「日本とフィリピンの大東亜戦争」目次と序文はこちら

第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

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第1部 3章 泥沼の日中戦争(4/10)参謀本部は和平を望み、政府は戦争継続を望んだ

5.泥沼の日中戦争へ

5-8.長沙が陥落したら…出口の見えない戦争

その1.日本は中国を侵略したのか?

日中戦争
http://asiareaction.com/blog-entry-3122.html より引用
河南省の通りを行進する日本軍 - 1937(昭和12)年

近衛首相による「国民政府を対手(あいて)とせず」声明は、昭和史最大の愚行と言われています。「対手(あいて)とせず」とはどういう意味なのかと、当時でも波紋を広げました。そこで2日後に政府は、「対手(あいて)とせず」とは国民政府を否認するに留まらず、国民政府を抹殺しようという意味だと説明しています。

これではまるで、日本が中国を侵略したように欧米諸国にわざと見せつけたいのかと勘ぐってしまうほどの強弁です。

日中戦争の経過をここまで追いかけてきてわかるように、日本が中国を侵略することを目的として戦争になったわけではありません。陸軍が推し進めた華北分離工作が中国側から見て侵略同然に見えたことはたしかですが、満州から出ようとしなかった日本軍を何度も何度も挑発していたのは中国軍であることも、またたしかです。

日中のすれ違いから互いに憎悪が高まり、盧溝橋事件へと至りました。戦線の拡大をなんとか食い止めようとした日本に対し、これまた挑発によって北支事変へと招き入れたのは中国です。

さらに華北から上海(華中)・華南へと戦線を拡大するように仕向けたのも中国です。そのため、日中全面戦争という最悪の事態に発展してしまいました。

つまり、日中戦争は日本による一方的な中国侵略とは断言できない面もあるのです。ところが南京を陥落させて以降の近衛首相による強気な外交姿勢は、あたかも日本が中国を侵略しているかのような印象を欧米に与えるに十分なものでした。そのことが日本にとって好ましくない結果を招くことは、予め予測できそうなものなのですが……。

その2.国家総動員法の制定

近衛声明によって日中戦争の長期化を避けられなくなったことを受けて、1938(昭和13)年4月1日より国家総動員法が公布されました。

日中戦争
ウィキペディア より引用
戦時中のポスター

日中戦争による兵力動員は、すでに工業生産力を超えていました。労働者不足に苦しむ軍需産業を支えるためには、国民を工場に徴用するよりありませんでした。

この法律によって、物資・生産・商業取引・金融・物価・労働、さらには言論・表現などありとあらゆる分野にわたって国会の承認なしに、国家が勅令を制定することで統制、管理できるようになったのです。

国家総動員法は大東亜戦争が終わるまで、国民の生活を大きく縛りました。そのため、日本の軍国主義体制を生んだ悪法として、戦後は叩かれることになりました。

国家総動員法によって言論が弾圧されたことはたしかです。そのような法律がないほうがよいことも、当たり前のことです。

しかし、国家総動員法は戦時中という非常事態に際して、あくまで一時的に適用された法律に過ぎないことを忘れるべきではないでしょう。

そのことは近衛首相も公布の際に語っています。
「この法律はファッショ・イデオロギーによるものではなく、平時でも適用されるナチスの授権法と違って、戦時にだけ適用される」

第一次世界大戦より戦争は、国家総力戦の時代を迎えていました。ことに資源や資金の貧弱な日本は、国家の総力を挙げて戦争にすべてを振り向ける必要がありました。人も物もすべてを動員しなければ、戦争を継続できません。

その実施を勅令によったことには問題がありますが、国家総力戦を戦い抜くために統制経済へと移行したことは、日本だけではなく欧米諸国にしてもなんら変わりません。統制経済のもとで言論が制限されることは、欧米でも行われていました。

どんな民主主義国家であっても第二次大戦中はある程度、中央集権のもとで経済を統制し、機密保護の体制をとっています。第二次世界大戦は、国家総力戦体制を敷くことなく乗り切れるような規模の小さな戦争ではなかったのです。

日中戦争
ウィキペディア より引用
アメリカでも戦時体制が敷かれていた。軍需工場に動員された女性。

それにもかかわらず、日本の国家総動員法のみを槍玉に挙げるのは、公平性に欠けると言えるでしょう。

国家総動員法が制定された議会にて国家予算は35億円となり、臨時軍事費の追加予算として、国家予算額一年分を上まわる48億円(現在の約10兆円)が承認されました。その財政負担は公債の発行と増税によって賄われ、国民の生活を次第に圧迫することになります。

その3.徐州は陥落すれど、出口は見えず

日中戦争
図説 日中戦争』森山康平著(河出書房新社) より引用
徐州を目指し進軍する日本陸軍

「国民政府を対手とせず」と大見得を切ったものの、日本軍が即座に戦線を拡大したわけではありません。2月16日の御前会議においてはソ連の動きを警戒し、戦線不拡大方針を決定するとともに、兵力削減と召集兵の帰還を開始しています。

一方、南京を占領した現地軍は、華中北部の要衝である徐州付近の中国軍を討つべきだと何度も訴えましたが、参謀本部は不拡大の方針を固めており、これを認めませんでした。

しかし、不拡大を唱えていた河辺作戦課長が3月に更迭され、後任に拡大派の稲田正純が就くことになり、方針が180度変わることになりました。陸軍省・参謀本部ともに実務の中枢を拡大派が占めたことにより、陸軍内の意思がはじめて統一されたのです。

日中戦争
wikipedia:河辺虎四郎 より引用
河辺虎四郎(かわべ とらしろう)1890(明治23)年 - 1960(昭和35)年
大正-昭和期の軍人。最終階級は陸軍中将。参謀本部作戦課員となり、満州事変では関東軍の独走と対立。関東軍参謀を経て参謀本部戦争指導課長となり、日中戦争開始に際しては不拡大を主張した。参謀本部を追われドイツ大使館付武官・第2飛行師団長・第2航空軍司令官を経て帝国陸軍最後の参謀次長となる。

降伏条件受け入れの際は大本営代表としてマニラに赴きマッカーサーの命令を受けた。戦後はGHQ軍事情報部歴史課に特務機関「河辺機関」を結成した。河辺機関はその後、内閣調査室のシンクタンクである「世界政経調査会」となり、内閣調査室(日本の情報機関)に多大な影響を与えた。

日中戦争
wikipedia:稲田正純 より引用
稲田正純(いなだ まさずみ)1896(明治29)年 - 1986(昭和61)年
大正-昭和時代の軍人。最終階級は陸軍中将。フランス陸軍大学に留学後、参謀本部作戦課長となり、日中戦争の拡大を成し遂げた。ノモンハン事件の処理に当たる。大東亜戦争勃発時は第5軍参謀副長。その後南方を転戦、インパール作戦実施に強硬に反対し更迭された。

第六飛行師団長心得としてニューギニア島のホーランディアに駐屯していた際、米軍の奇襲上陸を受け、大部分の部下を見捨てて後方に脱出したことで停職二か月の処分に付された。敗戦時は本土決戦の主戦場に予定された九州地区の第16方面軍参謀長。九大における捕虜の生体解剖事件と敗戦時の米軍機乗員の捕虜殺害事件の責任を問われ、B級戦犯として巣鴨拘置所に収容、のちに釈放。

稲田作戦課長のもと、徐州作戦が承認されました。華北と華中の占領地域をつなげ、徐州付近の中国軍を南北から挟撃して壊滅させることを目的とした作戦です。

その頃、世界情勢にも大きな変化が現れていました。ナチス・ドイツがオーストリアを併合し、ヨーロッパに激震が走りました。第二次世界大戦へ向けて、時が刻み始めたのです。

4月上旬、大本営によって徐州作戦が発動され、日本陸軍は5月19日には徐州を占領しました。しかし、中国軍の主力を殲滅(せんめつ)することで戦争終結の機会をつかもうとした日本の思惑は外れました。

日中戦争
ウィキペディア より引用
徐州作戦(隴海線方面)の戦闘経過と黄河氾濫地域(決壊による死者数含む)

中国軍は決戦を避け、早々に退却したためです。中国軍は兵力でどれだけ日本軍を圧倒していようとも、決戦することなく、広大な中国内部へと日本軍を誘い込みました。占領地が増えても、その占領地を守るためには兵力を割くよりなく、日本の防衛拠点は伸びる一方です。それでも中国軍を壊滅することができないため、戦いは永久に続くかのように思えました。

参謀本部の高嶋戦争指導班長は、日記に次のように記しています。
「五月二〇日(金)晴……戦況、徐州陥落。市内は旭旗を掲ぐ。しかしわれらの前途感は悲観的の一語に尽く。」

徐州を占領しても、泥沼化する日中戦争の出口はまったく見えなかったのです。

その4.黄河決壊事件の悲劇

日本軍は一部を徐州から西進して河南省に進めようとしました。そのとき起きたのが、黄河の堤防決壊です。

日本軍の侵攻を阻むために、蒋介石は6月7日に黄河河南省の堤防を爆破、さらに9日には鄭州(ていしゅう)にある堤防を爆破しました。

折からの雨期に増水していた大黄河の濁流は奔流となって氾濫(はんらん)し、河南の大沃野(だいよくや)は一瞬にして濁水(だくすい)のなかに沈みました。

これにより11の都市と4千の村が水没し、水死者は89万人(100万人説もあり)に達しています。中国における人民の命が軽いのは、当時も変わりがないようです。堤防の決壊は3省の農作物と農地を破壊しました。

このため、1942(昭和17)年に河南省は旱魃(かんばつ)による大飢饉に襲われ、300万人の死者が出ています。その惨状を見たアメリカ人記者は「道ばたには凍死者と餓死者があふれ、飢えた人々は屍肉(しにく)を食べていた」と記しています。

中国国民党は黄河決壊事件は、日本軍の空爆によるものだと発表し、「日本軍の暴挙」として非難しました。これも南京事件に次ぐ、中国が仕掛けた明らかなプロバガンダです。

堤防の影に避難している中国軍を日本軍が砲撃および爆撃した際に堤防が爆破されたと中国側は説明しましたが、後に日本軍によって意図的に爆破されたと見解を改めました。また中国は、洪水の被害を受けた地区から避難している民衆を日本軍が機関銃で銃撃していると訴え、日本軍による攻撃が救助活動を妨害していると非難しています。

では、実際はどうであったのかといえば、真実はまったく逆でした。日本軍は筏船百数十艘を出して住民とともにすぐに救助活動を行っています。被害を食い止めるために氾濫した水を別の地域に誘導するべく、堤防と河道を築く作業も行いました。

日中戦争
ウィキペディア より引用
日本軍に救出された避難民【『支那事変画報』33号、「皇軍の慈愛/宣撫班員の活動」より(毎日新聞社、昭和13年7月11日発行)】

対して中国軍は、救助活動に駆けつけた日本軍を攻撃しました。そのなかでも日本軍は必死に救助活動を続け、氾濫した地区に航空機から麻袋をパラシュートにより投下し、住民とともに土嚢(どのう)を積み上げる防水作業を行っています。その際も中国軍遊撃隊は防水作業中の日本軍と住民に対し、無差別に射撃を行いました。

中国側のプロバガンダは、こうした事実を真逆に報道するものでした。しかし、海外のメディアは冷静に対処し、黄河決壊事件は中国軍による自作自演であると、事実を報じています。

後に蒋介石は自伝にて、黄河を決壊させたのは「まさに断腸の思い」ではあったものの、日本軍の侵攻を食い止めるためには必要な策だったと述べています。

蒋介石が行った黄河決壊事件の場所

日中戦争
https://hinode.8718.jp/yellow_river_incident.html より引用
洪水の被害面積は、日本の九州と四国を合わせた面積に匹敵すると言われている。

蒋介石は黄河決壊により日本軍に直接ダメージを与えようと謀ったとされていますが、洪水に巻き込まれて死亡した兵士は数えるほどに過ぎず、中国人を救助しようとした際に中国軍に射撃されたことで死者が出た程度です。

たしかに黄河決壊により、日本軍は一時だけ足止めされました。しかし、進路を変更することで10月26日には武昌・漢口・漢陽の武漢三鎮を占領しています。わずか数ヶ月の足止めのために数十万にのぼる中国人農民が犠牲になったことは、悲劇としか言いようがありません。

黄河決壊事件は、日本の教科書にはほとんど載っていません。南京事件ばかりが強調されるなか、日本軍が命をかけて中国人を洪水から救ったことは、ほとんど忘れ去られています。

日本軍を足止めするために、その後も蒋介石による堤防の決壊は繰り返されました。6月23日には揚子江両岸の馬華堤が爆破され、9月23日にも武穴鎮の下流において揚子江が決壊しています。当時の工兵参謀の告白によると、決壊作戦は失敗を含めて12回行われていたことが『抗戦江河堀口秘史』で明らかにされています。その度に中国人農民の多くの命が、濁流のなかに消えていったのです。

決壊とは異なりますが、中国軍が日本軍の進撃を阻むために多くの中国人の命を奪った例として、「長沙焚城(ふんじょう)」があります。

日中戦争
https://read01.com/gQM4Qd.html#.W7goCGgzb8A より引用
長沙は広島・長崎・スターリングラードと共に、第二次世界大戦の4つの最も深刻な被害を受けた都市の1つに挙げられている。

「長沙が陥落したら全城を焼き払え」との蒋介石の命令に従い、1938(昭和13)年11月12日に湖南省の長沙城が放火された事件です。これにより死者数20万人を数えたとされています。長沙に残されていた紀元前にまで遡る歴史的な文物も、そのほとんどが失われました。

日本軍に物資を渡さないための焦土作戦は、中国全土にわたって展開されました。その度に多くの中国人の命と財産が失われたのです。

少なくとも国民党政府に殺された中国人の数は、日中戦争で日本軍の犠牲になった数をはるかに上回ります。

その5.中国軍はなぜ弱かったのか

- 死傷者数の差はなにが原因なのか ー

日中戦争
https://nihonmasamasa.militaryblog.jp/e189370.html より引用
国民党軍より鹵獲(ろかく)した軽機関銃を持って行進する陸軍兵士たち

日本軍から無事に逃げ切るために黄河や揚子江の堤防を決壊させるなど、日中戦争を通じて中国軍の弱さは際立っています。

数十万の日本兵に対して、中国軍は数百万の兵力を誇っていました。その兵力はおよそ10倍です。ところが、日本軍と中国軍がまともにぶつかり合うと、そのほとんどで日本軍が圧勝を収めています。

日本軍がもっとも苦戦したのは1937(昭和12)年8月の上海での戦闘でした。上海戦に投入された中国軍はドイツ製の最新式武器と装備を誇り、日本軍と比べてもけして劣りません。ドイツから派遣された軍人の指導の下で鍛えられた精鋭軍であったことに加え、トーチカによって砦を築くなど、地の利も十分に有していました。

そのため、日本軍は上海戦だけで4万人前後の死傷者を出しています。しかし、実は中国軍の被害はもっと大きく、死傷者は30万人を超えたとされています。

日中戦争を通じて各戦闘ごとの中国軍の死傷率は、日本軍の十倍前後に達しています。死傷率の差こそが、日本軍の快進撃を支えた最大の理由です。

では、なぜ死傷者の数において両軍の間に、これほどまでの大きな差が生じたのでしょうか?

その原因は、兵士の士気と教育・訓練の差にあったと言われています。中国兵の大半を占めたのは農民です。中国人の農民たちはそもそも、なぜ日本軍と戦っているのか、その理由さえわかっていませんでした。

訳がわからないままにいきなり戦場に連れてこられ、身を守る術などなにひとつ教わらないままに銃をもたされ、最前線へと投入されたのです。

元を正せば徴兵の仕組みからして、理不尽なものでした。

- 中国の徴兵の実態 ー

国民を総動員して戦うのが近代における戦争です。ところが日中戦争当時の中国には、そのような体制自体が存在していませんでした。

中国の徴兵制は極めて不公平に行われていました。中国では都市部に暮らす市民と農村部に暮らす農民との間に、大きな差別があったのです。

国民政府は市民には寛大でした。政府機関の職員や教師、大学生や工場の労働者は、兵役を免除されました。さらに富裕層は金を出すことで兵役を免除されました。

結局のところ出征して戦ったのは、貧しい農民たちばかりです。徴兵の実態については、アメリカ人のグラハム・ペックが『アメリカ人の見た旧中国』のなかで具体的に語っています。

「中国には徴兵制度があるが、徴兵の方法は簡単で無情である。中国の徴兵には、整理番号も体格検査も、法律に基づいた徴兵免除も無い。重慶政府(重慶に首都を移した国民政府)が何人の兵士を必要とするかを決定すると、直ちに各省に供出人数が指令される。これを受けて各省は、各県と各郷に対して供出人数を指令する。こうして徴兵が開始される。ある地域では、まだ比較的公平である。

しかし全体から言えば、徴兵工作の腐敗汚職は筆舌に尽くしがたい。金持ちは、絶対に戦争に参加する必要はない。各地の官吏が公開の価格を作って、徴兵免除証明を金持ちに売るのである。金を集められれば、農民でも賄賂を使って兵役を逃れることができる。

 かくして最終的に徴兵されるのは、極貧で家を離れられない人間ということになる。もしある地区の徴兵人数が必要数に満たないと、通行人を拉致(らち)するか、人買い組織から壮丁を買い入れて充足する。徴兵の過程で、ある者は殺され、ある者は傷を負わされ、多くが部隊の駐屯地にたどり着くまでに餓死してしまう。……

 路上や徴兵の過程で死んだり、野蛮な新兵訓練処や長い行進の途中で死んだりする人間の数が、軍隊に入る人間の数より多いのである」

日中戦争の「不都合な真実」戦争を望んだ中国 望まなかった日本』北村稔・林思雲著(PHP研究所)より引用

腐敗や汚職によって徴兵制がまともに機能していないため、強制的に拉致されて無理やり徴兵された農民が多くいたことは、さまざまな資料が物語っています。

- 徴兵がもたらした悲劇 ー

日中戦争
http://footage.framepool.com/ja/shot/ より引用
万里の長城を進む中国軍。多くの兵士は無理やり戦場に連行されて来た農民だった。

強制的に徴兵された農民たちは、隙を見ては逃げようとしました。そのため、徴兵した農民たちを戦場に送り届ける側にしても必死です。軍管区で官職に就いていた張登上は『国民党兵役視察目撃記』のなかで次のように綴っています。

「壮丁を送る部隊というのは、犯人を護送する軍警(武装警察)のようなものであった。壮丁の大多数は、脅迫されたり、陥れられたり、騙(だま)されたりした者たちである。彼らは護送の途中では常に一本の太い縄で数珠つなぎにされており、兵士たちは着剣した銃に弾を込め、大敵を前にしたように隊列の前後左右を固め、虎視眈々(こしたんたん)と護送したのである」

まるで囚人のように戦場に運ばれた農民たちが数多くいました。食糧も水も満足に与えられなかったため、農民たちの多くは戦場に送られる前に死んでいったと記録されています。

クリストファー・ソーン著『普及版 太平洋戦争とは何だったのか』(草思社)では、次のように記述されています。

「国民政府軍の徴集兵の多くは、戦時下の中国の都市で逃亡を防ぐためにしばしば数珠つなぎにされ、指定の部隊に到着する前に死んでしまった。他の者も、その多くが初歩的な医療さえ受けられず、食糧も悪徳上官に奪われ、放置されたまま死んでいった」

「1943年には徴集兵の44パーセントが、指定の部隊に到着する前に死ぬか逃亡した。そして戦争中、原因不明の失踪者は800万人を超えた」

中国赤十字の会長であった夢麟は各地の負傷兵を視察した際、拉致された若者たちの悲惨な境遇を目の当たりにして憤りを感じ、蒋介石に視察報告を送りつけています。

その報告書には、ほとんどの若者が日本軍と戦う前線に到着する前に、運ばれる途中で死んでいることが赤裸々に綴られていました。

こんなエピソードが残っています。貴陽にあった壮丁収容所にて夢麟は、広東の曲江から来たという若者から「曲江から出発した当初は700人の仲間がいたのに、今では17人しか残っていない」と聞かされました。

逃亡兵がいるのかと思い問いただした夢麟に対し、若者は答えています。

「誰も逃げてはいない。逃げたってどこにも生き場所なんてない。途中はどこもかしこも荒れ果てており、食べる物もなく、飲む水さえない。ここ(収容所)に来るまで食料はまったく用意されていなかった。食べ物があるところでは食べ、ないところでは飢えを待つだけだった。それでも歩かなければならなかった。多くのところでは、水を飲むと腹を下した。腹を下しても病気になっても薬はなく、それで大部分の人間は途中で死んだ」

徴兵されていた時点では700人いた貧農の若者たちが戦地に着くまでには死に絶え、着いたときには17人に減っていたというのです。さすがにこれは特殊なケースでしょうが、徴兵の途中で多くの若者たちの命が失われたことはたしかです。

一説によると徴兵の途中で死亡した壮丁の数は数百万以上に上り、戦場で死亡した兵士の数を大幅に上回ると見積もられています。

夢麟の報告を読んだ蒋介石は大いに驚き、「人として面目を無くす思いであり、我等の民衆に対して申し訳なく思う」と語ったと共産党の資料には記されています。

中国から出ている多くの資料は、国民党を貶(おとし)めるために共産党による補正がかかっていると思われますが、嫌がる農民を無理やり戦地に送り、その途上で多くの死者が出たことは疑いようがありません。

- 農民兵の実態 ー

日中戦争
https://chinesemartialstudies.com/2014/09/22/ より引用
1938年、槍で武装した広州市外の中国人地方民兵

こうして兵として戦地に投入された農民たちの士気が、高いはずもありません。兵の士気の違いは、戦局を左右するほど大きな意味をもっています。

士気以上に大きかったのは、兵の教育と訓練がほとんど為されていなかったことです。中国では大衆を指導するエリートを重視し、民衆を軽視する愚民思想が伝統的に維持されています。

「将は智を貴び、兵は愚を貴ぶ」という諺(ことわざ)があるぐらいです。その意味は、最良の軍隊は知恵のある将官と愚かな兵士で成り立っている、という考え方です。
愚かな兵ほど良いとされるのは、余計なことは考えずに無条件で指揮に服従するからです。

しかし近代戦では複雑な兵器を用いるとともに、兵同士が連携して行動することが求められるため、愚かな兵では役に立ちません。とはいえ識字率が10%程度にしか過ぎない農民に教育・訓練を施すことは骨が折れるため、昔ながらの愚兵主義の軍隊が相変わらず維持されたのです。

農民たちは戦場に駆り出されてから、はじめて銃の撃ち方を習いました。初歩的な軍事訓練さえ受けていない悲惨さを、共産党軍である八路軍の師団長であった林彪は、『平型関戦闘的経験』にて綴っています。

日中戦争
wikipedia:林彪 より引用
林彪(りん ぴょう、リン・ビャオ)1907年 - 1971年
中国の軍人・政治家。第4軍の将校として北伐に参加し、井崗山で毛沢東・朱徳らのもとで紅軍を創設。日中戦争が始まると八路軍第 115師長として平型関で日本軍の板垣師団を撃破した。以後軍の要職を歴任し、国防部長に就任。文化大革命で運動の先頭に立ち、毛沢東の後継者に指名された。

しかし、修正主義的な内容の政治報告が毛沢東らの党中央によって否定されたことから、毛沢東を殺害しようとする武装クーデターを計画するも失敗。飛行機でソ連へ逃亡の途中、墜落死した。

それによると、戦闘に際して日本兵が地面に身体を横たえ、匍匐(ほふく)の姿勢で射撃しながら散開して前進するのに対して、訓練を受けていない中国兵の多くは立ったままか、あるいはしゃがんだ姿勢で射撃し、ひとかたまりとなって前進するため、たやすく銃弾に倒れたと記されています。

日本の飛行機が爆弾を投下しても、どうしてよいかわからず、身を隠すことも伏せようともせずに吹き飛ばされたと、綴っている回顧録もあります。

孔子は論語にて「教えざる民を以て戦うのは、民を棄てると謂(い)う」と述べていますが、まさに当時の中国軍はこれに当てはまります。

あまりにも無知であることも、貧農出身の兵を悩ませました。そもそも日本軍が外国の軍隊であることをわかっていない兵も多かったとも記されています。日本軍は中国のどこかの軍閥の軍隊だろう、と思う兵もいたとのことです。

日本軍が中国語を理解しないことさえ、わかっていない兵もいました。「助けてくれ」と叫びながら飛び出しても、日本軍には中国語はわかりません。銃を捨ててなければ狙撃されるのは当たり前のことでした。

南京事件を含め、日本の軍人による殺害や暴行の現場に居合わせた目撃者のなかには、日本人が中国語を堪能にしゃべっていたとの証言が多く見受けられますが、こうした怪しい証言が為されたのも日本人のほとんどが中国語を話せないという事実を失念しているせいかもしれません。

- 市民と農民の差 ー

日中戦争
https://commons.wikimedia.org/wiki/ より引用
日中戦争での中国兵

基本的な知識さえない農民たちには、なぜ日本軍と戦わなければいけないのか、わかるはずもありません。

反日抗争は中国の国是とも言えるほどに高まりましたが、それはもっぱら都市圏の市民に共有されていたナショナリズムです。日本製品の排斥(はいせき)運動にしても、中国の農民たちにとってはなんの関係もないことでした。そもそも日本製品など見たこともない農民たちが、排斥などできるはずもありません。

もともと中国の農民たちは自分たちの暮らしが守られるのであれば、誰が政治を行おうと無関心です。中国が歴史的に少数に過ぎない他民族の支配を容易く受け入れたのも、中国の人口のほとんどを占める農民たちがそれを受け入れたからこそです。

このときの中国の農民たちは、まだナショナリズムに目覚めていませんでした。日本との戦争を熱烈に支持したのは、市民に限られていたのです。

その市民たちは徴兵にとられることもなく、日本軍に都市が占領されると、従順にその支配下に収まりました。憎き日本人に占領されているという屈辱を除けば、市民の暮らしぶりは平時とさほど変わらなかったことが、その当時書かれた多くの小説などから読み取れます。

対して農民は悲惨でした。望みもしていなかった日本軍との戦争に駆り出され、訳がわからないまま銃を手に戦地に放り込まれ、次々と銃弾に倒れていきました。

訓練を受けた軍隊であれば、一角を切り崩されても持ちこたえ反撃できますが、素人同然の中国兵は一角が崩れればパニックに陥り、一斉に逃げ出しました。

すぐに逃げ出す兵があまりにも多いため、中国では戦闘ごとに督戦(とくせん)隊が組まれました。督戦隊とは、自軍を後方より監視し、自軍の兵士が命令なしに勝手に戦闘から退却した際に銃撃を加え、無理やり戦闘への復帰を促す任務をもった部隊のことです。

日中戦争
ウィキペディア より引用
中国軍(旧奉天派)第15旅隷下の督戦隊の部隊旗。1929年の中ソ紛争でソ連軍に鹵獲されたもの。督戦隊は南京戦を含め各地の戦闘で配置されていた。

このため、逃げ出す中国兵と督戦隊の間で同士討ちになることも度々ありました。督戦隊に銃殺される中国兵も数多くいたことが様々な資料に残されています。

日本側の戦記や手記にも、まだ少年にしか思えない兵が背後から中国軍による銃撃を受け、泣きながら突撃してきたとの報告が寄せられています。

南京事件の際、揚子江沖で多くの中国兵の遺体が確認されていますが、そのなかには督戦隊に銃殺された中国兵もかなりの数混じっていたとの証言もあります。

また兵が逃げられないように、塹壕(ざんごう)などに鉄の鎖で縛り付けて無理やり死守させることも度々行われました。日本軍では考えられない残虐さです。そうした遺体は日本兵の涙を誘ったと伝えられています。南京陥落の際にも、鎖で縛り付けられた中国兵が確認されています。その大半は農民兵でした。

市民に比べて農民の置かれた環境は、はるかに過酷であったと言えそうです。

その6.戦争方針の転換

日中戦争
図説 日中戦争』森山康平著(河出書房新社) より引用
武漢三鎮の陥落を伝える1938年10月27日付『東京朝日新聞』

上海戦では手間取ったものの、その他の地域においては日本軍は破竹の勢いで進軍を続け、盧溝橋事件から1年半後には広東と武昌・漢口・漢陽の武漢三鎮を攻略し、中国の主要都市のほとんどを占領しました。

しかし、戦争が終わる気配はまったくありませんでした。このとき、国民党は経済的に未開発の西南地区に退却し、共産党は貧しい陝北(せんほく)地区に留まっています。南京から重慶に首都を遷した蒋介石ら国民党軍が寄せる抗日の機運は衰えることなく、ますます燃え上がっていました。

中国の経済動脈をすべて抑えたにもかかわらず、国民党軍が屈服する姿勢をまったく見せないことは、軍部の主導権を握った拡大派にとっての大誤算でした。この時点で軍事力によって国民政府を屈服させる見通しは、ほとんどなくなったといえる状況に陥ったのです。

もはや陸軍の動員数にしても限界に達していました。1938(昭和13)年7月末時点で陸軍全34個師団のうち、華北に9個師団、華中に14個師団が派遣されています。他は満州・朝鮮に9個師団、本土に2個師団を残すのみでした。中国大陸に派遣された兵はピーク時でおよそ100万です。

とはいえ100万近い兵力を国民党や共産党の壊滅のために積極的に動かせるわけではありません。兵力のほとんどを占領地域の治安維持のために配置する必要があったからです。

漢口・広州を占領してからは、積極的に他地域を攻撃できる軍は、漢口付近に拠点を置く第11軍のみでした。その兵力は7個師団、約20万です。

もっとも新たな地区を攻略しても、そこに第11軍がずっと居座るわけにはいきません。治安維持を続けるために漢口に戻らざるを得ず、日本軍が去ったあとには中国軍が再び帰ってきて、支配を続けることが繰り返されました。これではイタチの追いかけっこです。

広大な中国を実質的に占領するには、日本軍の兵力ではとても足りなかったのです。

兵器や装備にしても、もはや需要に対して供給が追いついていませんでした。国内の工業生産力をはるかに超えていたからです。国内では国民から鉄製品をはじめとする金属類の供出が行われていましたが、それでも足りませんでした。

結局のところ、日中戦争は石原が予測した通りの展開をたどったのです。石原は日本の国力では広大な中国を軍事的に屈服させることはできないと何度も訴え、日中戦争に反対し、戦争に至ってからはなんとか早期に講和を結ぼうと画策しました。

それを妨害し、中国をたやすく一撃でこらしめることができると主張したのが拡大派です。近衛首相も拡大派の言を信じ、宗旨(しゅうし)替えをして早期講和の道を自ら閉ざしてしまいました。

その結果として、出口のまったく見えない泥沼の長期戦争へと日本を導いたのです。

1938(昭和13)年12月初旬、手詰まりに陥った陸軍中央は新たな戦争指導方針を決定しました。今後は占領地の治安維持を最優先し、その地域での治安回復と残存抗日勢力の取り締まりを重点的に行うこと、新たな占領地の拡大は行わず、中国軍の攻撃に対しては反撃するものの不用意な戦域の拡大は避けることが、発表されました。

この方針は日中戦争が終わるまで維持されました。これ以降、日本軍は重慶など内陸部における軍事上の拠点や蒋介石政権への援助物資補給ルートである援蔣ルートの遮断(しゃだん)を目的とした波状的な空爆へと、戦略を移しました。

そのため、実際に日中両軍が激しく戦うことはほとんどなくなりました。日本軍は1939年には江西省の南昌や湖南省の東部にも進出していますが、国民党軍は積極的には姿を見せない韜晦(とうかい)戦術をとったため、日本軍が攻めなければ国民党軍も攻めて来ないという睨(にら)み合いが続きました。

日中戦争は出口が見えないまま、膠着(こうちゃく)状態に陥ったのです。

その7.日本の占領がもたらしたもの

ー 日本軍による占領の実態 ー

日中戦争
日本大百科全書(ニッポニカ) 小学館 より引用
日中戦争期(1937~1940年)の中国における日本の占領範囲

中国で公表されている統計によると、日本軍は日中戦争を通して26の省と1500以上の県に侵入しています。勢力圏の総面積は600万平方キロメートルにわたり、中国全土の三分の二を占めていたとされています。

しかし、実際に日本が占領していたのは、満州を含めて275万平方キロメートルに過ぎなかったと、章伯鋒の『抗日戦争』に記されています。

100万にも満たない兵力で占領するには、中国はあまりにも広大すぎました。実際のところ、日本軍が本当に支配していたのは孤島のように点在する都市と主要な港や鉄道・道路などの交通上の拠点だけでした。

つまり、日本軍の占領は点と線に限られ、広大な面は手付かずだったのです。それが日本軍による中国占領の実態でした。

ー 食糧を現地調達するには?ー

都市の占領といっても市民こそが抗日の主体であったため、その支配は困難を極めたように思えますが、実際は穏やかでした。市民の暮らしぶりは日本軍による占領の前後でさほど変わりなく保たれたため、組織的な抗日の動きもなく、市内は平時と変わらない平和に包まれていました。

占領中でも市民の多くが観劇などに興じたことが、当時の生活を物語る数々の資料に記されています。

変わったのは市内ではなく農村です。日本軍が占領地で苦労したのは食糧の調達でした。日本軍は食糧を常時、現地調達に頼っていました。日本内地も食糧不足が深刻であったため、とても中国に送る余裕などなかったためです。

駐屯を続ける日本軍の食糧をまかなうだけでも大変でしたが、さらに日本軍には占領下の都市の住民を飢え死にさせない義務がありました。

日中戦争
http://ktymtskz.my.coocan.jp/J/asia/gunsei1.htm より引用
日中戦争中の主な軍と政府の場所を表す地図

食糧を供給できずに市民が飢えることになれば、組織的な抗日闘争が行われる危険も増します。市民を満足させるだけの食糧を調達することは、占領政策における最重要課題でした。

日本軍と市民のための食糧を現地調達するためには、農民から食糧の提供を受けるよりありません。その際の手段はふたつです。ひとつは徴税を通して平和的に徴収すること、もうひとつは武力を背景に農民から半ば強制的に取り上げることです。

徴税を行うのは市や県などの地方政府です。地方政府には農民から徴税を行うための仕組みがすでに整っています。ところが日本軍は、地方行政を破壊して新たな親日政府を樹立するという戦争方針を掲げていました。国民党に忠誠を誓う地方政府そのものを抗日と見なし、排除しようとしたためです。

満州にしても華北に打ち立てた冀東防共自治政府にしても、その図式で樹立されたものです。

しかし、破壊は一瞬で済みますが、新たな地方政府を樹立しようと思っても簡単なことではありません。既存の地方政府の崩壊とともに失われた農民からの徴税システムは、すぐに復旧できませんでした。

そのため日本軍は多くの占領地域において、農民から平和的に徴税する方法を採れませんでした。武力をちらつかせ、農民から農作物を強制的に取り上げるよりない状況に自らを追い込んでしまったのです。

農民から食糧を調達する際、金銭を対価として払うなど平和的な手段を用いることは、ほとんどの場合できませんでした。

日本が占領していたのは中国の主要都市と交通上の拠点のみであり、広大な農村を支配していたのは国民党や共産党軍だったからです。

日本軍が食糧調達のために農村に出向けば、中国軍は姿を消します。しかし、日本軍が立ち去れば彼らは舞い戻ってきます。その際、日本軍に食糧を渡した者がいれば、売国奴として処刑されることが一般的でした。

そのような状況下で日本軍に素直に食糧を渡す農民がいるはずもありません。中国軍の報復を恐れた農民たちは、日本軍が村に来るとわかれば食糧を隠し、山に逃げ込みました。そのため、日本軍による食糧調達は略奪にならざるを得ませんでした。

略奪の過程で農民とトラブルになったことも当然あったと思われます。日本軍による中国農民の殺害があったことも否定できない事実でしょう。

食糧が供給されたことで市民は喜びましたが、農村はたまったものではありません。日本軍の進出によって、農民の暮らしは大きな悪影響を受けることになったのです。

日中戦争前までの中国では激しい内戦が繰り広げられていました。されども中国の農民の暮らしは、内戦とは無縁でした。内戦により都市の支配者が変わろうとも、地方行政そのものは維持されたからです。農民から徴税を行う職員が代わるわけでもなく、支配者が変わろうとも徴税システムは生き続けました。地方政府に手を付けないことは、軍閥同士が争った際の暗黙のルールでした。

軍閥が農民から食糧を略奪することもありましたが、その量は高が知れています。自分たちが食べる分の食糧を確保すれば事足りるからです。

国民党にしても共産党にしても事情は同じです。戦うためには食糧を現地調達する必要がありますが、兵の空腹を満たせばよいだけのため、量はわずかで済みます。

ところが日本軍は占領地の市民の分まで農民から調達するよりなく、その量は国民党や共産党とは比較にならないほど多くならざるを得ません。農民の不満が日本軍に集中したのは、やむを得ないことでした。

ー 日本軍が追い詰めた華北の農民たち ー

日中戦争
http://japanese.china.org.cn/politics/ より引用
抗日戦争に参加した中国農民と子ども。日本軍による食糧の調達は、多くの中国人農民を共産党側に追いやった。

ことに悲惨だったのは華北の農民です。中国では気候上の理由から、農作物が豊かなのは南方に偏っていました。中国の食糧供給地は南方に集中しており、南方の農村には食糧が余っていました。

対照的に華北は慢性的に食糧が不足しており、大運河を用いて南方から食糧を輸送することで生活が成り立っていたのです。しかし、日中戦争によって食糧の運送体系が破壊されたことで、華北には深刻な食糧不足が発生していました。

華北の農民には余っている食糧など、ほとんどありません。そこへ日本軍がやって来て食糧を持ち去っていったのです。日本軍としては華北の都市の住民を飢えさせないために食糧がどうしても必要でした。

しかし、日本軍が持ち去っていった食糧は、華北の農民たちが命を繋ぐために必要なものでした。食糧がなければ飢え死にするよりありません。彼らにも家族があります。まだ幼い子供たちを飢え死にさせないためには、食糧をどこかで調達してくるよりありません。

こうして多くの農民たちが匪賊となり、他の部落の農民を襲い、食糧を奪いました。地方政府が崩壊しているため、農村は無法地帯と化していたのです。都市の治安は日本軍によって守られていましたが、農村までは手が回りません。食糧をめぐる骨肉の争いが、華北の農民たちの暮らしを徹底的に破壊しました。

その怒りが日本軍による食糧徴発に向かうのは当然だったと言えるでしょう。これまで政治に無関心だった農民たちは日本軍に激しい憎悪を募らせました。それは、農民たちが生まれて初めてナショナリズムに目覚めた瞬間でもありました。

ー 毛沢東が感謝した日本軍 ー

日中戦争
ウィキペディア より引用
青天白日の軍旗を持った中国共産党八路軍の兵士たち

華北の農民の間に生まれた対日憎悪とナショナリズムに巧妙に浸透していったのは中国共産党です。日本軍への反感を利用して、共産党は華北の農民の民心をつかみました。共産党の勢力は華北で爆発的に発展したのです。

1961(昭和36)年、中国を訪れた社会党議員に対して毛沢東は次のように語っています。

「日本の軍閥はかつて、中国の半分以上を占領していました。このために中国人民が教育されたのです。そうでなければ、中国人民は自覚もしないし、団結もできなかったでしょう。
そしてわれわれは、いまなお山の中にいて、北京にきて京劇などをみることはできなかったでしょう。

日本の『皇軍』が大半の中国を占領していたからこそ、中国人民にとっては他に出路がなかった。それだから、自覚して武装しはじめたのです。多くの抗日根拠地を作って、その後の解放戦争(日本降伏後の国共内戦)において勝利するための条件をつくりだしました。日本の独占資本や軍閥は《よいこと》をしてくれました。もし感謝する必要があるならば、私はむしろ日本の軍閥に感謝したいのです」

〔一九六一年の「黒田寿男社会党議員等に対する談話」(日本外務省アジア局中国課監修『日中関係基本資料集1949‐1969』、霞山会、一九七〇年)〕

日中戦争の「不都合な真実」戦争を望んだ中国 望まなかった日本』北村稔・林思雲著(PHP研究所)より引用

農村を犠牲にした日本の占領政策がもたらしたもの、それは中国共産党の勢力拡大でした。日本軍による食糧徴発が、農民を共産党へと押しやる結果となったのです。

もともと日本が満州を建国し、華北へと侵入したのは防共のためでした。ところが結果的に共産党の勢力拡大を招き、毛沢東に感謝までされるとは皮肉以外のなにものでもありません。

日中戦争
wikipedia:毛沢東 より引用
毛沢東(もう たくとう、マオ・ツォートン)1893年 - 1976年
中国の政治家・思想家。中国共産党創立に参加。農村から都市を包囲する戦略で党と紅軍の指導権をにぎる。江西省瑞金において中華ソビエト共和国臨時政府を樹立。長征を開始、革命根拠地を陝西省に移動。日中戦争では国共合作を成し遂げ、抗日戦を指導。戦後は蒋介石の国民党軍を破り、中華人民共和国を建国、初代国家主席となる。

党・国家の官僚化を批判して中国文化大革命を発動。全国的に過激な運動を展開した。多くの犠牲者を生んだこの運動は、毛の死後に完全な誤りであったと認められた。文化大革命によって、世界で最も多くの人間を殺した独裁者として名前が挙げられることが多い。

天安門事件の発生により鄧小平の解任と華国鋒の総理就任を提案した後、84歳にて死去。

もとより日中戦争が起きさえしなければ、国民党軍が共産党軍を壊滅させていたはずです。最後の5分間から奇跡的な復活を遂げ、日本軍の行動を逆手にとることで共産党は中国の農村部に次々と軍事拠点を築いていきました。

1937(昭和12)年の時点で共産党軍は5万人ほどでした。ところが1945(昭和20)年には120万の軍隊と260万を超える民兵を組織するまでに肥大化しています。

中国の9割を占める農民の支持がなければ、今日の中国共産党はありません。そして、その共産党を巨大化させたのは日本軍であったことは、拭いようのない事実です。

日中戦争を含めた大東亜戦争において、もっとも大きな漁夫の利にあやかったのは中国共産党でした。

日中戦争
https://www.huffingtonpost.jp/2016/05/28/ より引用
40万人から1000万人以上が殺されたとされる文化大革命時代の毛沢東を称えるプロパガンダ用ポスター。このポスターには「世界革命人民の中心、赤い太陽の毛主席 万歳!」と書かれている。

大東亜戦争後、中国共産党は中国支配の過程でおよそ6500万人の人民を死に至らしめたとされています。日中戦争によって中国共産党の勢力が拡大していなければ、そのような悲劇は起きなかったことでしょう。その意味では責任の一端は、日本軍にあると言えるかもしれません。

その8.河南省の農民はなぜ日本軍に味方したのか

ー 占領の光と陰 ー

中国共産党のキャンペーンの成果もあり、日中戦争において日本軍は多くの中国人を虐殺し、略奪を繰り返したとされています。

その背景には、日本軍が食糧を現地調達しなければいけなかったという切羽詰まった事情が横たわっています。

しかし、負の面ばかりではなかったことも事実です。華北にしても、自給自足ができない華北の悲惨な農業を変えるために、農業技術の近代化に取り組んでいます。日本の占領した地域では農業技術が向上し、農村組織が整備され、多角経営や植林などの治山治水が行われ、食糧自給のための体制が着々と進められました。

疫病が急速に消えていったことも日本の占領地域に共通して見られる現象です。北京や南京など各地に施療防疫班を設置し、防疫事業に大々的に取り組んだ成果です。学校・文化事業や医療衛生に至るまでの建設事業も行っています。

南京事件をはじめとして残虐な面ばかりが強調される日本軍ですが、そうしたイメージを覆す事実もあります。

たとえば、教科書にはけして載りませんが河南省の農民たちと日本軍との関わりにおいて、日本軍は侵略ではなく解放軍としての役割さえ果たしています。

ー 河南省を襲った大飢饉 ー

日中戦争の最中であった1942(昭和17)年春から1943(昭和18)年秋にかけて、河南省では旱魃とイナゴによる自然災害が発生し、これにより大飢饉に襲われました。この飢饉は単なる天災ではありません。4年前に国民党によって引き起こされた黄河決壊事件によって自然環境が破壊されたことが、災害を招いた大きな原因です。

飢饉のために省の全人口の十分の一に当たる300万人が餓死、あるいは病死し、被災によって流浪者となった者も300万人を数えました。流浪の途中で餓死・病死した人たちも数多くいます。

災害によって河南省の人々が大飢饉に苦しんでいることは蒋介石にも知らされました。しかし、蒋はこれを偽りの報告と決めつけ、なんら救済のための手段を講じないばかりか、河南省の徴税項目や分担金などで緩和や免除を絶対に許さないと厳しく命じたのです。

その背景には中国に蔓延(まんえん)する汚職の問題がありました。中国の官僚は度々嘘をつき、集めた税金を着服する者が後を絶ちませんでした。今回も偽りに違いないと、蒋は勝手に決めつけたようです。

『大公報』の記者が河南省が飢饉に襲われていることを、わずか6千字ほどを割いて報じた際にも蒋は激怒し、『大公報』を三日間停刊させるとともに報道に関わった記者たちを処分しています。

状況は絶望的でした。郭仲隗は『一九四二 河南大飢荒』において次のように綴っています。

「一九四二年、私は続いて第三回国民参政員になった。この年は河南で大旱魃が起こり、ごくわずかな水田以外は、一粒の収穫もなかった。しかし、中央は災害の報告を受けとらず、救済も行わなかった。私は参政員の立場で駆け回り、様々に呼びかけたりして全力を尽くした。しかし、結果として河南省では五〇〇万人余りの餓死者を出した。ところが、河南省主席の李培基は一六〇二人しか報告しなかった。政治において未曾有の奇観であった。」

「人間の条件1942(温故一九四二)」を読むために より引用

国の援助を一切受けられなかった河南省の住民たちの陥った境遇は、悲惨の一語に尽きました。飢饉の最中においても蒋の命令に従い、徴税の収集は情け容赦なく行われました。残り少ない食糧を兵士に奪われ、最後の命綱だったわずかな備蓄さえも徴税として役人にもっていかれ、河南省の人々は口にできるものをすべてはぎ取られたのです。

やむなく人々は木の皮をはぎ、根を掘り起こしては食べました。泥をすすりながら、かろうじて命を繋ごうと抗いましたが、多くの住民は次々と餓死していきました。

婦女子を売る親も相次ぎました。人買いは足下を見て、通常の十分の一の価格でしか応じません。人々は人肉にさえ手を出しました。そのために子供を交換し合う親さえいたと伝えられています。

ー 国から見捨てられるということ ー

あまりの惨状を目の前にして動いたのは英米人の記者や外交官たちです。彼らは孫文夫人の宋慶齢を通じて蒋と会見し、河南省の窮状を訴えました。また彼らは義憤を感じてタイム誌に現地リポートを寄稿し、生き残った飢餓民がわずかな食べ物をめぐって殺し合っていることや子供を食べる親がいるという地獄のような惨状に対して、救いの手を差し伸べない中国政府がいることを告発しました。

日中戦争
wikipedia:宋慶齢 より引用
宋慶齢(そう けいれい)1893年 - 1981年
中国の婦人政治家。孫文夫人。「宋氏(家)三姉妹」の一人。姉の宋靄齢は孔祥煕夫人、妹の宋美齢は蒋介石夫人、弟は宋子文。 アメリカのウエスリアン女子大学を卒業し、南京臨時政府の臨時大総統孫文の秘書となった。第二革命失敗後、孫らとともに日本に亡命した後、孫と結婚。 孫の死後は国民党左派に属し、国民党の反共化に反対して渡欧。帰国後は国民党中央執行委員となり、蒋介石と対立しながら抗日運動の内部的団結に尽力した。

中華人民共和国が成立すると中央人民政府副主席となり、中国社会主義建設に参加。中華人民共和国副主席を務め、死の直前に「中華人民共和国名誉主席」の称号を授けられた。

アメリカの世論に突き動かされることで、蒋もようやく重い腰を上げました。救済金として2億元を送っています。しかし、数ヶ月後にようやく河南省にたどり着いたときには、2億元の救済金はわずか8千元しか残っていませんでした。河南省に届くまでの間に、複数の役人が次々に横領したからです。

しかも、そのわずかな8千元とて実際に手にした被災民は、ほんのわずかでした。一部の地方役人は救済金を、被災民が未払いの税金と差し引いたからです。大半の農民は税を払う余裕などないため、結局農民の手許には1元の金さえ入りませんでした。

被災者にとって本当に必要だったのは金ではなく食糧です。陝西(せんせい)省や湖北省には豊富な食料が貯蔵されており、即座に河南省に送り届けることが可能でした。しかし、政府は食糧の供出を拒否しました。

アメリカ人記者が中国軍将校を訪れ、なぜ食糧を放出しないのかと問い詰めた際、将校はこう答えています。
「民衆が死んでも土地は中国人のもの。兵士が死ねば日本人がこの国をわがものとする」

つまり食糧は兵にとって必要なものであり、民衆はいくら死んでも構わないと言っているも同然です。当時の中国では、民衆の命は政治よりも軽かったのです。

蒋介石は国をあげて救済キャンペーンを行っているように装いましたが、実際にはなにひとつ有効な救済の手が伸びなかったため、河南省の人々はばたばたと飢え死にしていきました。

慈善による募金や公演も行われましたが、これらの救済金をはじめに政府に渡さなければいけませんでした。その救済金も省から県へ、県から郷へ、郷から村へと渡っていく過程で次々と奪い取られ、被災者の手元に届くのはほんのわずかに過ぎませんでした。

救援物資が送られても役人たちは様々な名目でこれを搾取したため、被災民に届くのはごくわずかです。救援物資は国際赤十字社や外国人神父・宣教師を通して、被災者に配られました。宣教師たちは度々「日本軍の攻撃を受けて強奪されたために支援物資は届けられない」といった白々しい報告を受けています。

アメリカ人やイタリア人神父・宣教師が献身的に炊き出しや孤児の保護にあたりましたが、規模が小さかったために「焼け石に水」でした。

アメリカは救援物資の輸送を申し出ましたが、政府はこれも拒否しています。救援物資が日本軍や親日派政権に奪われることを恐れたためです。敵を利するリスクを冒すよりも自国民を犠牲にすることを、戦争に勝つために優先したといえるでしょう。

結局のところ、政府による救済キャンペーンは欧米向けのパフォーマンスに過ぎないものでした。河南省では大通りで、野原で、駅のそばで、餓死した人々の遺体が横たわったまま放置されていました。

国から見捨てられた河南省の人々には、もはや絶望しか残されていませんでした。このままではさらに多くの餓死者が出ると思われていた矢先……。

河南省の人々は地獄から生還しました。50年後には中国で二番目に人口が多い省にまで発展を遂げています。

いったい何があったのでしょうか?

ー そのとき、日本軍がやって来た ー

日中戦争
http://news.163.com/photoview/6R2E0001/2212515.html より引用
河南省の村の入り口で日本軍を歓迎する村人

河南省に進軍してきた日本軍は、遺体があちらこちらに横たわる酸鼻極まる絶望の大地を見て驚きました。このときの日本軍が行ったことは、共産党が盛んに宣伝しているような「日本軍が進軍した先々で起こる住民の虐殺や略奪」ではありませんでした。日本軍が真っ先に行ったことは、一人ひとりの兵が携帯していた食糧を、まだ息のある人々に与えることでした。

さらに日本軍は惜しむことなく軍の食糧である軍糧を放出しました。その多くは国民党軍から奪ったものです。河南省の人々が待ち望んでいた食糧を届けたのは、祖国の国民政府でも共産党でもなく、敵であるはずの日本軍でした。

日本軍とて食糧に余裕があるから放出したわけではありません。日本側の資料として河南に従軍した兵たちが激しい飢餓に直面した手記が残されています。このことから最前線の兵に我慢をさせても、餓死に直面した河南省の人々を救おうと貴重な軍糧を放出したことがわかります。

手持ちの食糧が尽きると、日本軍は他の土地から食糧を調達してきては河南省の人々に新たに提供しました。日本軍の放出した食糧により、河南省の多くの人々の命が救われたのです。

河南省の人々は、その恩義を忘れませんでした。1944(昭和19)年4月、日本軍は黄河を渡河して河南に本格的に進攻しました。その際、河南省の農民たちは積極的に日本軍を支援してくれたのです。

三国志で有名な許昌(きょしょう)を死守する中国軍30万と日本軍6万の間で戦闘が起きたとき、河南省の人々は中国軍の情報を日本軍に与えるとともに、すべての農村において武装暴動を起こしました。

農民たちは鍬(くわ)や鎌、猟銃を手にして国民党軍の兵を襲いました。かつて、農民たちに残されていたわずかな食糧さえ兵たちは奪っていきました。そのために農民たちの子供や妻、父母や兄弟姉妹・友人たちは餓死せざるを得ませんでした。その仇を討つために、農民たちは日本軍の動きに合わせて一斉蜂起したのです。農民たちに囲まれて、国民党軍の多くの兵士は武装解除させられました。

はじめのうちは散発的に兵から武器を取り上げるだけでしたが、次第に組織的に行動するようになった農民たちは、中隊ごとに次々と武装解除へと国民党軍を追い詰めていきました。総数ではおよそ5万人の兵が武装解除されたと記されています。

すべての農村で武装暴動が起き、農民たちが日本軍を支援したのでは国民党軍に勝ち目はありません。三週間もかからないうちに、わずか6万の日本軍が30万の中国軍を敗走させ、目標としていたすべてを占領することに成功しました。

国民党軍を指揮していた湯恩伯は二週間で30以上の県を失った責任を逃れるために、「河南の人民はみな漢奸(かんかん)だから殺戮(さつりく)せよ」という標語を張り出しました。「漢奸」とは、漢民族の裏切者・売国奴を意味する言葉です。

日中戦争
wikipedia:湯恩伯 より引用
湯恩伯(とう おんはく)1899年 - 1954年
中華民国の軍人。日本に留学し明治大学で学ぶ。帰国後、国民革命軍の軍人として様々な戦役で活躍、高級指揮官となった。徐州外囲で日本軍を迎撃し、後の台児荘の戦いの勝利に貢献。第1戦区副司令長官兼四省辺区総司令となり、40万の兵力を擁し「中原王」と称された。

しかし拡充した大軍を維持するために河南省の住民から過酷な収奪を展開し、怨嗟や憎悪を被った。日本軍の河南省侵攻の際にはわずか38日で河南省全省を失陥。あまりにも呆気ない戦線崩壊を招いたことで激しい非難を浴び、軍法で処断せよとの声が多く上がったが、蒋介石の庇護を受けたため罪を問われず、解職のみに留められた。その後の国共内戦でも多くの惨敗を喫し、大陸を追われて金門島に拠らざるを得なくなる。

人民解放軍が金門島への上陸を開始すると、蒋介石に金門島放棄の許可を電報で求めたが、蒋は許さず、軍事顧問の根本博を派遣し固守を命じた。根本の活躍で金門島の死守に成功。しかし、金門放棄姿勢が蒋の不興を買い、台湾遷都後は軍指揮権を剥奪された。失意のうちに病気療養のために日本に渡り、そのまま東京にて死去。

日中戦争
図説 日中戦争』森山康平著(河出書房新社) より引用
中国人の老婆を背負い、安全な場所まで運ぶ日本兵。

河南の人々が祖国の軍を見限り日本軍を支援したことは、中国側から見れば許すことのできない裏切り行為です。しかし、「国家とはなにか」という根源的な問題について考えるとき、河南の人々を非難する資格など中国側にないことも事実です。

国家に見捨てられ死を待つだけだった人々が、彼らを死地から救い出し、圧政から解き放ってくれた日本軍をあたかも解放軍であるかのように迎え入れたことは、人間としてごく自然な感情です。

日中戦争を聖戦であったとはとても言えませんが、一部の地域においては日本軍が解放軍として迎え入れられたという歴史的な事実を、葬り去る必要もないでしょう。

ー 歴史に埋もれた真実 ー

日中戦争
http://news.163.com/photoview/6R2E0001/2212515.html より引用
1938年2月11日、河南省で子供たちにカメラを見せる日本の従軍記者。子供たちは大飢饉から生き残れた。

河南の大飢饉において日本軍が軍糧を放出したことで多くの人命を救ったという事実は、長い間忘れ去られ、歴史の闇に沈んでいました。

それを引き上げたのは現代中国文学を代表する河南出身の作家・劉震雲が『人間の条件1942 ― 誰が中国の飢餓難民を救ったか(原題は温故一九四二)』を、史実に基づいて著したからです。劉震雲は生存者や遺族の証言(口述資料)収集を中心に、中国側の文献資料やアメリカ人記者の残した資料を掘り起こし、そのとき河南の大飢饉で何が起きたのかを克明に綴っています。

日中戦争
劉震雲 より引用
劉震雲(リュウ・チェンユン)1958年 -
中華人民共和国の小説家。河南省延津県の生まれ。中国長編小説を対象とした中国文学界で最も栄誉がある賞の一つである「茅盾文学賞」を受賞。代表作は小説『一句頂一万句』。現職は中国作家協会全国委員会委員、北京市青連委員。政府から中国国家一級作家に認定されている。

『人間の条件1942 ― 誰が中国の飢餓難民を救ったか(原題は温故一九四二)』で日中戦争中の日本軍が河南省の飢餓農民を救ったルポルタージュ小説を著し話題となった。映画化(ただし日本軍の美談にかかわる部分はすべてカットされている)もされている。

敗者の美談は勝者の正当性を失わせるため、表に出ることはほぼありません。英米の記者にしても当時は大東亜戦争を戦っていただけに、敵国である日本を利するような記事を書くはずもありません。

劉震雲は綴っています。

「日本人は中国で甚だしい大罪を犯し、ほしいままに人を殺し、流血は河となった。われわれと彼らとは、共存するわけにはいかなかった。だが、一九四三年冬から一九四四年春までの河南の被災地区においては、この大量殺戮を犯した侵略者が、ぼくの故郷の多くの人々の命を救った。彼らはわれわれに沢山の軍糧を放出してくれた。われわれは皇軍の軍糧を食べて生命を維持し、元気になった。

(略)

あなたたちは、日本軍との戦いのために、共産党との戦いのために、同盟国のために東南アジアでの戦争のために、スティルウェル(連合国となった中国軍に参謀長として派遣されたアメリカの将軍)のために、横暴に税を徴収してわれわれを苦しめた。だから、われわれは向きを変えて、日本軍を支持し、侵略者がわれわれを侵略するのを支持したのだ。

当時、わが故郷の農民や親戚、友人らのなかで、日本軍のために道案内をしたり、日本軍側の前線で後方支援したり、担架を担いだり、さらには軍隊にはいって、日本軍が中国軍の武装解除にゆくのを助けたりした者の数は計り知れない。五十年後、その売国奴を追及するにしても、その数はあまりにも多く、至るところにいる。われわれはみな、売国奴の子孫なのだ。あなたたちはどうやって追及するのだ?」

手厳しい告発ですが、もとより出版が許されたのは、批判はあくまで共産党ではなく国民党政府に向けられていたからです。国民党の非情さを説くことは、共産党の中国支配を正当化します。

それでも反日とは逆行するだけに、日中が融和ムードに包まれたわずかな期間を利用して出版を許されたことは、レアなケースと言えるでしょう。

『人間の条件1942』は映画化もされていますが、当然ながら日本軍の善良なイメージは伝わらないように工夫されています。反日は中国共産党の基本方針です。

日中戦争
映画「1942」のポスター

河南の会戦では洛陽東站(とうたん)付近のトーチカ軍陣地を占領した際、日本側に次のような記録が残っています。
「俘虜(ふりょ)として重慶軍幹部以下1000余名と兵器、弾薬、器材など多数、特に糧秣(りょうまつ)数万俵を鹵獲(ろかく)した。この方面では白米や食塩を陣地の胸墻(きょうしょう=敵の射撃をよけ、味方の射撃の便のために土を胸の高さほどに積み上げたもの)や障害物に利用していたようであった。」

つまり、数万俵の軍糧があったにもかかわらず、餓死する河南の人々にまったく与えられなかったことを意味しています。

障害物として利用できるほどに余っていた食糧を提供することなく、飢餓に苦しむ住民たちからなお食糧を奪っていった祖国の軍と、自軍の兵が飢えることさえいとわず軍糧を与えた日本軍と、果たしてどちらを支援するかは明らかです。

河南で起きたことを目撃していたアメリカ人記者セオドア・ホワイトは、著書『歴史の探究』のなかで次のように綴っています。
「仮に私が河南の農夫だったら、あれ(飢饉)から一年後の河南の農民と同じように、祖国中国の軍隊を破ろうとする日本軍に手を貸しただろう。」

日中戦争
支那人が支那人を殺す戦争!蒋介石の破壊と大虐殺 より引用
セオドア・ホワイト1915年 - 1986年
アメリカ政治ジャーナリスト・歴史家・小説家。ハーヴァード大学を卒業後、中華民国の臨時首都であった重慶に滞在し、国民政府のプロパガンダ部門のアドバイザーを務めたのちフリーランスのジャーナリストとなる。後に『タイム』誌の中国特派員となり、戦時報道に携わる。

帰国後、戦時中国に関するベストセラー『Thunder Out of China』を執筆、国民政府の腐敗と中国共産党の台頭を克明に記した。戦時中国の滞在経験を活かして小説『The Moutain Road』を著し、中国戦線における日本軍の攻勢からの米軍の撤退の模様を描いた。
1960年に映画化されている。他にもアメリカ合衆国大統領選挙のレポートで有名。

生存を脅かされるほどに追い詰められた民衆が最後に立ち上がることは、歴史において度々繰り返されてきました。その際、外国の軍隊がそれを手助けしたことも、枚挙にいとまがありません。

「日本軍 = 暴虐な侵略軍」といった固定観念だけでは語りきれない事実も、歴史の襞(ひだ)のなかには隠されているのです。

 
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