1,全土に戒厳令、発令!
1972年9月23日未明、マルコスはフィリピン全土に戒厳令を布告しました。
戒厳令に踏み切ったのは、22日にエンリレ国防長官の暗殺未遂事件が発生したからです。共産主義勢力による政府転覆を計る陰謀計画があるとして、非常事態が宣言されました。
戒厳令によって憲法が停止され、議会はただちに廃止されます。
このときマルコスが国民に向けて訴えたのが「中央からの革命」です。持てる少数者が持たざる多数者を支配するフィリピンの抱える不公平な社会をぶち壊し、新たな社会を築くことを国民に宣言したのです。
財閥の解体、農地の解放、エリート支配をなくし、経済開発などを中心とする「新社会の建設」を目指すと、マルコスは力強く国民に約束しました。
多くの国民は、マルコスの語る新しい社会に魅了されました。財閥から財産を没収し、地主から農地を取り上げて持たざる人々に分け与えるという心地よい夢は、貧しき者が圧倒的多数を占める国民を熱狂させるに十分でした。
これまで一度たりとも政治によって甘い汁を吸うことがなかった一般庶民は、マルコスの見せる夢に大きな期待を寄せ、戒厳令を歓迎したのです。
しかし、こうした表向きの大義とは別に、戒厳令には大統領に再選された直後から抱いていたマルコスの野望が隠されていました。
フィリピンでは大統領の任期は2期8年までと決まっています。3選は憲法で禁じられていました。そのため本来であればマルコスの任期は、1973年末で切れてしまいます。
マルコスは3選を禁じる憲法の改正をしようと議会を招集しましたが、思うように事が運びませんでした。そこで企てたのがエンリレ国防長官の狙撃事件です。この事件はマルコスによる自作自演でした。それ以外にも国軍に命じて、マニラ市内で爆発事件をたびたび起こしています。すべては戒厳令の口実作りのために行われことでした。
マルコスはずっと大統領として居座るために、入念に準備をして戒厳令を敷きました。一度握った最高権力の美酒を手放す気など、マルコスにはなかったのです。マルコスにとって戒厳令は、政権を無期限に続けるための奥の手でした。
22日から23日未明にかけて、ニノイ・アキノ上院議員をはじめ、マルコスに敵対していた多くの政治家や労働組合の指導者・ジャーナリストなど200名が密かに逮捕されました。
戒厳令とともに言論弾圧も激しさを増します。マルコスを批判する新聞や雑誌はすぐに廃刊となり、新聞記者や編集者・アナウンサーなどの多くが職を解かれて追放されました。
もはや言論界はなにが起ころうとも、ひたすら沈黙を守るよりない状況に追い込まれたのです。
デモやストライキなど、反政府的な行動はすべて禁じられました。それでもデモを行おうとした活動家は即座に逮捕され、拘留されて拷問にかけられるか、もしくは消息不明となりました。
戒厳令下の大統領令によって、政治犯ばかりではなく、その疑いがあるというだけで逮捕する権利がマルコスに与えられました。つまりなんら証拠がなかったとしても、マルコスが怪しいと思うだけでその人物の市民権を奪い、財産権を没収できたのです。
逮捕・拘留・殺害・行方不明など、マルコス政権下において反政府活動の容疑をかけられた人の数は、およそ6万人を超えると言われています。
市民のための革命を中央政府が行うという名目のもと、権力はすべてマルコスに一元化されました。
大統領と国民評議会の議長とを兼任して、最高裁の判事たちは全員マルコスが指名しました。司法・立法・行政の三権を、マルコスは一手に握ります。
マルコスが大統領令を出すと、国民評議会はただちにこれを追認し、最高裁はマルコスに有利な判決しか出しませんでした。
権力は地方へも抜かりなく張り巡らされました。地方有力者が地方の政治・財政をがっちり握ることで中央政府を動かすという構図が、フィリピンの伝統的な政治スタイルです。
そこでマルコスは選挙を停止し、知事から村長までを任命制に切り替えました。この改革によりマルコスに忠誠を誓った者だけが、地方政治を支配できるという新たな構図が生まれました。
こうしてマルコスは中央も地方もすべて、自身の掲げる人民のための新しい社会をつくる運動に取り込んだのです。それは同時にマルコスによる恐怖政治のはじまりでした。
それでも戒厳令が発令された初期において国民の支持が高かったことは、麻薬撲滅戦争による死者が増えてもなお支持されるドゥテルテ大統領の今の状況と似ているかもしれません。貧しい人々は多少の犠牲に目をつぶってでも、変革を望んだのです。
2,新社会のための支配層解体への取り組み
マルコスの発令した戒厳令は、海外の反応もそれほど悪いものではありませんでした。アメリカのニクソン大統領は、事前に戒厳令を認める約束をマルコスと交わしていたと、のちにマルコスの側近が証言しています。
共産主義者の反乱を抑えるための戒厳令という単純な図式は、東西冷戦をくり広げるアメリカにとって歓迎すべきものでした。
当時は世界的に、第三世界が秩序を回復するために戒厳令を一時的に敷くことは仕方ないこと、と認める風潮が強かったのです。世銀も戒厳令を支持し、1974年の対比援助額は1億6500万ドルに跳ね上がりました。
内外ともに戒厳令は好意的に受け止められ、マルコスによる中央からの改革は、いよいよ実行するばかりとなりました。
「大多数の貧困者の存在は、国家が社会改革の火山の上に座っていることを意味する。フィリピンはオリガキ-(少数のエリートによる経済支配)に毒され、貧富の差は拡大している。このような民主主義的植民地主義を打倒せよ」
マルコスの熱弁とともに、貧しき人々のための支配層解体への取り組みが本格的にはじまりました。
マルコスの農地改革
支配層を解体するために、マルコスが真っ先に手をつけたのが農地改革でした。
スペインの植民地となって以来、フィリピンでは少数の大地主が農地を独占していました。大多数の農民は小作人として、農奴のような惨めな生活を送るよりなかったのです。
地主は農地を貸すだけで働く必要などありません。小作人は毎日懸命に農作業を行い、農作物を育てます。しかし、やっとの思いで収穫した農作物のほとんどを地主に納めなければいけませんでした。
優しい地主であれば収穫した半分ほどを納めるだけですみましたが、8割・9割の農作物を要求する地主さえいました。これではさすがに生きていけません。大多数の農民たちは、その日に食べるものを口にできるかどうかという貧苦のなかにあえいでいました。
劣悪な条件とわかっていても、土地を一切もてない農民たちは黙って地主にしたがうか、農業を捨てて都会に出てスラムに住み着くしかなかったのです。
そんなときに出された戒厳令の布告第二号は、農地改革を高らかに宣言するものでした。
「フィリピン全土を農地改革の対象地域に指定する」
他の布告では、「小作農民を自営地に移らせ、解放する」とも明言しています。
それは貧しい農民たちが、まさに夢見ていたことです。自分たちの土地さえあれば、そこで収穫したすべての農作物を自分のものにできます。それは貧困からの解放を意味していました。農民たちは歓呼の声を上げました。
マルコスは農地改革の対象を稲作とトウモロコシの耕地に限定していました。農地解放を実現するために、地主が実際に農業に従事していない場合には、地主の農地をすべて取り上げる案が出されました。
この案が実行に移されれば、多くの小作農民に土地が分配できます。
農民たちが期待をもって見守るなか、農地問題調整会議にかけられた結果は、否決でした。
このときマルコスは一度否決されたとしても、それを強行する事実上の権限をもっていました。しかし、マルコスは動きませんでした。
これを機にマルコスが農地改革にみせた情熱は、あたかも潮が引くようになぜか急速に薄れていったのです。
その理由はいまもって不明です。マルコスにははじめから農地改革に本気で取り組む気などなかったのか、それとも大地主や財閥からなんらかの取引を持ちかけられて気が変わったのか、今となっては永遠の謎です。
最終的に地主は、家族一人当たり7ヘクタールの農地保有を認められました。それはいわゆる「ざる法」に近いもので、地主は養子をとるなどして対抗しました。
1973年12月末、マルコス政権は25万件の農地配分が完了したと発表しました。そのなかにはニノイ・アキノ家から没収した大農園も入っていました。解放された農地は36万ヘクタールに上り、20万人の農民に土地が分配されたと、マルコスは高らかに勝利宣言を行いました。
しかし、表向きの発表と現実とはまったく違っていました。80年までに「解放土地譲渡証書」を受け取った農民は、実際にはわずか1700人に過ぎなかったのです。
農地改革は失敗に終わりました。土地を所有するという農民たちの夢は、ついにかないませんでした。
農地改革は進まなかったものの、戒厳令下で政府主導のもと「コメと道路計画」が推し進められました。灌漑施設が整えられ、積極的に農業融資が行われ、高収量品種が導入されました。いわゆる「緑の革命」です。これにより77年には米の自給が達成され、わずかとはいえ輸出に転じることができました。
しかし天災の影響もあり、翌年には生産量が激減し、再び米輸入国に戻ってしまいます。結局「緑の革命」は、小作農民に化学肥料の借金を負わせるだけに終わりました。農地は荒れ果て、農民の暮らしぶりは「緑の革命」導入以前よりも厳しくなる一方でした。
1980年代半ばに行われたフィリピン政府の調査によると、子供たちの69パーセントが標準
体重を下回るという報告がなされています。ことに農村部では、まともに食べることができない子供たちが多かったのです。
農村での貧困が深まるとともに勢力を急速に伸ばしたのが共産党の新人民軍です。マルコスは新人民軍に対抗するために軍の増員を図り、地方に送り込みました。
1970 年には5.9 万人に過ぎなかった国軍が戒厳令以降倍増し、1976 年には14 万人にまで膨れあがっていました。
この時代の新人民軍は貧しい農民たちの味方でした。カトリックの神父や信徒たちは、地主や国軍の弾圧から農民を守るために、新人民軍と連携する道を選びました。こうした動きは、ラテン・アメリカで広がっていた「解放の神学」に基づくものです。
貧しい人々に救いの手を差し伸べるのが「解放の神学」です。カトリック教会とマルコスとの対立は、次第に深まっていきました。
財閥解体への取り組み
マルコスが国民に約束した財閥の解体も、戒厳令下で実行に移されました。標的となったのはマルコスに以前から敵対していたロペス一族です。
ロペス家は電力会社や新聞社・テレビ局をはじめ、多くの企業を有する財閥でした。マルコスはまずロペス家当主の息子であるユーヘニオ・ロペス・ジュニアを、大統領暗殺の陰謀に加わっていたとして逮捕しました。
ユーヘニオには死刑判決が下されましたが、刑一等を減じることを条件に、ロペス家が有する会社の株の三分の一がイメルダ夫人に譲渡されました。さらに他の罪状が発覚したことを理由に再び死刑が下されると、それを減刑する条件として再び三分の一の株が譲渡されました。
こうしてロペス財閥の財産はマルコスの手に渡りました。マルコスはイメルダ夫人の兄であるベンハミン・ロムアルデスにロペス財閥を委ねます。経営にうといロムアルデスは、ロペス財閥を倒産の一歩手前へと導くことになります。
財閥を解体するための取り組みは結局、ロペス家やハシント家などマルコスにとって邪魔だった一部の財閥のみを対象にしただけで終わりました。没収した莫大な財産を、マルコスはイメルダ夫人の一族や自分の取り巻き(クローニー)に与えました。
庶民から見ればそれは、旧来の財閥に代わってマルコスやそのクローニーが新たな財閥として登場したに過ぎませんでした。つまり、支配者の顔が変わっただけであり、貧しい人々を助けるような政策はなにひとつ実行されなかったのです。
マルコス政権がもたらしたもの
マルコスは戒厳令によって強力な権力を握ることで、従来まで特権階級に独占されていた権益を、貧困層に解放しようとしました。
しかし、実際のところ貧困層にはなにひとつ分け与えられることはなく、特権階級から奪った富や権益は、マルコスとイメルダ夫人、そしてクローニーたちへと分配されるに留まりました。
権益をなお貪るために、家族を次々と公職に就けています。イメルダ夫人はマニラ首都知事
に任命され、娘のアイミーは国会議員、息子のボンボンはマルコスの出身地である北イロコス州の知事に任命されました。
恐怖と報酬をちらつかせることで、誰もがマルコスに逆らえない状況が生まれていました。マルコス一族とクローニーによる支配は国軍と警察にも及んでいます。
国軍参謀長にはマルコスと同郷のファピアン・ベールを据え、将軍職の半分以上を同郷の軍人で固めました。国軍はマルコスに絶対的な忠誠を誓いました。
政敵が排除された長期独裁政権下では、政権が内部から腐っていくのが世の常です。マルコスとクローニーたちは、自己の利益を貪ることに夢中となり、ひたすら不正蓄財に励みました。
公金の横領をはじめ、海外からの援助や融資を彼らは着服したとされています。
こうして私利私欲を貪る政治を続けた結果、戒厳令初期には好調に見えたフィリピン経済は大きく傾くことになります。1970年代末に起きた第二次オイルショックが追い打ちとなり、フィリピン経済は急速に悪化しました。
もともと経営の才覚のないクローニーたちが取り仕切っていた企業は、たちまち雪だるま式に負債を抱えるようになります。その負債を国庫で埋めたために、フィリピンの財政はもはや収拾のつかない状態に追い込まれました。
アメリカや日本、国際機関からの対外債務は、マルコス政権発足時の40倍に膨れあがり、260億ドルを超えた途方もない金額になっていました。
・・・・・・
これが、大多数の貧しい人々を救うために踏み切ったはずの戒厳令の成れの果てです。
戒厳令下のマルコス政権において、貧困の格差はより拡大しました。豊かな者はより豊かになり、貧しき者はより貧しくなりました。生をつないでいくことがやっとなほどに、貧困者は追い詰められたのです。
これらはマルコスによる失政と腐敗によってもたらされたものです。
もはやマルコスの語る夢に耳を傾ける者は、誰もいませんでした。
3,ニノイ暗殺
マルコスとニノイ
マルコスの統治がフィリピンを破滅に導こうとしていることは、多くの国民が感じていることでした。しかし、危機感は覚えながらも、マルコスにNOを突きつけるような空気は、まだフィリピンにはありませんでした。
多くの人々が、このままマルコスによる支配が続いていくに違いないと思っていたのです。ところが、一人の男が立ち上がったことで、歴史は大きくうねることになります。それが、生涯を賭してマルコスの前に立ちはだかったニノイ・アキノでした。
マルコスとニノイは旧知の仲でした。アキノ家の顧問弁護士をマルコスが務めていたからです。二人は間違いなく政敵同士で多くの反目を抱えていましたが、二人にしかわからない物語がそこに流れていたのかもしれません。
ニノイはマルコスと同じくフィリピン大学で法律を専攻するものの3年で中退しています。17歳で最年少の朝鮮戦争の従軍記者となり、22歳で最年少の市長、同年コラソン・コファンコと結婚、30歳で知事、35歳で最年少の上院議員となりました。
上院議員になってからも、反マルコスの旗手としてマルコスにまつわる数々の不正を暴き出し、国民から人気を得ていたことは前述の通りです。
戒厳令と前後して逮捕されたニノイ・アキノは、市内の陸軍基地フォ-卜・ボニフアシオに収監されました。1年後に裁判が開かれ、「殺人・共産主義者への教唆と資金援助・政府転覆の陰謀・銃砲不法所持」などの罪に問われました。もちろんすべての罪状は、でっちあげです。
1977年11月、判決が下りました。ニノイに下された判決は、銃殺刑でした。
しかし、マルコスはニノイの死刑を実行しませんでした。国民に人気があり、海外からも信望の厚いニノイを死刑にすれば、マルコスの独裁ぶりを内外にさらすことになってしまうからです。
ニノイの親友であった石原慎太郎氏の著した「暗殺の壁画」のなかには、ニノイから直接聞いた話として次のような逸話が紹介されています。
ニノイが収監されている部屋を、ある日マルコスが訪ねました。ニノイの部屋に、マルコスの部屋と直通でつながる電話を設置するためです。
電話を設置した工事人が帰り、ニノイとマルコスは二人だけで部屋にとり残されました。マルコスはニノイに問いかけました。
「お前はいったいいつまでここにいるつもりなんだ?」
積んであった本を見ながら、言葉を続けます。
「それにしてもこんなに本が読めてうらやましいな。俺はアメリカの大学で勉強して、歴史家になるのが夢だった」設置したばかりの電話を指さして、マルコスはニノイに告げました。
「この電話は宮殿の俺の部屋に直接つながっている。受話器をとるだけで、俺か、俺がいなければ秘書のマカリロが必ず出る。そしたら『お前の言うとおりだ』と言うだけでいい。いや、『イエス』とひとことでいい。それでお前は完全に自由だ。いいというならその場で電話で副大統領にも任命しよう。いいか、この電話をとって、ただ、ひとことでいいんだ」去り際にマルコスは笑いながら口にしました。
「この電話をとらない限り、お前は穴のなかのただの鼠だ」ニノイは3年の間、毎日、この電話を眺めて暮らしたと語っています。
いつ執行されるかもわからない死刑の恐怖に押しつぶされるなか、部屋の隅に置かれた受話器は、まさに地獄に垂らされた蜘蛛の糸です。受話器を取り上げさえすれば、この地獄から救い出されるのです。
ニノイは何度も何度も受話器をとる誘惑に駆られました。受話器を見つめたまま眠れない夜もあったと語っています。
しかし、マルコスとニノイの間で行われた根比べに勝ったのはニノイでした。ニノイは最後まで、受話器を取らなかったのです。
長い獄中生活のなかで、ニノイは心臓に疾患を抱えていました。検査の結果バイパス手術が必要との診断がくだされ、軍病院での手術が予定されていましたが、ニノイはこれを拒否します。アメリカでの治療をニノイが希望していると聞くと、マルコスは人道的はからいとして許可を与えました。
なんとしても降伏しないニノイにマルコスは手を焼いていました。ニノイをフィリピンから体よく追い出すことで、決着をつけようとしたのです。
1980年5月8日、7年8ヶ月ぶりにニノイは釈放され、アメリカに護送されました。
ニノイはなぜ帰国したのか
ニノイは亡命先のアメリカでも、反マルコスに向けた戦いを続けました。
フィリピンでは1981年に戒厳令が解かれました。経済の悪化にともなう国民の不満を逸らすために、マルコスは11年ぶりに大統領選挙を行ったのです。マルコスは当然のように当選し、新たに6年の任期を得ました。
1983年、ニノイは3年の亡命生活を終えてフィリピンに帰国することを決めました。
亡命したとはいえ、ニノイが死刑囚であることになんら変わりありません。フィリピンに戻れば再び収監される可能性が高く、命の危険にもさらされます。
なぜニノイは命の危険を冒してまで、帰国を決めたのでしょうか?
それは、マルコスが病魔に冒されていると噂されている今、マルコスの死がフィリピンにとんでもない混乱をもたらす恐れがあったからです。
「マルコスの死が迫っているかもしれないときに、亡命していることは許されない」と、ニノイは記者団に向かって語っています。
当時、マルコスの長期にわたる独裁は腐敗した政治を生み、もう打つ手がないほど経済は落ち込んでいました。その間に共産ゲリラ勢力は、より大きく強く組織化されていったのです。
このまま放置しておけば、武装共産勢力と国軍の衝突は避けられそうになく、フィリピンは南から次第に共産化される恐れがありました。
もしマルコスが死去するとなると、支配者を失った軍が暴走する危険も大いにありました。すでに国軍は24万人に膨れあがっていたほどです。インドネシアや韓国・パキスタンやバングラデシュのように、軍がクーデターを起こしたり政治の実権を握る事態を、ニノイは恐れました。
軍と武装共産勢力が本気で衝突すれば、フィリピンは内戦に陥り戦火に包まれます。こうした最悪の事態を避けるために、誰かがマルコスに向かってNOと言わなければならないのだと、ニノイは語っています。
「数多くの力強い、彼を認めない意思があることを示すためにも、同じノーと言える人間たちが分裂せずに一緒になって選挙をしなくてはならないんだ。その役が果たせるのは俺しかいない」
石原慎太郎著「暗殺の壁画」より引用
ニノイが帰国すると聞いてあわてたのがマルコスです。マルコスはイメルダ夫人をニューヨークに向かわせました。
イメルダ夫人は、ニノイが帰国すれば暗殺しようと準備しているグループがいると警告し、ニノイに帰国を思いとどまるように説得しました。
その際、金が要るならチェイスマンハッタンのイメルダの口座からいくらでも引き出せ、と伝えたとされています。
イメルダ夫人の説得にもニノイは耳を貸しませんでした。
ニノイは帰国すれば投獄、もしくは暗殺される可能性があることも覚悟し、「あの国で生き延びられる可能性は多分30パーセントを切るだろう」と語りました。
「いかなる形であってもフィリピン人同胞の近くにいることが大切」と、マスコミのインタビューにニノイは答えています。
いよいよニノイの帰国が明日に迫っていました。
TBSテレビ「JNN報道特集」のインタビューに応じたニノイは、「明日は殺されるかもしれない。事件は空港で一瞬のうちに終わる」と語りました。
そしてニノイは暗殺された
1983年8月21日午後、ニノイを乗せた台北発マニラ行きの中葉航空機はマニラ国際空港に到着しました。そのときの様子はテレビカメラに映されています。
制服を身につけた3人の兵士が機内に乗り込んできました。兵士たちはニノイの席に歩を進めると、「ボス、こちらにお招きします」とニノイをうながします。
「どこへ行くのかね」
ニノイが笑顔を浮かべたまま立ち上がったとき、兵士の一人がニノイの腕を後ろから拘束するようにつかみます。
その瞬間、ニノイの表情が一瞬にして険しいものに変わりました。このときニノイは、自分の運命を悟ったのかもしれません。
「必ず何かが起こるから、カメラを回し続けておいてくれ」
ニノイは同行していた記者に声をかけます。それが、ニノイの最後の言葉でした。
兵士たちに連行されるようにして、ニノイがタラップを降りていったそのとき、数発の銃声が響きました。
カメラはさえぎられたため決定的な瞬間こそとらえていませんが、機内の窓から撮影した映像にはある男の死体とともに、地面にうつぶせのまま倒れるニノイの姿が映し出されていました。
現在では、ニノイがタラップを降りていたときに後ろから兵士に撃たれたことがたしかめられています。ニノイは暗殺されたのです。
暗殺の瞬間にテレビカメラが回っていたこともあり、ニノイ暗殺は世界中で報道される大事件になりました。
カトリック教会の主催する「ラジオ・ベリタス」は、ニノイの死の10分後には現場に駆けつけ、その死を国民に知らせました。
フィリピンの行く末を思い、命を賭してまで帰ってきたニノイが暗殺されたという事実は、フィリピン国民のなにかを確実に変えました。深い悲しみはやがて怒りへと姿を変え、フィリピンの歴史を動かすことになります。
8月29日、シン枢機卿が出席するなか、ニノイの葬儀はマニラのサント・ドミンゴ教会で行われました。ニノイの自宅から教会まで、そして教会から墓地まで、沿道はニノイの葬列を見送ろうとする市民で埋め尽くされました。このとき、200万人を超える市民が集まったとされています。
ニノイの暗殺の真相について政府は、反政府組織に属する男がニノイを撃ったこと、その場で暗殺者を射殺したことを説明しました。しかし、日本の報道機関をはじめ、世界中の多くのメディアがさまざまな角度から検証を行い、政府の見解に矛盾があることを指摘しました。
もはやフィリピンの国民は、マルコス政権のもとで正義が行われているとは信じようとしませんでした。
その後もニノイの追悼集会は各地で開かれ、多くの市民が詰めかけました。マルコスによる圧制のもと、それまでは政治に関心が薄かった市民たちは、ニノイの死をきっかけに反マルコスの意思を次第に露わにするようになります。
フィリピンを救済するために命をかけたニノイの死は、国民の9割がキリスト教徒であるフィリピンの人々にとって、イエス・キリストの死と同じ意味をもっていました。フィリピンのために殉じたニノイは、国民にとっての救世主であり英雄でした。
そして、もうひとつ。「フィリピン人のためなら死ぬ価値がある」と帰国を決めたニノイは、「祖国」を思うナショナリズムをフィリピンの人々に植え付けたのです。
暗殺事件以後、フィリピン経済は以前にも増して落ち込んでいきました。この年には2%あった経済成長率は、翌1984年にはマイナス7%に激減します。フィリピンは危機的な状況を迎えていました。
今、国家を救わなければたいへんなことになるという危機感は、ニノイが呼び覚ましたフィリピン国民のナショナリズムをより高めました。
ナショナリズムは反マルコスと一体となり、大きな運動へと発展していきます。人々は街頭でのデモや集会に積極的に参加しはじめ、もはや力では弾圧できないほどの反マルコスの世論がふくれあがっていきました。
「アキノに正義を! 祖国に正義を!」、フィリピン国民はついにマルコスに対してシュプレヒコールを上げたのです。
3,繰り上げられた大統領選挙
フィリピン国民の不満を抑えるためにマルコスは、1986年2月に繰り上げ大統領選挙を行うと発表しました。前回同様の投開票操作を行うことで、大統領に再選されることを狙ったものです。
国民の支持によって再選されたことをアピールすることで、内外に向けて政権の正当性を訴えることができると考えたのでしょう。ニノイ亡きあと、マルコスと対決できるだけの候補者などいるはずがないと、高をくくった面もあったと言われています。
マルコスにとっての誤算は、アヤラ財閥やソリアノ財閥などのビジネス・エリートたちがマルコスを批判して結束したことでした。これまで彼らは自分たちに被害が及ばないように、マルコス政権に対して沈黙を守っていました。
しかし、ニノイ暗殺を機に国民の間に反マルコスの声が高まるとともに、ビジネス・エリートたちはマルコスと敵対する役回りを演じはじめました。
ビジネス・エリートたちは結束して、一人の候補者を立てます。ニノイの夫人であったコラソン・アキノです。
コラソンは政治とは一切無関係に生きてきました。
「政治はこりごり。アメリカに戻りたい」、そう言っていた彼女を説得し、ビジネス・エリートたちは彼女を政治の表舞台へと押し上げたのです。
コラソンの政治的な資質を認めたからではありません。
「コリーは演説は下手だし、頼りない印象を与えた」と、語られています。
しかし、ニノイの夫人という立場は、それだけでコラソンの人気を高めました。ニノイがフィリピンを救うために命を落としたイエスであれば、コラソンは慈愛に満ちた聖母マリアでした。
マルコス忠誠派は「マルコス・パ・リン(もっとマルコスに大統領を続けてほしい)」と叫び、反マルコス派は「タマ・ナ(もう、うんざり)」「ソブラ・ナ(やりすぎだ)」と叫び返しました。
投票は2月7日に行われました。選挙は不正を防ぐために、アメリカCIAが資金を提供した選挙監視団(NAMFREL)の監視下で行われました。
選挙管理委員会は繰り返しマルコス優位を伝えましたが、選挙監視団の集計ではコラソンがおよそ80万票差で勝っていました。国民の大多数はマルコスではなく、コラソンに一票を投じたのです。
ところが選挙管理委員会の公式記録は「マルコスが160万票の差で勝利した」というものでした。露骨な開票操作です。
これには野党ばかりでなく、カトリック教会やアメリカもマルコスを一斉に非難しました。フィリピンの国民も立ち上がりました。コラソンのシンボルカラーである黄色のTシャツに身を包んだ人々による反マルコスのデモは、フィリピン各地で引き起こされ、大きなうねりとなったのです。
マルコスは選挙結果を早く議会に承認させようと焦っていました。2月15日、野党議員が一斉に退場した隙を突き、マルコスは大統領就任の手続きを済ませました。
同日の午後、コラソンはルネタ公園で「人民の勝利」集会を開きました。「コリー・コリー・コリー」の大歓声のなか、コラソンは大統領選での勝利を高らかに宣言しました。
大統領選選挙を戦った二人がともに勝利宣言をするという異常事態が、発生したのです。
公園は熱狂に包まれ、コラソンは非暴力による不服従運動を展開するように聴衆に呼びかけました。
4,ピープルパワーが引き起こしたエドゥサ革命
反マルコスの声は日増しに強くなっていきました。民衆の声に押されるように、ついに国軍の内部からもマルコスに離反する一派が出てきました。エンリケ国防省とラモス副参謀長です。
1986年2月11日、「マルコスをもう大統領とは認めない」と国軍改革派が決起し、エドゥサ大通りに面したクラーメ基地に立てこもりました。ラモスたちはコラソンこそが正当に選ばれた大統領であるとして、マルコスに辞任を迫りました。
世界を釘付けにしたエドゥサ革命のはじまりです。
マルコスはベール参謀総長に命じ、反乱軍を排除するために国軍を差し向けました。何台もの戦車部隊がエドゥサ通りに現れ、反乱軍が立てこもる基地へと近づいていきました。
500人にも満たない反乱軍が、圧倒的な戦力を有する正規軍に勝てるはずがありません。エンリレはシン枢機卿に最後の別れを告げるために電話を入れます。
「我々はあと30分もすれば全員殺されてしまうでしょう」
シン枢機卿は即座にラジオ・ベリタスを使って、国民に呼びかけました。
「市民たちよ、一人でも多く、エドゥサの大通りを埋めておくれ。エンリレとラモスを守るのだ」
シン枢機卿の訴えに、一人また一人と、多くの市民がエドゥサ通りに集まってきました。片側四車線のエドゥサ通りを進む戦車を阻むように、カトリックのシスターたちが立ちはだかり、祈りはじめます。
家から持ち出した聖像や十字架を握りしめながら、市民たちも次々に戦車の前に身を投げ出します。その膝は、明らかに震えていました。死の恐怖と戦いながらも、市民たちは反乱軍を守るために我が身を戦車の前に投げ出したのです。

最前列にはシスターや神学生が並び、市民たちはその背後に立ち、全員がひたすら祈り続けます。人間によって築かれたバリケードは、まるで宗教的な儀式のような神聖さを帯びていました。
最大の危機を迎えたときに祈りを捧げるのは、ほとんどがキリスト教徒であるフィリピン国民にとって、日常生活の反映そのものでした。
いつのまにかエドゥサ大通りは、100万を超える市民たちで埋め尽くされていました。その様子はテレビを通じて世界中にリアルタイムに流され、多くの人たちに衝撃を与えました。果たして軍が市民に対して発砲するかどうかを、世界中が緊張感をもって見守ったのです。
市民たちは恐怖と戦いながらも、カトリック教会の指導の下、平和的な解決を祈りました。
そのとき、ついに戦車が塀を破って進んできました。兵士が前に出て、群衆をにらみつけます。
一触即発の険悪な空気が流れるなか、一人の若い女性が兵士の前に進み出ました。彼女は気を落ち着かせるように深く息を吸い込むと、手に持っていた花を兵士に差し出したのです。
兵士は戸惑いながら女性を見つめます。それはほんの一瞬の間だったのかもしれませんが、張り詰めた空気のなか、やけに長く感じられるひとときでした。
やがて兵士は「回れ右」をして、群衆から離れていきました。兵士のなかから戦う気が失せた瞬間でした。
期せずして周囲から拍手が起きました。はじめは小さかった拍手が、やがて地を揺るがすような大きな拍手へと変わっていきました。
両者の間にわだかまっていた対立感情は、先ほどまでの緊張感が嘘のように消えていました。群衆にも兵士にも、笑顔が広がります。
市民たちは反乱軍にも戦車兵にも、ジュースや果物・食べ物を届けました。戦車の銃口には花束が結ばれ、エドゥサ通りから暴力の気配はすっかりなくなったのです。
やがて兵士たちは次々と武器を捨て、民衆の側に加わりはじめました。非暴力のピープル・パワーが軍隊に打ち勝った瞬間を、世界中の多くの人々が感動とともに目撃しました。
5,ハワイへの亡命
エドゥサ通りで民衆が蜂起した状況を見たアメリカのレーガン大統領は、ついにマルコスを見限り、24日にはコラソンを支持する姿勢を明らかにしました。
エドゥサ通りで民衆がバリケードを築いていた頃、セブで演説中だったコラソンはいち早くこれを支持する声明を出しています。事態の進展を見届けるかのように、満を持してコラソンはマニラに帰ってきました。
2月25日午前11時、コラソンはマンダルヨンの「クラブ・フィリピノ」にて、大統領就任を世界に向けて宣誓しました。
「ついに私たちは『家』に戻ってきました」
百万の大観衆が取り囲むなか、コラソンは親指と人差し指で「Lサイン」をつくり高々と掲げました。
群衆も同じくLサインを掲げて応えます。「L」は「ラバン(闘い)」の頭文字です。それは選挙期間中を通して、マルコスの独裁政治に対する民衆闘争のシンボルとして用いられました。
コラソンを支えたもうひとつのシンボルが「黄色」です。「樫の古木に黄色いリボンをつけて囚人の帰郷を祝う」というフィリピンに古くから伝わる歌から、コラソンのシンボルカラーとされたのです。「帰郷した囚人」はもちろんニノイのことを指しています。
Lサインと黄色のTシャツが会場を埋め尽くし、ピープル・パワーが発する熱気に群衆は酔いしれしているかのようでした。
コラソンは語っています。
「母親はわが子を差別したり、力ずくで支配したりはしないものです。私はフィリピンの母となって、わが子ともいえる国民の心のなかに、正義と真実と自由の尊さを伝えたいのです」
大勢は決しました。しかし、マルコスがどんな手に打って出るのか、まだ予断は許されない状況でした。
群衆はエドゥサからマラカニアン宮殿へと押し寄せていました。それはまるで、ベルサイユ宮殿にてルイ16世と王妃マリー・アントワネットを取り囲む群衆を想起させるような光景でした。
マラカニアン宮殿で最後の演説を行うマルコスと不安げな表情のイメルダ夫人、群衆は宮殿に押し寄せた
世界が注目するなか、25日午後9時過ぎ、マルコス一族らを乗せた米軍のヘリコプター2機はマラカニアン宮殿を飛び去り、クラーク米軍基地に向かいました。
このときの様子をのちにマルコスは語っています。
「私はボスワース(当時の駐比アメリカ大使)に家族を避難させたいとお願いした。だが(米側は)私が同行しなければ家族はお連れできませんと言った。私は家族に別れを告げるために行ったが、そこでヘリに引っ張りこまれた。……着いたのはクラーク米軍基地だった。」
「アジアウィーク」1987年7月5日号より引用
クラーク米軍基地に着いたマルコスはアメリカと協議し、マルコスの故郷である北イロコス州のラワグへ向かうことで合意しました。
いったんはマルコス忠誠派が多いラワグに引き、時期を見て再び決起しようとしたのです。マルコス一族とベール参謀長夫妻を乗せた飛行機は、クラーク米軍基地を飛び立ちました。
しばらくして「行き先が違う!」とマルコスたちは気がつきますが、もはやどうにもなりません。
アメリカはこれ以上フィリピンが政情不安に陥ることを許しませんでした。マルコスをラワグに解き放つことでフィリピンが内戦に陥り、共産主義勢力が勢いを増すことを恐れたのです。
飛行機が向かった先はハワイでした。
イメルダ夫人は語っています。
「私たちは米軍機で誘拐されたのよ。小型機なので北イロコスへ行くと思っていた。(飛行機が)大きかったら疑ったのに」
こうしてマルコスは、国民にNOを突きつけられ、最後は20年に渡り支援を受けていたアメリカに引導を渡されるようにして、政権の座を追われました。
22日の国軍改革派の決起からはじまったエドゥサ革命は、コラソン政権を誕生させ、マルコスの亡命という劇的なクライマックスを迎え、ついに幕を閉じたのです。
エドゥサ革命はその状況が、テレビを通して世界中に刻々と流れたことで画期的な革命でした。テレビ放送が始まって以来、革命が生中継で伝えられたのはこれがはじめてです。
世界が監視するなか、マルコスはついに国軍に攻撃命令を下すことができませんでした。その意味では、この革命を見守った世界中の視聴者もまた、革命に参加していたと言えるでしょう。
エドゥサ革命は世界中の人々に、ピープル・パワーの持つすさまじさを伝えました。そして、民衆が立ち上がりさえすれば国家さえ変えられることを世界に示したのです。
エドゥサ革命を機に、民主化を要求する民衆運動は世界中に広がりました。その熱気は1987年の韓国、その翌年のビルマ、1989年のルーマニアや中国天安門事件へとつながっています。
やがて民衆のパワーはベルリンの壁を崩し、東西ドイツの統一を成し遂げ、ソ連の崩壊によって東西冷戦の終わりをもたらしました。
その善悪は別として、2010年から2012年にかけてアラブで起きた民主化を求める反政府運動「アラブの春」も、エドゥサ革命を研究したことで成し遂げられたものです。
こうした世界を覆った民主化の波は、エドゥサ革命に端を発しています。フィリピンという小さな国で起きたエドゥサ革命の熱狂と民衆のパワーは、間違いなくその後の世界を変えたのです。