http://news.abs-cbn.com/list/tag/ferdinand-marcos

1,フィリピンはマルコスの遺体埋葬問題で揺れた

永眠の地、英雄墓地へ

http://www.dailymail.co.uk/news/article-3949098/Amid-protests-Philippine-dictator-buried-heroes-cemetery.html
http://www.dailymail.co.uk/news/article-3949098/Amid-protests-Philippine-dictator-buried-heroes-cemetery.html

2016年11月11日、マルコス元大統領を納めた棺は軍のヘリに乗って、マニラの国立英雄墓地に静かに降ろされました。イメルダ夫人・北イロコス州知事を務める長女のアイミー氏・長男のボンボン氏ら遺族が見守るなか、国軍の兵士に抱えられた棺はゆっくりと運ばれていきます。

マルコス氏がハワイで客死したのは89年の9月のことでした。それから27年の歳月を経て、ようやくマルコス氏の遺体は永眠の地にたどり着いたのです。

埋葬日時については秘密にされていたため一般の参加者はなく、参列者は軍関係者が大半を占めていました。アイミー氏自身がFacebookに投稿した映像には、その様子が映し出されています。

イメルダ夫人をはじめとする遺族の瞳は、厳かに通り過ぎるマルコス氏の遺体を見つめて潤んでいるように見えました。彼らの胸には、果たしてどんな思いがこみ上げていたのでしょうか。

マルコスにとって英雄墓地は「約束の地」でした。21年に渡り大統領の座に居続けたマルコスは、国家の英雄として英雄墓地に葬られることを望んでいました。

しかし、マルコスが遺体となってフィリピンに帰還を果たしたとき、大多数の国民は英雄墓地に埋葬することを許しませんでした。マルコスの圧制下で多くの国民が殺人・拷問・行方不明などの犠牲になっていたからです。

それでもマルコスの遺族とマルコスを支持する人々はあきらめませんでした。抗日戦線で活躍した英雄であり、国家のために長年尽くしてきたマルコスにふさわしい永眠の地は、英雄墓地以外には考えられなかったからです。

マルコスの遺体は、北イロコス州バタックにあるマルコスの実家敷地内の特別霊廟に冷凍保存されたまま、三十年近くの歳月が流れました。

冷凍保存されたマルコスの遺体 http://www.dailymail.co.uk/news/article-3949098/Amid-protests-Philippine-dictator-buried-heroes-cemetery.html
冷凍保存されたマルコスの遺体 http://www.dailymail.co.uk/news/article-3949098/Amid-protests-Philippine-dictator-buried-heroes-cemetery.html

その間、イメルダ夫人らは何度も英雄墓地への埋葬を要請しましたが、それに反対する国民の声は根強く、歴代大統領はことごとく訴えを却下してきたのです。

ところが、ドゥテルテ大統領の就任とともに、風向きが大きく変わることになります。

ドゥテルテ大統領による埋葬容認と反対運動

http://news.mb.com.ph/2016/11/20/marcos-family-holds-vigil-at-libingan-security-forces-brace-for-more-protests/
http://news.mb.com.ph/2016/11/20/marcos-family-holds-vigil-at-libingan-security-forces-brace-for-more-protests/

「人は誰もが間違いを犯す。我々は和解する時ではないか」

ドゥテルテ大統領は国民に和解を呼びかけ、マルコスを英雄墓地に埋葬することを認める考えを表明しました。

それを受け入れることで「憎しみを一つ減らせる」と、反対派に向けてドゥテルテ大統領は語りかけました。

埋葬を認めた直接の動機については、「父親がマルコス内閣の閣僚を一時期務めたことがあり、恩義を感じているため」と説明しています。

マルコスの命日である9月28日に埋葬が決定されると、激しい反対運動が起きました。8月14日にはフィリピン独立の父と讃えれるホセ・リサールの銅像が建つリサール公園に、およそ1500人が集まり英雄墓地埋葬反対のデモを行い気勢を上げます。

演説では「国家の恥」「アル・カポネをアーリントン米国立墓地に葬るようなもの」といった厳しい声が寄せられ、会場は熱気に包まれました。

埋葬が近づいた9月22日には反対運動は最高潮に達し、ケソン市からマニラ市まで約5000人の市民が「マルコスは英雄ではない」と書かれたプラカードや横断幕を手に、行進しています。

同日、セブやルソン島北部のバギオ・ミンダナオのダバオでも反対集会が開かれ、全国的に反対の声が高まったのです。

国民に圧倒的な人気を誇るドゥテルテ大統領の呼びかけさえ、国民のなかにくすぶるマルコスへの憎しみを打ち消すことはできませんでした。

英雄墓地はフィリピンを守るために戦場に倒れた兵士などの英雄が眠る場所であり、そのほとんどは軍人の墓です。国家を守るために死んでいった兵士以外では、特別に許された者しか埋葬できません。

日本で言えば、靖国神社に該当する場所です。

国家のために死んでいった兵士たちの傍らにマルコスを英雄として埋葬することには、抵抗を覚える国民が多かったのです。

反対派が「英雄墓地埋葬の一時差し止め」を求める訴訟を起こしたことを受け、フィリピン最高裁はこれを認め、「埋葬凍結」を命じました。

マルコスを英雄墓地に埋葬することを認めるか否かは、ついに法廷の場で決せられることになったのです。

埋葬問題が残したもの

マルコスの埋葬を認める判決に喜ぶマルコス支持者たち http://www.rappler.com/nation/151724-sc-decision-bury-marcos-libingan-not-pure-evil

マルコスの埋葬を認める判決に喜ぶマルコス支持者たち http://www.rappler.com/nation/151724-sc-decision-bury-marcos-libingan-not-pure-evil11月8日に最高裁の判決が下されました。

結果は市民側の敗訴でした。反対派市民の訴えは棄却され、英雄墓地への埋葬を認める判決が下されたのです。

判決理由として「マルコス氏は元兵士で、不道徳な犯罪行為もなく欠格条項は見当たらない」「埋葬を妨げる法律もない」と読み上げられました。

また判事は、「マルコスはすべてが良いとは言えなかったが、純粋な悪ではなかった。私たちと同じように誤りを犯した人間に過ぎない」と述べています。

最高裁の判決を受け、フィリピン・カトリック・ビショップ会議は11月9日に声明を出しました。
「(最高裁の決定は)エドゥサ革命の精神を侮辱するもので、非常に悲しい。民主主義復興を掲げた国民の闘いを無にするものだ」

「許す」ことを教えるキリスト教会にしては手厳しい声明でした。

アイミー州知事は「フィリピンは前進しなければならず、前進には平和と許しが必要だ」と、あくまで国民の和解を呼びかけましたが「平和は正義の上にこそ成り立つ」と、カトリック関係者は反論しています。

「二度と再びあのような強権的圧制がフィリピンに訪れることがないように我々はあの時代を記憶し、若い世代に正しく伝えていかなくてはならない」

国民の9割以上がキリスト教の信者であるだけに、教会の政治的な発言には大きな影響力がともないます。エドゥサ革命においても、ピープルパワーが集結するために教会の果たした役割は大きなものでした。

教会の正式な反対表明を受けて、マルコスの埋葬反対運動は今後も盛り上がることが必至とみられていた矢先、誰もが予期できなかった早い時期に、マルコスの遺体は英雄墓地へと突然埋葬されたのです。反対派にとっては、まさに抜き打ちでした。

それでも反対派が英雄墓地へ押し寄せることを恐れ、警察機動隊による厳重な警戒のもと、きわめて短時間のうちにマルコスの遺体は埋葬されました。

それは、「英雄」にしてはけしてふさわしくない慌(あわ)ただしい埋葬だったといえるでしょう。

インタビューに答えるアイミー州知事 https://sg.news.yahoo.com/daughter-former-philippine-dictator-marcos-urges-forgiveness-113946127.html
インタビューに答えるアイミー州知事 https://sg.news.yahoo.com/daughter-former-philippine-dictator-marcos-urges-forgiveness-113946127.html

埋葬後「ようやく父の望みをかなえることができました」とアイミー州知事は静かに語りました。

ドゥテルテ大統領はペルーを訪問していたため、そこから声明を発表しています。
「(反対派と賛成派の)双方が最大限に寛容な姿勢を示し、マルコス元大統領の葬儀を受け入れることを望む。全国民は自身を傷つけた相手を許す余地を心の中に見つけてほしい」と呼びかけました。

支持率が高いとはいえ、なぜドゥテルテ大統領は今回のような決定を下したのでしょうか?

国民の多くが反対することは十分にわかっていたはずです。もちろんドゥテルテ大統領自身が語りかけているように、国民の和解を求める気持ちがあったことはたしかです。

それとともに大きな要因となったのは、ドゥテルテ大統領がマルコス元大統領に寄せる思いです。それは歴代大統領とは明らかに異なるものでした。

ドゥテルテ大統領はかねてからマルコスを尊敬していました。市長時代に、「過去の大統領でマルコスが一番だった」と語っています。

ドゥテルテ大統領の言葉の端々からは、ドゥテルテが目指す理想の大統領がマルコスなのではないかと思える節があります。

マルコスを追い越し、自らが英雄として国民から讃えられることを、ドゥテルテ大統領は夢見ているのでしょうか。

また一部には、「政治的に強い基盤を持つマルコス一族と、マルコス支持者を取り入れたい狙いがあるのでは?」といった声もあります。

ドゥテルテ大統領は、大統領選においてもアイミー州知事から支持を受けていました。

いずれにせよカトリック教会との対立は、今度のドゥテルテ政権にとって大きな禍根(かこん)を残すことになるかもしれません。

2,マルコスは民衆を苦しめた独裁者か、それとも英雄か

http://edition.cnn.com/2016/11/17/asia/philippines-marcos-burial-heroes-cemetery/
http://edition.cnn.com/2016/11/17/asia/philippines-marcos-burial-heroes-cemetery/

マルコスと言えば、「圧政を敷いた独裁者」としてのイメージがつきまといます。マルコスの統治した時代は、フィリピンの「暗黒時代」と一般的には言われています。

実際、マルコスによる圧政のもと、多くの国民が殺害・拷問され、行方不明になりました。

では、ドゥテルテ大統領がマルコスを尊敬しているという気持ちは、フィリピンのなかでは異端なのでしょうか?

実はそんなことはありません。マルコスの治政を評価する声は、ドゥテルテ大統領に限ったことではないのです。

マルコスの英雄墓地への埋葬問題が持ち上がったことを機に、このところ、マルコスを再評価する声をよく聞くようになりました。

彼らは口にします。「マルコスは経済を成長させた優れたリーダーであった」と。

マルコスの時代を「黄金時代」と懐かしむ人々も数多くいます。
「マルコス時代は良かった。秩序があり、インフラ整備も進んでいた」

つまり、マルコスを圧政を敷いた独裁者と見る人もいれば、フィリピンの国力を高めた英雄と見る人もいるのです。

「マルコスは果たして独裁者か、それとも英雄か?」、この議論は埋葬問題で揉めるなか、フィリピンの各地で繰り返し問われました。

その比率については、ほぼ半々ではないかと個人的には感じます。日本をはじめとする海外メディアではマルコスの悪いイメージばかりが強調されるため、マルコスを評価する声が多いと聞くと、意外に思うかもしれません。

ですが次のような指摘は根強く残っています。

戒厳令と夜間外出禁止令が敷かれたことで、国内の治安が回復して犯罪率が低くなった。政治が安定したことで海外からの投資も増え、1970年代は経済成長が劇的に向上した。

ほんとうにマルコスの圧制下でフィリピンの経済は成長したのでしょうか?

その答えは、entrepreneur.com.phに掲載された記事「図解:エドゥサ革命前後で見る経済」を見ればわかります。この記事を翻訳の上、紹介しましょう。

3,エドゥサ革命前後で見るフィリピン経済

歴代大統領ごとのフィリピンのGDP成長率グラフ
歴代大統領ごとのフィリピンのGDP成長率グラフ

2017年2月25日、フィリピンはエドゥサ革命から31周年を迎えました。この大衆暴動によよってマルコス政権は崩壊し、選挙における民主主義と市民の自由を人々は再び取り戻すことができました。

しかし、エドゥサ革命が経済に及ぼした影響は、すぐにもたらされたわけではなく、それほど劇的なものでもありませんでした。

故フェルディナンド・マルコスが権力を握った1973年から1985年までの13年間における平均GDP成長率は3.3%でした。

彼以降の後継者2代にわたる平均成長率は、マルコス時代より高くはなりましたが、その幅は微増にとどまっています。それぞれ、1986年から1992年中頃までのコラソン・アキノ大統領時代は3.6%、1992年中頃から1998年中頃までのフィデル・ラモス大統領時代は3.7%でした。その後のジョセフ・エストラーダ政権下では成長率が下がったこともあります。
関連記事:GDPが増加傾向にある今、起業には好機か?(英文)

2000年初頭、グロリア・アロヨ大統領とベニグノ・アキノ3世大統領時代になって、はじめてGDPの長期的な伸びが見られるようになりました。そして、現ロドリゴ・ドゥテルテ大統領になってからは、さらに成長が加速しているように見られます。

1986年のエドゥサ革命の前と後の経済における最も大きな違いは、経済成長率のアップダウンの差が小さくなったことです。戒厳令初期のGDP成長率は1960年代以降最大にまで成長しましたが、国内最悪の戦後経済危機の最中であった1984年と1985年には、現在から見ても最低のレベルにまで落ち込んでいました。

経済の乱高下は1986年以降、特に2000年代初期から大きく改善されています。
関連記事:第四四半期のGDP成長率 中国、ベトナムがフィリピンを上回る(英文)
( 翻訳 Nina )

▶ 参照元:http://www.entrepreneur.com.ph/news-and-events/-infographic-the-economy-before-and-after-the-edsa-revolution-a1672-20170222?ref=home_featured_big

4,今日の経済成長はマルコスがもたらした!?

フィリピンの1人当たり実質GDP 1960〜2012 年http://www.rappler.com/thought-leaders/123773-marcos-economic-disaster
フィリピンの1人当たり実質GDP 1960〜2012 年http://www.rappler.com/thought-leaders/123773-marcos-economic-disaster

以上、entrepreneur.com.phに掲載された記事「図解:エドゥサ革命前後で見る経済」を翻訳の上、紹介しました。

グラフを見るとマルコス政権の初期においては、たしかにフィリピン経済の成長ぶりがうかがえます。

後半は世界規模で起きた石油危機の影響もあり大きく落ち込んだために、マルコス政権下における平均の経済成長率は低くなっています。しかし、少なくともマルコス政権前半の経済はかなり高水準で安定しています。この時代を懐かしむ人が多いことも、うなづけます。

エドゥサ革命後のフィリピン経済は低迷を続け、ベニグノ・アキノ3世大統領の時代になってようやく伸びはじめました。

ドゥテルテ大統領の経済政策はアキノ前大統領の路線を引き継ぎ、好調を維持しています。2016年のGDP成長率は6.8%となり、15年の5.9%を上回りました。世界銀行はフィリピンの2017年の成長予測を6.9%、2018年は7.0%と予測しています。

この経済成長の伸び率は、世界でもトップクラスです。いまや東南アジアでも最高の高成長国となったのです。

イメルダ夫人はこうしたフィリピン経済の成長ぶりを「マルコスのおかげ」と断言しています。

マルコスの長男ボンボン・マルコス元上院議員も「アキノ政変(エドサ革命)が起こらず父の政権が続いていれば、フィリピンはもう一つのシンガポールになれた」と発言しています。

シンガポールの初代首相リー・クアンユーは開発独裁を行ったことでシンガポールの経済的繁栄を実現しました。リー・クアンユーによる独裁がなければ、シンガポールの今日の発展はなかったでしょう。

ボンボンは父マルコスが独裁を続けていれば、フィリピンもシンガポールのように豊かになったに違いないと言ったのです。

歴史にifはありません。しかし、マルコス政権初期には「アジアの優等生」と呼ばれていたフィリピン経済が、その後かつての繁栄が信じられないような低迷を続け、「アジアの病人」とまでさげすまされるようになった現実から、「もしエドゥサ革命が起こらず、あのままマルコスが政権を担っていたならフィリピンは豊かな国になっていたかもしれない」と錯覚する人々は、マルコス一族の他にも多数います。

歴代の大統領で誰が一番よかったかと聞くと、「マルコス」と答える国民もかなりいるのです。

マルコスが大統領だった時代に生まれていなかった若い世代が、現在のフィリピンの人口の三分の一を占めていることが、その原因と言われています。

フィリピン国内でさえ、マルコスが何をしたのかをよく知らない若い人が増えているのですから、ただでさえフィリピンのことに関心の薄い日本において、マルコスについての知識がないのは仕方のないことです。

果たしてマルコスは大統領時代になにをしたのでしょうか、なぜマルコスの評価はまっぷたつに分かれているのでしょうか?

そしてマルコスとは、何者だったのでしょうか?

マルコス大統領誕生から失脚までの歴史を振り返ってみましょう。

5,マルコスとは何者だったのか?

アジアのケネディと讃えられて……

フェルディナンド・マルコス、1969年12月30日、マニラのクイリノ・スタジアムでフィリピン大統領として宣誓
フェルディナンド・マルコス、1969年12月30日、マニラのクイリノ・スタジアムでフィリピン大統領として宣誓

1965年12月、国民党から出たフェルディナンド・マルコスは自由党の現職大統領マカパガルに67万票の大差をつけて第10代フィリピン大統領に選出されました。マルコス48歳、下院3期・上院1期を勤めたのちの異例の速さでの大統領就任でした。

大統領選でマルコスは圧勝を納めました。マルコスが負けたのはふたつの州だけでした。パンパンガとタルラックの両州です。このうちパンパンガ州は現職大統領マカパガルの地盤だけに、敗れたことも致し方ありません。

常に完璧を目指すマルコスにとって許せないのは、タルラック州で負けたことでした。タルラック州にはマルコスを支持するはずのイロカノ人が63パーセントもいるだけに、負けるはずがない州でした。

ではなぜ負けたのかと言えば、タルラック州の知事としてマカパガルを支援する自由党のニノイ・アキノがいたからです。マルコスにとって、タルラック州を落としたことは大きな屈辱でした。

ニノイ・アキノとマルコス、宿命ともいえる二人の対決は、すでにこのときからはじまっていたのです。

1965年12月30日の大統領就任演説で、マルコスはフィリピンが危機的状況にあることを国民に対して包み隠さず告げました。国庫はすでに空であり、支出が収入をはるかに上回っていることを打ち明けたあと、マルコスは言いました。

「フィリピン人は魂も、尊厳も、勇気も失ったかのように見える。国民は絶望のふちに立っている。秩序を尊重することさえ、もはややめている」

マルコスは国民に向けて力強く語りかけました。マルコスの傍らには、優しげに微笑むイメルダ夫人が寄り添っています。

「外部からの援助を期待することはできない。国家はわれわれの労働と奉仕、自己犠牲の量に応じてだけ、偉大になり得るのだ」

マルコスの熱い語りかけに、ルネタ公園に集まった聴衆は次第に熱気に包まれていきます。

「フィリピンは再び偉大な国になるであろう」

マルコスが語り終えると、万雷の歓声と拍手がわき起こりました。

https://www.pinterest.com/pin/344947652682963608/
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このとき、フィリピンの多くの国民がマルコスに夢を託しました。無条件にマルコスを信じて後に従うことで、フィリピンは再び豊かな国となり、彼らの暮らしぶりも上向くに違いないと信じたのです。

マルコスの演説は、ジョン・F・ケネディをイメージさせるものでした。マスメディアはマルコスを「アジアのケネディ」と讃え、国民の大多数はこれまでにない強力な政治指導者が誕生したことを諸手をあげて歓迎しました。

マルコスの清々しさとイメルダ夫人の美貌に、国民は魅了されたのです。

マルコスの暗部

http://www.rappler.com/newsbreak/in-depth/123664-recovering-marcos-ill-gotten-wealth-30-years
http://www.rappler.com/newsbreak/in-depth/123664-recovering-marcos-ill-gotten-wealth-30-years

1917年、マルコスはルソン島北西部北イロコス州に生まれまし。日本の東大にあたるフィリピン大学法学部に進むと、法学部創設以来の秀才といわれ、司法試験において史上最高の成績をおさめて弁護士資格を取得しました。

その頭の回転の速さはずば抜けており、マルコスの前では誰もが自分がマルコスよりも劣ると感じたとされています。人は自分よりすべての面において優秀だと感じる人物を前にすると、ただ盲目的にしたがうものです。

マルコスには生来のカリスマ性が備わっていました。そのため、マルコスがやると決めたことに対して、周囲の誰もが反対できなかったのです。

優秀な頭脳から紡ぎ出される演説の巧みさも、マルコスのカリスマ性をより高めました。聴衆を前にマルコスは巧みに夢を語りました。

植民地支配から続くエリート支配を終わらせること、農地解放をはじめ貧しい者たちのために社会改革を行うこと、ナショナリズムを高めアメリカと距離を置くことで真の独立を目指すこと……。

国民の大多数はマルコスの見せる夢に酔いしれました。さらに、強力な指導力をもつマルコスなら夢を現実にできるかもしれないと、本気で信じたのです。

その一方で、フィリピンを救う英雄としては似つかわしくない噂がマルコスにはつきまとっていました。

マルコスがロースクールの学生だった頃、下院議員だった父マリアノを破って当選した対立候補が射殺される事件が起きました。マルコスはその容疑者として逮捕され、有罪判決を受けたのです。

並の人物であれば、この時点で人生をあきらめたとしても少しもおかしくありません。しかし、マルコスは違いました。

マルコスは獄中から司法試験を受け、史上最高得点を記録してトップ合格を勝ち取りました。弁護士資格を得たマルコスは自分の裁判を最高裁まで持ち込みます。

その結果、逆転無罪判決を勝ち取ることに成功したのです。本当に殺人を犯していたのか否かはともかく、マルコスにはこの時点ですでに、大衆を酔わせるだけのヒロイズムが備わっていたと言えるでしょう。

ちなみに、このときの判決文を書いたのはホセ・ラウレルです。ラウレルとマルコスの縁は深く、その後もマルコスは度々ラウレルに助けられています。

ラウレルは後に、日本の占領下で大統領に就任します。対日ゲリラ活動に身を投じていたマルコスを救い上げたのもラウレルです。1964年の大統領選挙においても、出馬が危ぶまれたマルコスを国民党に鞍替えさせる手助けをしたのもラウレルでした。

https://www.pinterest.com/abbymendozamagp/imelda-marcos/
https://www.pinterest.com/abbymendozamagp/imelda-marcos/

下院議員時代のマルコスには、常に不正蓄財の噂がつきまといました。議員としての地位を利用して企業の許認可を牛耳り、不正なリベートを受け取ったり、地下組織と接触したなどの黒い噂です。

下院議員の多くはマルコスが警察の高官をはじめ、ギャングや密輸業者・暗殺団などの地下組織とつながっていると信じていたようです。

しかし、誰一人それをとがめることはできませんでした。自分や家族への仕返しを恐れたためです。マルコス政権後期にはびこった恐怖政治の芽は、すでに下院議員当時から現れていたのです。

ただし、利権を追いかけ不正蓄財に励んだことは、財閥出身ではないマルコスとしてはやむを得ないことだったと、マルコスをかばう意見もあります。どれだけきれい事を並べてみても、「政治には金が必要」といった現実があります。

財閥というバックボーンを持たないマルコスが政治家として上を目指すためには、自ら金を集める必要がどうしてもあったのです。

狙いは成功し、政治家としての頂点である大統領へとマルコスはついに駆け上がりました。いつのまにかマルコスは、政界・財界・軍部まで勢力下におさめていました。

次第に圧政へと傾く

Randalf Dillaによる作品「忘れられない思い出、救済された生活」"http://agimat.net/tyranny-of-hindsight/
Randalf Dillaによる作品「忘れられない思い出、救済された生活」”http://agimat.net/tyranny-of-hindsight/

農作物をより多く収穫できる品種改良である「緑の革命」を推し進め、地方の農村を結ぶ道路や橋・学校・病院建設などのインフラ整備にマルコスは力を入れました。こうして地方の開発に力を注ぐとともに、フィリピン経済の立て直しに努めたのです。

その結果、失業率は大幅に低下しました。1966年には7.2%あった失業率が、1971年には5.2%に減少しています。

マルコス政権初期にあたる、この時代の安定した経済やインフラ整備は、今日でも多くの人々に評価されています。

しかし、その一方でマルコスは権力を固めるために、次第に圧政へと傾いていきました。マルコスのやることに誰も口出しができなかった最中、はじめてマルコスをとがめたのが、タルラック州知事から上院議員へと転出したニノイ・アキノでした。

1968年2月5日に行われた上院での初演説の場において、ニノイは公然とマルコスを非難しました。地方の開発を推し進めながら地方の隅々まで軍隊を送り込んでいる、さらに国営企業に軍幹部を投入することで、国家を丸ごと兵営にしようとしていると、マルコスを激しくなじったのです。

実際のところマルコスは、自分に反対する者は片っ端から弾圧していました。その際用いられたのが、「共産主義者」のレッテルです。主義主張のいかんを問わず、マルコスに少しでも反旗をひるがえす者は、たちまち「共産主義者」のらく印を押されたのです。

 
当時は東西冷戦のまっただ中です。「共産主義者」と見なされると、激しい弾圧が待っていました。弾圧にさらされた人々は、共産主義とはなんの関係がなかったとしても、最後は反政府的行動にでるよりありません。それらを抑えるために、マルコスは地方にまで軍事力をおいたのです。

軍事力によってつぶされるのは、そのほとんどがマルコスに反対する野党勢力でした。

もともと新聞記者だったニノイはこうしたマルコス政権の暗部を次々と暴き出し、上院の「スーパースター」と呼ばれるようになりました。若者を中心に、ニノイの人気は高まるばかりです。

http://www.newsflash.org/2004/02/ht/ht010844.htm
http://www.newsflash.org/2004/02/ht/ht010844.htm

マルコスが地方にまで軍隊を送り込んだため、農村は次第に不穏な空気に包まれていきました。地主や地方の権力者たちは、競って私兵を雇いはじめ、武装した民間人による「郷土防衛隊」などが次々に生まれました。

こうした農村部の物騒な雰囲気に合わせて勢力を伸ばし始めたのが共産党とその武装組織である新人民軍(NPA)です。

マルコスは弾圧の口実として「共産主義者」を利用しましたが、そのことが皮肉にも本物の共産主義武装勢力をはびこらせてしまったのです。

一方、都市部では、その頃世界規模で起こっていたベトナム戦争とマルコスの恐怖政治に反対する運動とが連動し、学生と労働者を中心に大規模なデモがくり広げられました。

これらの運動に参加する市民とそれを取り締まる国警部隊との間に、険悪な雰囲気が高まりました。

両者がついに衝突したのが、1970年1月30日に発生した「メンディオラ橋事件」です。市街と宮殿を結ぶメンディオラ橋で、国警と国軍がデモ隊を銃撃しました。報道によると死者三人のほか、多数の負傷者が出ました。

これを機に、マルコスの圧政に反対する市民の声が次第に強まっていきました。

マルコスはなにをやろうとしたのか?

http://malacanang.gov.ph/wp-content/uploads/Marcos-w960.jpg
http://malacanang.gov.ph/wp-content/uploads/Marcos-w960.jpg

マルコスは20年に渡って大統領であり続けました。マルコス政権は一般にふたつの時期に分けることができます。1972年に発令された戒厳令前にあたる前期と、戒厳令後の後期のふたつです。

これまで戒厳令前までの状況を紹介してきました。これより戒厳令後のマルコスについてたどっていきますが、その前に、この時期のフィリピン社会を覆っていた現実について理解しておいた方がよいでしょう。そうすることで、マルコスがなにをやろうとしていたのかが見えてきます。

戒厳令=戒厳(かいげん)とは、戦時において兵力をもって一地域あるいは全国を警備する場合に、国民の権利を保障した憲法・法律の一部の効力を停止し、行政権・司法権の一部ないし全部を軍部の権力下に移行することをいう。軍事法規のひとつであり、戒厳について規定した法令を戒厳令(英語:martial law)という。(参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/戒厳 )

1972年のフィリピン経済は、一人あたりの国民所得が125米ドルに達していました。これはシンガポール・マレーシアに次ぐもので、ASEANでは中堅あたりに位置していました。けして悪い数字ではありません。

しかし、一人あたりの国民所得は悪くないにもかかわらず、国民の暮らしぶりに目を向けると、そこには想像を絶する貧困が横たわっていました。

持てる少数者が持たざる多数者を残酷なまでに支配する社会、それがフィリピンの現実でした。1967年の米議会でも「(フィリピンでは)過去10年間、富めるものはますます富み、貧しいものはさらに貧しくなった」と証言がなされています。

このような貧困の格差は、植民地時代以来の支配構造がそのまま受け継がれていることが原因です。インドネシアやマレーシアをはじめ、東南アジアの多くの国々では独立戦争を経ることで、支配層を強制的に入れ替えてきました。

ところがフィリピンでは独立闘争自体がなかったため、植民地の頃からの支配層が独立後もそのまま温存されました。
関連リンク ▶ なぜフィリピンは貧しいのか? 今でも貧富の差が解消できない本当の理由

スペイン統治により大土地所有者たちによる支配層が生まれ、アメリカの植民地化でそれらは財閥へと成長しました。そこへ華僑を中心とする新たなビジネス・エリートがのし上がり、特権階級が生まれます。

彼らは自分の子供たちに高等教育を施し、政治の中枢へと送り出しました。こうして政界と財界を支配層ががっちりと牛耳ることで、50年代から60年代にかけて、フィリピンの政治と経済に安定した成長がもたらされたのです。その頃のフィリピンは、東南アジアでもっとも経済的に豊かな国でした。

しかし、同時にフィリピンには、財閥出身者を中心とするエリート層と一般大衆というふたつの階級がはっきりと線引きされ、貧困の格差は残酷なまでに広がっていました。一般大衆のほとんどは貧困にあえいでいたのです。

農村では生きていくことができないため、職を求めて都市部へと人口は流れ、マニラにはスラム街が各地にできました。

マルコスは目に余るこうした貧困問題を解決するために、フィリピン社会の支配構造を変えようと画策し、そのために権力の一元化を図りました。

そしてついに!

1972年9月23日、既得権益を壊すためにフィリピン全土に戒厳令が発令されたのです。

この続きは4月2日(日曜日)にリリース予定です。お楽しみに!

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