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第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

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第1部 4章 北部仏印進駐(2/7)平和進駐か武力進駐か。フランスとのギリギリの交渉

日本はなんのために戦ったのか

2.北部仏印進駐の余波

その4.かくして北部仏印進駐は為された

ー 平和的進駐のはずが…… ー

北部仏印進駐
仏印進駐 - Japanese invasion of French Indochinaより引用 松岡・アンリ協定に基づき、日本軍による北部仏印進駐が為された

平和的進駐が確定したことを受け安堵したのも束の間、ここからまた思いもかけない事態が発生します。進駐中止の命令が手違いから現地軍に行き渡らず、南関方面の中国領内に長い間待機していた南支軍部隊は23日零時を待たずに国境を越えてしまい、仏印軍の守備隊と交戦状態に入ってしまったのです。

命令伝達上のミスではなく、武力進駐によって日本軍の威を示したい一派による計画的な越境だ、とする説もあります。

日本軍は随所でフランス兵と戦闘を交えながら南下することになり、軍中央が望んでいた平和的進駐とはとても呼べないような容易ならぬ事態を惹き起こすことになりました。

ただし、日本軍だけが血気にはやっていたわけではありません。『太平洋戦争への道 6 開戦外交史 南方進出』のなかには、仏印総督ドクーの回想録が紹介されています。それによると、仏印軍のなかにも日本軍と戦って白人の強さを知らしめようとする空気がみなぎっていました。

越境した日本軍に対して仏印軍は果敢に攻撃を加えましたが、日本軍の予期せぬ強さに戸惑う姿が次のように描かれています。

マルタンも二十二日夜に協定発効以前に日本軍の侵入を許すならば、協定そのものが死文化するのではないか、とドクーに語り、ドクーはもし日本軍が仏印国境を突破するならば武力で防戦することを決意し、これを聞いたマルタンも一歩でも日本軍が入ってくればやっつけてやると意気軒昂たるものがあった。

ドクーは二十二日の二十三時三十分日本軍の国境侵犯の通報を聞いたが、二十三日の午前一時にはマルタンが打って変って意気消沈して現われ、日本軍の訓練は充分で機敏である、昨夜は調印を拒んだがいまや調印しなければならぬ、一刻も猶予できぬ、と率直に語った。

ドクーもここに決意して停戦を前線指揮官に命じ、東京のアンリ大使には、南支軍の条約尊重方および国境からの日本軍の撤退方を日本軍当局から命令してもらうよう依頼した。

戦闘は日本軍優勢のうちに二十五日午前十時四十分仏印軍の降服をもって同午後六時に休戦が成立し、二十五日夜ランソン前線の日本軍は行動を停止した。日本軍と戦ってはならぬ、それはインドシナを根こそぎ取られてしまうことになる、との教訓をえた、とドクーはその回想録の中に述べている。

太平洋戦争への道 6 開戦外交史 南方進出』日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部編(朝日新聞社)より引用(改行は筆者)

ドクーの回想録からは、22日の細目協定において事務的な未解決部分を残すことで23日零時からの日本軍の越境を遅延させたのは、意図的であった節がうかがえます。

それでも指揮系統の乱れか、あるいは意図的に命令を伝達しなかったのかは判然としていませんが、日本軍が期日前に越境したことは事実であり、軍中央の意向を無視した現地陸軍の暴走には大いに問題があったと言えるでしょう。

ー 国を誤るものは陸軍なり ー

北部仏印進駐
仏印(ベトナム)進駐の写真集より引用
写真は9月22日カムラン湾で演習中の海軍第81警備隊

ハイフォン上陸に際しても、不手際は繰り返されました。上陸に際しては通常、海軍が艦船にて陸軍の兵を運び、その兵たちは海軍の援護の下に上陸を果たすことになります。

ところが9月26日に予定されていたハイフォン上陸を巡り、その上陸の仕方について陸軍と海軍とで真っ向から意見が対立し、険悪な空気に包まれました。

陸軍側が戦時では通常の上陸作戦を実施しようとしたのに対して、海軍は平和協定ができたのだから船を桟橋に横着けにして上陸すべきだと主張し、ともに譲りませんでした。

海軍の同意が得られないまま陸軍は強行上陸を発令し、実施にかかりました。身勝手な陸軍の振る舞いに怒った海軍は護衛を解き、さっさと海南島に帰ってしまったのです。

そのために陸軍の上陸は海軍の護衛なしの丸裸で実施されるという前代未聞の醜態をさらすことになりました。このとき、平和協定が結ばれているとはいえ陸軍の解釈では敵前上陸となるため、海軍の不協力に備えて陸軍が用意した航空隊の一分隊がハイフォンに威嚇(いかく)爆撃を行っています。

その際、爆弾4個が市街に落ち、住民の死者15名、重軽傷18名を出すという悲劇が起きています。この惨事は国際的にも問題となりました。

陸軍と海軍による子供のような喧嘩の果てに惨事が起きるという構図は、大東亜戦争中にもしばしば見られることになります。

縦割りのお役所仕事を絵に描いたような陸軍と海軍の対立、そして統帥権の乱れから生じる現地軍の暴走は、大東亜戦争で日本が敗れる大きな因子となりました。その萌芽(ほうが)は、すでに仏印進駐時に現れていたのです。

ハイフォンから引き揚げてきた西原少将らはその艦上から、「統帥乱レテ信ヲ中外ニ失フ」から始まる報告電報を打ち、結果的に武力進駐を強行する結果となった陸軍を非難しました。

内大臣秘書官長として重要な記録を残した木戸幸一は、仏印進駐後の木戸日記に次のように綴っています。
「大局を弁(わきま)えざる出先の処置は真に遺憾なり。大事を誤るは此の輩(やから)なり」

北部仏印進駐
wikipedia:木戸幸一 より引用
【 人物紹介 - 木戸幸一(きど こういち) 】1889(明治22)年 - 1977(昭和52)年

昭和時代の政治家。明治の元勲木戸孝允の孫。農務省入りの後、貴族院議員となる。第一次近衛内閣の文相兼厚相として政治の表舞台に登場。内大臣就任後、天皇側近として国政の実権を握る。大戦末期には和平工作に尽力。戦後A級戦犯として終身禁固刑に処せられるも、のち仮釈放を経て赦免となる。宮中グループと軍部の抗争などを克明に記録した『木戸幸一日記』を残した。

また、仏印進駐の際の不手際について後に知らされた昭和天皇は、「国を誤るものは陸軍である」と嘆ぜられたと伝えられています。

仏印進駐に伴う騒動について、国内に事実が公表されることはありませんでした。仏印側の命令不徹底によるトラブルとしか報道されていません。

しかし、軍中央は意図した平和的進駐が行えなかったことを重視し、関係者の多くに懲罰を科しました。期限前に越境してしまった責任をとり、南支方面軍司令官安藤中将は解職、監視団の団長として3ヶ月にわたって仏印側と交渉した西原少将も職を解かれ、現地で作戦指導に当たった富永参本第一部長も帰京したその日に閑職に追われました。

参謀次長として平和的進駐を進めた沢田参謀次長もまた、天皇との約束を守れなかった責任をとり、自ら参謀本部を去りました。

歴史的な経過を見たとき、このときに軍中央の人事が大幅に変わったことにより、新たな指導者たちが大東亜戦争へと日本をけん引した感を否めません。

さらには富永など武力進駐にこだわった指導者らが、東条の腹心であったことから半年あまりで陸軍省の要職に返り咲いたことも、後に災いを呼びました。彼らは大東亜戦争中に陸軍省の中央に据えられ、強行論ばかりを主張しては日本軍の犠牲を積み増しすることになります。

北部仏印進駐
wikipedia:富永恭次 より引用
【 人物紹介 - 富永恭次(とみなが きょうじ) 】1892(明治25)年 - 1960(昭和35)年

大正・昭和期の軍人。最終階級は陸軍中将。関東軍参謀・近衛歩兵第2連隊長・参謀本部第4部長などを歴任後、参謀本部第1部長に就任。北部仏印進駐に際して現地に出張し、参謀総長の命令と偽って軍司令官の間で合意した西原・マルタン協定に違反して強引に軍を進め、数百人の死傷者を出したことで停職処分となる。のちに陸軍省人事局長として中央に復帰。「東條英機の腰巾着」と周囲から皮肉られた。東條内閣総辞職と共に失脚。

のちフィリピンに赴任。神風特攻隊の出撃命令を下すと、無情な命令により、志願した全パイロットを戦死させたとされる。マニラ撤退に際しては部下を置き去りにして逃亡。直前までマニラ死守を呼号していた軍司令官が単独逃亡した事実に、南方軍と第14方面軍の憤激をかった。

その責により予備役編入の処置がとられたが「死ぬのが怖くて逃げてきた人間を予備役にして戦争から解放するのはおかしいのではないか」との声が上がり、再び召集され第139師団の師団長として満州へ送られる。終戦の後、ソ連軍に捕らえられシベリア抑留となる。陸軍史上最悪の軍人だと批判する声もある。

ー 北部進駐と独立への悲願 ー

北部仏印進駐
Vietnamese Language Studiesより引用 日本軍の北部仏印進駐はベトナム独立への第一歩だった、敗戦後も800名ほどの日本兵がベトナムに残り、フランス軍をベトナムから追い出すために戦った。写真は1945年9月2日、ベトナム独立を宣言するホーチミン主席

仏印進駐の際、軍事的な紛争を経て日本軍が進軍して来たため、ハノイの民衆が勘違いし「解放軍来る!」と歓呼して迎える一幕もありました。 

白人の植民地としての屈辱に甘んじることなく、現地に暮らすアジアの人々が祖国を取り戻すためのアジア解放の大きなうねりは、すでに北部進駐のときに動き始めていました。

その象徴となるのがベトナム独立のために立ち上がったチャン・チュン・ラップ将軍の率いる復国同盟軍です。

あまり知られていませんが、日本軍の進駐に合わせてラップ将軍の復国同盟軍三千人が武装蜂起しています。

フランスによる植民地支配の間も、仏印内では独立を求めてフランス軍に抵抗する動きが続いていました。フランスから見れば、彼らは仏印の治安を乱す反乱分子です。抵抗運動に身を投じた現地の人々は捕らえられ、各地の監獄や洋上の孤島へと送られました。監獄にはフランスから取り寄せたギロチン台が設置されていました。反逆者はその係累に至るまで罪に問われ、徹底的に弾圧されたのです。

それでも祖国の独立を願い、フランス軍への抵抗の火は絶えることがありませんでした。

ラップ将軍は日本軍の力を借りながらフランス軍をベトナムから追い出すべく、武装蜂起へと至りました。実は仏印に入った日本軍を先導してくれたのもラップ将軍の軍でした。

さらには仏印軍の兵営に侵入し、そこで兵士として雇われているベトナム人を説得しては日本軍への協力を約束させるなど、工作活動においても大きな働きをしています。

進駐した日本軍が仏印軍の反撃を振り払い、短時日で仏印軍を降伏に追い込めたのは、ラップ将軍率いる復国同盟軍の力添えがあったからこそです。ラップ将軍は日本軍と共にハノイに進軍し、仏印軍と戦えることに期待を寄せていました。

しかし、軍中央から見れば、ラップ将軍の武装蜂起を支援するわけにはいきません。仏印への進駐はヴィシー政権の承認のもとに行われていたからです。

本国フランスがドイツに降伏したため最早増援部隊を期待できない仏印軍を、日本軍が実力で排除することは簡単でした。されど仏印に武力侵攻したとなるとアメリカが黙っているはずもなく、新たな戦争が起きてしまう可能性があるだけに、あくまで平和的進駐にこだわったことは、すでに紹介した通りです。

進駐に伴う戦闘は発生したものの、仏印軍の降伏によって停戦が成立したため、日本軍の主力は仏印をあとにしました。そのため、ラップ将軍の復国同盟軍は取り残される形となってしまったのです。

日本軍はラップ将軍に対してゲリラ戦で戦いを継続することを勧めたとされますが、ラップ将軍はそれを潔(いさぎよ)しとせず、独立政権樹立を目指して単独でハノイ攻略戦を敢行し、仏印軍に大敗を喫しました。

仏印軍に捕らえられたラップ将軍は銃殺され、復国同盟軍の兵士に対しては大規模な弾圧が徹底されました。兵のなかには行き場を失い日本軍の兵営に逃げ込む者もおり、現地の軍は同情を寄せ、彼らをかくまいました。

現地軍の兵の残した手記からは、ベトナム人がフランス人に虐待される植民地の様を間近に見たことにより、日本兵の多くがベトナム独立のために戦う人々に共感を寄せたことがうかがえます。

このあと日本は特務機関である山根機関を通して、ベトナム独立のための支援活動を秘密裏に展開し、アジア解放のための一歩を仏印で踏み出すことになります。

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