フィリピンペソ物語(2/3) フィリピン経済が長期低迷した本当の理由

2.なぜフィリピン経済は停滞したのか?

2-1.フィリピン経済の大まかな歴史をつかもう

フィリピンの歴史

フィリピンペソ

フィリピン経済の流れをサクッとつかみましょう。上の図表を見ることで、大きな流れをつかめるはずです。

発展途上国の経済は、はじめは貧困からスタートするも次第に経済成長を遂げることで、右肩上がりに豊かになっていくのが一般的です。タイやインドネシア、マレーシアなどのASEAN諸国にしても、そうした歴史をたどってきました。

ところが、フィリピンだけは異なります。戦後、アメリカから独立を果たしたばかりのフィリピンは、実は豊かな国でした。1960年の一人当たりの GDP を比較するとフィリピンは254ドルでしたが、この額は日本の479ドルに次いでアジアで二番目に高い数字です。

タイ 109ドル、中国 89ドル、韓国 156ドルと比べると、当時のフィリピンが際立って豊かだったことがわかります。もっとも、だからと言って当時のフィリピン人の多くが豊かだったわけではありません。貧富の格差は当時も存在しています。フィリピンの貧富の格差についての問題は別記事で詳しく扱っています。
フィリピン貧困の連鎖(1/2)なぜ経済成長しても一般国民は豊かにならないのか?

1960年のはじめまでフィリピン経済は好調で、周囲からうらやましがられる存在でした。ところがマルコス政権下で経済は悪化し、その後長きにわたって低迷を続け、周辺諸国に次々と追い抜かれます。

フィリピンペソ

ASEAN主要国の一人当たりGDPの比較
https://www.rappler.com/views/imho/124682-marcos-economy-golden-age-philippinesより引用

上の図は、ASEAN主要国の一人当たりのGDPを比較したグラフです。このグラフを見ると、他国が右肩上がりで経済成長を続けるなか、フィリピンが長いこと低迷していることを見て取れます。

フィリピンが1982年の所得水準を回復するまでに、周辺諸国の所得はすでに2~4倍になっていました。この時期のフィリピンが「アジアの病人」と呼ばれる由縁です。

しかし、2000年代後半からフィリピン経済は再び活気を帯び、現在はアジア圏で最も経済成長が期待されている国のひとつになっています。

ざっくりとフィリピン経済の流れをつかんだところで今回は、アジア圏でも抜きんでて豊かだったフィリピン経済が、なぜ長期にわたる停滞を迎える羽目になったのかについて、見ていくことにします。

製造業の黄金期


1946年に、フィリピンはアメリカからの独立を果たしました。独立後のフィリピンはアメリカからの6.2億ドルの復興援助を受け、周辺諸国が戦争の傷跡が癒えないでいる間にも、国家の近代化に向けた制度を整えることに着手しました。

このときのフィリピン経済を支えたのは、1ドルが 2ペソという超ペソ高のレートです。フィリピンの国力からすれば、それはあまりにも過大評価されたレートでしたが、それゆえに資本財の輸入が促進され、1950年代に入ると東南アジア諸国のなかでいち早く工業化に成功したのです。

ペソ高になると輸入品が安くなることについては、前回の記事で説明しています。
なぜペソ安はフィリピンの経済成長に必要不可欠なのか

当時のフィリピンの経済モデルは「輸入代替政策」と呼ばれるものです。輸入代替政策は発展途上国が自国を工業化するために、まずはじめにとる政策です。それまで輸入に頼っていた製品を自国で生産することを指します。

「輸入代替政策」には、自国で生産した物を国内市場で売るために輸入品に関税をかけたり、数量制限をかけることを含みます。関税をかけると輸入品の価格が上がるため、品質において国内で生産した物が劣っていたとしても、多くの人は安価な国産品を買うようになるからです。

 
こうして、関税や数量制限を設けて自国の生産品を守ることを、「保護主義」と呼びます。

東南アジア諸国が輸入代替政策をとったのは1960年代に入ってからのことです。フィリピンは周辺国より十年ほど早く、工業化に向けて歩み始めたことになります。このときフィリピンの工業化を支えたのは、フィリピンに進出したアメリカ系企業です。フィリピンに対するアメリカの総投資は、東南アジアに対する総投資の 60%を占めています。

こうして1950年代半ばには、フィリピンの国内総生産(GDP)のうち 20%を製造業が占めるようになったのです。独立直後の1946年の製造業の比率が 7.1%だったことと比較すると、大きな進歩です。工業立国フィリピンの輝かしい船出です。

当時のフィリピンはアジアの優等生であり、東南アジアを引っ張るリーダーとして将来が期待されていました。フィリピンこそが日本に続く経済大国になるだろうと信じられていたのです。フィリピンの未来は順風満帆(まんぱん)であり、一点の曇りもないと思われていたのですが……。

まさか、フィリピンがアジアのお荷物といわれるまでに没落してしまうとは、大方の予想を裏切ることでした。いったいフィリピンになにが起きたのでしょうか?

マルコス政権での経済破綻

フィリピン
http://conceptnewscentral.com/より引用

輸入代替に頼った工業成長は、1960年代までに停滞期を迎えました。1969年の製造業の就業人口は130万人でしたが、これは1963年とほぼ同じ数字でした。工業の発展はピタリと止まってしまったのです。

一般に発展途上国は輸入代替政策からスタートし、自国の生産品が競争力をつけてくるとともに、輸出を中心とする工業化へと政策を切り替えます。

国内の市場規模だけを相手にしていると、市場が小さいために産業の発展する余地が限られてしまうからです。経済を輸出中心にシフトすることで外貨を稼ぎ、国を豊かにするわけです。

アジア各国は輸入代替政策から輸出を中心とする工業化へとチェンジすることで、1965年から始まる「東アジアの奇跡」と呼ばれる経済成長を成し遂げました。

しかしフィリピンだけは、輸出を中心とする工業化を成し遂げることができませんでした。

1965年に大統領に就任したマルコスの政権下において、フィリピンは輸入代替政策から輸出主導型への転換を試みますが、結果的に失敗に終わります。

マルコス政権下では海外から借金を重ね、返済がままならない窮地へと追い込まれていったのです。

その原因として、マルコスの経済政策が間違っていたこと、マルコスが重用する人物たちによる縁故主義が悪の根源である、と説明されることが一般的です。マルコスとその取り巻きたちが私腹を肥やすことを優先したため、国の政策が歪められたとされています。
参照:【独裁者マルコス】悪名高きフィリピン大統領の軌跡

ところが、これに対して「それは違う!」と指摘する大学教授がいます。名門アムステルダム大学で比較政治・比較経済の教授を務めるカレル・ヴァン・ウォルフレン氏です。

フィリピン経済が長期にわたって低迷した理由についてのウォルフレン教授の分析は、実に興味深いものです。

2-2.フィリピン経済が停滞した本当の理由とは?

一般

ウォルフレン教授の分析

ウォルフレン教授は「日本人だけが知らないアメリカ『世界支配』の終わり」という著書のなかで、次のように指摘しています。

フィリピンはアジアで唯一、アメリカの植民地となった歴史をもつ。そのためフィリピンが独立した後も、フィリピンの政治エリートたちとアメリカ経済界のリーダーたちとの絆、複雑に入り込んだ権益のつながりは保たれた。フィリピンの今日の没落をもたらした直接の原因は実はそこにある。

カレル・ヴァン・ウォルフレン著 「日本人だけが知らないアメリカ『世界支配』の終わり」(徳間書店)より引用

ウォルフレン教授の論は明快です。日の出の勢いだったフィリピン経済が没落した最大の戦犯は、アメリカだと名指ししたのです。

ウォルフレン教授も、はじめはマルコス政権に問題があってフィリピン経済が悪化したと考えていました。しかし、マルコス政権崩壊後もフィリピン経済が停滞を続け、人々の生活水準がちっとも上がらないことに疑問をもちます。

そこで、歴史をさかのぼって考察したところ、その原因をつかんだのです。ウォルフレン教授はマルコス政権が登場するより前に、フィリピン経済の命運を逆転する流れがあったことに気がつきます。

1961年に大統領に就任したディオスダード・マカパガルが保護主義を放棄し、貿易自由化へと舵を切ったことが、没落への第一歩だったと考えたのです。

フィリピンが政策を転換させたのは、自由主義市場こそ最善であると信じるアメリカの圧力があったためです。

資金を必要とする開発途上国に対して、アメリカの意向を忠実に反映するIMFや世界銀行が融資の際の条件として、保護主義の撤廃による自由化を約束させることは、今日でも見られることです。

しかし、ウォルフレン教授は「こうした一連の措置を講じることは、これまで保護されてきた産業を、あらゆる搾取の手に明け渡すに等しい行為だ」と厳しく批判します。

つまり、フィリピン経済が没落したのはマルコス政権の失政ではなく、それ以前に世銀とIMFが主導した開放経済政策にこそ問題があると、言い切ったのです。

その結果、アジアで唯一アメリカに統治され、アメリカの指示に素直に従ったフィリピンだけが経済開発に失敗する一方、中国や韓国、タイやインドネシア、マレーシアなどはアメリカと距離をおき、日本を手本に保護主義政策を採用することで経済発展を遂げ、東アジアの奇跡を成し遂げたのだと、ウォルフレン教授は見なしています。

さて、フィリピン経済が停滞した本当の理由は、アメリカの利益を代表する世銀とIMFの開放経済政策をフィリピンが受け入れたからだ、とするウォルフレン教授の主張は正しいのでしょうか?

当時のフィリピン経済にさかのぼって検討してみることにします。

占領軍のいない植民地化

世銀とIMFの推し進めるフィリピンでの開放経済政策を批判する声は、なにもウォルフレン教授がはじめて唱えたわけではありません。フィリピンのなかにも、世銀やIMFの誘導する経済政策に対して警鐘を鳴らす声が、幾度となく発せられていました。

なかでも、1980年後半にデイリー・エキスプレス紙主筆のテオドロ・パレンシア氏が同紙に掲載した次の記事は、フィリピン人の怒りを静かに代弁しています。

国際通貨基金(IMF)と世界銀行は、1946年以来、わが国経済にとって障害の主たるものであった。我々が右腕を出せば、その代償として、我々に1億ドルをくれるアメリカ(世銀/IMF)方式は、もはや、我々のためにならなくなっている。アームチェアにふんぞり返っている世銀エコノミストと、これに照応するフィリピン側のエコノミストは、我々が監視を怠れば、我々を破滅させてしまうであろう。占領軍のいないこのような植民地化は、快適なものではないのだ。

ワルデン・ペリョ著「フィリピンの挫折 世銀・IMFの開発政策とマルコス体制」(三一書房)より引用

パレンシア氏が記した「占領軍のいない植民地化」という言葉に、フィリピンで果たした世銀とIMFの役割が集約されています。

アメリカの植民地支配から独立して以来、フィリピンはアメリカからの多額の融資によって工業化をいち早く成し遂げました。しかし、それはアメリカに深く依存する経済をフィリピンにもたらしました。

占領軍こそいないものの、フィリピンは長きにわたってアメリカの経済的植民地であり続けたのです。

世銀とIMFとは

今回と次回は、世銀とIMFがフィリピンになにをもたらしたのかを探っていきます。

そこでまず、世銀とIMFとはどのような組織でなにを目的としているのかについて紹介しましょう。

世銀とIMFは、第二世界大戦中の1944年7月に誕生した組織です。当時の世界銀行の正式名称は「国際復興開発銀行(IRBD)」です。その目的は正式名称にそのまま表れています。

Acronym IMF - International Monetary Fund
一方、IMFは日本語では「国際通貨基金」と呼ばれます。世界経済の安定を図るために設けられた組織です。国連が政治を安定させるためには、世界規模での協力が必要だという信念のもとに設立されたように、IMFは経済を安定させるためには世界規模での協力が必要だという信念に基づいて設立されました。

IMF加盟国は2018年時点で 189カ国です。加盟国の納税者が提供した資金で運営されています。私やあなたの納税の一部が、IMFの活動資金に回されているわけです。

世銀とIMFを取り仕切っているのは主要先進国ですが、主導しているのは明らかにアメリカです。世銀の総裁はアメリカの出身者、IMFのトップにあたる専務理事には欧州出身者が就くことが暗黙の了解になっています。今日まで、それのルールが破られたことはありません。

国連では、先の戦争に勝利した五大国が常任理事国として拒否権をもちますが、IMFで拒否権をもつ国は、ただ一カ国、アメリカだけです。

このことは、IMFという国際組織がアメリカの意のままに動くことを意味しています。アメリカの意に沿わない場合は、拒否権を発動することですべて否決できるからです。

IMFの推し進める自由市場至上主義

IMFは、世界の通貨制度の交通整理をする警官としての役割を負っていました。そのために、元々は経済不振に陥った国に対して、経済を拡大するための政策をとらせるように国際圧力をかけることを目的としていました。

しかし、1980年代に入ると、その方針がガラリと変わります。政府があまり介入することなく、市場を自由に任せた方がよいとする自由市場至上主義へとポジションを改めたのです。

IMFは、加盟国が危機に陥ったときに対処するための機関と見なされていました。発展途上国の経済が危機的な状況に陥ったときには、世界経済への悪影響を抑えるために緊急融資を行うことも、IMFの大切な役目です。

どの国や機関からも借金を断られて資金繰りに窮した発展途上国にとって、IMFこそが最後の救いの手です。IMFが「最後の貸し手」と呼ばれるのは、そのためです。経済が不安定な発展途上国の大半にとって、IMFはなくてはならない存在なのです。

ただし、IMFは融資の際に必ず条件をつけます。その条件とはたいていの場合、発展途上国の市場を開放し、保護主義を撤廃することです。自由市場への移行こそが、発展途上国の経済が発展するための処方箋(しょほうせん)だと、IMFはかたくなに信じています。あわせて、債務を減らすために緊縮財政を敷くことも、よく条件になっています。

ところが現実は、IMFが期待したようには進んでいません。先ほど紹介したウォルフレン教授をはじめとしてIMFを批判する声が大きいのは、IMFの要求する条件を履行することが多くの場合、発展途上国の経済にとって悪い結果をもたらすからです。

その一方で、世界の市場が自由化することは、すでに経済的優位を築いているアメリカにとってはプラスに働くことが多いことも事実です。

そのあたりの事情を、マルコス政権時にさかのぼることで確認してみましょう。

世銀とIMFが仕掛けた第一の矢

世銀とIMFが目論んだのは、フィリピンの貿易自由化でした。1960年代のはじめ、アメリカの投資家はフィリピンから本国へ送金する際に自由化を必要としており、アメリカの輸出業者は輸出量を増やすために、フィリピンでの保護主義の撤廃を望んでいました。

これらの圧力を受けてアメリカ政府は、フィリピンのマカパガル大統領に対して輸入制限と外国為替管理の撤廃を突きつけたのです。

この目的を達成するために利用されたのが、世銀・IMFでした。

世銀とIMFがフィリピンの自由化のために初めて仕掛けたのは、1962年に行われたペソの平価切り下げでした。

「平価切り下げ」とは、固定相場制において通貨の価値を下げることです。現在はほとんどの国が変動相場制をとっていますが、当時はレートが固定された固定相場制をとっていました。両国の取り決めがあって、はじめて通貨の価値を上げたり下げたりできたのです。

 
つまり、話し合いによってペソ安へとレートを改めることが「平価切り下げ」の意味です。

ペソがフィリピンの経済力に比べて高かったことは確かなため、平価切り下げに至るのはやむを得ない面がありました。しかし、問題はその下げ幅です。

IMFが要求したのは、ほぼ100%にも及ぶ平価切り下げでした。IMFは平価切り下げの必要性を次のように説明しました。ペソを下げることでフィリピン産の農産物や原材料の輸出品の価格を下げることができるため、輸出量と外貨獲得額が増加すると……。

経済をアメリカに深く依存しているフィリピン政府は、IMFの意向に逆らうことができませんでした。

その結果、フィリピンは大きな災厄に見舞われます。アメリカ系企業をはじめとする大手の農産物輸出業者は、たしかに多大な利益を上げました。しかし、その一方で国内の多くの企業は悲鳴を上げるよりありませんでした。

前回説明したように、ペソ安は輸出品の値段を下げますが、輸入原材料の値段を上げます。しかも、その率は100%、つまり2倍です。原材料が倍になれば、多くの製造業は立ちゆかなくなります。

コストが上がれば商品価格も上がるため、商品が売れなくなります。それ以前に、原材料を購入する運転資金が底をつく企業も多数出てきました。

さらに悲惨だったのは、外国からの借入金を抱えている企業です。当時はアメリカ系の銀行が多くの融資を行っていましたが、借入金がいきなり2倍にふくれあがったも同然なのですから、返済もままなりません。

こうしてフィリピンの企業は、ばたばたと倒産していきました。この平価切り下げにより、推定1,500人の企業家が破産に追い込まれたと言われています。

かろうじて生き残れた企業も、その多くが外国資本との合弁企業の設立に頼るしかありませんでした。外国資本といっても、そのほとんどはアメリカ系企業です。フィリピンの製造業が発達した時期を見計らったかのように、アメリカ系企業は巧妙にその果実を奪い取ることに成功しました。

1ドル2ペソの有利なレートが生んだフィリピンのいち早い工業化は、IMFの押しつけた 100%の平価切り下げによって、その多くが失われたのです。

世銀とIMFが仕掛けた第二の矢

それでも世銀とIMFは、まだ大いに不満を抱いていました。輸入代替業者のすべての息の根が絶えたわけでもなく、保護主義は未だに残っていたからです。

マルコスが大統領に就任したのは、その直後の1966年のことです。世銀とIMFがマルコス政権に対して圧力をかけ始めたのは、1969年にマルコスが二期目の当選を果たした直後のことでした。

大統領選挙の最中、マルコスは政府が持っていた外貨準備高を使い果たしてしまったのです。事は深刻でした。このときフィリピンは、1962年に受けたダメージから立ち直れないまま、膨大な貿易赤字を抱えていました。

この赤字を埋め、さらに膨れあがる一方の債務を返還するだけの資金が、国庫には残されていなかったのです。マルコス政権に残された道は、世銀とIMFに救済を願い出ることだけでした。

融資と引き換えに世銀とIMFがマルコス政権に要求したのは、さらなる平価切り下げです。マルコスは選挙公約で平価切り下げをしないことを誓っていましたが、背に腹は代えられず、やむなくこれを受け入れるよりありませんでした。

IMFから3,700万ドルの緊急融資を受け入れた代償として、60%以上もの平価切り下げに踏み切ったのです。

災厄は再び繰り返されました。

しかも、フィリピン経済が好調だった1962年とは異なり、今度は経済がどん底まで落ち込んでいるタイミングでです。

この平価切り下げは、フィリピンの企業に壊滅的な打撃を与えました。輸入原材料は30%を超えて上がり、対外債務は50%以上も高騰したのです。多くの企業が再び倒産していくなか、世銀はこう言ってマルコスを賞賛しました。「政治的勇気を立派に示した」と……。

さらに、短期間に行われた平価切り下げはインフレを巻き起こし、庶民の暮らしを苦しめました。インフレ率は1969年の 1.3%から1970年の 14.8%にまで跳ね上がったのです。

平価切り下げによって甚大(じんだい)な被害を受けるのは、実は企業家ではありません。最も悲惨な目にあうのは、低所得者層です。不況のあおりを受けて、労働者の実質賃金は驚くほど下がっていきました。庶民の暮らしはまさに困窮(こんきゅう)を極めたのです。

平価切り下げにより、貿易収支の赤字はたしかに減少しました。1969年には2億5700万ドルだった貿易赤字が、1970年には700万ドルにまで縮小したのです。しかし、それは大きな犠牲の上に成り立つ縮小でした。

1970年に行われた平価切り下げは、フィリピン経済を深い闇のなかへと落とし込みました。これにより、フィリピンは他のアジア諸国が経済成長を遂げるなか、長期にわたる経済停滞へと沈んでいったのです。

フィリピンペソ

歴代大統領における1ペソあたりのドルの為替チャート
https://coconuts.co/manila/news/より引用

上のグラフを見ると、マルコス政権下でフィリピンペソが大きく切り下げられている様が見て取れます。

マルコス政権に失政があったことはたしかですが、ペソがこれだけ切り下げられたのでは、経済が安定するはずもありません。マルコス一人にフィリピン経済停滞の責任をすべて押しつけるのは、酷といえるかもしれません。

高まる反米のうねり、そして戒厳令へ

この平価切り下げを機に、世銀とIMFはフィリピン経済にがっちりと根を生やします。「世銀・IMF中央委員会」が設置され、フィリピン中央銀行にはIMFの駐在員が常駐するようになりました。

ダメ押しとなったのは、世銀とIMFの指導の下に「諮問グループ」が結成されたことです。米財務省報告によると、諮問グループの役目は監視だけに留まりません。間接的にフィリピンの政策に影響力を及ぼすことを目的にしたことが、明らかにされています。

これ以降、世銀とIMFはフィリピンの政策決定に大きな力を及ぼすことになるのです。

世銀はマルコス政権に対し、外資系投資を不当に制限するような「立法措置ないしは行政措置」をとらないように警告を発しました。

フィリピン経済が破壊され、職を失ったり賃金の低下に苦しむ庶民の間では、政府とアメリカに対する不満から農民・学生および労働者によるデモが激しくなり、フィリピンと世銀の双方が危険と認めるレベルにまで悪化しました。

世論に押されて最高裁でも、「クアシアの裁定」と呼ばれる判決が下ります。これは、独立以降に米国民が取得した土地を不法取得と認め、強制売却または収容の対象となり得ることを命じる過激な内容の判決です。

また、外国人がフィリピン人のために維持されている産業において、重役になることを禁じる判決も下されました。

フィリピン経済からアメリカ人を排除しようとする反米デモの高まりは、もはや静めようもなく、アメリカにとってはフィリピンで築いた利権を失うかもしれない瀬戸際に立たされていました。

そのとき、1972年9月22日にマルコスによって布告されたのが戒厳令です。戒厳令によってあらゆるデモは、力尽くで鎮静化されたのです。

アメリカにとって戒厳令は、歓迎すべきものでした。これ以降、マルコス政権下において世銀とIMFが主導する経済政策は、フィリピン国民に大きなを苦しみを与えることになります。

この続きは次回お伝えします。

フィリピンペソ物語

  1. フィリピンペソ物語(1/3) なぜペソ安はフィリピンの経済成長に必要不可欠なのか
  2. フィリピンペソ物語(2/3) フィリピン経済を長期低迷に導いた【平価切下げ】←現在の記事
  3. フィリピンペソ物語(3/3) 大統領が変わっても続いた世銀とIMFの経済開放政策
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ドン山本
タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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