アジア通貨危機を追いかけるシリーズの2回目です。
1-3.IMFはいかにアジア経済を崩壊に導いたのか
アジア通貨危機の年表
まずはじめに、アジア通貨危機で起こったことを時系列で並べてみます。ざっと目を通してから記事を読んでいただければ、よりわかりやすいことでしょう。
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アジア通貨危機の年表
1997年5月 | タイバーツへの通貨アタック開始 |
1997年7月 | タイバーツへの投機売りが加速し、タイバーツ崩壊 |
タイが変動相場制に移行 | |
フィリピン・マレーシア・シンガポールへの通貨アタック開始 | |
フィリピンペソ急落 | |
フィリピンが変動相場制に移行 | |
1997年8月 | タイがIMFからの融資受け入れ |
マレーシアリンギット、インドネシアルピア急落 | |
インドネシアが変動相場制に移行 | |
1997年9月 | 香港での国際金融会議にて日本とASEANがアジア通貨基金構想を提唱 |
バンコクでASEAN 蔵相会議が開催され、日本提案が全面的に支持される | |
アメリカがアジア通貨基金に対する反対を表明 | |
1997年10月 | 台湾とシンガポールに対して通貨アタックが行われるが失敗 |
香港ドルへの通貨アタック開始 | |
香港ドル防衛のために金利を上げたことで香港株が急落、世界同時株安へ | |
IMFがインドネシアへの金融支援発表 | |
1997年11月 | タイのチャリワット政権が崩壊 |
韓国ウォン急落 | |
韓国が日本に対してアジア通貨基金による融資を申し入れるも、アメリカの反対のため日本は拒否 | |
韓国はIMFに緊急支援を要請 | |
日本で山一証券破綻 | |
1997年12月 | 韓国がIMFから融資受け入れ |
1998年1月 | 通貨下落が底を打つ |
通貨価値の下落幅は次の通り インドネシア・ルピア81%、タイ・バーツ56%、韓国ウォン55%、マレーシア・リンギット46%、フィリピン・ペソ42% |
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1998年5月 | インドネシアで暴動激化、スハルト政権が崩壊 |
1998年6月 | 米フィナンシャル・タイムズ紙が日本の金融市場を懸念、「日本株式会社は死にかかっている」と報じる |
中国が元の防衛に成功したと勝利宣言、「世界の金融政策形成に対する影響力を持つものとして登場した」と表明 | |
1998年7月 | マレーシアのマハティール首相がIMF路線で財政再建を図るアンワル副首相を更迭 |
マレーシアはIMFに頼ることなく独自路線で財政再建を図ることを表明 | |
1998年8月 | 通貨危機がロシアに飛び火してロシア金融危機発生 |
通貨危機が「アジアの特殊性に基づく」と批判していたIMFとアメリカ財務省の考えが間違っていることが判明 | |
金融危機が中南米へも波及 | |
1998年9月 | マレーシアがドル・ペグ制を復活 |
IMFと欧米によるマレーシア批判強まるも、日本は支持を表明 | |
1998年10月 | 日本が300億ドル規模のアジア支援策「新宮沢構想」を発表 |
日本長期信用銀行が破綻 | |
2000年5月 | 日中韓ASEANが金融危機時に外貨を融通し合う「チェンマイ・イニシアティブ」に合意 |
2003年8月 | 日中韓ASEANが「アジア債券市場育成イニシアティブ」に合意 |
2008年9月 | リーマン・ショック発生 |
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緊縮財政はなにをもたらしたか
フィリピンのマルコス政権やコラソン・アキノ政権をはじめ、IMFが主導した緊縮財政によってフィリピン経済が長期低迷を余儀なくされたことについては、第一部で詳しく紹介しました。
当時のフィリピンにしても、アジア通貨危機に見舞われたアジアの国々にしても、起きていたのは景気後退です。
景気が後退しているときには、景気を刺激するための拡大財政策こそが必要であると経済の教科書には書かれています。それは経済学を学びはじめた学生であれば、誰でも知っている常識といってよいでしょう。政府に求められているのは、雇用を守るために動くことです。
ところが緊縮財政のもとでは、雇用を守るための政策が一切封じられます。経済は不況に向かい税収は減少する一方ですが、予算がとれないため、政府は手をこまねいているだけでなんの対策も打てません。
緊縮財政の目的は、経常収支の赤字を減らすことです。経済力が極端に弱まるなか、経常収支の赤字を減らすことをIMFに迫られたため、どの国もたったひとつの方法に頼るよりありませんでした。それは、輸入を減らすことで貿易収支を黒字に保つことです。
これにより貿易収支はたしかに黒字になり、外国の債権者に返済するための資金をつくれるようになりましたが、その国の経済はどん底へと落ち込むことになりました。
さらに最悪だったのは各国が一斉に輸入を減らしたために、どの国の輸出も大きく減ってしまったことです。輸入を減らすということは、貿易の相手国にとっては輸出を減らされることと同じだという単純な理屈を、IMFの官僚たちは見落としていたのでしょうか?
つまり緊縮財政をとることで下降一直線をたどる経済は、地域一体へと広がっていったのです。こうしてタイから始まった通貨危機はアジア一帯の経済を下降させ、やがては世界全体へと広がっていきました。
その元凶は、IMFが強いた緊縮財政に求めることができます。
金利引き上げにより連鎖する企業倒産
IMFは緊急融資の条件として金利の引き上げを求めました。その理由は驚くほど単純です。「金利を上げれば高い金利を目当てに、その国の通貨を買う動きが加速して通貨安が止まる。株にしても債券にしても金利が高ければ投資対象としての魅力が増すため、その国に資本が流れ込んでくる。資本が外国から入ってくれば為替相場が安定する」
この理屈を元に、IMFは経済の常識と照らし合わせれば天文学的なレベルの金利引き上げを求めました。金利を大きく引き上げなければ、投資対象としての魅力がかげってしまうからです。
金利を上げることで外国から投資目的の資金が活発に流れ込んでくることは、経済の常識です。そのため、IMFの掲げた理屈は一見すると正しいようにも思えますが、ちょっと考えてみれば大きな矛盾を抱えていることに気がつきます。
金利を上げれば、借金の返済額が上がるという当たり前の事実です。会社の債務が大きいときに高い金利を課されればどうなるのかは、容易に想像がつきます。それは多くの会社にとって、死を宣告されるも同然のことでした。
実際、高い金利の影響で経営難に陥る会社が続出しました。東アジアと東南アジアの企業の多くは借入金に頼りすぎる傾向をもっていたため、予期せぬ高い金利を課せられるとたちまち身動きできなくなったのです。そのことはIMFも十分にわかっていたはずです。
高い金利を課せられた国の企業の多くが、倒産へと追い込まれました。インドネシアはことに悲惨で、企業家の約75パーセントが経営難に陥りました。
企業が倒産したり経営難に追い込まれると、銀行融資の返済が滞ります。タイでも銀行融資の50パーセント近くがこげつきました。こうして銀行は多額の不良債権を抱えることで、ますます弱体化していったのです。
IMFを鋭く批判する一人であるノーベル経済学賞受賞者であるジョセフ・E・スティグリッツ教授は、著書「世界を不幸にしたグローバリズムの正体」のなかで次のように綴っています。
クリントン大統領が連邦準備銀行(FRB)と会談したときのことを思い出す。大統領は苛立っていた。当時の議長は前政権から任命されていたアラン・グリースパンで、彼は金利を 0.25パーセントか 0.5パーセントまで引き上げようとしていたのだ。クリントンは自分が大事にしていた経済の回復がぶちこわされるのを恐れていた。
(略)
クリントンは金利の引き上げが失業率と、ちょうど回復したばかりの経済に悪影響をおよぼすのではないかと恐れた。これは、世界でもとりわけビジネス環境のととのった国での話である。にもかかわらず、政治的にほとんど説明責任を負わなくてすむIMFは、東アジアでこの金利の引き上げをせまった。それも 25パーセント以上引き上げろとせまったのだ。
クリントンが回復に向かっている経済に 0.5パーセントの引き上げが及ぼす影響を懸念していたとすれば、景気後退に突っ込もうとしている経済に 25パーセントの引き上げがおよぼす影響を考えたら卒倒しただろう。
韓国はまず 25パーセントまで金利を引き上げたが、真剣にやる気があるのならもっと引き上げなければいけないと言われた。インドネシアは自国が危機におちいる前に先手を打って金利を引き上げたが、それでも十分ではないと言われた。金利は途方もなく上昇した。
ジョセフ・E・スティグリッツ著「世界を不幸にしたグローバリズムの正体」(徳間書店)より引用
金利を上げる際には、たとえわずかとはいえ、どの国の政府も慎重になります。ところが通貨危機に陥った国に対してIMFは、ためらうことなく高い金利を要求しました。
誤った緊縮財政で需要が著しく減っているなか、高金利という追い打ちをかけることで、企業は次々と連鎖倒産へと追い込まれたのです。
それでもIMFの読み通りに外国から資本が流れ込んでくるのであれば、まだ救いはあります。しかし、IMFの読みは見事に外れます。
いくら金利が高くても、企業倒産が相次ぎ経済が明らかに冷え込んでいる国に対して投資を行う人投資家など、いるはずもなかったからです。
それにしても、IMFにはチェスの得意な人はいなかったのでしょうか? 少し読みを入れれば子供でも見通せる単純な結果を本当にうっかりしたのか、 あるいは意図的だったのか、謎は深まります。
金融再構築の大失敗
IMFは金融と企業の再構築にもこだわりました。アジアの新興国に共通して見られるのは、企業の借入比率が高いことと金融機関が弱いことでした。そこで、金融機関の強化が必要だとIMFは判断しました。
金融機関を強くするためにIMFがとった対策は、あまりにも過激でした。不良債権を抱えて困っている銀行はつぶしてしまえ、それが嫌なら外国資本に乗っ取らせてしまえ、簡単にまとめてしまえば、そういうことです。
IMFは銀行を再構築するために、次の二つのうち、どちらか一つを選べと迫りました。ただちに自己資本比率の基準を満たすか、倒産するかのどちらかだと……。
自己資本比率とは、融資に回すことなく残しておかなければいけない資本の割合です。一般的に、自己資本比率が高いほど健全で強い銀行といわれています。
どちらかを選べと言われ、では倒産しますと申し出る銀行があるはずもなく、どの銀行も生き残りをかけて自己資本率を高くせざるを得ません。この場合、銀行にはふたつの手段があります。
新たに資本を増やすか、融資を減らすかのどちらかです。経済不況が深刻度を増す最中に資本を増やそうとしても、誰も出資してはくれません。となると、残るは融資を減らすことだけです。
では、すべての銀行が一斉に融資を減らせば、どうなるでしょうか?
少しだけ先を読んでみてください。これまで紹介してきた流れと大差ありませんから、さほど難しくはありません。
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IMF → 「自己資本率を高くしなさい!」
↓
銀行 → 「困ったな、どうしよう!」
( 選択肢1 )
資本金を増やす
↓
誰も出資してくれないから無理
( 選択肢2 )
融資を減らす
↓
企業への貸し渋り
↓
企業 → 「貸してくれなきゃ、お金がないよ!」
↓
運転資金が足りないから、生産縮小
↓
生産が減ったから売上げ激減
↓
銀行 → 「前に貸した金をすぐに返せ!」 → 企業 → お金がなくて返済できないから倒産
↓
銀行 → 「貸した金がちっとも返ってこないぞ!」
↓
銀行の不良債権、激増
↓
銀行倒産
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どの企業も一時的に資金繰りが追いつかなくなって困っているときに、銀行が一斉に貸し渋りに走るとなれば、企業の資金繰りは確実に行き詰まります。さらに銀行はすでに融資した分の返済も、待ったなしで迫ってきます。この効果は絶大で、企業倒産が相次ぐことになりました。
数少ない優良企業さえも、大きなダメージを受けることになります。これまで運転資金を融資してくれていた銀行が突然それを拒否し、逆に返済を迫ってくるのだからたまりません。
十分な運転資金を得られなくなった企業は、どこも生産を縮小するより生き残る術がありません。生産を縮小すれば、その下請け会社や取引先の需要も減ります。こうして経済全体がさらなる下降スパイラルへと陥りました。
この悪循環は、輸出の伸びをも妨げました。通貨が安くなったことで製品価格が下がるため、本来であれば輸出が伸びても良さそうなものですが、多少増えたものの期待されたほどではありませんでした。
輸出を増やすには生産量を増やす必要がありますが、運転資金を得られなかったため生産もままならなかったためです。融資が削減されるなか、どの企業も現状維持が精一杯で生産量を増やすどころではなかったのです。
企業の多くが倒産に追い込まれ、銀行の不良債権はさらに膨れあがりました。こうなると銀行の自己資本比率は低くなる一方です。
結局のところ、IMFが主導した銀行の自己資本比率を高めるという試みは、銀行が自ら真綿で首を締めるようなものでした。これにより多くの企業が倒産し、多額の不良債権を抱えた銀行も倒産へと追い込まれたのです。
ここでもインドネシアの状況は悲惨の一語に尽きます。インドネシアではIMFの指導のもと、16ほどの銀行が預金者保護が徹底されないまま閉鎖されました。さらに他の銀行もつぶれるかもしれないという通告がなされたため、預金者は一斉に預金の引き出しにかかりました。
これによりインドネシアの銀行の多くは破綻し、経済は完全に崩壊へと追い込まれたのです。
IMFによる金融再構築は大失敗に終わりました。緊縮財政を強いたことも、金利を引き上げたことも金融再構築も、それぞれが相まって事態をより深刻化させました。
通貨危機により今にも溺れかかり、水面ギリギリであっぷあっぷしていた国々に対してIMFの為したことは、安全圏に引き上げることではなく、まさにその足を引っ張り海の底へと引きずり込むことでした。IMFが死神と称されるのは、そのためです。
インドネシアの悲劇
先ほどから強調しているように、IMFに支援を仰ぐことで最も悲劇的な状況に追い込まれたのはインドネシアです。
当初、インドネシアの通貨危機はタイほど切迫した状況にはなく、本格的な危機に陥る前に予防的な意味を込めてIMFに支援を求めました。
ところが、IMFが支援の条件として提示したのは、インドネシアの構造改革でした。たしかにインドネシアではスハルト大統領が一族を重用し過ぎたため、政治的な腐敗や汚職が進んでいたことはたしかです。
しかし、今回の経済危機と政治状況には直接関係はありません。そこまで踏み込むのは内政干渉以外の何ものでもなく、IMFが設立された目的とは大きく外れています。
しかも構造改革には「森林再生」なども含まれており、多くの識者の反発を呼びました。
前回紹介したスティグリッツ教授も次のように述べています。
「一体、『森林再生』が通貨危機とどう関係するのかと聞きたくなる。なぜ、ここまで雑多なリストをインドネシア政府に要求したのか?」
結局、「欧米諸国はIMFの融資と引き換えに、欧米の信奉する経済自由主義をインドネシアに押し付けているだけであり、インドネシア政府自身が最善と考える政策を無視しているのではないか」、といった批判が各界から寄せられました。
IMFの支援が決まった後もスハルト政権は、IMFのごり押しするプログラムに従うことを良しとせず、抵抗を続けました。スハルト政権はIMFの推す緊縮財政ではなく、財政を拡張する景気対策で通貨危機を乗り切ろうとしたのです。
しかし、最後に圧力をかけてきたのはIMFではなく、アメリカでした。サマーズ財務副長官とコーエン国防長官がインドネシアに直接出向き、スハルト大統領を説得しました。
その圧力に負けてIMFに従うと決めたとき、インドネシアの命運は決まったと言ってもよいでしょう。
他の支援国同様に、インドネシアに対しても極端な緊縮財政が強要されました。なかでもIMFにより、貧困層への食料と燃料の補助金が徹底的にカットされたことは、インドネシアに大きな災厄をもたらしました。各地で暴動が発生したのです。
IMFは、230億ドルの資金を為替相場を支えるための資金として提供しましたが、その代わりにスハルト政権が貧困層を助けるために用意してあった補助金をすべて取り上げました。
もともとインドネシアは民族間の争いを抱えており、暴動が起きやすい状況にありました。そうした不穏な社会状況のなかで貧困層への援助を打ち切ればどうなるのかは、簡単に想像がつきます。
IMFがそのことに考え及ばないはずがありません。なぜなら過去にもIMFは、世界各地の支援活動で食料の補助金をカットする度に、何度も暴動が起きる様を見てきているからです。
暴動が起きた後、IMFはあわてて食料の補助金を復活させたものの、あとの祭りでした。すでに暴徒化した民衆を止める手立てはなく、スハルトは大統領の座を追われました。
IMFの政策によりインドネシアの金融はパニックとなり、企業倒産が相次ぎました。もはやインドネシアは国家としての体裁を繕うのがやっとの状況だったのです。
インドネシアに注入されたIMFという劇薬は、インドネシアを見事に崩壊に導きました。これにより何千万人というインドネシア人が貧困の最低ライン以下の生活に追い込まれ、子供の死亡率が急上昇しました。
国連の調査団は、インドネシアでは2歳以下の子供の半数以上が栄養失調に陥っており、脳の大事な成長過程で障害が起きる可能性があると報告しています。
フィリピンの被害が少なかった理由
アジア通貨危機を受けてフィリピン経済も悪影響を受けましたが、その深刻度はタイやインドネシアに比べると軽いものでした。98年の第1四半期の実質GDP成長率を比べても、そのことは明らかです。
フィリピンは前年比1.7%とプラスを維持しています。周辺アジア諸国が軒並みマイナス成長に陥るなか、フィリピンは景気後退をわずかな範囲に留めることに成功しています。もともとIMFの管理下にあったとはいえ、通貨危機を原因とする新たな支援に頼らずにすんだことは、フィリピンにとって幸運でした。
では、なぜフィリピン経済はアジア通貨危機の影響をわずかにとどめることができたのでしょうか?
その最大の原因は、フィリピンはすでに1984年からIMFの支援を受け入れており、緊縮財政によって経済成長が鈍っていたからです。そのため、タイのようにバブルが発生する状況にはありませんでした。
第一部でも紹介したように、フィリピンではIMFの支援を受けたことで企業や金融機関の倒産が相次ぎました。投機的な融資に走る余裕が、金融機関にも企業にもなかったのです。
長引く経済停滞が外国資本の流入を抑えたことも、被害を最小限に抑えた理由のひとつです。タイや韓国と比べると外国の銀行から融資を受けている企業が少なかったため、通貨危機が起きても企業が返済に困る状況は生まれなかったのです。
通貨危機に遭遇してもバブルが起きていなかったフィリピンでは、金融機関と企業の健全さが保たれたため、ペソ安を背景に輸出が伸びることで景気を下支えしました。
通貨危機によってIMFの支援を受け入れた国々が経験している痛みを、フィリピンはすでに先取りしていたため、今回の災厄を避けて通ることができたといえるでしょう。
1-4.封じられた日本の援助
政府による市場介入をめぐり、日米で高まる緊張関係
東アジアで起きた通貨危機を、日本もただ傍観していたわけではありません。経済大国にのし上がった日本も積極的にアジア各国に出資していました。援助の際日本は、援助国に対してより強い政府介入による経済戦略を働きかけました。
国家が主導することで産業を育成するというスタンスは日本が一貫して行ってきたことであり、それゆえに短期間で経済大国に成長できたという自負があります。どちらかといえば日本の経済政策は、社会主義国の計画経済に近いものでした。そのため日本は「世界で唯一成功した社会主義国」と呼ばれることがあります。
しかし、政府主導による日本の経済スタンスは、アメリカの意向とは相反するものでした。アメリカや欧州では新自由主義が押し進められていました。新自由主義とは、「人間にとって『自由』がもっとも大切だから、他人に迷惑をかけなければ何をしても自由にすべき」という考え方を、経済政策にも当てはめようとするものです。
市場には自己調整能力があるのだから、政府が介入しなければすべてうまく行く、といった考え方です。政府による市場への介入を防ぐために規制緩和が推し進められ、公共機関の民営化などが促進されます。
つまり、市場に政府が積極的に介入すべきという日本と、政府は一切介入すべきではないというアメリカとの間に明らかな対立関係が生まれたのです。
1986年、日本はフィリピンに対し、政府が補助金を出すことで産業を守るための基金の提供を申し出ましたが、世銀の猛反対でつぶされました。世銀はフィリピン政府がいかなる補助金を出すことも否定したのです。
日本はこれに反発し、「アジアの経験が示すところのものによれば、政府の役割は否定されるべきではない」と食い下がりましたが、世銀に一蹴されました。
これを機に日米間の緊張が高まりました。アメリカが日本に、「もっとアメリカ型の自由市場を構築すべきである」と主張したのに対し、日本は「むしろアメリカの組織こそが改革の対象にされるべきである」と主張して譲りませんでした。
バブル崩壊前の日本は、アメリカと対等に渡り合っていました。当時は日本一国で先進諸国の純貯蓄額の半分を占め、世界最大の外国投資国になっていました。ちなみに当時のアメリカの純貯蓄は、わずか5%を占めるにとどまっています。事実上、アメリカの双子の赤字を埋めていたのは、日本の金融機関でした。
潰されたアジア基金構想
1997年8月、アジア通貨危機が起こると日本はアジア通貨基金の設立を提案しました。通貨危機に陥った国に対して、日本を中心に中国・香港・台湾・シンガポールなどが 1000億ドルの提供を申し出たのです。
その資金は景気刺激策に供給するためのものでした。しかし、アメリカ財務省はあらゆる手段を使ってこれをつぶしにかかりました。
1000億ドルもの巨額の融資が実現すれば、どの国もIMFの支援を断ることが目に見えていたからです。通貨危機にあえぐ国々が「金は出すが緊縮財政をしろ、金利を上げろ、あらゆる介入はするな」というIMFと、「金を出すから政府による積極的な景気刺激策をしろ」と薦めるアジア通貨基金のどちらを選ぶかは、考えるまでもないでしょう。
アジア通貨基金の設立は、アジアに対するアメリカの支配権を揺るがす行為だったのです。
バンコクで開かれたASEAN蔵相会議において、日本の提案は全面的に支持されました。しかし、アメリカは強硬に反対し続け、9月に開かれたG7ではヨーロッパ諸国もアメリカに同調し、アジア通貨基金に対する懸念を表明しました。
ルーピン財務長官は10月に日本の大蔵大臣をワシントンに呼びつけ、 アジア通貨基金構想の見送りを約束させました。
もし、アジア通貨基金が実際に設立されていたなら、通貨危機に陥った国々に豊富な資金を供給することで、初期の段階で通貨危機をきれいに収束できていたかもしれません。少なくとも、IMFの支援を受けた国々が経験しなければいけなかった悲惨な状況だけは、避けられたことでしょう。
アジア通貨基金がアメリカによって潰(つぶ)されたことは、今でもアジア各国の恨みをかっています。
ここまで、アジア通貨危機を救済するために入ったIMFによるプログラムが、いかにアジア各国の経済を崩壊に導いたかについて紹介してきました。最終回となる次回は、IMFによる救済を断り、独自に金融危機にあたったマレーシアがどうなったのかを見ていきながら、他国が通貨危機をどう乗り越えたのかを紹介します。