなかでは日本に対する危機感が日増しに高まっていきました。

1935(昭和10)年11月には塘沽協定による非武装地域を管轄するために冀東(きとう)防共自治委員会が樹立されています。これが後に冀東防共自治政府になります。日本の傀儡政権です。これに対して国民政府は、12月に河北省・察哈爾省を管轄する冀察(きさつ)政務委員会(北京政権)を設置しました。

日中戦争

大日本帝国の轍 取材日記 より引用
察哈爾省・冀東防共自治委員会(政府)・冀察政務委員会の地図

 
ちなみに「冀」は河北省を意味し、非戦区域はその東部に位置しました。そのため「冀東」と呼ばれたのです。

華北分離工作を推し進めたい軍部と、これをやめさせて中国との協調を図りたい日本政府と、満州事変に次いで軍と政府の思惑が噛み合わない事態が、ここでも起きていました。

当時の日本の外交は政府と軍部が別々に行っており、国家としてのまとまった戦略がないも同然でした。

そこへ、満州事変に引き続いて石原莞爾が登場します。ただし、政府に逆らって暴走する側ではありません。面白いのは石原が、今回は関東軍の暴走を止める役割を担ったことです。

満州事変を成功に導いた石原は内地に呼び戻され、1935(昭和10)年8月に参謀本部第一作戦課長に昇進しています。

関東軍の暴走を止めるべく石原は再び満州の土を踏み、長春に乗り込みました。この頃、関東軍は華北分離工作と並行して内蒙工作を進めていました。

内蒙工作とは、蒙古王族徳王を援助して、内蒙古を国民政府から独立させることを意図したものです。かねてから徳王は、内蒙自治運動を起こして国民政府と対立していました。関東軍はその動きを利用して、内蒙古を日本の勢力圏下におこうとしたのです。

日中戦争

wikipedia:徳王 より引用
徳王(とくおう) 1902 - 1966

内モンゴルの政治家。王公の家庭に生まれ、内モンゴルの自治権獲得運動に尽力した。満州事変後、日本軍部と接近し内モンゴルの高度自治獲得を画策するも失敗。日本軍の援助を受け、蒙古連合自治政府を樹立して主席に就任した。終戦後は重慶で蒋介石と和解し、反共運動に従事。中華人民共和国成立後に逮捕され、服役。特赦された後に内モンゴル人民委員会参事に就任。

石原は謀略工作の責任者である武藤章大佐に面会し、内蒙工作の中止を要請しました。

それに対し武藤は、こう応えています。

「本気でそう申されるとは驚きました。私はあなたが満州事変で大活躍されました時分、参謀本部作戦課に勤務し、よくあなたの行動を見ており、大いに感心したものです。そのあなたのされた行動を見習い、そのとおりを内蒙で実行しているつもりです」

日中戦争

wikipedia:武藤章 より引用
武藤章(むとう あきら) 1892(明治25)年 - 1948(昭和23)年

大正-昭和時代前期の軍人。最終階級は陸軍中将。盧溝橋事件では参謀本部作戦課長として拡大論を主張し、不拡大派の石原莞爾を中央から追った。中支方面軍参謀副長になり南京攻略を指導。軍務局長となり東條英機の腹心として活動。対米開戦の回避に尽くした。開戦後は戦争の早期終結を主張し、東條らと対立。太平洋戦争中はスマトラ・フィリピンで指揮をとる。終戦後、A級戦犯として死刑。

これには石原もさすがに返す言葉がなく、帰国せざるを得なかったと伝えられています。

満州事変で石原がとった行動は、軍法会議に照らせば本来は死刑です。ところが石原は罰せられるどころか、出世を果たしています。上からの命令に背いても、結果が良ければ不問に付すという悪しき前例を作ってしまったのは石原自身です。もはや軍部の暴走を止めることは、誰にもできなくなっていたのです。

石原の願いも空しく、1936(昭和11)年11月、関東軍の援助を受けた内蒙古軍はついに行動を開始しました。その結果は大敗でした。敗戦のなか、内蒙古軍の一部が反乱を起こし、軍事顧問として入っていた関東軍の将校たちは射殺されています。

内蒙古軍が真に独立を目指して軍を興したことはたしかですが、関東軍が兵こそ出しはしなかったものの支援していたことも間違いなく、このことは中国側の親日路線を大きく転換させることになりました。

内蒙古工作は、せっかく芽生えつつあった日中の融和ムードに再びくさびを打ち込むことになったのです。

日中戦争

ウィキペディア より引用
内モンゴルの地図:中国による民族浄化にさらされながらも、内モンゴル独立運動は今日も続けられている

 
ただし、内蒙古工作にも光と陰が存在します。内蒙古工作で誕生した蒙古聯合(れんごう)自治政府(1941年に満州国・蒙古自治邦政府に改称)は、1945年8月9日のソ連軍による満州侵略によって崩壊しましたが、今日に至るも中国に対する内モンゴル独立運動として、その独立の理念は継承されています。

また、ソ連の内蒙古侵攻に対しては日本の根本博中将揮下の駐蒙軍が、約4万の在留邦人が引き揚げるまで張家口でソ連軍の進撃を食い止めたことは、満州に残された開拓団の悲劇とは対照的であり評価されるべきでしょう。

日中戦争

wikipedia:根本博 より引用
根本博(ねもと ひろし) 1891(明治24)年 - 1966(昭和41)年

大正-昭和時代前期の軍人。最終階級は陸軍中将。陸軍省・参謀本部で中国関係の業務に従事。終戦時に内モンゴルに駐屯していた駐蒙軍司令官として、終戦後もなお侵攻を止めないソビエト軍の攻撃から、蒙古聯合自治政府内の張家口付近に滞在していた在留邦人4万人を救った。その際、ソ連への抗戦は日本が降伏しているため罪に問われる可能性があったが「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅すべし。

これに対する責任は一切司令官が負う」と守備隊に命令を下しソ連軍と八路軍から居留民4万人を乗せた列車と線路を守り抜いた。引き揚げ時は北支那方面軍司令官として在留日本人の内地帰還と北支那方面の35万将兵の復員を終わらせ、最後の船にて帰国。引き揚げ時に蒋介石が便宜を図ってくれた恩に報いるため、復員後の1949年に中華民国の統治下にあった台湾へ密航。金門島における戦いを指揮し、中共政府の中国人民解放軍を撃破。

中共政府は台湾奪取による統一を断念せざるを得なくなり、今日に至る台湾の存立を決定的とした。根元らが台湾の独立を守ったことは長い間極秘とされていたが、近年は歴史が掘り起こされ、評価されつつある。(参考文献:門田隆将著『この命、義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』角川書店)

その5.最新資料から読み解く日中関係

前節まで書き記したように、陸軍の暴走による華北分離工作こそが日中関係を損なったとの見方が、これまでの通説でした。ところが最近になって様々な資料が掘り起こされたことで、異なる真実が見えてきています。

日本は戦前、情報戦において連合軍に大きく遅れをとったとされています。当時の日本の情報は「すべて連合軍側に読まれていた」ともいわれるほどです。
情報収集能力は、暗号の解読能力に比例します。これまで日本の暗号解読能力は、欧米に比べて格段と低いと見られていました。

その理由は戦後、「暗号解読に携わった者は極刑に処される」との噂が流れたため、証拠となる書類はすべて破棄され、関係者は誰一人口をつぐんでしまったためです。そのためアメリカが調査しても、何も出てきませんでした。アメリカの報告書は「日本の暗号解読能力は高くない」と結論づけるよりなく、それが定説となりました。

ところが、2000年頃から日本の暗号解読についての新たな資料が見つかったことから調査が進み、今日では日本の暗号解読や通信傍受の能力がかなり高かったことがわかってきています。

ことに、当時世界でもっとも高い暗号解読能力をもっていたイギリスでさえ解けなかったアメリカの複雑な暗号を、日本陸軍が解いていたことは衝撃的でした。日本陸軍の暗号解読能力は、世界トップレベルだったのです。

中国に関しては軍事暗号までほとんど解読しており、陸軍はその情報収集によって華北分離工作を進めたことがわかってきています。

たとえば、こんな例がある。一九三三年、蒋介石率いる国民政府は日本との停戦に応じ、妥協姿勢に転換していた。しかし軍は、これをまったく信用していなかった。現地陸軍は国民政府内部の様子を継続的に情報収集、国民政府ナンバー2の極秘発言をつかんでいた。

「わが政府は東北部(満州)を放棄するつもりはなく、偽国家(満州国)の存在も黙認しない。強盗が室内に闖入(ちんにゅう)し、この家の住人が力及ぼず屋外に追われたからといって、家が強盗のものにはならないのと同じことである」

軍はこうした情報をもとに国民政府の妥協姿勢を「偽装」と決めつけて、一方的な敵視を強めていった。

日本人はなぜ戦争に向かったのか 上巻』NHK取材班編集(NHK出版)より引用

陸軍による華北分離工作は、蒋介石の進める親日路線が見せかけに過ぎないとの判断に基づいて行われていたのです。

問題は当時の日本は外務省・陸軍・海軍が別々に情報収集を行っており、その情報が縦割り行政のために共有されていなかったことです。

陸軍や海軍の情報収集能力の方が外務省を上回っていました。しかし、極秘情報の数々は首相や外務大臣に届くことはなく、国家の戦略には反映されませんでした。

陸軍は当時、外務省が思うほどには蒋介石が親日にふれていないことを見抜いていたため、外務省の意に反する独自の外交を推し進めました。

そのことが、中国側の不信感をより募らせる結果を招きました。

日本政府は広田三原則を発展させた防共協定を中国との間で結ぼうと交渉を続けていましたが、蒋介石は陸軍と政府の外交がちぐなぐなことに不信感を強めていたことが、中国側の資料から明らかになっています。

蒋介石は親日派の汪兆銘による日本との交渉に期待を寄せていた一方、保険をかけるためにソ連への接近を密かに行っていたのです。ソ連側に残る資料によると、1935(昭和10)年の暮れまでには、蒋介石は日本との交渉をあきらめ、ソ連との提携に乗り出していたことがわかっています。

こうした最新の資料を突き合わせてみると、関東軍による内蒙工作の時点では、すでに蒋介石は日本を見限り、ソ連と提携する腹を決めていたのかもしれません。

蒋介石は一時は「満州のことは問わない」と述べるほどに、日本に対して譲歩していました。蒋介石の欲していたものは、日中の経済提携です。しかし、外務省は公使館を大使館に格上げする程度しか有効な手を打てず、外交をリードすることができませんでした。

政府の意向を無視して独自の判断に基づいて華北分離工作を推し進めた関東軍に問題はあるものの、中国がもっとも日本に歩み寄った時期に距離を詰めることができなかった外務省の無策ぶりにも、大きな問題があったといえるでしょう。

外務省と陸軍という日本の矛盾した二重外交による失敗こそが日中の信頼関係を損ない、日中戦争を呼び寄せたのです。

その6.華北分離工作の中止

二重外交の争点となったのは、華北分離工作をめぐる争いです。華北分離工作は日中戦争が起こる起点となりました。陸軍のなかでも推進派と反対派が激しく争っています。

関東軍が華北分離工作に執着したのは、まもなくヨーロッパで起こると予想される世界大戦に日本も巻き込まれるに違いないと判断していたためです。そうなると総力戦を戦い抜くためには、華北にある河北省の鉄鉱や山西省の石炭などを是非とも手に入れる必要があると考えたのです。

対して石原は次期大戦が起きたとしても、第一次大戦のときと同じように日本はできるだけ関わることなく、アジアに留まって国力を養うべきと考えていました。そうであれば、華北の資源を今すぐに確保する必要はありません。中国と同盟を組むことさえできれば、中国内の資源を利用できる途が自然に開けます。

こうして華北分離工作をめぐり、推進派の武藤と反対派の石原は激しく対立しました。競り勝ったのは政府を味方に付けた石原でした。

石原は日中間の対立を取り除くことこそが今なすべきことであり、南京政府による中国統一を援助すべきと唱えました。

石原の意見を受け、同年4月に行われた林銑十郎内閣の四相会議(陸相・海相・外相・蔵相)にて、華北分離工作の中止が正式決定され、今後は日中間の国交の調整を図ることが確認されたのです。

日中戦争

wikipedia:林銑十郎 より引用
林銑十郎(はやし せんじゅうろう) 1876(明治9年) - 1943(昭和18年)

明治-昭和時代前期の軍人・政治家。第33代内閣総理大臣。最終階級は陸軍大将。豪快なカイゼル髭で知られる。陸大校長・近衛師団長などを歴任。満州事変に際し朝鮮軍司令官として独断出兵し「越境将軍」と呼ばれた。斎藤実内閣の陸相に就任して統制派の立場に立った軍政を推し進め、皇道派の真崎甚三郎を更迭。広田弘毅内閣の総辞職後、宇垣一成の組閣流産のあとを受けて首相に推され組閣。

予算成立直後に突然抜打ち解散を断行(食い逃げ解散)。政党に打撃を与え一挙に親軍与党の拡大を狙うも選挙で大敗し、わずか4ヵ月の短命内閣に終った。そのため「何にもせんじゅうろう内閣」と皮肉られた。

華北分離工作を中止に追い込まれた武藤らが不満を募らせたことは、言うまでもありません。このとき生まれた陸軍内の対立軸は、この直後に起きた盧溝橋事件をめぐる事変拡大派・不拡大派の対立として再燃することになります。

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