アジア唯一のキリスト教国であることは、フィリピン人にとっての誇りです。フィリピン人の9割はキリスト教の信者であり、8割はカトリック教徒です。
フィリピンの街角を散策すれば、教会をあちらこちらで発見できることでしょう。もっとも日本でも神社や寺院を街中で見つけることは、さほど難しいことではありません。
しかし、一般的なフィリピン人と日本人の信仰心は、大きくかけ離れています。日本では祭りやお正月に足を運ぶことはあっても、日常生活の一環として神社仏閣にお参りすることなど、ほとんどありません。
ところがフィリピン人の多くは教会で行われるミサに足繁く通い、事あるごとに教会で祈りを捧げています。フィリピン人の日常に、キリスト教はすっかり根付いています。キリスト教会への帰依は、民族にとってのアイデンティティといってもよいでしょう。
でも、ちょっと待ってください。現在のフィリピン人とカトリック教会との親密性からは想像もできないことですが、フィリピン人がカトリック教を受け入れるまでの道のりは、けして平坦ではありませんでした。
歴史を直視するならば、フィリピンの民衆は信仰心を持ちつつもカトリック教と対立し、各地で神父の殺害や追放を繰り返しています。
フィリピンの民衆にとって、かつてカトリック教会は憎悪の対象でした。フィリピンの民衆がカトリック教会に抗った歴史について、今回は追いかけてみます。
Vol.8 フィリピン人の誕生、そして革命へ
1.修道士の横暴に対する民衆の怒り
フィリピンでのキリスト教の布教を担った修道会によって為された、宗教・社会・教育など広範囲な分野にわたる過酷なフィリピン支配は、原住民に多大な苦しみをもたらしました。
その状況を歴史家のコンスタンティーノは次のように記しています。
修道士の専横、たとえば原住民の日常生活に対する過度の干渉、個人的侮辱、どんなささやかな犯罪に対しても男女を問わず課せられた鞭打ち等の体罰、告解その他の宗教儀礼に対する莫大な手数料、原住民女性に対する性犯罪、原住民を修道士の実質的な奴隷や下僕にしたこと――これらすべては、スペインの占領以後二、三○年後にはすでに始まっていた。しかし当時はまだ、これらの不当行為を行なったのは修道士個人であり、これにやむなく応じたのも原住民個人であった。不当行為の強度と頻度は各司祭の人柄によって異っていた。その上刑罰は個々の犯罪に応じて課せられたので、原住民の憤りは次第に結集されつつあったことは確かであるが、連帯行動を呼び起こすほど強力な共通の不満はまだ存在しなかった。
『フィリピン民衆の歴史 1 往事再訪 1』レナト・コンスタンティーノ著(井村文化事業社)より引用
カトリック教を受け入れた原住民にとって、植民地という特別な身分秩序が支配する世界のなかで聖職者の持つ権力は絶大でした。教会が権力を握っているがゆえに、原住民は教会に対する忠誠と献身の姿勢を保つよりありません。
しかし、「聖職者」とはとても呼べない修道士たちの横暴ぶりに対して、虐げられた原住民が怒りを抱えたのは当然といえるでしょう。ただし、その怒りはあくまで個人的な私怨に限定されていました。
個人の怒りが集団としての怒りへと変化したのは、修道会によって土地の収奪が派手に繰り広げられたからです。先祖代々受け継いできた農地を修道会にだまし取られたことにより、原住民の多くは貧しい小作人へと没落しました。
そのときから教会は精神世界を教え導くだけではなく、原住民にとって経済的な搾取者へと様変わりしました。それ以後の教会は、彼らの暮らしを直接脅かす存在となったのです。
修道会による経済的圧力に対してバランガイに暮らす農民は例外なく「貧困化」に直面し、その反動として修道会に対して共通する怒りを持つに至りました。教会に対する個人的な怒りは、もはやバランガイごとの集団の怒りへと変化を遂げ、修道士に対する反乱が各地で起こる事態を招いたのです。
フィリピンにおいてはカトリック教会そのものが、収奪と搾取を行う主要な装置と化していました。貧困と抑圧を強いられる原住民の怒りは、反修道会という激しい奔流となり、修道士の追放へと向かうことになります。
マニラやカビテ、ラグーナなど修道会が広大な農地をもっている地域ほど、大がかりな農民反乱が繰り返されました。
2.土着宗教への回帰
修道会によって課せられた貧困と抑圧からの解放こそが、原住民が反乱を起こした最大の理由です。教会と国家が同化していたフィリピンにおいては、反修道会の狼煙を上げることは反植民地闘争と同義でした。
原住民の主要な反乱として記録されている最古のものは、1587年にトンドやパンダカンなどの首長たちが同盟を結び、レガスピ率いる侵略軍を追い出そうと謀ったことです。この反乱には日本人船長も加担しており、スペイン人を駆逐するための武器や兵士を運んでくる手はずになっていました。
およそ5ヶ月にわたって計画が練られ、いよいよ実行する直前になり、同盟に加わらなかった首長の密告によって暴露され失敗、関係者は死刑もしくは流刑となりました。
その後も原住民による反乱は相次ぎ、貢税や強制労働を拒否するための蜂起、村落統合政策に対する反乱が各地で繰り返されています。
しかし、いずれの反乱も原住民側の惨敗によって幕を閉じました。スペイン軍の擁する強力な火器の威力は、原始的な武器だけを手にして蜂起した原住民をはるかに上回っていたからです。
兵力不足はスペイン人によって組織された、原住民による傭兵部隊によって補われました。この頃の原住民には「フィリピン人」という民族としての自覚はまったくありません。反乱が起きた地域とは異なるバランガイでかき集めた傭兵部隊は、情け容赦なく反乱軍に襲いかかりました。
ときには傭兵部隊が反乱軍に寝返り、ミイラ捕りがミイラになる事例も見られますが、その数は極めて少なく、傭兵部隊によって反乱のことごとくは鎮圧されました。
修道会が経済的搾取者へと変化を遂げるにつれ、ほとんどの反乱の矛先は修道会へと向けられました。初期の反乱において教会に対抗するために担ぎ出されたのは、原住民土着の宗教です。
修道士は原住民を信服させるために、キリスト教の神の畏(おそ)るべき力をしばしば口にしていました。原住民がこれに対抗するためには、土着の神々を持ち出す必要があったのです。
なかでも有名なのは1622年に二千人のボホール人が起こした反乱です。土着の女神ディワタが現れ、カトリック教を捨てて山に籠もり、そこに祭壇を立てたならば、貢税や教会税の支払いを免れ豊かな生活を得られるとのお告げが下ったことにより、イエズス会の監督下にあった4つの村落が一斉に蜂起しました。
彼らは各村落にあった教会を焼き払い、ロザリオや十字架を投げ捨て、聖女マリアの像を槍で突き刺しました。彼らが貧困から解放され、自由を得るためには、カトリック教会は打ち倒さなければならない敵でした。
ボホールの反乱は各地に飛び火し、レイテ島のカリガラでも大規模な武装蜂起が起きています。
これらの反乱は一見すると単なる宗教戦争にすぎないものですが、原住民たちが目指したのは彼らの平穏な生活を守るための反カトリック教であり、土着の神々はカトリック教に向けて抗議の声を表明するために利用されただけのことです。
土着宗教への回帰は、カトリック教会による支配を明白に拒絶するための行為でした。
原住民による教会に対する反乱は、しばしばスペイン人僧侶の殺害を呼び込みました。そうなるとスペイン人による報復も激しくなり、血で血を洗う争いが繰り返されたのです。
3.フィリピン民族主義の目覚め
1649年、サマール島では強制労働に対する抵抗運動として反乱が起き、サマール島の海岸線にある村落のほぼすべてが一斉に蜂起しました。教会に殺到した原住民たちは神父を追い出し、教会に火を放っています。
この反乱は周辺の諸州にも影響を与え、ミンダナオ島のサンボアンガでも数名の司祭が殺されました。
こうして反カトリック教に基づく反乱は頻繁に起きましたが、カトリック教による支配が数世紀にわたって続くうちに、その教えは次第に原住民の暮らしと一体化し、もはや日常から切り離せないものへと変化していきました。
こうなると、もはや土着の神々を担ぎ出す必要はありません。反乱を起こした原住民らがミサを行い、懺悔を聞いてくれるように求めることも珍しくありませんでした。それでも腐敗した修道士に向ける原住民の怒りは絶えることなく、教会の財産の没収と破壊、神父たちの殺害・投獄・追放は相次ぎました。
修道会の締め付けによって生じる過酷な収奪は原住民の苦痛を呼び込み、反スペイン闘争の火種はカトリック教の儀礼とは矛盾することなく燃えさかったのです。
17世紀の中頃ともなると、原住民による抵抗運動は新しい段階に突入します。バランガイの首長らが指導権を握り、民衆を利用することで反乱を起こし、スペイン人に代わって自分たちが新たな権力者になろうと謀ったのです。
しかし、いずれの反乱も実を結ぶことはなく、スペイン人による首長の切り崩しによって収束することが繰り返されました。
反乱を主導したエリート層出身の指導者たちは、最後はスペイン側に寝返り、彼らの既得権益を守る道を選びました。民衆は彼らに利用されては裏切られ続けたのです。この構図は後にフィリピン革命においても再現されます。
しかし、各地で繰り広げられた修道会に対する反乱は、けして無駄に終わったわけではありません。一つひとつの反乱を通して、原住民の間に民族としての自覚が次第に芽生えていったからです。
これより民族をあげての抵抗運動がフィリピン全土に広がることになります。そのきっかけとなったのは、1872年に起きたゴンブルサ事件です。
事件は同年1月20日にマニラ湾口にあるスペイン海軍基地カビテ港で発生した反乱にさかのぼります。メスティーソの軍曹に指揮された反乱軍はスペイン人司令官と将校らを殺害し、その翌日には鎮圧されました。
問題は、この事件の首謀者としてブルゴス・ゴメス・サモラの3人の神父が逮捕されたことです。ゴメスとサモラは原住民から神父になった高名な人物でした。ブルゴスはスペイン系メスティーソであり、原住民にとっての精神的支柱としての役割を果たしていました。
3人はあくまで無罪を主張しましたが、なにひとつ証拠がないにもかかわらず裁判で死刑判決を受け、2月15日には公衆の面前で絞首刑に処されました。
この事件は3人の姓の最初の音節をつなぐことで「ゴンブルサ事件」と呼ばれています。この3人の神父の処刑こそが、フィリピン民族主義精神の出発点であったといわれています。
4.史上初の「フィリピン人」の誕生
ゴンブルサ事件の背景には、スペイン人が原住民やメスティーソに向ける激しい人種差別が横たわっています。
このことを理解するためには、カトリック教という組織についての知識が必要です。これまで再三登場する「修道会」とは、教皇庁の認可を受け、請願によって結ばれた信徒の組織のことです。フィリピンにおける布教は、修道会に属する修道士によって行われました。
カトリック教内には修道会とは別の組織があります。村や州、首都の教会からなる大司教区、または司教区です。これらの司教区に所属する聖職者を「在俗司祭」と呼びます。
はじめは修道士が先頭に立って伝道するものの、伝道が稔り、教会が建てられるようになると、教会は修道士から在俗司祭に引き継がれるべきものと、教会法にも記されています。このとき在俗司祭となるのは、原住民やメスティーソ、あるいはフィリピン生まれのスペイン人です。ローマ教皇も教会を修道士から在俗司祭へと順次渡すようにと指示しています。
しかし、フィリピンでは修道士が俗世間に溺れ、権力を手放すことを拒みました。修道会は、「原住民は基本的に高位聖職者としての能力に欠ける」と主張し、原住民が司祭となることに反対したのです。
そこでスペイン国王は修道会の勢力を削ぐ目的のもとに、在俗司祭化を積極的に推し進める政策を実行しました。このことは同時に、教会のフィリピン化をも意味しています。
ところが19世紀を迎えると、様相は異なってきます。「教会のフィリピン化」は当然の帰結として、政治にも波及し始めたのです。このことに、スペイン政府は危機感を募らせます。
政治のフィリピン化の要求が高まれば、スペイン人にとって都合のよい植民地フィリピンが失われる危険性が強まるためです。
その結果としてスペイン政府は手のひらを返し、教区司祭の在俗神父化を廃止する政策を実行しました。
このことは、原住民司祭の抗議の声を集めることになります。さらに原住民司祭の怒りを呼び込んだのは、フィリピンから追放されていたイエズス会が1859年に復帰したことを機に伝道地域の再分配が行われ、長年にわたって保持してきた彼らの教区を奪われたことです。
原住民司祭の怒りは修道士というスペイン人の集団に対して激しく燃えさかりました。その怒りの炎は、彼らの教区内の原住民にも伝わっていきます。なぜなら原住民であるために受ける差別と不正は、司祭に限らず、原住民に共通する耐えがたい苦痛だったからです。
在俗神父は原住民、メスティーソ、フィリピン生まれのスペイン人のいずれかで占められていました。スペイン生まれのスペイン人による差別と不正によって苦しめられていることにおいて、メスティーソとフィリピン生まれのスペイン人もまた、原住民となんら変わりありません。
この時点で、原住民とメスティーソ、フィリピン生まれのスペイン人は初めて共通の基盤を持つに至ります。それは、スペイン人による謂われなき差別と不正に対する怒りです。
怒りこそが、フィリピンで生まれ育った者を等しくひとつの民族として認め合う意識を育てました。このとき、有史以来初めて「フィリピン人」が誕生します。
従来、「フィリピン人」とは、フィリピン生まれのスペイン人を表す言葉でした。
原住民やメスティーソは自分たちがフィリピンで生まれ育ったことは自覚していても、一つの民族としての自覚には欠けていました。16世紀にスペインによって無理やりひとつの植民地として括られて以来、同族として意識することがないまま19世紀に至ったのです。
ところがスペイン人によって共通の差別と不正を受けたことにより、フィリピンで生まれ育った者を「フィリピン人」という一つの民族であるとする自覚が、原住民・メスティーソ・フィリピン生まれのスペイン人という3つの集団に生まれました。
今や3つの集団は互いに手を結び合い、フィリピン人という一つの民族として、彼らの共通の敵であるスペイン人と対立するようになったのです。
その流れを決定的にしたのが、「ゴンブルサ事件」でした。新たに赴任してきた総督が「十字架と剣による支配を行う」と宣言し、「ゴンブルサ事件」を筆頭にフィリピン人に対する数々の弾圧に乗り出すと、多くのフィリピン人が自由と平等を掲げ、戦いに身を投じるようになりました。
スペイン人との闘争は、修道士との闘争を意味していました。しかし、民衆にとって救いだったことは、反修道士の闘争がカトリック教の信仰を否定することには繋がらなかったことです。
彼らの戦いは悪徳の限りを貪る修道士をフィリピンから追い出し、カトリック教会を修道士からフィリピン人在俗神父へ引き渡すことでした。在俗神父にしてみれば、彼らのために立ち上がったフィリピン人を支持するのは当然です。かくしてカトリックの神父の支援を得たフィリピン人の戦いは、カトリック教に背くことにはならなかったのです。
反修道士の戦いは、やがてフィリピン革命という大きなうねりとなり、フィリピン全土を覆うことになります。
この続きは次回にて。