東京日比谷の交差点にある公園入口から日比谷通り沿いにしばらく歩いた通路際に、あるブロンズ像が建っています。
ブロンズ像の下には碑文があり、こう記されています。
「フィリピンの国民的英雄 ホセ・リサール博士 1888年この地東京ホテルに滞在す」
それ以上の情報については何も記されていないため、ホセ・リサールを知らない人にとっては、なぜフィリピンの国民的英雄のブロンズ像がこんな場所に建っているのか、さっぱりわからないことでしょう。
フィリピンの国民的英雄 ホセ・リサール博士の像
そこで今回は、フィリピン人であれば誰でも必ず知っているであろうホセ・リサールを中心に、フィリピン革命について紹介します。
フィリピン革命とは、1896年にスペインによる植民地支配からの解放と独立を目指して始まった革命のことです。結果的に革命は失敗し、フィリピンは独立を果たせませんでした。
なぜ、フィリピン革命は失敗に終わったのか、その本当の理由を追いかけてみます。
Vol.9 ホセ・リサールの見果てぬ夢 ~革命はなぜ失敗したのか
1.ホセ・リサールとは何者か
フィリピン革命を呼び起こした英雄として必ず語られるのが、ホセ・リサールです。『物語 フィリピンの歴史』では、次のように綴られています。
ホセ・リサ-ルは、これ以後のフィリピン史で巨大な位置を占めるようになる。ある意味でフィリピン史はリサ-ルに凝集され、リサ-ルは現在もフィリピン人に影響を与えているといえる。
リサ-ルは植民地問題の記録者であったばかりでなく、その改革と最終的にはフィリピンの独立を熱望した革命的思想家であった。民族主義者としてのリサ-ルは、スペイン修道土たちの最大の敵となり、そのため彼の行動のすべてがフィリピン史となった。
『物語 フィリピンの歴史―「盗まれた楽園」と抵抗の500年』鈴木静夫著(中央公論新社)より引用
実際のところ、もしホセ・リサールがいなければ、フィリピン独立を求める革命が起きたかどうかは、かなり怪しいといえるでしょう。たとえ必然的に起きたとしても、数十年の遅れが生じたであろうことは想像に難くありません。
ただし、ホセ・リサールは自ら先頭に立って革命を指揮したわけではありません。フィリピン革命におけるホセ・リサールの果たした役割は、革命の実行へと民衆を啓蒙したことに求められます。
後に革命を指導することになるボニファシオにしてもアギナルドにしても、ホセ・リサールの言説に触れたことで初めて革命に目覚め、革命家としての道を歩み出すことになったのです。
2.ホセ・リサールの掲げたカトリック教会への反旗
ホセ・リサールは中国系メスティーソの家系に産まれ、裕福な少年時代を過ごしました。そのおかげで幼少の頃から十分な教育を受け、修道会が経営する大学の医学部に進学しています。リサールは誰から見ても、間違いなくエリートでした。
フィリピンに限らずアジア圏で独立闘争の先駆けとなったアジア人の大半は、裕福なエリート、もしくは知識人と呼ばれた人々です。これにはもちろん理由があります。
植民地に生まれ育った人々の多くは、自分たちの置かれた境遇が理不尽なものだと気がつくことさえありません。何世代にもわたって搾取を繰り返されてきた結果として、それが当然だと思い、疑問を抱くことさえなかったのです。
フィリピンではスペイン人によって「従順であることが美徳である」と三百年もの間、教え込まれてきました。
半ば奴隷としての扱いを受けている自分たちの置かれた境遇が理不尽だと気がつくのは、さまざまな知識を学んだあとのことです。「自由」という思想自体、学ばなければ知り得ないものでした。
しかし、植民地化でまともな教育を受けられるのは、一部の裕福な人々に限られました。教育に金がかかるのは、今も昔も変わりありません。
では、植民地化において裕福な人々とはどういう人であったのかと言えば、体制側にいる人々のことです。フィリピンで言えば、支配者であるスペイン人の手足となって、スペインによるフィリピンの植民地支配が円滑に進むように手助けをする人々です。
裕福であるからこそ教育を受けられ、教育を受けられたからこそ理不尽な状況にあることを理解し、やがて既存の体制に対して反旗を翻すことになります。
そのため、革命の種を播くのは常にエリートや知識人に偏ることになります。ホセ・リサールもまた、その一人です。
リサールの名声が一気に高まったのは、スペイン留学中の1887年に小説『ノリ・メ・タンへレ』をベルリンにて出版してからです。タイトルの意味は「私に触るな」です。
この小説には修道士の悪行の数々が事実のままに綴られていました。リサールは語っています。
「私は、私たちの社会、暮らし、信念、希望、嘆きや悲しみについて書いた。私は、宗教の衣を着て私たちを貧困に陥れ、虐待した人たちの偽善の仮面をはいだ。」
この小説はフィリピンで行われている修道士の不法行為をスペイン人に広く知らしめることを目的に書かれました。そうすることで、植民地体制を改める必要があることをスペイン人に啓蒙しようとしたのです。スペイン人の読者を対象としていたため、スペイン語で書かれていました。
フィリピンでも発売されましたが、当然ながら修道士の敵意を買い、すぐに発売禁止に追い込まれています。
それでも密かにフィリピンに運ばれ、『ノリ・メ・タンへレ』は知識人の間に大きな反響を呼び起こしました。
折しも植民地行政の改革を求める声は高まり、反修道士運動という大きなうねりへと発展していました。『ノリ・メ・タンへレ』は、これら反修道士運動のシンボルともいえる存在になったのです。
そのことはリサールの身を危険にさらしました。周囲の勧めもあり、リサールは一時、フィリピンを離れヨーロッパへと向かうことになりました。その途中で立ち寄ったのが日本です。
当初は二日間だけ滞在する予定でしたが、スペイン公使館に滞在中、リサールはある日本人女性と運命的な出会いを果たします。断ちきりがたい思いに吊られながら滞在は2ヶ月に及び、二人は愛を育みました。リサールが後に処刑されたことにより、結果的には悲恋となりましたが、二人のロマンスはフィリピンでは有名です。
日本人女性は別の男性と結婚して八十歳の天寿を全うしました。今でも彼女の墓には毎年リサールの誕生日に、フィリピン大使館より花が供えられています。
3.カティプナンの誕生
『ノリ・メ・タンへレ』に続けて出版された『エル・フィリブステリスモ』は、前回紹介した「ゴンブルサ事件」に怒りを感じたリサールが、フィリピン改革の必要性をより強く訴える内容でした。
この2冊が出版されたことにより、フィリピンでの権勢を保ちたい修道士たちにとって、彼らへの反逆を訴えるリサールは排除しなければならない最大の敵となりました。
危険とわかっていながらも祖国の明日を憂う気持ちを抑えることができず、リサールは1892年の7月に帰国を果たします。
そこで結成したのが「フィリピン同盟」です。この同盟が画期的だったのは、エリートや知識人ばかりでなく、一般民衆をも改革運動に取り込んだことです。創立メンバーにはアンドレス・ボニファシオも名を連ねています。
もっとも、その要求はけして過激なものではなく、一種の相互扶助に近いものでした。しかし、民衆を巻き込む「フィリピン同盟」が結成されたことにスペイン当局は危機感を募らせます。同盟が結成された4日後にはリサールは逮捕され、ダピタン島へ追放されました。
リサールが逮捕されたその日に、ボニファシオが同盟のなかの急進派を集めて結成したのが、秘密組織カティプナンです。
カティプナンは植民地政策の改革によってフィリピンとスペインを同化させるのではなく、スペインによる植民地支配からの解放を目指しました。その手段にしても平和的な改革要求を続けるのではなく、武力革命へと変化しています。このような一足飛びの急激な変化は、ボニファシオが時代の流れを適確に捉えたからこそといえるでしょう。
もはや平和的に解決を図る時期は過ぎ、武力によらなければ植民地からの解放は為し得ないと、フィリピン独立の旗を打ち立てたのです。エリートでも知識人でもない、貧しい下層出身の革命家ボニファシオは、リサールと並んで今でも多くのフィリピン人から慕われている英雄です。
カティプナンは民族がひとつとなって団結してこそ、スペインの圧政と修道会の専制からはじめて解放されるのだと叫び、大衆の支持を次第に広げていきました。
1896年の3月にはエミリオ・アギナルドがカティプナンに入会しています。フィリピン革命は、リサール・ボニファシオ・アギナルドの3人の戦士によって始まることになるのです。
ただし、リサールは終始、カティプナンとは距離を置きました。会員の多くから尊敬を集めていたため、カティプナンへの参加を何度も呼びかけられたものの、リサールは拒絶しています。武力革命のために自分の名前を利用することさえ、リサールは頑なに断りました。「勝利の見込みがない革命行動は起こすべきではない」と、リサールは諭しています。
4.リサールの死が残したもの
秘密組織カティプナンの噂はスペイン側にも次第に漏れ伝わっていきました。スペインの支配するフィリピンにおいて反植民地を掲げるカティプナンに関係すると疑われることは、死刑・拷問・投獄の運命が待っていることを意味していました。
それでも組織が広がったことは、大衆の圧倒的な支持を受けていたからこそです。
1896年の8月、カティプナンはついに武装蜂起し、スペイン軍と交戦状態に入りました。ヨーロッパの植民地支配に反対するアジア最初の革命であるフィリピン革命の幕が、いよいよ切って落とされたのです。
三百年にわたって繰り返されてきた数々の蜂起は、フィリピン革命という大河に至るための雫の一滴でした。フィリピンの大地を覆ってきた革命の伝統は、今やカティプナンに継承され、民族主義に基づく反植民地闘争として、フィリピンの大衆を奮い立たせたのです。
マニラ市内の戦いにおいて、ボニファシオ率いるカティプナン軍は苦戦を強いられました。しかし、マニラ近郊のカビテ州ではアギナルド率いるカティプナン軍がスペイン軍に圧勝を収め、カビテ州東部を完全制圧しました。
これに慌てたスペインは、革命の精神的支柱となっていたリサールの処刑へと動きます。リサールを今回の反乱の首謀者であると決めつけ、軍法会議にかけました。
リサールは前述のように武力蜂起に反対し、反乱を止めようと努めていました。けして反乱の首謀者ではありません。リサールが首謀者であることを示す証拠も、なにひとつありませんでした。
しかし、スペイン軍はリサールに死刑の判決を下します。12月30日午前7時、マニラ湾に近いバグンバヤンの刑場にて、リサールは銃殺刑に処せられました。その場所は現在「リサール公園」になっています。
リサールの最後の瞬間は、目撃者によって次のように書き残されています。
リサ-ルはしっかりした足取りで歩き、護衛兵や二人のイエズス会士と、時々笑い合っていた。刑場はリサ-ルの最期を見届けようとするフィリピン人やスペイン人で混み合っていた。銃声が轟き、「スペイン万歳」、「反逆者をやっつけろ」という叫びが三度聞こえた。なんと何人かのフィリピン人は笑っていた。私は遺体を見ようとして、現場に近づいた。リサールは上向きに倒れ、胸は大きな太陽のように、鮮血で染まっていた。
『物語 フィリピンの歴史―「盗まれた楽園」と抵抗の500年』鈴木静夫著(中央公論新社)より引用
銃殺刑では通常、頭を狙って狙撃されるため、そのままうつぶせに倒れることになります。しかし、リサールは刑の執行に先立ち、頭ではなく腰を狙うようにと要望し、その願いは聞き入れられました。
腰と背中に複数の銃弾を受けながらもリサールは身体を回転させ、仰向けに倒れたまま息を引き取っています。それはリサールが最後にこだわった死の演出でした。
その演出の意味を巡っては諸説ありますが、最後に振り返ることで民衆を見据えながら倒れることにより、「名もなき民衆の力と強さを信じる」とのリサール最後のメッセージを伝えたかったのだとされています。
このドラマチックな死は、数世紀にわたって虐げられてきた「フィリピン人」という民族の心の琴線を震わせました。
さらにリサールを国民の英雄に祭りあげたのは、彼が獄中で記した一遍の詩です。「さらば、わが愛する祖国よ、陽光あふれる国よ」から始まる、小さな紙片を埋め尽くすように書かれた長編詩は、あふれんばかりの抒情とともに祖国を思う哀切と国民への愛情に満ち、比類ない美しさに彩られています。
『最後の別れ』と題された、その詩には、革命に対するリサールのメッセージが、はっきりと打ち出されていました。
武力革命には反対していたリサールが、『最後の別れ』を通して祖国防衛のための戦いを認めたのです。
フィリピンで産声を上げた民族主義のうねりは、リサールの是認によって、ますます高まることになります。その瞬間、リサールは殉国の士となり、革命のシンボルとなりました。
無実の罪によって磔となり、民衆の罪をあがなうために天に召されたイエス・キリストと、同じく無実の罪によって死刑となり、民衆を救うための犠牲となったホセ・リサールの姿は重ね合わさり、フィリピン人にとっての英雄となったのです。
5.革命軍内の権力闘争
リサールの死によってフィリピン革命はますます大衆の支持を呼び込み、激しく燃えさかりました。しかし、1897年の2月から3月にかけて革命軍は各地でスペイン軍に敗れ、多くの支配地域を失ってしまいます。
敗勢による危機感が募ることで、この頃から革命軍内の権力闘争が目立つようになりました。即ち、ボニファシオに代表される一般民衆の階層と、アギナルドに代表されるエリート・知識階級による権力争いです。
もっともボニファシオは権謀術策の類いには無縁の人物であり、革命軍内において異なる階層間による権力争いが進行していることさえ、自覚していなかったようです。
3月22日、「カティプナン最高会議」に代わって「革命会議」を設立するための会議が開かれ、大統領を選挙で決めることになりました。カティプナンの頭領であり議長であったボニファシオは、当然ながら自分が選出されるものと高を括っていましたが、意外な結果が待っていました。
投票の結果、その場にいなかったアギナルドが大統領に選ばれ、ボニファシオは内務長官に推されたのです。しかも、学のないボニファシオを内務長官につけることにさえ反対する意見が出されるに及び、怒ったボニファシオは議長権限に基づき「全ての決定を無効にする」と宣言しました。
ボニファシオは常に民衆の側に立ち、スペインからフィリピンを独立させることをひたすら目指しました。その思いが純粋であるだけに、革命軍内の権力闘争には無関心でした。
一方アギナルドはエリート・知識階級の支持を背景に根回しを進め、策謀をめぐらすことでボニファシオを革命軍から追い出す準備を整えていました。すでに革命軍内の指導権はボニファシオからアギナルドに移っていたのです。
アギナルドは会議の翌日に大統領就任の宣誓を行いました。対してボニファシオのたどった運命は悲劇的です。ボニファシオは新政府の承認を拒否し、独自に革命を続けることを宣言しましたが、アギナルドの命により動乱扇動と反逆罪によって逮捕され、軍事法廷にかけられました。
日和見主義の仲間にも裏切られ、嘘の証言により、ボニファシオは死刑を宣告されます。判事がすべてアギナルドの部下であっただけに、避けようもない判決でした。ボニファシオは5月10日に処刑されました。
6.誰が民衆を裏切ったのか
歴史を振り返ってみたとき、ボニファシオの敗北は民衆の敗北であったことがわかります。フィリピンの民衆が夢見た独立の夢はボニファシオの死とともに失われ、フィリピン革命は失敗に帰することになります。
なぜなら、ボニファシオに代わって革命軍を指揮したアギナルドがスペイン当局との妥協を選び、結果的に民衆を裏切ったからです。
一時は反乱の先頭に立って民衆を奮い立たせるものの、最後は体制側に寝返り、スペインによるフィリピン支配をより強める結果をもたらすのは、首長一族やエリート層・知識階級がこれまで何世紀にもわたってフィリピンで繰り返してきたことです。
彼らにとって反乱は、既得権益をより広げるための道具に過ぎないものでした。彼らもまたスペイン人と平等でないことに怒りをもちましたが、現在の彼らが裕福でいられるのは、そのスペイン側の手先となっているからこそです。
彼らがこの先も特権階級として豊かな生活を送るためには、スペインの植民地としてのフィリピンが温存されている必要がありました。つまり、彼らの目標はフィリピンの独立ではなく、スペインの植民地としての体制を維持しながら、彼らとスペイン人が対等の関係になることでした。
革命の熱情がフィリピンの大地を覆い、革命が成功するかもしれないと思えたとき、アギナルドをはじめとする特権階級に属する人々は、革命に身を投じました。しかし、革命軍の旗色が悪くなり始めると、彼らは早々に退却の準備を急ぎました。
特権階級は既得権益を守ることだけに情熱を傾け、民衆の願いを顧みることはありませんでした。
フィリピン革命が失敗に終わったのは、革命の指導権を奪い取ったエリート・知識階級が最後には既得権益を守ることを優先し、民衆を見放したからです。
そのことはまさに、330年にもわたってスペインがフィリピンを植民地支配できた理由でもあります。フィリピン人の大多数を占める搾取される一方の貧困に喘ぐ一般民衆と、少数の富裕層という歪な構造が、スペインの植民地支配を容易にさせました。反乱が起きても反乱を指導する富裕層を懐柔することで、たやすく鎮圧できたからです。
スペイン統治時代に培われた大多数の貧困層と少数の富裕層という構造は現在のフィリピンにも受け継がれ、フィリピン人を苦しめています。
フィリピン革命が失敗に終わった過程については、次回紹介します。