フィリピンの街角を散策していると多くの教会を目にします。今やカトリック教はフィリピンの人々にとって欠かすことのできない生活の一部になっています。
多くのフィリピン人は日曜ともなると教会のミサに足を運びます。アジア唯一のキリスト教国として、フィリピン人はカトリックへの深い信仰を現代に至るも維持しています。
そのカトリック教がかつてフィリピン人を抑圧し、数え切れないほどの悲劇をもたらした元凶であったとは、にわかには信じがたいものがあります。
スペイン統治期においてカトリック教会がフィリピンで何をしたのかについては、今日ではほぼ忘れ去られています。
しかし、フィリピンの歴史を語る上で、修道会の為してきたことから目を背けるわけにはいきません。本来は人を幸せにするはずの宗教が、不幸をまき散らす源泉となった過程をたどってみます。
前回の記事はこちら
→【第4話】なぜスペインによる植民地化がフィリピン貧困の発端になったのか?
Vol.5 教会はフィリピンで何をしたのか
1.教会による土地収奪の手口
修道会による土地の収奪は、様々な手口を通して行われました。フィリピンの原住民を苦しめた土地収奪の代表的な手口を追いかけてみます。
その1.国王による贈与
修道会が土地を取得したもっとも古い方法は、国王からの贈与です。初期における贈与の大半は荒れ果てた土地でした。人口密度が低いフィリピンでは、自然のままの沼地やアシの原野のまま放置されていた土地が、多く残されていたためです。
修道会は原住民の労働力を動員することで荒れ果てた大地に灌漑水路や堤防を築き、農地を開拓していきました。今でも教会は、多くの土地を開拓し、原住民が暮らすための土地を広げたことを善行としています。
たしかに開拓事業を興(おこ)したことに非はありません。
しかし、歴史学者は開拓が原住民の利益のためではなく、あくまで教会の利益を目的としていたこと、また経過はどうあれ、結果的に教会領がフィリピンの土地の多くを独占したことが、原住民に不幸をもたらしたとしています。
それでも未開の地を開拓しただけであれば、それほど厄介な問題にはならなかったことでしょう。問題が深刻化したのは、原住民によって農業が営まれていた肥沃(ひよく)の地を修道会が次々に略奪したからです。
その2.抵当による差し押さえ
修道会が原住民から農地を取り上げるにあたり、頻繁に繰り返されたのは抵当に入った土地の差し押さえです。その具体的な手口は、次のとおりです。
初期の修道会は原住民に対して善意による貸し付けを行っていました。自給自足がやっとの原住民に貢税が課されたことにより、原住民は農地を広げざるを得ませんでした。その際、種や苗、新たな家畜を買うための資金や農具などを手に入れる必要がありますが、資金が不足していてどうにもなりません。
そのとき、農民たちの窮状を見かねて資金を貸してくれたのは修道会でした。その代償として修道会は収穫の半分を受け取りました。この場合、凶作の際は修道会の取り分も減るため、原住民の負担もそれほど重くはありません。
あくまで原住民の救済を目的とした貸付であり、修道会にはそこから利益を得ようとする目論みもありませんでした。
ところが土地の所有が認められるようになると、修道士の態度はがらりと変わります。修道士たちは彼らの貸付金に対して利子を付けて返済するようにと、農民に迫りました。農民にとってみれば善意で貸してくれたはずの教会が、あたかも冷酷な高利貸しへと豹変したように感じられたことでしょう。
凶作の年でも情け容赦なく返済を迫られ、農民側の借金は膨れあがる一方です。すると修道士らは農民たちに、農地を抵当に入れることを強要しました。その結果、返済に窮した農民たちは次々に土地を差し押さえられたのです。
農地を失った農民は教会によって追い出されるか、小作農となって酷使されるかのどちらかでした。
こうした修道会による非道な行いに対して、スペイン国王は農民たちを守るために抵当を禁止し、原住民に融資する金額を制限する法律を施行しています。
しかし、原住民を守るための法律のことごとくは無意味でした。国王の目の届かないフィリピンにおいて、実際に行政を担当したのはキリスト教会の修道士たちです。土地の所有欲に駆られた教会が、自分たちに不利となる法律を守るはずもありません。修道士らによって、その法律はまもなく廃止されました。
その3.政庁官吏・測量技師と結託した不正
さらに測量技師と数少ない政庁の官吏(かんり=役人)を抱き込むことで、教会は公然と所有地を広げました。
コンスタンティーノ著『フィリピン民衆の歴史Ⅰ』には次のように綴られています。
「多くの場合、司祭はただ欲しい土地を要求して、その部分の地図を作り、それに所有権を発行してもらってそれで所有者となるだけだった」
土地の所有という制度がなかったフィリピンにおいて、原住民が「所有権」について理解することは難しいことでした。原住民の無知をいいことに、教会は欲する土地があれば官吏とつるんで「国王の土地証書」を発行させることで、いとも簡単に教会の所有する土地だと宣言できました。
すると、その土地を先祖代々耕してきた原住民は突然不法侵入者にされ、立ち去るように命じられたのです。驚いた原住民が異議を申し立てても無駄でした。原住民は土地の所有を証明するいかなる書類さえ、持っていないためです。法律の上では、「国王の土地証書」を持つ教会の言い分が常に認められました。
測量技師を抱き込んでの不正行為も後を絶ちませんでした。教会が土地の測量を行うたびに、境界線は何ヘクタールも拡大され、周辺の土地はいつのまにか教会領となりました。
その4.遺贈と寄進
それでも原住民の側も、土地を教会に掠め取られるうちに次第に法律を理解し、所有権を主張するようになりました。すると教会の手口も変わり、今度は宗教を利用した略奪を謀るようになります。
その中心となったのは、臨終の床で為された遺贈です。再びコンスタンティーノの著書から引用します。
のちに住民の間に土地の私有観念が浸透すると、聖職者はさまざまなかたちでこの状況から利益を受けた。彼らは敬虔(けいけん)なフィリピン人から彼らの宗教的奉仕に対するお礼として、また天国に行くための一種の頭金として寄進を受けたり、遺産を相続したが、その大部分は臨終の床でなされた遺贈であった。
修道士はいつも臨終の教区民に、いま教会に寄進を行なえば煉獄(れんごく)の時が短縮されると耳うちすると言われていた。こうした庶民の信仰にはかなりの真実が含まれていたと思われる。なぜなら、一例としてアメリカ大陸の植民地では修道士が信徒の遺言書を作成することを禁止する国王の勅令が出されていた。
同様に国王は司祭とその所属する修道院に対して、常時懺悔(ざんげ)を聞いていた人々から遺産を相続することを禁止した。
『フィリピン民衆の歴史 1 往事再訪 1』レナト・コンスタンティーノ著(井村文化事業社)より引用(括弧内の読み表記は著者記す)
まだ科学が発達していない当時は、現代からは想像が及ばないほどに信心深い人々が多数いました。臨終を迎えた信者が天国行きの切符と引き換えに所有地を教会に寄贈することは、けして珍しいことではなかったのです。
その際、教会側がどのような交渉をしたのか記した文書が残っているはずもなく、真相は闇のなかです。
しかし、所有地の拡大に悪辣(あくらつ)の限りを続ける教会が何を為したのかを想像することは、さほど難しい作業ではないでしょう。
また、信者が臨終の際に遺贈を承諾してもいないのに、遺贈されたと主張する不正行為も広く行われたことでしょう。
コンステンティーノも記しているように、教会による遺贈に関する不正を根絶するための法律が実際に施行されていることから推し量っても、フィリピンにおいて教会によるかなりの不正行為があったことは否定できません。
その5.救いはどこにもなかった
ここまで来ると修道士は、あたかも日本の時代劇に登場する悪代官のように思えてきます。「お主も悪よのぅ」とつぶやきたくなるところですが、時代劇と違うのは、悪を罰する正義のヒーローがフィリピンのどこにも存在しないことでした。
地方に暮らす原住民はこう嘆いたと記されています。
「総督はマニラに、王はスペインにおられる。そして神は天国に住まわれる」
地方に行くほど、原住民の接するスペイン人は教会の神父のみでした。その神父こそが悪行の限りを尽くしていたのでは、どうにも救いがありません。
国王やフィリピン総督、そして神に救いを求めてみても、彼らの願いが届くことはありませんでした。
こうした様々な手口によって原住民らは、先祖代々受け継いできた土地を教会に奪われたのです。
スペインの占領が終わるまでの間に、修道会の所有する土地はフィリピンの全耕地面積の約15分の1を占め、修道会はアシエンダと呼ばれる広大な大農園をもつ大地主となっていました。
2.教会が始めた原住民の奴隷化
教会による農園経営は、原住民にとって過酷なものでした。家族が食べる分だけを自分たちで生産し、生産物のすべてを自由にできた原住民が、土地を失ったことで小作人の境遇を余儀なくされただけでも大きな苦痛です。
小作人とは農地の所有者から借り受けた土地で農業を行い、その農産物の一部を小作料として地主に払う農民のことです。つまり、今までと同様に田畑を耕し、農産物を育てているにもかかわらず、収穫した農産物の一部を取り上げられることになります。原住民にしてみれば、悲しいほどに理不尽な制度でした。
「農産物の一部」といっても、その割合を決めるのは教会です。「教会は自分たちの都合によって、小作料を毎年のように値上げした」と農民の嘆く声が残されています。
常識の範囲を超えた過度な小作料は、後世に至るまで、フィリピン人の大半を占める小作農を苦しめることになります。20世紀後半においてさえ、小作料が収穫の50パーセントを超えることも珍しくなかったほどです。
教会が小作人に過酷な境遇を課したのは、小作人が無力だと知っているからです。修道士に逆らった小作人は罰として鞭で打たれるのが通例でした。
それでも反抗的な態度をとった小作人は、さっさと追い出されました。そうなれば家族共々、たちまち路頭に迷うことになります。小作人として働きたい原住民はいくらでもいるだけに、教会が働き手に困ることはありません。教会にとって小作人は、まさに彼らの贅沢な生活を支えるための使い捨ての奴隷同然だったのです。
教会によって取得された土地に対する管理も情け容赦のないものでした。修道会に奪われた土地では原住民が川で魚を釣ったり、森でたきぎを切ったり、野生の果実を集めることさえ禁止されたと、記されています。
3.教会の暴走は誰にも止められなかった
その1.国王の勅令も効果なし
土地の収奪以外にも教会の為したことは、原住民を苦しめました。教区司祭は洗礼式から葬式、結婚式など、教会を通すあらゆる儀式において、驚くほど高額な手数料を要求したとされています。
原住民は教会から、これらの儀式を欠かすと魂の救済ができないと教えられていたため、貧しい暮らしのなかから、ときには最後に残されていた財産を売り払ってでも費用を捻出しました。
財産を持たない貧しい農民は、ミサに神父を呼ぶことも、死者をカトリックの教えに従って丁重に葬ることさえ適いませんでした。
さらに信者はロザリオ(カトリック教徒が祈りに使う十字架のついた数珠)に代表される宗教的な品々を教会の言い値で購入しなければならず、教会の求める労働奉仕に動員され、自分たちの食物さえ満足にないにもかかわらず、修道会の食卓を満たすための食物の寄進などを負担させられました。
司祭の命令に服さなかった信者は、鞭で打たれる体罰を受けるのが通常でした。
しかし、それ以上に教会が原住民の怒りを買ったのは、未婚の娘がいるとわかると、床掃除など教会内での仕事に駆り出されることでした。
現在、家系図のどこかに司祭を祖先にもつフィリピン人が多数いることから、このとき何が行われたのかを察することができます。
フィリピンにおいて物欲や性欲を思う存分解放した司祭は、けして珍しくありませんでした。聖職者の不正があまりにもひどいため、国王は1751年に次のような勅令を地方の官吏に出しています。
当該村落のインディオたちが修道士によって苦しめられないよう、また将来、修道士が行なうかもしれない不正行為を防止できるよう、今後は最大限の監視を行なうこと。
『フィリピン民衆の歴史 1 往事再訪 1』レナト・コンスタンティーノ著(井村文化事業社)より引用
国王や総督が懸命に教会の暴走を止めようと努めたことは、国王から司祭に対して様々な勅令や警告が発せられていたことからもうかがえます。
婦人たちに無理強いして修道院で家事をさせてはならない、教会で行う儀式の費用を住民に要求してはならない、臨終の間際に財産を教会に遺贈するように勧めてはならない等々、原住民の苦情を察した種々の禁令が出されています。
しかし、司祭らの暴走は止まりませんでした。
その2.教会はなぜ暴走できたのか
スペイン帝国は神と国王という二人の王者に奉仕すべきものとされ、国王と教会の間で政治権力を奪い合う争いは常に存在していました。されど、国王の権力が及ばない遠いフィリピンでは、教会絶対主義が確立していました。
教会の受け持つ教区の住民の暮らしのなかで、修道士らが関与しないことはないといっても過言ではありません。
修道士らは小学校の管理から税金の監督、町の予算の監査、衛生委員会などの各種委員会の委員長、町評議会・警察・刑務所の人事を握り、州評議会のメンバーでもありました。
原住民にしてみれば、生活に密接なつながりのあることごとくを教会に握られているだけに、教会の意向のままに動くよりありません。
教会が強力な政治権力を握り、原住民を掌握している以上、国王も総督も官吏も教会の意向に逆らうことはできなかったのです。
フィリピン総督は教会に対する不満を国王に次のように告げています。
そして修道士は同じことを言う――もし、彼らの力がインディオから取り除かれたら、インディオは改宗村を捨てていなくなってしまうだろう、と。修道士の権力はこのように強力なので、インディオは改宗村の神父以外の王や上位の者を認めようとしない。そして総督の命令よりも神父の命令をよく聴く。従って修道士たちは何百人ものインディオを奴隷として、あるいは舟の漕手としてさらにまたその他さまざまな仕事や手伝いに、賃金も支払わずに利用する。そしてあたかも追いはぎのように彼らを鞭でせっかんする。神父らに関したことであれば、修道士らはインディオのためにいささかの苦痛も憐みも感じない。ところが国王陛下のための労働奉仕や公共事業にインディオが必要になったり、彼らから何かを徴発しなければならないことが起こると、修道士たちは必ず反対を唱えてそれを阻止し、あらん限りの邪魔をする。
『フィリピン民衆の歴史 1 往事再訪 1』レナト・コンスタンティーノ著(井村文化事業社)より引用
精神と行政の両面にわたって原住民を支配した教会の権力は、フィリピンにおいてあまりにも絶大であり、それゆえに腐敗も激しかったといえるでしょう。
その3.総督のたどった悲劇
フィリピン総督といえども教会に逆らうことはできませんでした。修道会に逆らった総督のたどった運命は悲惨です。たとえば総督サルセードは宗教裁判にかけられて投獄され、メキシコへ送還される船上で息絶えました。
バルガス総督とパルド大司教の骨肉の争いも有名です。バルガスを総督の座から引きずり下ろしたパルドは、バルガスに麻袋を着せ、首にロープを巻き付けるとロウソクを持たせ、およそ4ヶ月の間、マニラの通りに立たせることで辱めました。バルガスもまた、囚人としてメキシコへ向かう船上で世を去っています。
教会による勝手気ままな横暴は留まるところを知らず、国王も総督も制止できないまま、原住民を苦しめました。
もちろん、原住民とて黙って教会による暴虐に耐えていたわけではありません。原住民の抱いた修道会への個人的な憤りが結集することで集団の憤りとなり、修道士による支配を取り除くための戦いはフィリピン全土で繰り広げられ、やがてフィリピン革命へとつながっていきました。
この続きは後の回にて紹介しますが、その前に次回は修道士による支配がフィリピンに貧富の格差をもたらすことになった歴史を振り返ってみます。