第一部では、フィリピン経済が長期低迷した本当の理由として、世銀とIMFの介入によってフィリピン経済が沈没していったあらましを紹介しました。第二部はアジア通貨危機にスポットを当て、結果的にIMFが東南アジア・東アジアの国々の経済を崩壊へと導いたさまを、追いかけてみます。
1.アジア通貨危機はアメリカの陰謀か!?
1-1.世界が注目するアジアの経済力
現在、世界経済のなかでもっとも注目されている地域は、間違いなくアジアです。「世界の成長センター」と呼ばれるアジア圏の経済成長には、目覚ましいものがあります。
アジアのなかでもことに活躍が目立つのは、新興国です。アジア新興国は40億人を超える大人口を抱え、経済規模でも約18.3兆ドルと、世界のGDPの25%を占めるほどに成長しています。
中国経済が鈍っているため今後の成長率はやや低下するものの、2020年代前半にはアジア新興国のGDPが、世界のGDPの3割を超えると予測されています。
アジア圏を地域で比較してみると、ここ10年ほどの経済成長率ではASEANがずば抜けています。リーマン・ショックの後に先進国の経済が長期停滞しているなか、ASEANの経済成長率は5%を上回り、世界経済を力強く引っ張っています。
総人口6.4億人を抱えるASEANは、今後も5%前後の安定した成長が見込まれています。
日本と比べてもASEAN諸国の経済成長率の高さはずば抜けている
では、なぜアジアはリーマン・ショックという世界経済を失速させた荒波に足下をすくわれることなく、順調に成長できたのでしょうか?
麻生太郎財務相は、ASEAN財務相・中央銀行総裁会議後の記者会見で次のように語っています。
「2008年のリーマン・ショックの際、アジアへの影響がヨーロッパに比べはるかに少なかったのは、97年の経験則が生かされていたからだ」
「97年の経験則」とは、1997年に起きた「アジア通貨危機」のことを指しています。
アジア経済の今日を語る上で、アジア通貨危機は欠かせません。通貨危機から始まった経済危機は、その深刻度において前例のないものでした。東アジアと東南アジアの国々は突然の嵐に巻き込まれ、ある国は国家がなくなるのではないかと心配されるほどの苦境に追い込まれました。
アジア通貨危機から20年が過ぎた今、あのときいったい何が起きていたのか、なぜあれほどまでに事態が悪化したのか、ほぼ明らかになってきています。
アジア通貨危機を乗り越えることでアジア各国の経済は、より強くなりました。その経験則を活かすことでリーマン・ショックの荒波にも柔軟に対応し、安定した経済成長を実現できたのです。
アジア通貨危機を通して、アジア各国はいったい何を学んだのでしょうか?
1-2.アジア通貨危機をめぐる今日の見解
経済的植民地からの独立宣言
その日、タイの国営放送ではプミポン国王を讃える合唱が厳かに流れたあと、タクシン首相が大きなタイ国旗の前に立ち、力強く宣言しました。
「我が国は、二度と国際金融資本の餌食になることはない!」
2003年8月、タイ政府は1997年に起きた通貨危機の際にIMFから借りていた資金の返済を、すべて終えました。予定より2年早い完済でした。
それをタイ国民に知らしめるための国営放送で、タクシン首相は終始強気に振るまい、タイ経済の復活を内外に印象づけました。それはまさにタイ国が、前例がないほどの深刻な経済危機を克服した勝利宣言でした。
タイのマスコミはこれを一斉に「タイはようやくアメリカの経済的植民地から独立した」といった趣旨の論説で歓迎しました。
「経済的植民地」という言葉は、第一部のフィリピン独立後の状況を表す際にも用いました。実際のところ、当時のフィリピンやアジア通貨危機後のタイでは、マスコミの報道のなかに「アメリカの経済的植民地」という言葉が、よく見受けられます。両国の多くの人々がそのように感じる社会状況があったことは間違いなさそうです。
タイから端を発したアジア通貨危機がアメリカの陰謀だとする説が、タイでは広く流れています。タイばかりでなく、1997年の通貨危機で痛い目にあった国々の間には、アメリカによる陰謀論がまことしやかに流れています。
なぜ、そのような説が広がったのかと言えば、大きくふたつの理由にわかれます。ひとつは、アメリカがアジアの国々に薦めたグローバリズムこそがアジア通貨危機が起こった温床であり、アメリカが意図して通貨危機を仕組んだのではないか、といった疑惑があること。
もうひとつは通貨危機の際、アメリカの意図を受けて救済に入ったIMFが押しつけた政策こそが、タイ経済を崩壊に導いた元凶だと受け止められているためです。
タイ以外の国についても、その背景は大差ありません。東南アジアのほとんどの国は、冷戦下においてアメリカの陣営に属していました。アメリカは共産化を防ぐために、アジアの国が有利になるようにドルペッグ制を敷いていました。
ドルペッグ制とは、自国の為替相場をドルと連動させる固定相場制のことです。ドルペッグ制により東南アジアの国々は、ドルと同じ安定を得ることができました。通貨の安定こそが、東南アジアの高度経済成長を支えた鍵です。
しかし、冷戦が終わったことでアメリカは、東南アジアの国々を支える意味を見失いました。このままドルペッグ制を維持すればアメリカの負担が増すばかりで、メリットが薄かったのです。
結果だけを見れば、アジア通貨危機によってドルペッグ制が崩れ、アメリカの負担は一気に軽くなりました。通貨危機が起きたことでアジアに注ぎ込まれていた国際資金は一斉に引き揚げられ、安定したドルへと流れ込みことになったのです。その結果、アメリカの株式は最高値を更新し続け、ウォール街を大いに潤わせました。
こうした背景から、アジア通貨危機がアメリカによって引き起こされた謀略だったとする説は、今日でも多くの人々に信じられています。
本当でしょうか?
その真偽をたしかめるために、1997年に時計の針を戻してみましょう。
それはバーツ暴落から始まった
1997年の4月、ヘッジファンドを中心とする外国人投資家が一斉にタイバーツを売り始めました。いわゆる通貨アタックです。
ヘッジファンド
投資家(個人、金融機関、年金基金など)から預かった資金を運用し、相場の上下変動にかかわらず収益を追求する投資ファンド。反対売買などを組み合わせることで、リスクを回避(ヘッジ)しながら運用するのでこうよばれる。巨額資金を投機的に運用するヘッジファンドが多く、1997年のアジア通貨危機や2008年の世界金融危機などの元凶となったとされるが、世界的なカネあまりを背景にヘッジファンドへの資金流入が続いている。日本大百科全書(ニッポニカ)の解説より引用
当時は1ドル=25パーツという固定相場レートが維持されていました。しかし、ドル高が続いていたため、ドルに比べてタイバーツの割高感が強いことは誰の目にも明らかでした。このあたりの事情はすでに紹介した通りです。東南アジアの通貨はアメリカの思惑から優遇されていたため、どの国の通貨にも割高感が漂っていました。
これに目をつけたのが、ヘッジファンドなどの外国人投資家グループです。通貨アタックの際に用いられるのが「空売り」です。通常はバーツを買うことからはじめ、買ったときよりも高くなったときに売ることで利益を出します。ところが「空売り」は、この逆です。はじめに売りから入り、バーツが下がったところで買い戻すことで利益を出します。
大量のバーツが一斉に売られれば、バーツの為替レートは自然に下がっていきます。そこでタイ政府は通貨の防衛に走ります。ドルペッグ制では通貨が固定されていますが、為替相場がオープンになっている場合は政府が市場に介入することで、固定相場を守る必要があります。
具体的には売られたバーツを政府がすべて買い支えることで、バーツの下落を防ぎます。この際、バーツを買うためにはドルが絶対に必要になります。タイ政府はバーツを守るために、普段から多くのドルを用意しています。これを「外貨準備高」と呼びます。
通貨アタックが仕掛けられたことで、バーツを売り浴びせる外国人投資家グループと、バーツを買い支えるタイ政府の激しい争いとなりました。こうなると、外国人投資家グループの資金とタイ政府の外貨準備高のどちらが先に尽きるかの勝負です。
タイは日頃から十分な外貨準備高を蓄えていましたが、2ヶ月の間に3度にわたって繰り返された大規模な通貨アタックは、タイ政府の予想をはるかに上回っていました。わずか2ヶ月の間に、およそ30億ドルを超えるバーツ売りが仕掛けられたのです。それは、1996年度の年間取引高の3倍を超えていました。
1997年7月2日、ついにタイ政府はバーツの買い支えをあきらめます。これを「変動相場制への移行」と呼んでいますが、要するに通貨のコントロールができない状況に追い詰められたことを意味しています。
買い手を失ったバーツの対ドルレートは、急落しました。アジア通貨危機のはじまりです。
大方の予想を裏切り深刻な事態へ
東南アジアの優等生と言われていたタイが通貨の防衛に失敗したことは、東南アジア各国を震え上がらせました。
タイバーツの下落により、外国人投資家グループは巨額の利益を手中に収め、すでにその視線は次の獲物を追いかけています。外国人投資家グループにしてみれば、タイバーツも他の東南アジアの国々の通貨も割高であることに変わりありません。タイバーツと同様に一斉に通貨を売り浴びせることで、再び巨額の利益を稼げるのだから笑いが止まりません。
インドネシア・フィリピン・マレーシアへと通貨危機は広がり、東アジアの大国であった韓国さえも飲み込んでいきました。タイを筆頭に、アジアの多くの国々がIMFに救済を願い出るよりない状況へと追い込まれていったのです。
さらに通貨危機は、翌年にはロシアに飛び火しました。タイバーツの暴落から始まったアジア通貨危機は、世界経済に深刻な悪影響をもたらしたのです。
まさかタイというひとつの新興国の通貨の暴落が、これほどまでの災厄を世界経済にもたらすとは、誰も予想していないことでした。
当時、東アジアと東南アジアの経済は、世界経済を引っ張る役割を果たしていました。日本を代表とするアジア圏の経済成長はすさまじく、1990年代の世界における経済成長の半分は、この地域が占めていました。世界の資本支出の三分の二は、この地域に集中していたのです。
通貨危機が始まるまでのアジア経済のパフォーマンスは極めて良好でした。ドル高円安による多少の悪影響を受けてはいたものの、ほとんどの国の国家財政は黒字で、インフレ率も低く抑えられていました。外貨準備も良好で、量的にも安定していました。経済が停滞するような兆候は、まったく見当たらなかったのです。
アジア経済の足腰がしっかりしていただけに、少なくとも先進国が経験してきた過去の経済恐慌や景気後退と比べても、深刻な事態に陥ることはないと予測されていました。ところが……。
金融危機はなぜ起きたのか?
大方の予想に反して通貨危機は金融危機へと発展し、事態をより深刻化させました。
図表の参照元:第5回 国際金融論 通貨統合より
通貨危機の発生が金融危機へとつながっていったのは、危機を察知した外国の銀行が一斉に融資を引き上げはじめたからです。通貨危機に遭遇したタイ・インドネシア・マレーシア・フィリピン・韓国の5カ国に共通していたのは、これらの国の企業の多くが外国の銀行の融資に頼っていたことです。
しかも借入はドル建てであり、債務の大半は短期のものでした。これまでは短期債務であっても支払期限が近づくと繰り延べされていたため、特に問題も起きていなかったのです。
ところが通貨危機を境に、外国の銀行は短期債務の繰り延べに応じることなく、ただちに返済を迫りました。企業経営に問題はなくても債務の返済を一気に迫られては、大抵の企業が音を上げます。
やむなく企業はもっている資産を売却してバーツに換え、さらにバーツを外国銀行への返済のためにドルに換えようとします。通貨危機の最中にバーツを買ってドルを売ってくれる企業や個人がいるはずもなく、もっぱら政府がこれを引き受けるよりありません。こうして十分に蓄えてあったはずの外貨準備高がどんどん減っていき、やがては底をつきます。
こうなると企業はばたばたと倒産し、企業に貸し付けていた資金を回収できなくなった金融機関の経営も一気に傾くことになります。こうして通貨危機が引き金となることで、金融危機が引き起こされました。
本当は資金が一時的に足りなくなっただけのこと
上記の過程を見ていくと、あるひとつのことに気がつきます。通貨危機に陥った国の政府にしても企業にしても、支払い能力がなくなったことで機能不全に陥ったわけではないことです。
今日ではアジア通貨危機とは、「流動性の危機」であったとする考え方が大勢を占めています。「流動性の危機」は経済用語のため、じっくり解説すると余計にわかりにくくなります。そこでここでは、ざっくりと説明することにします。
タイ政府がバーツの買い支えをできなくなったのは、タイの国庫がカラになったせいではありません。経済大国であるアメリカや日本とは比較にならないものの、タイは安定して経済成長を遂げてきた豊かな国です。危機に対処する力は十分に備えていました。ただ問題は、一時的に外貨準備高が底をついてしまったことです。
タイの企業にしても同じで、経営は安定していました。ただ問題は、一度に返済を迫られたため、一時的に資金が足りなくなってしまったことです。
このように、予期しない資金の流出によって資金繰りがつかないことを「流動性の危機」と呼びます。
通貨危機によってアジア圏の経済はズドンと落ち込みましたが、その後の急速な回復ぶりを見ても、経済自体に問題がなかったことがわかります。アジア通貨危機の本質は、たまたま資金繰りが追いつかないことで発生した程度の一時的な問題に過ぎなかったのです。
そうであれば、通貨危機に陥った国々がIMFに救済を求めたとき、IMFがなにをしなければいけなかったのかが簡単にわかります。
IMFは通貨危機に陥った国の政府に対して「最後の貸し手」として振る舞い、危機を収めるために必要なだけの資金を素早く提供するだけでよかったのです。
加盟国で起きた経済危機が近隣諸国や世界に広がらないように、加盟国のドル準備をサポートする目的で設立された機関がIMFです。最後の貸し手としての役割を果たすことこそが、IMF本来の仕事です。
ところがIMFは、そうはしませんでした。今日、アジア通貨危機におけるIMFの対応が非難の的になっているのは、IMFが最後の貸し手としての役割を果たさなかったからです。
IMFは救済の仮面をかぶることで、通貨危機に陥った国の内部に巧みに入り込みました。タイでもはじめのうちは、IMFを救世主のように持ち上げていました。
しかし、しばらくすると、IMFの正体に多くの人々が気づくことになります。通貨危機に陥った国でIMFが果たした役割は、とても救世主と呼べるものではありませんでした。
IMFが果たしたのは、まさに死神としての役割だったのです。
救済の仮面をかぶった死に神
アジア通貨危機の概要とIMFプログラムの比較
図表の参照元:経済産業省 第1節 新興国等の経済ファンダメンタルズより
IMFが緊急融資を行う際には、必ずなんらかの条件がつくことは第一部でも紹介しました。アジア通貨危機の際も同じです。最後の貸し手であるIMFに救済を求めてきた国に対して、IMFは条件付きで融資を行いました。
その条件とは、抜本的な自己改革です。その国の構造や制度を、アメリカの押し進めるグローバリゼーションに適合するように変えていくことです。
グローバリゼーション( globalization )
国家などの境界を越えて広がり一体化していくこと。特に、経済活動やものの考え方などを世界的規模に広げること。グローバライゼーション。
<デジタル大辞泉の解説より>
グローバリゼーションでは市場を自由に任せ、政府による規制を取り払うことが重要とされています。そのため、資本の移動を自由化すること、金融部門の規制緩和を行うこと、政府の干渉を極力抑えることが求められました。
さらにIMFは投資家の債権回収ばかりを優先するあまりか、その国の経済にとって長期的な利益にはつながらない政策を押しつけました。財政緊縮と金融引き締め、そして金利の引き上げです。
これらの要求は、通貨危機を救済するための対応としては不必要に厳しいものでした。しかも厳しい条件を課しておきながらも、IMFによる資金の供給が渋りがちであったことも批判されています。
それでも、IMFの要求に従うことで経済危機を抑えることができたのであれば、まだ納得もできます。問題はIMFの押しつけた政策により、企業の資金繰りがますます厳しくなってしまったことです。
通貨危機が「流動性の危機」から引き起こされている以上、IMFの果たすべき役割は企業に十分な流動性を供給することであったはずです。
ところが結果的にIMFは、まったく逆効果の処方箋(しょほうせん)を押しつけました。そのため、IMFの処方を信じて従った国々には悲惨な結末が待っていたのです。
この続きは次回、紹介します。