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【独裁者マルコス】悪名高きフィリピン大統領の軌跡
【独裁者マルコス②】マルコスVSニノイアキノ

マルコスはなにを残したのか?

http://www.rappler.com/newsbreak/in-depth/123664-recovering-marcos-ill-gotten-wealth-30-years

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マルコス一族が去ったマラカニアン宮殿には、イメルダの靴1230足のほか洋服6673着、山のような香水や鞄などが残されていました。

イメルダ夫人の度を超した贅沢は、国民に反感を植え付けるに十分でした。フィリピンでは一足の靴さえ買えずに、裸足で歩いている子供たちが大勢いたのです。

庶民の暮らしとはあまりにかけ離れたその贅沢な暮らしぶりは、フランス革命の際、マリー・アントワネットが一片のパンさえ買うことができずに空腹を抱えている国民に対して「パンがなければケーキを食べればいいのに!」と、無邪気に語ったことを思い出させます。

マルコスは亡命から3年半後の1989年9月、失意のうちに世を去りました。72歳でした。

マルコスには明らかに二つの顔がありました。一時期、マルコスはフィリピンの支配構造を変えることで、貧困にあえぐ人々を本気で救おうとしたことがあったのかもしれません。少なくとも政権初期においては、国の行く末を心配する気持ちがあったように思えます。

アメリカを手玉にとり、米軍基地をおくことやベトナムへの派兵を餌に、巨額の資金を引き出すことにも成功しています。

しかし、国を思う気持ち以上にマルコスを捉えたのは飽くなき権力欲でした。マルコスは一度握った権力を手放そうとはしませんでした。金銭への執着やクローニーを優遇したことは、マルコスの負の遺産です。

マルコスの圧政下で多くの犠牲者が出た。犠牲者の写真を前に佇む司祭。

マルコスの圧政下で多くの犠牲者が出た。犠牲者の写真を前に佇む司祭。

マルコスは20年間で50億ドルから100億ドルもの不正蓄財をしたと見られています。ただし、マルコス自身は贅沢な暮らしとは最後まで無縁でした。イメルダ夫人の印象が強いため、マルコスにも庶民離れした王様のようなイメージがつきまといますが、実際は異なります。

マルコスの私生活は極めて質素であったといわれています。食においても贅沢を嫌い、庶民となんら変わらない質素な料理を好みました。故郷の料理であるイロカノ料理を、もっぱら手食で食したとされています。

マルコスは酒も飲まず、タバコも吸いません。衣服にもほとんど金をかけませんでした。大統領になってからも、故郷で暮らしていた頃となにひとつ変わらない質素な暮らしぶりであったと伝えられています。

マルコスは、ただ権力を維持するためだけに金を使ったのです。

一族やクローニーを重用したことはたしかですが、同じことはフィリピンの歴代大統領の多くがやってきたことであり、問題はフィリピンに根付いた悪しき慣習そのものにあります。マルコスの場合は長期政権になったことで、より一段と腐敗が深刻化することになりました。

マルコスははじめて大統領に当選した後の就任演説で述べています。
「外部からの援助を期待することはできない。国家はわれわれの労働と奉仕・自己犠牲の量に応じてだけ、偉大になり得るのだ」

もし、マルコスが自分の言葉の通りに国家のために労働と奉仕・自己犠牲を貫いていたなら、フィリピンは大きく変わっていたかもしれません。

しかし、マルコスは国民に労働と奉仕・自己犠牲を強いたものの、いつのまにか自らはただ私腹を肥やし、権力の座に居続けることに腐心するだけになっていました。

マルコスが去った後、かつての支配層は再び権力を取り戻しました。結局のところ、スペイン・アメリカと受け継がれてきたフィリピンの支配構造は、マルコス政権による洗礼を経ても、なにひとつ変わってはいなかったのです。

コラソン・アキノが残したもの

農地改革の失敗とアシエンダ・ルイシタの抱える闇

http://newsinfo.inquirer.net/346517/cory-aquinos-legacy-remembered-on-her-80th-birthday-friday

http://newsinfo.inquirer.net/346517/cory-aquinos-legacy-remembered-on-her-80th-birthday-friday

<正義を求めるフィリピン国民の大きな期待を背負い、コラソン・アキノ政権がスタートしました。 コラソンは「マルコス政権とすべて正反対の政治を行う」ことを公約として掲げました。そうなると、コラソンの最大の政治課題は農地改革以外にありません。 コラソン政権下で「包括的農地改革計画(CARP)」が進められました。コラソンは語っています。 「主人と奴隷の時代は過ぎ去った。CARLは700万人の農民を貧困ラインから救うことになるだろう」 さらにコラソンはCARLの目的を「大多数の国民の正当な土地所有によって、フィリピン農業の莫大な潜在的富を解放することにある」と宣言し、この政策の実行に自信があることを強調しました。 マルコスにできなかった農地改革をコラソンであれば実現してくれるに違いないと、多くの農民が希望を託したのです。 しかし、フタを開けてみると、農地改革の対象となる土地はわずか176万ヘクタールに過ぎませんでした。土地を持たない農民は100万人以上もいるのに、これではとても足りません。 農民団体は不満の声を上げ、コラソンには本気で農地改革に取り組む気がないと非難しました。農民たちはコラソンに対して、「まずは『アシエンダ・ルイシタ』を解放せよ」と強く要求を突きつけました。 「アシエンダ・ルイシタ」は、コラソンの実家であるココファンコ家がタルラック州に所有する6449ヘクタールの大農園です。 実はCARLは、個人経営の農園と企業化されている農園とを別に扱っていました。「アシエンダ・ルイシタ」はいち早く企業化されていたため、CARLの対象外となっていたのです。 そのため国民は、コラソンが農地改革という国家のために必要な改革よりも、実家の財産を守るという私情を優先させたのではないかと、怒ったのです。 もともと「アシエンダ・ルイシタ」は、スペインの会社からココファンコ家が買い取った大農園です。その資金は政府の保証と融資で支払われましたが、その際ひとつだけ条件が付されました。 10年後には農園に住む小作農たちに土地を分配するという条件です。しかし、約束は守られませんでした。法廷から何度も約束の実行を命令されたため、ココファンコ家は農園を株式化することでこれを逃れたのです。 ちなみに大農園と聞くと、広大な農園がどこまでも広がっているイメージを抱きがちですが、フィリピンの大農園は桁が違います。 アシエンダ・ルイシタには製糖工場もあれば、学校や病院・ショッピングモール・ゴルフ場まで備え、農園で働く労働者とその家族2万人ほどが暮らすための設備が整っていました。つまり、大農園とは「国家のなかの国家」と呼ぶことがふさわしいような一種の王国と思った方が実状に近いのです。 大農園のなかではココファンコ家は王族同然であり、コラソンは幼い頃より王家の姫君として大切に育てられました。そんなコラソンに、自らの手で王国を壊すことなどできるはずがありません。 コラソンの農地改革を批判した農民運動が激しさを増していきました。1987年1月22日午後、マラカニアン宮殿入口のメンディオラ橋で1万5000人のデモ隊と国軍が衝突したそのとき、突然軍が発砲しました。 ▼ メンディオラ橋の虐殺をとらえた動画
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