フィリピンがスペインの植民地であったことは、観光ガイドに目を通せば必ず書かれています。
でも、「植民地」と聞いても、具体的にどのような統治が行われていたのかをイメージできる人は、けして多くはないでしょう。現在では「植民地」自体がほとんど消えているため、身近な存在ではないからです。
もっとも中国が実効支配を続けるウイグルやチベットは中国の植民地であるとする指摘も根強いだけに、現代においても実質的に帝国主義を実践する国がなくなったわけでも、植民地が完全に消えたわけでもないことに注意が必要です。
スペインによる統治は、フィリピンの原住民に多大な苦痛をもたらしました。スペインに侵略される前は平和な楽園で生を謳歌していた原住民の暮らしぶりは、スペインの占領後に一変します。
今回はスペインによる支配が「いかに原住民の生活を大きく変えてしまったのか」を追いかけてみます。
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→第3話 観光地サンペドロ要塞に秘められた歴史
スペインの支配から原住民の貧困が始まった
1.エンコミンダ制による搾取の実態
今日とは異なり当時の航海技術で大海原に漕ぎ出すことには、多大な危険が伴いました。また、航海には莫大な資金がかかりました。資金の大半は王室の金庫から支給されたものの、王室の財政事情もけして豊かではないため、不足分は個人で補う必要がありました。
命の危険を顧みることなく、さらに私財を投げ打ってまでマゼランやレガスピが遠征に出たことには、もちろん理由があります。
新たな土地を発見し、領土を増やすことに成功した際には成功報酬が支払われるとともに、貿易や採鉱、真珠採取場の特許などが与えられることになっていたからです。
つまり、富への渇望こそが航海に出た最大の理由です。その事情は一兵の兵士に至るまで同じでした。新天地の利権を握ることで富を増やすことこそが、航海に出たスペイン人の目的です。
そのため、フィリピンに来たスペイン人を豊かにし、なおかつスペインによる支配を揺るぎないものにすることこそが、フィリピン植民地化にあたって優先されたことです。
その2つの目的は、スペインが他国を占領する際に頻繁に用いられた「エンコミンダ制」によって実現しました。
「エンコミンダ」とは「委託されたもの」という意味です。その名のとおり、「エンコミンダ」はあくまで委託であって土地の所有を意味してはいません。
エンコミンダを管理する人を「エンコミンデーロ」と呼びます。エンコミンデーロは委託を任された領地へ赴くと、「私が君らの主人である」と宣言しました。
エンコミンデーロはエンコミンダの住民から貢税(ぐぜい=現代の「税金」に相当)を徴収する権利と、住民に労働奉仕をさせる権利をもっていました。その代わりにエンコミンデーロは原住民の幸せを守り、キリスト教を教えるなどの義務を負いました。
しかし、エンコミンデーロが目指したのは自分の富の蓄積だけです。エンコミンデーロは一切の義務を果たすことなく、彼らに与えられた権利と特権を最大限に使うことで、原住民を奴隷として扱いました。
つまりエンコミンダ制はフィリピンの原住民を抑圧し、貢税と労働力を提供させることでスペイン人の私腹を肥やすための道具として使われたのです。
自給自足経済が成り立っていたバランガイにおいては、強制的な貢税制度そのものがありません。原住民にとって、突然現れたスペイン人に貢税を払うことはとてつもなく大きな負担でした。
当然ながら貢税を払えない原住民も多数います。その場合、原住民を待っている運命は拷問か投獄でした。たまらず山に逃げた原住民の家は焼かれ、すべてを略奪されました。
貢税は貨幣か穀物などの生産物で支払うことになっていましたが、どちらで支払うかを決める権利はエンコミンデーロがもっていました。
豊作によって生産物が多くとれ、貨幣が不足気味のときは貨幣での支払いが強要され、不作によって生産物が少ないときは生産物で納めることを強いられました。生産物を高値で売りさばくことで、スペイン人がより儲けられるからです。
貢税は16歳から60歳までの男子全員に課されました。そのため、貢税の支払いに困った家では、家族を自ら減らす悲劇が起きたとも記されています。貢税を恐れて結婚しない原住民も多くいました。
さらに16歳から60歳までの男子には、貢税の他に年間40日間の強制労働が課されました。強制労働は貢税以上に原住民を苦しめました。
強制労働そのものも過酷であり、夫役の最中に命を落とした原住民も多くいたほどです。
さらに強制労働に出ても賃金は支払われず、食事も配給されないため、夫役に出た村人の命をつなぐためには、それぞれの村ごとに米を支給しなければなりませんでした。
しかし、最大の問題は農業の働き手を失うことで田畑の荒廃を避けられないことでした。苗を植えるにしても稲を刈るにしても、働き手をごっそり失っては追いつきません。女手だけで田畑を維持することは不可能です。そのため収穫はままならず、多くの原住民が餓死する事態を招きました。
強制労働の過酷さは、フランシスコ会の会区長によって残された次の手記からも伝わってきます。
ポロ(強制労働)を割り当てられた原住民は、酷使から逃れるため、高利貸の奴隷となった。このようにして、わずか10年のうちに国家の大部分は破壊されてしまった。ある原住民は山に逃れ、あるものは奴隷となり、多くのものが殺された。彼らは極貧のものたちであり、金目のものは何も持ち合わせない。彼らの家は四本の柱で建てられ、壁は竹と草でできている。しかもとても小さい。略奪の対象になるのはこんなに貧しく、哀れな人々であって、彼らは〈神父さん、王様に20レアル(2.5ペソ)あげるから、強制労働だけは許して欲しい〉という。だが調べてみると、全財産を合わせてもその金額には達しない。
『物語 フィリピンの歴史―「盗まれた楽園」と抵抗の500年』鈴木静夫著(中央公論新社) より引用(漢数字は算用数字に書き換えています)
貢税と強制労働によって原住民の平和な暮らしは完全に破壊されたのです。
初期において、こうしたエンコミンデーロの腐敗ぶりをスペイン国王に直訴し、是正を呼びかけたのはキリスト教会の司祭や修道士でした。
彼らはエンコミンデーロの多くが、定められた以上の過度な徴税を原住民に課して私腹を肥やしていること、貢税を払えないときは家や村を焼き払っていること、原住民の多くが殺されていることなどを直訴しています。
ことに初代司教に任命されたサラサールは常にフィリピン原住民を擁護し、エンコミンデーロによる収奪や植民地軍と総督府の汚職を止めようにと尽力しました。
この当時の教会には心ある宣教師が少なからずいたようです。彼らは布教のために現地語を懸命に覚え、悪辣(あくらつ)なスペイン人から原住民を守ろうと努め、キリスト教の教えを広めることに心をくだきました。
しかし、キリスト教会が原住民らのセーフティネットとして機能したのは、植民地化が始まった直後のほんの数年に過ぎません。
政教一致のために教会が次第に政治権力と化すにともない、キリスト教会こそが原住民にとって最大の災厄へと転じたからです。
スペインによるフィリピンの植民地化は、よく「スペインによる過酷な支配」と表現されますが、実際には「キリスト教会による過酷な支配」と言い直した方が適確です。原住民にとってみれば、スペイン帝国とはキリスト教会のことでした。
スペイン統治の333年間を通して、フィリピンの原住民に半ば奴隷としての過酷な暮らしを強い、塗炭の苦しみを与えたのは、他ならぬキリスト教会でした。
2.植民地支配を担ったカトリック教会
まずはじめに理解しておきたいことは、フィリピンで起きたカトリック教会の腐敗は、あくまでスペイン・カトリック教会に根差しており、ローマ・カトリック教会とは繋がりが薄いことです。
フィリピンにおける修道士の非人道的な振る舞いの数々は目に余るものですが、カトリック教会そのものを批判することは正しくありません。諸悪の根源は、あくまでスペイン・カトリック教会に限定されるものといえるでしょう。
本来は俗世間とは隔絶した存在でなければならないスペイン人修道士が、フィリピンにおいてどっぷりと世俗に浸かった理由は、スペイン国王との関係性にあります。
国王とローマ教皇との権力をめぐる争いは、ヨーロッパでは何度も繰り返されてきました。その結果、スペイン国王は教皇から「国王の教会保護権」を獲得します。
これをフィリピンに当てはめると、次のような関係になります。国王は教皇からフィリピンの司教や司祭の任命権を与えられます。フィリピンに渡る修道士は、すべて国王の許可を必要としました。
さらに国王は修道士の派遣費用や給与、教会の建設費と維持費を負担します。その代償として修道士は、フィリピンにおける貢税徴収を監督し、行政上の責任を負うこととされました。
つまり修道士はカトリック教会に属するとともに、スペイン国王の忠実な臣でもありました。結果的にスペイン人神父は原住民と直接つながりをもつ利点を活かしながら中央権力の手先と化し、原住民を搾取する道具となり果てたのです。
そこへ王室の財政難が追い打ちをかけ、さらに事態を悪化させました。王室には各宣教団に十分な支援ができるだけの余裕などありません。そのため財政的に行き詰まった教会は、フィリピンにおいて自活できるだけの経済的な利権を必要としました。
交渉の末、教会は国王にフィリピンにおける土地の所有を認めさせることに成功します。黙想と神への奉仕を目的とする修道会は本来、世俗的な財産作りとは無縁の存在でした。
ところが教会による土地の所有が認められた瞬間より、飽くなき私利私欲が聖職者の心を蝕(むしば)み始めます。
かくして各修道会は競って土地の所有に乗り出しました。土地の所有制度が確立していない当時のフィリピンにおいて、まともな対価を払って土地の所有権が移ることなど期待できるはずもありません。
修道会による土地所有は、原住民への脅しや搾取など様々な非道な手口を通して実行されました。
各修道会は宣教が始まってからのわずか50年の間に、ルソン島とビサヤ諸島において 50万エーカーずつの極めて肥沃な土地を所有したとされています。
バランガイにおいて土地は誰か個人が所有するものではなく、バランガイ全体で管理するものでした。ところが修道会によって始められた土地の収奪は、原住民を土地をもてない貧しい農民へと突き落とすことになります。
修道会による土地の寡占は、「アシエンダ」と呼ばれる大土地所有制に基づく大農園をフィリピンにもたらしました。
アシエンダこそが、今日のフィリピン人の大半が貧困に喘いでいる問題の発端です。
今日に繋がるフィリピンの深刻な貧困の格差は、修道会の推し進めたアシエンダによってもたらされた面があることは否定できません。
スペイン国王が修道会に土地を所有する権利を認めていなければ、フィリピンは現在とはまったく違った歴史を歩んだであろうと指摘されています。
エンコミンダ制とアシエンダ制の違い
エンコミエンダ制 | アシエンダ制 | |
---|---|---|
定義 | 原住民に対するキリスト教の教化と保護を条件に、その統治を委任する制度 | スペイン人入植者による私的な大土地所有制度 |
土地の所有の有無 | 土地は所有しない | 土地を所有する |
誰が管理するか | エンコミンデーロ | 地主自身あるいは管理を委託 |
地位の継承 | 一代限り | 所有権のため相続すれば地位は継承される |
どのような権利を有していたか | 住民からの貢税の徴収、強制労働 | 現地人を債務奴隷として労働力にできた |
土地の所有が認められたことと並び、修道士が暴走を始めることになった、もうひとつの要因があります。
それは、修道士が受け持った教区に在住しながら原住民を管理できるようにと、修道士に課せられていた「修道誓願」の義務が国王によって一時的に免除されたことです。
「修道誓願」とは、貧困であること・童貞であること・従順であること、の三ヶ条の義務です。
「修道誓願」の義務が免除されたことにより、修道士は聖職者としての特権を保ちながら、俗世間の享楽に思う存分浸かることを許されたのです。
その結果、修道士たちはキリスト教の教義を省みることなく、ひたすら私利私欲を満たすことに夢中になりました。
歴史家のコンステンティーノは『フィリピン民衆の歴史Ⅰ』のなかで、次のように綴っています。
「それまで聖職者はエンコメンデーロの残酷な誅求を告発してきたが、やがて彼らがそのエンコメンデーロにとって代ることになった。」
精神世界と現実の行政面を一手に握った修道士らの残虐ぶりは、エンコメンデーロの比ではありませんでした。
次回は修道会が具体的にどのような手口を駆使して、原住民から多くの土地を収奪したのかを追いかけます。