現在は南国のリゾートとして、また観光地として栄えているセブ島ですが、フィリピンという国を含め、その歴史は案外知られていません。
セブ島留学の折に街をぶらつくにしても、その地の歴史を大まかにつかんでいる場合と全く知識がない場合を比べてみれば、見るもの聞くもの触れるもののすべてにおいて違いが生じるものです。
どうせなら、せっかく訪れた地を満喫するためにも、フィリピンとセブ島の歴史を簡単に身につけておいた方がよいでしょう。
その際、大切なことは、単に個々の観光施設の歴史的背景を知るだけに留まらず、セブ島、ひいてはフィリピンの歴史全体を大まかにつかむことです。
そうすれば、現地の人々との会話も自然に広がります。また、不用意なことを口にして相手の気分を害するようなことも、間違いなく減らせます。
そこで今回はセブ島を起点にフィリピンの歴史の大枠を紹介します。
長い植民地時代を経たフィリピン
フィリピンの歴史をひと言で表現するならば「抵抗の500年」という言葉が真っ先に浮かびます。
1946年7月4日に独立を果たすまで、フィリピンはおよそ500年に渡って他国の支配を受け、苦しんできました。
フィリピンの歴史は、まさに抵抗と一時的解放の繰り返しでした。フィリピンの歴史学者として高名なR.コンスタンティーノは、「抵抗の果てに勝ち得た一時的な解放が常に裏切られ続けてきたのがフィリピンの歴史である」と、痛恨の念とともに振り返っています。
コンスタンティーノは次の趣旨のことを綴っています。
束の間の解放のあと、決まって外国人による占領に戻るのがフィリピン人の歩いてきた苦難の歴史でした。そのため、フィリピンの歴史を語るとなると、否応なしに悲劇的な色彩に満ちてしまいます。
しかし、現在のフィリピンを理解するためには、その悲劇的な歴史から目を背けるわけにはいきません。
フィリピンの歩んできた歴史のなかにこそ、激しい貧富の格差や国民の大多数が貧困に喘ぐという現在に続く深刻な問題の根が潜んでいるからです。
フィリピンの歴史を知るということは、現在のフィリピンを理解することに繋がります。
それでは、外国人に母国を占領され、半ば奴隷としての境遇を生きなければならなかったフィリピン人の苦難の歴史である「抵抗の500年」を駆け足で振り返ってみましょう。
そのすべては、1521年にマゼランがセブ島に到達したときから始まります。
Vol.1 マゼランによるフィリピン発見?
1.フィリピン人とキリスト教
スペインによるフィリピンの植民地化に分け入る前に、私たちが理解しておかなければいけないことがあります。
それは今日のフィリピンにおいて、「東洋とスペインとアメリカの文化が融合したアジア唯一のキリスト教国」であることは、大半のフィリピン人にとって誇りである、という事実です。
これからざっと追いかけていきますが、フィリピンにキリスト教がもたらされたのはスペインに征服されたからこそです。フィリピンが世界有数のカトリック教国となったのは、宣教師による伝道がフィリピン人の心をつかんだからではありません。
フィリピンへのキリスト教の布教は、武力を背景に力尽くで為されたものです。
しかし、布教の過程にどれだけの悲劇が横たわっていようとも、数世紀にわたってフィリピン人の精神的な拠り所となってきたキリスト教は、今やフィリピン人の日々の暮らしにとって必要不可欠な大切なものになっています。
アジア唯一のキリスト教国であることは、フィリピン人にとっての誇りであることを忘れるべきではないでしょう。
同様にスペインによる支配についても、日本人が一般的な感覚で考えるほどの「悪」であるとは、フィリピンでは受け取られていないようです。
フィリピン人のある歴史家は自著にて次のように語っています。
「キリスト教とヨ-ロッパ文明をフィリピンに持ち込んだことでスペイン人修道士たちの功績は称賛されるべきで、われわれフィリピン人は彼らに対して末永く感謝の念を持ちつづけている。このスペイン人修道士たちの崇高な貢献がなかったならば、フィリピンは東洋とスペインとアメリカの文化が融合したアジア唯一のキリスト教国として過去から抜け出すことはできなかったであろう」。これは先の節で「歴史は聖なる神の意思で進む」とした同じ歴史家により、二一世紀になって出版された歴史書の中の現代フィリピンについての一般的記述である。
『キリスト教・組織宗教批判 500年の系譜』河野和男著(明石書店)より引用
文中の「歴史は聖なる神の意思で進む」の全文は以下のとおりです。
「歴史に”もし(ifs)”を想定するのは無意味である。なぜなら人と民族の運命はすべて聖なる神の意図(God’s divine plan)によって定められていて、人がそれをコントロールすることはできないからである」
この言葉はフィリピン史の教科書の一節に記されていたものと書かれています。まさに諦念(ていねん)の思想そのものですが、教科書として子供たちに教える内容とされていることには違和感を覚えます。
これではフィリピンの「抵抗の500年」そのものが無意味であったと言わんばかりです。歴史家としての見識を疑いたくなるところですが、キリスト教国としての教義が反映されているがための記述ともいえるでしょう。
フィリピン史の教科書を執筆しているほどのその歴史家が、「キリスト教とヨ-ロッパ文明をフィリピンにもたらしたスペインの修道士たちに感謝している」と述べています。
それはまさに、白人が有色人種を支配する際に使い古したフレーズそのままです。フィリピンなどのアジア諸国を侵略する際に、ヨーロッパ諸国の白人が自らの正当性を主張した「文明化」の論理に他なりません。
もちろん、フィリピン人全員が同じ見識を持っているわけではありません。
されど、スペインがフィリピンを支配した330年間にわたってフィリピンの文化に浸透したキリスト教への崇拝の念を、現代の多くのフィリピン人が共通して抱いています。
その思いがスペインやアメリカの支配を肯定する空気を醸し出していることに注意が必要です。
ことにキリスト教に関する批判の類いは、フィリピンではタブーです。フィリピン人の聖域に立ち入ることは、避けた方が賢明です。
スペインによるフィリピン統治の歴史は、キリスト教会による過酷な支配そのものです。しかし、キリスト教を「悪」と見なす空気など、フィリピンには微塵(みじん)もありません。
ほとんどのフィリピン人にとってキリスト教はアイデンティティのひとつであり、かけがえのない大切なものであることを理解しておいてください。
2.「マゼラン発見」から始まるフィリピン史
フィリピンの学校では歴史を教える際、スペイン人によるフィリピン征服から授業が始まります。フィリピン史の教科書が、マゼランによるフィリピン発見から始まるためです。
そのため、「フィリピンはマゼランによって発見された」と思い込んでいるフィリピン人は少なからずいます。
もちろん、それが誤りであることは明らかです。コロンブスの新大陸「発見」にしてもマゼランによるフィリピン「発見」にしても、それは西欧から見た歴史観に過ぎません。
たしかに西欧に住む人々から見れば、マゼランによって初めてフィリピン諸島の存在を知ったことになるだけに、「発見」という言葉に違和感はありません。
しかし、マゼランが発見したフィリピンには、すでに紀元前からマレー人が定着しています。太古からフィリピンに暮らす人々から見れば、マゼランは単に彼らの居住区に「到達」したに過ぎず、なにひとつ目新しい発見などしていません。
当然ながらマゼランが到達する前からフィリピン諸島は存在しています。独自の文化と言語を持った人々が、数世紀にわたって平和に暮らしていたのです。
それにもかかわらずスペインによるフィリピン征服からフィリピン史が始まることには、フィリピン特有の事情があります。
スペインが到達する前のフィリピン諸島には、統一された国家が歴史上一度も存在していなかったためです。
フィリピン諸島にはバランガイと呼ばれる集落が複数存在しており、別個の言語が使われていました。「バランガイ」という名称は、マレー系民族がフィリピンに移住してくる際に用いた小帆船に由来するといわれています。
ひとつのバランガイは30~100ほどの家族から構成されていますが、大きなバランガイともなると2000家族ほどを束ねていました。今でもフィリピンの最小の地方自治体が「バランガイ」と呼ばれるのは、その当時の名残です。
個々のバランガイはときに対立し、ときに協力し合い、数世紀にわたって固有の文化を育んできましたが、ひとつの国家、ひとつの民族としての意識はもとよりありません。
それでも文化的にけして劣っていたわけではなく、陶磁器の破片などが数多く出土していることから、10世紀以降はさまざまな地域と交易を活発に行っていたことがわかっています。
文化や経済が発達したのに統一された国家が誕生しなかったことには、理由があります。もともとフィリピン諸島を含めた東南アジア海域世界は土地が広大な割りには人口密度が低く、人の移動が自由に為されていました。そのため国境という観念を必要とせず、国家を造る必要もなかったのです。
こうした歴史を知るには、セブにある「スクボ博物館」を訪れてみるとよいでしょう。実際に多くの出土品を目にすることができます。
また、「スクボ博物館」にはスペイン・アメリカ・日本に占領されていた時代の遺物も大量に展示されています。館内を一回りするだけでも、フィリピンとセブ島の歴史を垣間見ることができます。
1521年4月7日、スペインの冒険家マゼランがセブ島へ上陸したことを説明したパネル
統一された国家がないだけに、フィリピン諸島という観念もありません。もともと「フィリピン」という名称を作ったのはスペイン人です。後に皇帝となったフェリペ皇太子の名前にちなみ「ラス・イスラス・フェリピナス (Las Islas Felipinas,フェリペナス諸島) 」と命名されたのが、「フィリピン」という国名の由来です。
その言葉の意味するところは「フェリペに征服された民」です。
一般的に見て、かなり屈辱的な名称です。
ちなみに現在のフィリピン国内には「フィリピン」という国名を変えるべきとする声もありますが、大衆の支持を得るには至っていません。2019年の2月にドゥテルテ大統領は演説にて「かつてマルコス大統領が国名を『マハルリカ共和国』に変更しようとしたのは正しかった」と述べ、「フィリピン」という植民地時代の名残である国名をいつかは変更したいと意思表示をしましたが、世論を動かすほどの反応は起きませんでした。
『マハルリカ』はサンスクリット語で「気高く誕生した」という意味です。マルコス政権下の1978年に国名変更の議題が議会に提出されましたが、途中で立ち消えになっています。
フィリピン国民の大半は「フィリピン」という国名に違和感を覚えていないようです。
フェリペに征服される以前のフィリピンの歴史は、現在ではよくわかっていません。
セブにしてもマニラにしても、その地のバランガイで使われていた文字があるだけに、バランガイの歴史が綴られている文書も残されていたはずです。
しかし、スペインの統治下でそれら古い文書のことごとくは焼かれ、失われました。スペインによる征服以前のフィリピンの歴史がよくわからないのは、スペインによって固有の歴史を奪われたためです。
歴史を奪うことは、フィリピンの新たな支配者となったスペインにとって極めて都合のよいことでした。歴史を喪失した民族ほど、新たな支配者に対して従順だからです。スペインの邪悪な目論見は、現在のフィリピンに至るまで見事に果たされているのかもしれません。
こうした事情からフィリピン史は、スペインによる征服から幕を開けることになります。
3.セブで始まったキリスト教の布教
スペイン王の命を受け、マゼラン船団が世界一周航海に出発したのは、コロンブスによるアメリカ大陸発見の27年後のことでした。
南アメリカ大陸の南端、現在はマゼラン海峡と名付けられている海峡を通り、マゼランはヨーロッパ人として初めて西回りで太平洋に到達しました。
やがてマゼランはフィリピン諸島を発見します。当時のフィリピン地域の文化・経済の中心地は、セブ島でした。セブの港は中国はもちろん、アラブやマラッカ・ペルシャなどとも交易しており、大いに栄えていたのです。
サマール島に到達したマゼラン船団はリマサワ島に上陸し、小高い丘に木の十字架を打ち立てました。その儀式が意味することは、その土地のすべて、その地に暮らす人々のすべて、その地の財産のすべてがスペイン王のものになったということです。
リマサワ島に暮らしている人々の意思は関係ありません。王国が富み栄えるために王国の領土を武力をもって拡大し、キリスト教を広めることこそがマゼラン船団に課せられた使命でした。
マゼラン船団は、ついに1521年4月7日にセブの港に姿を現します。マゼランは戦闘隊形を保った3隻のスペイン艦を率い、大砲による砲撃を繰り返すことで武力を誇示しながら、セブ入港を果たしました。
セブのバランガイの住民らが、初めて目にする軍艦の巨大さや砲撃の凄まじさに震え上がったことは、説明するまでもないでしょう。
マゼランはセブのバランガイの首長であったフマボンに対し、食糧を貢納(こうのう)すること、入港税の支払いを免除すること、そしてキリスト教への改宗を迫りました。
それでよければ和平を、そうでなければ戦争になると一方的に脅したのです。
フマボンはマゼランの要求をすべて受け入れ、一週間後にはキリスト教の洗礼を受けています。その背景として軍事的な圧力に屈服したというよりも、一種の取引が成立したと見られています。
フマボンには敵対するバランガイがいくつかありました。キリスト教に改宗する代わりに、それらバランガイの首長を倒す際にマゼランに助勢を約束させたのです。
また、スペインとの新たな交易関係に期待を寄せた面もあったことでしょう。
いずれにせよキリスト教への改宗がスペイン国王への帰属を誓うことと同じであるという本当の意味に、フマボンはまだ気がついていなかったのかもしれません。
少し遅れてフマボンの妻も洗礼を受けています。その際、マゼランはフマボンの妻に対してキリストの幼子の姿をかたどった像である「サント・ニーニョ」を贈呈したとされています。
このとき、フマボンの命を受けて500人の男性と300人の女性がキリスト教に改宗しています。これがスペインの宣教師によるフィリピンでの初めての布教でした。
4.マゼランを倒した英雄ラプラプ
セブにあるマクタン島の首長ラプラプはフマボンとは親戚関係にありましたが、なにかと対立していました。
貢納せよというマゼランの命令にも従わなかったため、マゼランは和平か戦争かと迫る使者を送ります。
実はラプラプはマゼラン船団との戦争に備えて、入念な準備を進めていました。「マクタン」のもともとの意味は「マト・アン(目によって)」です。マクタン島の住民は情報を集め分析する能力に長けていました。
マクタン島のバランガイは日本でいえば「忍者」あるいは「間者」のような特殊技能をもった集団であったのかもしれません。実際にラプラプの息子はフマボン軍に潜り込み、マゼラン船団の情報を集めています。
それらの情報に基づき、スペイン艦の大砲が届く距離などをラプラプは事前に正確につかんでいました。
和平か戦争かを選べと脅しをかけるマゼランの使者に対してラプラプは言い放ちます。
「予はいかなる王に対しても頭を下げぬ。予が服従するはわが同胞に対してのみだ!」
スペイン王の威に服そうとしないラプラプの毅然とした態度に怒り心頭に達したマゼランは自ら軍を率い、大砲や火縄銃など完全武装でラプラプ討伐の戦いを仕掛けます。
対してラプラプは周辺のバランガイに声をかけることでマクタン連合軍をまとめあげ、1500人の精鋭を集めました。マクタン連合軍はマゼラン船団から見えない位置に巧妙に隠れ、息を潜めて戦いの時を待ちました。
ところがマゼラン船団がマクタン島に到達すると、砂浜では華やかな民族舞踊が繰り広げられ、マゼラン一行を歓迎するための宴会が用意されていたのです。
それは、マクタン連合はいかなる王に対しても服属しないだけであり、スペインと敵対する気などないことを示すための儀礼でした。無益な戦いを避けるために礼節をもってマゼラン一行をもてなす態度を、ラプラプは示したのです。
身なりはともかく、武力を背景に一方的に脅しをかけるマゼランと最後まで平和を保とうと努めたラプラプと、どちらがより文明的であったのかは明らかです。
マゼランは最後の使者を送り、「キリスト教に帰依し、スペイン王に臣従せよ」と、なおも降伏を求めますが、ラプラプは敢然と拒否しました。
夜明けを待ってマゼラン船団は砲撃を開始しました。しかし、砲弾の飛距離を知るマクタン連合軍は砲弾の届かない位置に陣を構えているため、ダメージはまったくありません。
マゼランは焦ります。軍艦を岸に近づけたくても、マクタン島はサンゴの暗礁という天然の要塞に囲まれているため、これ以上近づくことができません。
やむなくマゼランは武装兵士たちに海中に飛び込み、進撃するように命じました。しかし、いくら銃をもっているとはいえ、マゼランの率いる兵はたったの49人に過ぎません。
白兵戦に移ったことを確認すると、隠れていたマクタン連合軍は一斉に飛び出し、毒矢や槍、泥や石などを使いマゼラン軍に襲いかかりました。引き潮による遠浅が、マクタン連合軍の怒濤の攻撃に味方します。
多勢に無勢の白兵戦にあっては、近代兵器である銃もたいした役には立ちません。銃弾を浴びて倒れても倒れても、マクタン連合軍の兵はひるむことなく次から次へとマゼラン軍に向かって突撃を繰り返しました。数で勝るマクタン連合軍は、次第にマゼラン軍を追い詰めていきます。負傷したマゼランに最後の一撃を浴びせたのはラプラプでした。
ラプラプの勝ちどきが戦場に響き渡ると、マゼランの戦死を知ったスペイン兵は一斉に逃げ出しました。ラプラプ率いるマクタン連合軍の大勝利です。
この戦いはヨーロッパ諸国のアジア侵略に対して、アジア側が日露戦争以前につかみとった初めての勝利でした。
マゼランのフィリピン征服の野望はラプラプによって阻まれたのです。ラプラプはフィリピンを救った英雄であり、ヨーロッパの白人によるアジア侵略に対して立ち上がった最初の東南アジア人とされています。
スペインによる侵略を一時的とはいえ跳ね返したことは、フィリピン人にとっての誇りです。マクタン島に立つラプラプの像は、今でも多くのフィリピン人から崇敬(すうけい)されています。
マクタン島、マクタンシュラインにあるラプラプ像
しかし、スペインによるフィリピン征服の野望は、けして潰(つい)えることはありませんでした。スペイン王はメキシコを通じて次から次へと遠征隊を送り、フィリピン征服を謀りました。
スペイン王の野望が適えられたのは、1565年、ミゲル・ロペス・デ・レガスピに率いられたスペイン軍がセブ島に押し寄せたときでした。
観光ポイント:ラプラプ像
マクタン島を訪れた際は、ぜひシャングリラリゾートの少し前にあるマクタンシュラインに訪れてみてください。小さな公園の中でラプラプ像を見ることが出来るでしょう。
この続きは次回にて。