フィリピン人海外出稼ぎ労働者は国家の英雄か、捨て石か? 第1部全4回の第2回目です。
第2章 海外出稼ぎ労働者はなぜ「英雄」と呼ばれるのか
前回は、フィリピンでは国民の10人に1人が海外に働きに出ていることから始まり、日本で就労しているフィリピン人労働者の過去と現在の実態について紹介しながら、かつては日本人がフィリピンに出稼ぎに出ていたことにふれました。
シリーズ第2弾となる今回は、海外出稼ぎ労働者を「英雄」としてまつりあげるようになった背景を探っていきます。
1.国策としての海外出稼ぎ奨励
1-1.国家が強力に後押し
マニラ国際空港には、海外出稼ぎ労働者が入出国する際に用いるための特別レーンが設けられています。海外出稼ぎ労働者であれば、この特別レーンを使うことでスムーズに入出国の手続きが行える特権が与えられています。
クリスマス前には毎年、生バンドが軽快な音楽を奏でるなか、到着ロビーにて歴代大統領が一時帰国した海外出稼ぎ労働者を出迎えるのが恒例となっています。
なかでも特に優秀な労働者には、「Bagong Bayani Award(現代英雄賞)」が国民栄誉賞として与えられます。
フィリピンでは海外出稼ぎ労働者は、国家の「英雄」なのです。そのことをはっきりと明言したのは、1986年にエドゥサ革命でマルコスから政権をもぎとったコラソン・アキノ大統領でした。
アキノ大統領は海外出稼ぎ労働者を「新しいヒーロー」と呼び、国内と同様に海外の労働者をも国家が完全に保護することを誓いました。
こうしたことからも、海外出稼ぎ労働を国家が強力に後押ししていることがわかります。
フィリピン人の海外出稼ぎ労働は1906年にプランテーション労働者として、当時アメリカの植民地であったハワイに渡ったのがはじまりとされています。1934年までに12万人ほどのフィリピン人労働者がハワイに送られました。
その後、アメリカ西海岸のプランテーションでも多くのフィリピン人労働者が雇用されましたが、フィリピン独立にともないアメリカへの移民が制限されるようになり、ベトナム・タイ・グアム・日本などの米軍基地で働くフィリピン人が増えました。
やがてフィリピンは国家政策として労働者を海外に送り出すようになります。その契機となったのは1973年のオイルショックです。石油価格の上昇はフィリピンの国家財政を脅かし、ただでさえ深刻度を増していた失業問題に火に油を注ぐ結果となりました。
当時の政権を担っていたのは、独裁者として君臨していたマルコス大統領です。アメリカ主導による世界銀行の押しつけた政策の失敗もあり、フィリピン経済は息も絶え絶えの状態に追い込まれていました。
この逆風を乗り切るためにマルコス政権が目をつけたのが中東です。石油価格の上昇で潤ったアラブ諸国では折しもインフラ建設が急ピッチで進められており、労働者が足りなくて困っている状況でした。
そこでマルコス政権は一時的な政策として、中東諸国を中心に政府主導による海外雇用を制度化する決定を下しました。マルコス政権が掲げたのは以下の3つのスローガンです。
① 海外出稼ぎ者からの送金によって外貨を獲得し、国際収支を改善すること
② 海外雇用によって国内の失業問題を緩和すること
③ 海外で技術を習得して還元することで、国内産業の発展に貢献すること
こうしてフィリピンの労働力輸出は、1974年以来、国策として遂行されるようになったのです。マルコス政権後期の1983年には50万人を超えるフィリピン人労働者が海外に出ることで、建設やサービス産業などの仕事に就きました。
彼らのほとんどは「契約に基づく期間限定」型の海外出稼ぎでした。彼らはフィリピンでは OFW(Overseas Filipinos Workers) と呼ばれています。
以来、フィリピンでは労働者は最大の輸出産業となりました。国家の総力をあげて労働者を海外へ送り出していることは、他国ではあまり見られない傾向です。
大臣クラスの役人が外国を訪問し、フィリピン人労働者の受け入れを要請することもフィリピンならではの取り組みといえます。
1-2.充実した職能訓練
国策としてフィリピン人労働者の海外出稼ぎを推し進めるだけに、支援機関も充実しています。1982年には労働雇用省の管轄下としてフィリピン海外雇用庁(POEA)が設立されています。
海外雇用庁は海外労働者を管轄するためのメイン機関です。その業務は多岐に渡っていますが、主となるのは日本でいうところの「国際版ハローワーク」のような役割です。
一般に海外出稼ぎを希望する人々は、海外雇用庁のウェブサイトを見て出稼ぎに行く国・職業・斡旋業者などが掲載されている求人情報を確認した上で応募します。
斡旋業者が入るようになったのは1980年代のことです。それ以前は政府機関による斡旋が行われていましたが、海外に向かう労働者が増えるにつれて民間の斡旋業者が入るようになりました。斡旋業者の管理・監督も海外雇用庁の大切な業務です。
さらに、1987年には海外雇用庁の機関として海外労働者福祉庁(OWWA)が設立されました。OWWA の業務は海外出稼ぎ労働者の任地での権利を保護すること、保険に似たサービスを提供すること、出稼ぎ費用の貸付、技能訓練、帰国者の生計支援などです。
なかでも注目すべきは、海外で働くためのスキルを身につけさせるための学校を OWWA の管轄のもとに用意していることです。家政婦や船員として働くための技能をマスターできる学校もあれば、看護・介護士など専門的な技能の取得を目指した学校も複数あります。
海外出稼ぎ労働者を国際的に売り込むためにも、職業能力開発が担う役割には大きなものがあります。人的資源を育て上げてから海外に送り出すことで、労働力を受け入れる側の負担を少なくしています。
このように、労働者を海外に送り出すことにおいて、フィリピンほどシステマチックに制度化されている国はありません。
フィリピン政府の始めた「フィリピン人を世界の生産労働者にする」という目論見は、40年以上に及ぶ計画的な大量労働者の移民出国制度により、世界でもっとも大きな成功を収めるに至ったのです。
2.経済成長を支える海外出稼ぎ労働者による送金
フィリピンが国策として労働者を海外に送り出し、彼ら海外出稼ぎ労働者を「英雄」として位置づけることには理由があります。それは、現在のフィリピン経済を支えているのは「海外出稼ぎ労働者からの送金」という事実があるからです。
2-1.海外送金に依存するフィリピン経済
近年のフィリピンはよく「復活新興国」と呼ばれます。発展途上国だったフィリピンが最近になって著しい経済成長を遂げていることから、「新興国」と呼ばれることは容易に理解できることでしょう。
でも「復活」とついていることには、違和感を覚える方も多いかもしれません。なぜ「復活」という言葉がついているのかといえば、実はフィリピンは、1950年代までは日本に次ぐ所得水準を誇る経済的に豊かな国だったからです。
ところが、マルコスが政権を握っている間に様々な要因からフィリピン経済は失速し、1980年代以降アジアの近隣諸国が急成長を遂げるなか取り残され、「アジアの病人」とまで呼ばれるようになりました。
しかし、最近のフィリピンは無為に失われた歳月を取り戻すかのように目覚ましい経済成長を遂げています。ことに、リーマンショック後の経済成長率では世界トップクラスです。
フィリピンとASEAN主要4カ国の経済成長率を比べてみると、低迷期と最近の成長ぶりがよくわかります。
フィリピンは、今後も急ピッチで経済成長を達成するだろうと予測されています。大手投資銀行として名高いゴールドマン・サックスが、21世紀に世界有数の経済大国に成長するかもしれない11カ国のひとつにフィリピンを上げているほどです。
では、なぜ長期に渡って停滞していたはずのフィリピン経済が、このところ成長著しいのでしょうか?
その理由を解明するために、まずはフィリピンの実質GDP成長率の内訳を見てみましょう。
この表をひと目見ると、フィリピンの実質 GDP 成長率のなかでもっとも比重が大きいのは「民間消費」であることがわかります。フィリピンの好景気を支えているのは、個人消費なのです。
貧富の差が激しいにもかかわらず、フィリピンの個人消費は盛んです。その旺盛な購買意欲は、発展途上国とはとても思えないほどです。実のところ、GDP のなかで個人消費が占める割合は 70%にも達しています。
ちなみに日本は60%にとどまっており、先進国なのにフィリピンに負けています。個人消費70%という高い数値は、世界最大の経済大国アメリカと肩を並べています。
では、貧困者が多いはずのフィリピンで、なぜこれほどまで個人消費が伸びているのでしょうか?
旺盛な個人消費を支えているのは、国外で出稼ぎをしている労働者からの海外送金です。海外出稼ぎ労働者は、フィリピンに残る家族に向けて仕送りをしています。その海外送金が消費を促し、フィリピンの実質GDPを底上げしているのです。
次に、フィリピンの経常収支の推移を見てみます。
フィリピンの経常収支の推移
フィリピンでは、貿易収支が毎年マイナスを計上していることが見て取れます。しかし、青線で表されている経常収支は常に黒字です。なぜなら、サービス収支に加えて第2次所得収支が大きなプラスを計上しているからです。
実は第2次所得収支のほとんどを占めているのは、海外出稼ぎ労働者からの海外送金です。つまりフィリピンは近年、貿易収支で常に赤字を出しながらも、それを上回る額が海外送金として流れ込んでくるため経常収支が黒字となり、その結果として高い経済成長率を達成しているのです。
このような経済構造は極めて特殊です。次の図は2017年4~6月期の経常収支の内訳についてフィリピンと近隣諸国とを比較したものです。
2017 年 4~6 月期の経常収支の内訳・各国比較
フィリピンと他国との違いは一目瞭然です。インドネシア・マレーシア・タイは貿易収支で大きな黒字を出すことで所得収支の赤字を埋め、経常収支を黒字にしています。その理由は、フィリピン以外のアジア新興国では、投資主導型の経済発展を遂げているためです。
投資によって工業化を進め、輸出に活路を見出すことで経済成長を遂げたのがアジア新興国に共通する特徴です。
ところがフィリピンだけは、そのようなありきたりな経済成長を遂げることができませんでした。その原因としてマルコス政権以来、政治的な混乱が続いたことも大きく影響していますが、アメリカ主導によるグローバル化にいち早く従属したことで、フィリピン経済の健全な発展が阻まれたとする説もあります。
工業化に失敗したフィリピンでは輸出向け製造業がふるわず、貿易黒字を出せるほどには輸出が多くないのが現実です。
他のASEAN諸国が経済成長を果たすなか、ただ一国だけ取り残されたフィリピンですが、独特な経済構造によって見事に復活を果たしました。それが、貿易収支の赤字を所得収支で埋めることで経常収支を黒字に変えるという経済構造です。他のアジア新興国とは正反対の収支構造によって、フィリピン経済は蘇ったのです。
所得収支のなかで海外出稼ぎ労働者からの送金が大きなウェイトを占めていることは、すでに説明した通りです。
フィリピン経済を死地から救ったのは、まさに海外出稼ぎ労働者だったといえます。だからこそフィリピンにとって海外出稼ぎ労働者は、その一人ひとりが国家の英雄なのです。
2-2.GDPの1割を占める海外からの送金
海外で働くフィリピン人労働者からの送金は、2017年の12月に過去最高を記録しました。12月度だけで27.4億ドルという巨額です。
2017年の海外送金額は281億ドルを記録しており、2016年の269億ドルより4.3%増加しています。
下記の図は海外労働者からの送金額とGDPにおける比率を表したものです。
海外からの送金額は右肩上がりで伸びています。GDPにおける海外送金額の割合は、およそ10%にも達しています。このことは他のASEAN諸国には見られない、フィリピン経済の特色のひとつです。
各国のGDPに占める個人送金の割合を見てみると、世界にはフィリピンよりも海外送金に依存している国が複数あることがわかります。
しかし、そのほとんどは経済規模の小さな国ばかりです。フィリピンほど大きな経済規模を有する国で、これほど海外送金に依存している国は世界的に見ても例を見ません。
今日のフィリピン経済は、海外で働いている労働者からの送金に大きく依存しています。現状でもし海外送金が途絶えるとなると、フィリピン経済の成長率は間違いなく一気にマイナスに落ち込みます。現在の好景気を支えているのは、良くも悪くも海外に出た新たな英雄たちによる送金なのです。
現時点では、フィリピン経済の発展にとって海外送金は抜き差しならぬ重みをもっており、この依存関係を断ち切ることは考えられません。
海外送金に依存せざるを得ないのは、外国からの直接投資が少ないためです。海外送金と海外からの直接投資は背中合わせの関係にあります。そこで、他のASEAN新興国に習って外国からの直接投資を増やすことで、海外送金に依存する体質を改めようとする考え方が古くからあります。
この研究で有名なのが、Bimal Ghosh による推計です。海外送金のもたらす経済効果を外国からの直接投資によって代替できると仮定したとき、どのくらいの投資額が必要になるのかを Ghosh は計算しました。
それによると、実績の20倍を超える投資額が必要と推計されています。20倍という数字はあまりにも現実味に欠けています。推計されたのは1992年と古いため、当時より海外送金の額が膨れあがった今日では、その倍数はさらに増していると考えられます。
ここまで海外送金への依存度が深くなってしまうと、外国からの直接投資によって海外送金と同じ程度の経済効果を出そうとするのは現実的ではなく、極めて難しい状況です。
2-3.一時しのぎのはずが、すっかり依存
マルコス大統領が国策として海外への就労を制度化した時点では、これらの政策が一時的な手段に過ぎないことを強調していました。フィリピン政府としては国内経済が低迷していたために、あくまで一時しのぎとして労働者を海外に送り出したのです。
しかし、マルコス政権下の75年から86年の間に海外出稼ぎ労働者は12倍にも達しています。わずか10年の間に、海外就労者からの送金に頼らなければフィリピン経済がもはや立ちゆかなくなるほどの状況が生じてしまいました。
以降は、国策として海外への労働者の送り出しが積極的に推し進められたのは、前述の通りです。
ひとつのターニングポイントとなったのは、1995年に起きた衝撃的な事件を契機として新たな法律が制定されたことです。その事件とは、シンガポールで働いていたフィリピン人メイドが雇用主の子供と同僚の女中を殺したとして告発され、一方的に絞首刑にされたものです。
この事件は冤罪(えんざい)の可能性が高いと見られていたため、フィリピン政府の懇願を無視して極刑が施行されたことにフィリピンの世論が激高しました。海外出稼ぎ労働者が不当な差別にさらされていることに対して、労働者を海外に積極的に送り出す政策そのものに批判が集まったのです。
各地で激しい抗議運動が巻き起こるなか、当時政権を担っていたラモス大統領は新たな法律を制定しました。それが「移動労働者及び海外フィリピン人(保護)法」です。
この法律により、国家は経済成長を維持し、国家の発展を成し遂げるための手段として海外雇用を促進するのではないことが宣言されました。では、なんのために海外に労働者を送り出すのでしょうか?
それは、あくまでフィリピン国民の尊厳・基本的人権・自由を侵さないためであると明言しています。それゆえに国家は国内に雇用機会を創出し、富の公平な分配と開発を促進すべきであると、高らかに誓いを立てました。
この法律は国策として海外に労働者を送り出すというイデオロギーを転換させたことにおいて画期的なものでした。「経済成長と国家の発展するための手段として海外雇用を奨励しない」とフィリピン政府が言い切ったことにより、「海外出稼ぎ労働者のマグナ・カルタ」と称されています。
しかし、こうした宣言が立てられたからといって、海外へ出る労働者の数が実際に減ったわけではありません。「海外出稼ぎ労働者のマグナ・カルタ」と持ち上げられはしたものの、こうした宣言は多分表向きのポーズに過ぎない面もありました。
その後もフィリピン政府は年間出国者100万人を目標に掲げ、海外雇用の促進政策を続けたからです。
目標の100万人に達したのは2006年のことでした。「そのとき、フィリピン労働雇用省は大いなる喜びに沸いた」と、記録されています。
今日では海外出稼ぎはフィリピンの一大産業として定着し、海外送金に深く依存する経済の仕組みがガッチリとできあがっています。
フィリピン経済に深く打ち込まれた海外送金というクサビを断ち切ることは、どうやら簡単なことではなさそうです。
次回は海外出稼ぎ労働の実態について、様々な角度から見ていきます。