前回は、日本に続いて経済大国になるだろと予測されていたフィリピン経済が突然失速し、長期にわたって停滞した理由について、ウォルフレン教授の指摘する論を中心に検証してきました。
→フィリピンペソ物語(2/3) フィリピン経済を長期低迷に導いた【平価切下げ】
世銀(世界銀行)とIMFが推し進めた経済開放政策こそが、経済停滞の原因だとする説です。たしかに、世銀とIMFが押しつけた2度にわたる平価切り下げは、フィリピン経済を奈落の底に突き落としました。
マルコス政権と反米へのデモが激しくなるにつれ、マルコスはついに戒厳令へと踏み切ります。今回は、戒厳令下において世銀とIMFが主導した経済政策により、フィリピンがどうなったのかを見ていきます。
3.マルコス政権下で世銀とIMFはなにをしたのか
3-1.戒厳令後に始まった世銀とIMFによる本格的な介入
明らかに増えた融資額
世銀とIMFがフィリピンに本格的に介入をはじめたのは、戒厳令以後のことです。そのことは融資額の変化にはっきり表れています。
戒厳令前の5年間における平均融資年額は、3千万ドルに過ぎませんでしたが、1974年度の世銀融資額は、実に1億6,510万ドルに達しています。
フィリピンは被集中融資国に指定され、その後も世銀は多額の融資を続けました。戒厳令前の1950年から1972年までにフィリピンが世銀から受けた被援助額は、わずか 3億2,600万ドルのみでした。
ところが戒厳令後の1973年から1981年までに、26億ドルを上回る額が61のプロジェクトに対して集中的に融資されたのです。
巨額の融資の意味するものは、世銀がフィリピンの政策決定にますます深く力を及ぼすことになった、ということです。
戒厳令は世銀とIMFにとって好都合でした。多くの外国資本が流れこむようにフィリピン経済を開放するための政策を、権力が集中することで実現しやすくなったためです。
輸出向け製造業への急激な方向転換
フィリピン政府は以下のような世銀の開発指針を受け入れました。
・土地所有者の生産性向上によって、農業生産の拡大を図る農村開発
・外国資本の参加を得ながら、輸出向け製造業に重点をおいた工業化
・保護主義、ならびに外為制限をすべて廃して、経済の開放を成し遂げること
・エネルギー及び社会資本に対する大口支出
このなかで世銀が最も重視したのが、製造業による輸出の拡大です。フィリピンの工業開発は、これまで輸入代替を中心としていました。それを、輸出向け製造業へと急激に方向転換することに対する心配は、世銀内部にもありました。
しかし、フィリピンがこれまで育ててきた国内市場を捨ててまで、海外市場に経済成長の命運を託すことは、フィリピンをアメリカ中心とする国際経済圏のなかに取り込もうとする世銀にとって譲れない一線でした。
フィリピン政府から寄せられる妥協案のことごとくを世銀ははね除けます。輸出向け製造業への徹底した全面移動を、政府に突きつけたのです。
フィリピンを輸出向け製造業中心の工業へとシフトチェンジさせるにあたって、世銀にとって邪魔な存在は、輸入代替工業に利権を有するフィリピン人エリートでした。保護主義を取り払うとなると、彼らの利権が吹き飛びます。世銀にとって彼らはまさに強力な抵抗勢力でした。
抵抗勢力がその力をもっとも発揮できる場所は国会です。そのため、戒厳令によって国会が閉鎖されたことは、世銀にとって歓迎すべきことだったのです。
安い労働力を保つために必要だったこと
世銀にとっての抵抗勢力は、実は利権を有するエリートばかりではありませんでした。もうひとつの抵抗勢力は、都市部の勤労者です。
輸出向け製造業を盛んにするためには、外国からの投資が絶対に必要です。そして外国からの投資を惹きつけるためには、安い賃金で働いてくれる労働者が必要不可欠でした。
ちょっと前までは日本から中国に工場を移す事例が目立っていましたが、これは中国の安い労働力が魅力的だったためです。当時のフィリピンも同様で、労働者の賃金を安く保つことではじめて、海外からフィリピンに工場を移す企業が増えると期待できたのです。
多国籍企業のフィリピンへの進出を促すためには、安い労働力が保たれる必要がありました。そのための犠牲になったのは、不当に安い賃金で働かされる労働者です。
世銀の要求のもと、フィリピン政府の賃金・物価政策の基本目標は、賃金を抑えることによって雇用と投資を増やすことでした。
この政策によって、労働賃金はどんどん下がっていきました。当時、広く読まれていたビジネス・インターナショナル誌によると、フィリピンの労働賃金は世界で最も低い水準にあると指摘されています。生活に窮した労働者がストによって賃金の値上げを要求するのは、致し方のないことだったといえるでしょう。
労働運動の高まりを抑えるための最も有効な手段は弾圧です。ここでも世銀にとって戒厳令は、手放しで歓迎すべきものでした。戒厳令によりストは禁止され、労働指導者の逮捕、労働事務所の手入れが強権のもとに行われ、労働運動は激しく弾圧されたのです。
弾圧の嵐が吹き荒れ、多くの労働指導者が殺害・行方不明になるなか、世銀のフィリピン計画局長ミッチェル・グッドは次のように弁明しています。
「フィリピンは正式には戒厳令下におかれているが、政府の基本戦略は、なるべく本格的な強制にうったえることなく、有効な社会・経済計画の発展を通して大衆の支持をひろめることである」
ワルデン・ベリョ著「フィリピンの挫折」(三・一書房)より引用
世銀が意図した通りの政策をフィリピン政府に達成させる力になったのは、アメリカ経済界とつながりが深い政治エリートの存在です。フィリピン政府高官となった彼らと世銀とIMFのテクノクラートたちの絆が、フィリピン政府を動かしていました。
1人当たりの収入(横軸)対製造のシェア(縦軸)のグラフ
https://www.rappler.com/views/imho/より引用
上のグラフは横軸に「1人当たりの収入」、縦軸に「製造のシェア」を当てはめたものです。この2つの変数は、通常はともに動きます。たとえば韓国を見てください。所得の伸びが、きれいに製造業の成長を伴っています。
インドネシア・マレーシア・タイでも、所得の伸びと製造業の成長が認められます。しかし、フィリピンだけは一人当たりの収入が下がっており、製造業が次々と倒産したことで製造業のシェアも著しく低下していることがわかります。
労働賃金を力尽くで下げることで、製造業のシェアを伸ばそうとした世銀の目論見は、見事に外れたのです。
戒厳令初期の成功
戒厳令当初、フィリピン経済は世銀の予想を上回る成長ぶりを示しました。1973年のGNPは、前年度に比べて10%も伸びたのです。外資を誘致するために政府が行った政策により、5,500万ドルがフィリピンに流れ込みました。この額は膨大で、戒厳令以前の3年間に匹敵するものです。
貿易収支も好転しました。1972年には1億2千万ドルの貿易赤字を出していたのに、1973年には2億7千万ドルの黒字を叩き出しました。農業政策も順調で、米の産出量は前年よりも30%増産しています。
今でも戒厳令の頃が良かったと懐かしむフィリピン人が多いのは、この1973年度の大躍進のイメージが強烈だからです。
しかし、歴史を振り返ると、1973年は戒厳令下の頂点に過ぎず、翌年から1977年までの 3年間で開発プロジェクトのほぼすべてが停止し、その後フィリピン経済は崩壊へと至ります。
いったい何があったのでしょうか?
歴代大統領ごとのフィリピンのGDP成長率グラフ
https://www.entrepreneur.com.ph/より引用
3-2.夢に終わった経済成長
世銀の主導した開発プロジェクトが、どのような結果をたどったのかを駆け足で追いかけてみます。
農業政策での失敗
世銀の主導する農業開発は、農地所有者が生産性を上げられるように農薬と化学肥料を使った機械化米作技術を推し進めることでした。
生産性を上げることは、一見すると農業開発の万能薬のようにも思えます。しかし世銀は、農民の間で富と権力が偏っているというフィリピンの現実を直視しませんでした。
この農業政策によって利益を得たのは、大地主や大中規模の農園主、外資系農企業ばかりでした。小規模の農地所有者の多くは、農薬や化学肥料、農業機械にかかる費用のために次々に破産に追い込まれたのです。
その一方で、農薬機械メーカーや化学肥料カルテル、そして米国系の農薬独占資本の手には、笑いが止まらないほどの儲けがもたらされました。
結局のところ、世銀の農業開発は多くの小農の破産を招くだけに終わったのです。
輸出主導政策の失敗
世銀はマルコス政権に圧力を加え、保護主義の撤廃による市場開放と輸出主導型への転換を迫りました。
しかしマルコスは、世銀が要求する保護主義の撤廃を実行することをためらいます。国会は開かれなくなったものの、輸入代替部門はマルコスの支持基盤でもあったため、その支持を失うことを恐れたためです。
マルコス政権下では、世銀の推し進める輸出主導型とマルコス政権が守ろうとする輸入代替型が並行して存在することになります。保護主義を廃することで輸入代替工業をつぶそうとする世銀とIMFの思惑は、宙に浮いたままでした。
輸入代替型を残したまま、輸出主導型へと舵を切ったフィリピンですが、その結果は期待を裏切るものでした。
輸出によって貿易黒字を出すという当初の目論見は完全に外れ、結果的にフィリピンは多額の貿易赤字を抱えて苦しむことになります。
輸出が伸びなかった原因のひとつは、輸出商品の価格が安定していないことでした。
フィリピンにとって当時の三大外貨獲得商品は砂糖・ココナッツ・銅でしたが、1975年にはその価格の大暴落に見舞われ、輸出額は激減しました。
ことに甚大な被害を被ったのは砂糖業者です。1974年には 7億6,600万ドルあった輸出額が78年には 2億1,600万ドルに激減し、数百人の砂糖業者が破産に追い込まれました。
輸出主導政策が失敗した最大の理由
輸出商品価格の激しい値動きは、フィリピンの輸出主導型企業に大きなダメージを与えましたが、輸出が伸びなかった最大の原因は別にあります。それは、不況のあおりを受けて多くの先進国が自国の産業を守るために、一斉に保護主義へと走ったからです。
先進国によって数量制限などをかけられたことは、輸出主導型の工業化にとって「鋭利な刃」を向けられるようなものでした。1978年からの2年間だけでも、オーストラリアやカナダ、日本やアメリカ、その他の5つの先進国などフィリピンの主要輸出国が、繊維と衣料などのフィリピンの輸出商品に対して33種もの障壁(しょうへき)を設定しています。
これにより、フィリピンの輸出額は次第に落ち込んでいきました。困り果てたフィリピンはアメリカに泣きつき、数量制限を緩和してほしいと頼み込みましたが……。
アメリカはこれを拒否しました。
フィリピンに対しては一方的に保護主義の全廃を要求するにもかかわらず、自国の産業を守るためには堂々と保護主義を掲げるアメリカの矛盾した姿勢は、ダブルスタンダードと皮肉られても仕方ないものといえるでしょう。
輸出額が激減するなか、輸入額は跳ね上がりました。石油をはじめ、工業化のための機械や輸送のための装備品が値上がりしたためです。
これによりフィリピンの貿易収支は急速に悪化し、1978年には13億ドルの赤字を抱えるようになります。
世界的な不況により輸出市場が縮小しているなか、世銀は輸出主導型の政策を推し進めることに頑としてこだわりました。世銀の予想をはるかに上回るペースでフィリピンの貿易赤字は膨らんでいき、赤字の穴埋めをするために外国からの借款(しゃっかん)は雪だるま式に積み重なっていったのです。
1975年時点の現状
世銀とIMFが主導した輸出主導型の経済政策が、世界的な不況に飲み込まれてフィリピン経済を悪化させたことは明らかでした。1979年にフィリピンを訪問した「貧困調査団」の報告によると、マルコス政権下の1960年代のはじめから1975年までの間に、フィリピンの実質所得は都市と農村の全域に渡り、またすべての職業に渡り、低下しています。
ことに都市労働者の賃金の低下はすさまじく、上記の期間中に50%も減少したと報告されています。
世銀とIMFが推し進める経済政策は、フィリピン国民に大きな苦しみを与えたのです。
それでも世銀とIMFの手綱は緩みませんでした。徹底した工業改革こそが悪化するフィリピン経済を建て直す礎になるのだと、フィリピン政府への圧力をさらに強めることになります。
3-3.保護主義全廃でフィリピンはどうなったのか?
保護主義全廃への最後通牒
1979年、世銀はマルコス政権に対して市場の開放を求める最後通牒(つうちょう)を突きつけました。赤字を埋めるための融資の条件として、保護主義の全廃を求めたのです。
長らく抵抗を続けてきたマルコスはついに折れ、輸入代替業者を保護する障壁を取り除くことに同意しました。
世銀はマルコスが確実に約束を守るように、慎重に段階を追って融資を行いました。こうして輸入代替業者を守っていた最後の砦となる関税が取り払われ、フィリピン市場は自由市場へと開放されたのです。
価格面での優位を失ったフィリピンの国内企業の大半は、外国から輸入されてくる商品に太刀打ちできませんでした。生き残りをかけて国内企業はどこも、合理化を推し進めるよりない状況に追い込まれます。
しかし、実際に合理化を達成できるのは、大企業や外国企業と資本提携した企業に限られました。零細企業は大手の工場に吸収合併されるか、倒産するかのどちらかでした。
1980年の5月から12月までの間に2万1千を超える事業所が倒産に追いやられ、5万6千人もの労働者が職場を失いました。ことに衣料・繊維部門へのダメージはすさまじく、全就業者の 46%が失業へと追い込まれています。
再び平価切り下げへ
フィリピン国民が悲鳴を上げるなか、世銀とIMFの経済政策は留まることを知りません。フィリピンの赤字を削減するために、世銀とIMFがマルコスに突きつけた処方箋(しょほうせん)は、またも平価切り下げでした。
保護主義を撤廃したことによる不況に苦しむ最中、1970年の平価切り下げの悪夢が再び繰り返されることに、フィリピンの政財界は猛反発します。その旗頭となったのは、中央銀行総裁のリカロスです。
リカロスは平価の切り下げが赤字を減らすための一時しのぎに過ぎず、それが経済に与える悪影響の方が大きいと反論しました。さらにリカロスは、保護主義の緩和についても公然と反旗を翻したのです。
平価切り下げの可否を巡りフィリピンが揉めるなか、世銀はマルコスに対して平価切り下げに応じるか、債務不履行に陥るかのどちらかを選択するように強く迫りました。
その直後、頃合いよくリカロスが不正なリベートを受け取っていた事件が起き、リカロスは中央銀行総裁の座から引きずり降ろされます。抵抗を続けていたリカロスの失脚により、ついに平価切り下げが実施されました。
ただし、1970年のような一発で大幅に切り下げる方式ではなく、穏やかな平価切り下げが行われました。
1980年の8月からペソは意図的に下げられ、1980年の1月に7.4ペソであったレートは、1982年のはじめには8.3ペソになっていました。
1970年のときほどではないにしても、不況で苦しむなかでの平価切り下げは、フィリピン国民の暮らしぶりをどん底に落とすに十分でした。景気の停滞と平価切り下げに伴うインフレにより、国民の生活は破壊されました。絶対的な貧困線上で生活する世帯数が激増し、多くの国民が貧困のなかにあえぐことになったのです。
3-4.アメリカがもたらしたもの
結局のところ1981年末までに、フィリピン経済は、世銀が経済を建て直すために活動をはじめた1969年の頃と比べて、極度に悪化していました。
数字の上で、フィリピンはすでに破産しているも同然でした。海外の債権国に負うフィリピンの対外債務は150億ドルを超え、利払いだけでも毎年30億ドルほどが必要だったのです。
世銀が主導した農村開発計画も、貿易の自由化と輸出主導型への転換も、結果的にはすべて失敗に終わりました。世銀は「短期の苦しみは長期の救済につながる」と何度も繰り返しましたが、もはやフィリピン人のほとんどを納得させることはできませんでした。
経済的な停滞と絶対的な貧困の拡大、そして外国からの支配が次第に強くなるに及び、フィリピン国民の不満と怒りはマルコス政権を倒すための民衆革命へとつながっていったのです。
1960年代から一貫してフィリピンは、アメリカとアメリカの支配する機関に対して第三世界のどの国よりも広く門戸を開放してきました。そうしてアメリカの意図する通りの政策を忠実に実行した結果、経済大国への成長を期待されていたフィリピンは跡形もなく吹き飛び、長期低迷という名の深い闇のなかへと沈没していきました。
こうして見てくると、前回紹介したウォルフレン教授の主張である「フィリピン経済が停滞した本当の理由は、アメリカの利益を代表する世銀とIMFの開放経済政策をフィリピンが受け入れたからだ」とする論も、十分に納得できるものといえるでしょう。
フィリピンを舞台にアメリカが繰り広げた第三世界開発の壮大な実験は、こうして失敗に終わったのです。
3-5.フィリピンの失われた10年
アキノ政権でも繰り返された介入
マルコス政権がピープル革命により倒れても、アメリカの影響力がフィリピンを立ち去ることはありませんでした。
1986年にコラソン・アキノ大統領へと政権は移されましたが、大統領が代わっても世銀とIMFによる経済管理は引き続きフィリピンを縛り続けました。
アキノ政権に課せられたのは、落ち込んだままの経済の建て直しと対外債務を減らすことでした。そのために世銀とIMFが主導したのは、自由化と民営化プログラムです。
それでも、アキノ政権前期は外国からの直接投資の導入に成功し、1988年にはGDP6.3%、1990年にはGDP6.0%を達成しています。財政赤字と経常収支の赤字も縮小し、インフレ率も低く抑えられました。
ところが、政権後期となる1991年のGDPはマイナス0.6%、1992年には0.3%と急速に低迷しました。経常収支赤字も3.5%に拡大しています。
世銀のレポートでは、この原因を国内債務の急増にあるとし、アキノ政権の財政政策と運営に問題があるとしています。
この点に関して森澤恵子著「現代フィリピン経済の構造」では、アキノ政権の経済計画が失敗に終わったのは、アキノ政権だけの問題ではないと批判しています。国内債務の急増は対外債務が形を変えたためであり、そこに世銀とIMFが大きく絡んでいると論じています。
いずれにせよ経済危機に陥ったアキノ政権は、膨れあがる一方の財政赤字を穴埋めするために、世銀とIMFに頭を下げなければいけない状況に陥りました。その状況はマルコス政権時とよく似ています。まさに「いつか来た道」です。
世銀とIMFは融資の条件として、大幅な財政支出の削減と経済安定化プログラムをアキノ政権に提示しました。具体的には9%もの輸入課徴金を課すことと、またしても為替レートの切り下げなどです。
これに対してフィリピン側からは、「IMFの経済安定化プログラムは著しい成長抑制効果をもち、IMFの基本目的のひとつである -債務国の経済成長を助けるという方向で経済調整プログラムを作成する- に抵触する」との批判の声が上がりましたが、世銀とIMFがひるむことはありませんでした。
緊縮財政がもたらした経済停滞
アキノ政権は忠実に世銀とIMFの定めた経済政策を実行しました。そして世銀とIMFは、フィリピンに対する債務削減や好条件での債務繰り延べも一切認めませんでした。
世銀とIMFが強要した緊縮財政は、結果的にフィリピンの経済成長を抑え、フィリピン経済をさらなる泥沼へと引き込むことになります。
この過ちは東アジア通貨危機でも繰り返され、世銀とIMFから融資を受けた国々を苦しめました。その話は第二部で紹介します。
財政危機に陥った国が緊縮財政に走ることについて、今日では多くの経済学者が批判しています。マーティン・ウルフ著の「シフト&ショック」でも、そのことが論じられており、名だたる経済学者・財界人が絶賛のコメントを寄せています。
ひとつの家庭を対象とするのであれば、節約生活を送ることで借金を返済することにも理があります。ところが一国の経済となると話は別です。節約ばかりを優先すれば経済はどんどん先細りとなり、やがては崩壊してしまいます。
無理な節約ではなく、逆に経済成長に不可欠な分野に対して十分に資金を注ぎ込むほうが、経済回復を早めることができるのです。
マルコス政権下の1983年からはじまった、アキノ政権を含む10年間は「失われた10年」と呼ばれています。世銀とIMFの緊縮財政を受け入れたフィリピン経済は病的なまでの根深い停滞に陥り、他のアジア各国に大きく遅れをとることになったのです。
フィリピンの1人当たりGDPの推移
https://www.rappler.com/views/imho/より引用
上のグラフは、フィリピンの1人当たりのGDPの推移を表しています。1人当たりGDPは、マルコス政権下の1982年から減少に転じたことがわかります。1982年の水準にようやく戻ったのは2003年のことです。
世銀とIMFが主導する緊縮財政のもと、フィリピン経済は実に21年間も低迷せざるを得なかったのです。
フィリピンが払わされた代償
フィリピンは植民地時代を通して、スペインとアメリカによる統治を受けてきました。抵抗の500年を経た後に独立を果たしたものの、今度は世銀とIMFという新たな支配者を迎えるよりありませんでした。
世銀とIMFは救世主を装いながらも、アメリカの思惑を忠実にフィリピンに押しつける役割を果たしたのです。
その結果、フィリピン経済はアメリカ支配の国際秩序のもとに組み込まれ、欧米の企業に多くの利益をもたらす構造ができあがりました。
欧米にとってはフィリピンに貸し付けた債務が完全に返還されることがなにより重要であり、そのためにフィリピン国民の暮らしを破壊する為替レートの急激な切り下げを何度も実行してきました。
欧米各国と欧米系企業が潤った代償は、さらなる貧困へと追い込まれたフィリピン国民の怨嗟(えんさ)の声であがなわれたのです。
第二部「アジア通貨危機」へ続く・・・
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