20世紀の初頭から半ばにかけて、フィリピンは激動の歴史を歩みました。武力蜂起によってスペイン軍をフィリピンから追い出し、独立を勝ち得たのも束の間、今度はアメリカの軍事侵略に悩まされることになります。
必然的に起きた米比戦争では、独立と自由を守るためにフィリピンの民衆は一丸となって最後まで勇敢に抗い続けました。
しかし、民衆の願いは適わずアメリカの軍門に下り、アメリカの植民地としての屈辱に甘んじるよりありませんでした。
そこへフィリピン解放の旗印を掲げて押し寄せてきたのが日本軍です。日本軍によって米軍は駆逐され、フィリピンは日本の占領下に入りました。日本軍政下のフィリピン人の暮らしは、アメリカの統治期よりも遙かに過酷でした。
アメリカと日本の支配に対し、フィリピンはいかに対抗したのか、その歴史をたどってみます。
Vol.11 米比戦争~日本占領、そして独立へ
1.独立か和平か
当初は2万に過ぎなかった米軍は米比戦争の開始とともに大軍を差し向け、その兵数は99年末には5万5千、1900年には7万人に達しています。圧倒的な装備と練度を誇る上に大量の兵員を投入されたのでは、フィリピン軍に勝ち目はありません。3月末には首都マロロスが陥落し、11月には中部ルソンが米軍の手に落ちました。
軍事侵攻を続けながらもアメリカは、「慈しみ深い同化の宣言」に適うフィリピン植民地統治を推し進めました。実際にフィリピンを統治したのはフィリピン委員会(シャーマン委員会)です。
米マッキンレー大統領が語る理想は次のとおりです。
「軍事政権が最も重要とし、かつ最も強く望む目的は、フィリピンの住民の信頼・尊敬・敬愛を勝ち取ることでなければならない。それは、彼らに対して可能な限りの方法を駆使して、解放された人々の遺産である個人の権利や自由を最大限に保障すること、そして恣意的な支配にかわって正義と権利の柔和な統治を行うことによって、合衆国の使命が一つの恩恵的同化であることを彼らに対して証明することによってなしうるであろう。」
スペインがフィリピンに与えようとしなかった「良き政治、教育、物質的な進歩、自由と平等」などを、フィリピンの友人であるアメリカが実現しようとの理想を掲げています。その一方でアメリカと同化することによってのみ、フィリピンの国民は幸福を築けるのだと決めつけているも同然です。
果たして他国との同化が、本当にフィリピンの人々を救うことになるのかどうか、そのことはフィリピン革命を啓蒙したホセ・リサールがスペイン統治期に、すでに答えを出しています。
リサールは著書『エル・フィリブステリスモ』のなかで主人公に次のように語らせています。
「スペインに同化することによって権利の平等を願うことは、国民性の破壊である。植民地のままであり続けることはフィリピンがもつべき自由を遠ざけ、偽りの姿をくり返させることでしかないのだ」
フィリピン人が望んだのは他国の植民地となることで得られる「奴隷の平和」や「偽りの自由・平等」ではなく、たとえ今は未熟であってもフィリピン人によるフィリピン人のための独立国家を創ることでした。
しかし、アメリカがフィリピン統治に当たって約束したのは、アメリカの主権の下に自治を保証することでしかありません。
この提案に、米比戦争開始の頃から即時和平を主張していた知識階層の人々は賛意を送ります。革命議会においてもアメリカによる自治政府案を受諾する決議が為されました。
前回にて紹介したように、議員の大半を占める知識階層の願いは財産の保全と既得権益の継承です。スペインが支配しようとアメリカが支配しようと、あるいはフィリピンが独立を勝ち取ろうと、彼らの財産と権力が保全されるのであれば、知識階層にとってはどうでもよいことでした。
かくして抗戦派のマビニ内閣は更迭され、アギナルドが同意したことによりパテルノによって新内閣が立ち上げられました。パテルノは自治政府案を受け入れることで和平を成立させようと、フィリピン委員会との交渉に臨みました。
ところがアメリカは和平会談の前にフィリピン軍の完全降伏を求め、譲ろうとしません。民衆に支えられたフィリピン軍が、民衆の願いを裏切るパテルノの提案を受け入れるはずもなく、フィリピン軍の将軍は「独立万歳、自治案に死を」と訴え続け、和平は失敗に終わりました。
やむなくパテルノは戦闘継続を民衆に訴えました。
「祖国を、汚辱と不面目、刑罰と絞首台、数世代にわたり受継がれてきた悲しむべき致命的な奴隷状態から救うために、統一せよ」
その言葉が民衆を鼓舞したことはたしかですが、その後のパテルノの言動を見る限り、どこまで本気であったのかは疑問の残るところです。
2.アギナルドの2度目の裏切り
米軍の猛攻に追い詰められたアギナルドは戦略を変え、陸軍を解散し、11月よりゲリラ戦を行うよう全軍に指示しました。このことが戦局に変化をもたらします。各農村では農民たちがゲリラ兵を全面的に支援したため、米軍はフィリピンの民衆を相手に戦わざるを得ず、これまでのような快進撃はぴたりと止まることになったからです。
装備や兵員の数では劣るものの、現地の民衆に支えられたゲリラを討伐することは容易なことではありません。ゲリラ鎮圧に手間取ったオーティス将軍は更迭され、代わりに登場したのがダグラス・マッカーサーの父親に当たるアーサー・マッカーサーです。
マッカーサーはゲリラとそれを支援する民衆に対して、残忍極まりない弾圧を繰り広げました。
このような動きに対して農民を主体とする一般民衆は米軍への抵抗を強め、逆にビサヤ諸島など地方に地盤をもつ裕福なアシエンダ所有者は武器を置いて米軍を歓迎する姿勢を示しました。一般民衆と富裕者・知識階級との間には、乗り越えられない溝が横たわっていたのです。
民衆の根強い抵抗を前に、マッカーサーは次のように述べています。
「群島の全域にわたり、反乱軍の集団が存在した。隣接する町がすべてこの集団維持に寄与していることは、紛れるかたなき事実である。換言すれば、町は、米軍政下かかれらの自治組織かに関係なく、軍事的反乱活動すべての実際上の根拠地となっている。」
マッカーサーの証言からもわかるように、フィリピン全土が米軍の侵略に対してノーを突きつけていたことは、疑いようがありません。
しかし、1901年3月23日、米軍の罠にはまったアギナルドが捕虜として拘束されたことを境に米軍は再び優勢を確保します。
囚われの身となったアギナルドは、フィリピンの民衆に対する二度目の裏切りを犯すことになるからです。アメリカに忠誠を誓ったアギナルドは、命じられるまま 4月19日にフィリピン人に対して布告を出しました。
フィリピンは断乎(だんこ)として平和を希求する。そうならそれでよし、血の流れを止めよう。涙と孤独に終止符を打とう。こうした願いは、今もなお武器をとり続け、自分たちの念願を鮮明にした民衆への奉仕のみを目的としている人びとにも、確実にわかたれねばならない。
この意思の実在を知った今日、余はこの意思に服従し、熟慮の末、全世界にたいし宣言する。余は、平和を渇望する民衆の声に耳をふさぎつづけることはできぬ。愛する者の自由を切望する何千という家族の嘆きの声に耳をかさぬこともできぬ。この自由は、偉大なアメリカ合州国の寛大さにより、約束されたものだ。
『フィリピン民衆の歴史〈2〉往事再訪』レナト・コンスタンティーノ著(井村文化事業社)より引用
感情を揺さぶり、平和を求める格調高い文章のようにも読み取れますが、要は戦いを止めることで「奴隷としての平和」に甘んじよ、と主張しているも同然です。
さらに、これまでの敵であったアメリカを賞賛し、アメリカの善意に信頼を託すと宣言したアギナルドの言葉は、数々の欺瞞(ぎまん)に満ちています。その構造は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と宣言する、どこかの国の憲法前文とあまりに似通っています。
平和を餌に服従を強いるこのような表現は、宗主国が植民地に押しつける際に頻繁に用いられた使い古されたロジックに過ぎません。
スペインとの革命闘争を途中で放り出し、戦闘中止を求めた愚を、アギナルドは再び繰り返しました。革命の最高指導者としての立場にありながらも、アギナルドの人気ぶりが今日のフィリピンにおいて思わしくないのは、こうしてフィリピンの民衆を二度も裏切ったからです。
米比戦争の先頭に立っていたアギナルドが降伏したことは、フィリピン軍の士気を押し下げました。アギナルドの言に従い、将官クラスの軍指導者が相次いで投降しています。
パルテノら知識階層の議員たちは連邦党を新たに立ち上げ、フィリピンをアメリカの一州として併合すべきだと訴えました。
戦争を止め平和を求めようとする気運が高まり、武装解除に応じる革命軍も各地に現れています。
しかしながら、軍指導者のすべてがアメリカへの恭順を誓ったわけではありません。戦いに敗れ捕虜となっても、断固としてアメリカへの忠誠を拒否した将軍もいます。アルテミオ・リカルテ将軍もその一人です。
リカルテはアギナルドとは対照的に反米の意志を変えることなく、アメリカへの協力を断り、香港に追放されました。その後もアメリカへの抵抗を続け、密かに帰国してはフィリピン革命を継続しようと努めています。リカルテが再び歴史の舞台に登場するのは、日本軍によるフィリピン解放の時です。
アギナルドの降伏により、フィリピン人の抵抗が弱まったことを受け、アメリカはマッカーサーによる軍政を廃止し、タフトを総督に据える植民地支配を開始しました。
3.アメリカの正義とは
アメリカが真っ先に手を付けたことは、自己の正当化です。アメリカがフィリピンを抱え込んだのは、ひとえに博愛精神によるものだと美化されました。
マッキンレー大統領は述べています。
「われわれがなすべきことは、フィリピン人たちすべてを手中におさめ、教育すること、そしてキリストの死の恵みを等しく受けるわれわれと同じ人間として、かれらを引き上げ文明化すること以外にはなかった。」
言葉の端々に白人の驕りが表れ、激しい人種差別が横たわっていることがわかります。
上辺だけの博愛を語る傍らで、フィリピン人が自らの手で勝ち取った自由と平等を奪い取ろうとする侵略者としての顔は、巧妙に隠されました。
知識階級や富裕層に属するフィリピン人が早くからアメリカに迎合し、アメリカの植民地となることを希求した事実は、フィリピン人は諸手を挙げてアメリカの支配を歓迎しているとの神話を生み、アメリカ国内でのプロバガンダに大いに利用されました。
その反面、フィリピンの一般民衆がアメリカの支配に抗い、戦い続けた歴史は闇に葬られました。捏造された歴史を占領下の国民に押しつけることは、フィリピンに限らず、この後もアメリカによって繰り返されることになります。
フィリピン委員会の一人は民衆が独立のために戦い続けたことを、こう評しました。
「私は”独立”という言葉が語られるのを聞いたこともないし、かれらが今日に至るまで、その言葉の意味を理解しているとは思えません。」
フィリピン人には自治能力がないのだから放置するわけにはいかない、フィリピン人はアメリカの後見を歓迎している、だからアメリカは博愛主義と白人の責務に基づいてフィリピン人を助けてあげるのだ、そのようなロジックが構成されました。アメリカはこのような自分勝手な正義に基づいてフィリピンを侵略したのです。
4.フィリピン民衆の抵抗は止まず
フィリピンの対米闘争はごく短期間で終わったと宣伝されましたが、実際は違います。スペイン軍と戦ったときと同様に、アギナルドが降伏してアメリカに忠誠を誓ったあとも、フィリピンの民衆は彼らの自由と平等を守るための対米闘争を粘り強く継続しました。
アメリカが内外で平和が保たれていると訴える傍らで、多くの町や村では絶えることなく蜂起が繰り返され、米軍は武力を行使して鎮圧に追われました。
なかでも1901年9月28日に発生したサマール島でのバランギガの虐殺は有名です。米軍のパトロール隊38人が殺害された報復として、アーサー・マッカーサーはサマール島とレイテ島に暮らす10歳以上の島民の皆殺しを命じました。これにより10万人の島民が虐殺されています。
それでもフィリピン人民衆の反米の闘志は衰えません。民衆の抵抗は燎原(りょうげん)に広がる火の如く燃え広がり、各地で米軍を苦しめました。
投入される米軍兵の数が増え続けたことが、フィリピン民衆の抵抗がいかに根強かったのかを証明しています。
1902年7月4日、セオドア・ルーズベルト米大統領により反乱は正式に終わったと宣言された時点において、なおも12万の米軍がフィリピン民衆の抵抗を鎮圧しようと躍起になっていました。
ゲリラ鎮圧の過程で、米軍による残忍な虐殺や拷問が繰り返されました。そのときのことを、ある米兵は「白人は自分が人間であることを忘れているようだ。」と綴っています。
いつまでも抵抗が止まないことに業を煮やした米軍は、村や町ごと住民を強制的に移住する作戦を実行しました。フィリピン民衆のゲリラへの支援を物理的に絶つためです。
住民が去った町村は焼き払われ、移住させられた住民は一日中米兵の監視下に置かれました。そのため農地は荒廃し、家畜は死に絶え、多くの住民が餓死するという悲惨な状況を招きました。
この作戦を指揮したベル米将軍は、ルソン島全人口の六分の一が死んだと見積もっていますす。死者数に当てはめれば、およそ60万人です。
法制度の上でもアメリカは厳罰をもって反乱の封じ込めを図りました。それが暴動教唆法です。この法律により、たとえ平和的な手段であったとしても、フィリピン独立、あるいはアメリカからの分離を主張した者は誰でも死刑、もしくは長期刑に処せられました。
それでもなお、フィリピン人民衆の抵抗は続きました。1902年7月にルーズベルト大統領が反乱の終結を宣言した手前、それ以降の反乱軍は全て山賊行為と見なされました。米軍に捕らえられたゲリラ兵や将校たちは、山賊行為の罪で起訴され、強盗・強姦・誘拐・殺人など、あらゆる罪をかぶせられ、絞首台へと送られたのです。
ゲリラを統率した英雄として知られるマカリオ・L・サカイ将軍は、死刑台の上に立つと全身全霊を込めて、次のように叫んだと記録されています。
「死は誰の身にも遅かれ早かれ訪れる。だから私は全能なる神に穏やかに対面しよう。だが私は一言だけ諸氏に告げたい。われわれは、アメリカ人が非難したような山賊盗人の類ではなかった、と。われわれは、母国フィリピン防衛のためにたたかった革命軍の一員であった。さらば、祖国よ! 共和国に栄光あれ! 未来に独立のあらんことを! さらば! フィリピンに栄光を!」
『フィリピン民衆の歴史〈2〉往事再訪』レナト・コンスタンティーノ著(井村文化事業社)より引用
他にもフェリペ・サルバドールやパパ・イシオなど、フィリピン民衆の英雄は幾人もあげられます。そのすべてをここで紹介することはできませんが、彼らはサカイ将軍と同様に、母国フィリピンの独立を守るために、農民とともに米軍に必死で抗いました。
弱肉強食が当たり前の帝国主義の時代にあって「平和」を叫んだところで無意味です。自由と尊厳を保ち、独立を守りたければ、武器を取って侵略者と戦うよりありません。
米軍の強大な軍事力の前に膝を屈したものの、フィリピン人の多くが大義なきアメリカの侵略に精一杯抵抗したことは、フィリピン人の誇りとするところです。
5.アメリカによる植民地支配の実態
アメリカの主権のもとで行われた1907年の下院議員選挙においても、民意は示されました。これがフィリピン初の国政選挙です。この時の争点は、「独立」か「アメリカへの併合」かでした。
有権者は高額納税者に限られ、全人口の2パーセント以下に過ぎません。つまり有権者の大半は知識階層であり富裕層でした。それにもかかわらず、定数80人に対し、「即時、絶対、完全独立」を掲げた国民党が59の議席を占めました。
アメリカとの併合を掲げた連邦党は進歩党と改名して選挙に臨んだものの、わずか16議席に留まっています。「独立」派の圧勝でした。
アメリカの掲げた「慈しみ深い同化の宣言」に対する拒絶を、フィリピンの民意は明らかに示したといえるでしょう。
投票に参加できなかった一般民衆は独立派の勝利に熱狂し、革命のシンボルであったカティプナン旗を振り回しながら米国旗を踏みつけ、気勢を上げました。
これが初めての反米デモです。20世紀を通じて、反米デモは幾度もフィリピンで繰り返されました。
対してアメリカがフィリピン統治を行う上で主軸に据えたのは「教育」です。教育を通して親米ムードを高めることに、アメリカは心を砕きました。
占領初期においては米軍に抵抗する勢力を山賊とする戦術は、失敗に終わっています。当時のフィリピン民衆は米軍に抵抗するゲリラを民族の英雄として敬っていたからです。
しかし、歪曲した歴史教育を数十年続けることで、それは次第に真実へと塗り替えられていきました。
歴史家のコンスタンティーノは綴っています。
フィリピン人は、スペインとの間に民族革命をたたかったが、アメリカの新植民地主義者をただちに歓迎した、というのが永い間の一般的印象であり、これは今日も続いている。米国政府の戦術は、多様な抵抗集団を単なる山賊盗人の類として無視することであったが、これは占領時代の初期は成功しなかった。だがこの戦術は、後のフィリピン人世代にたいして歴史を歪めることになった。そのために、アメリカ式教育の産物と、先祖の革命史の重要な側面とがうまく分断されることになってしまった。この歴史の歪みの結果、フィリピン人が革命的伝統に言及する場合、かれらはスペイン植民地主義との闘争だけを想起する。
『フィリピン民衆の歴史〈2〉往事再訪』レナト・コンスタンティーノ著(井村文化事業社)より引用
歪められた歴史教育によって民族の真実の歴史を葬ることにアメリカは成功しました。アメリカに対してフィリピン民衆が頑強に抵抗した歴史は、いつしか忘れ去られ、フィリピン人の多くはアメリカに親近感を抱くようになりました。
さらにアメリカは言語による同化も実現しました。言葉は民族の魂です。固有の言語を奪い、英語教育を徹底したことは、アメリカの文化と価値観をフィリピン人に浸透させる上で大きな効力をもたらしました。
スペインはフィリピンにカトリックを残しましたが、アメリカはフィリピンに学校制度と英語教育を残しました。
もっともフィリピン人が英語に堪能なことは、現代においても多くの恩恵をフィリピンにもたらしていることもたしかです。
アメリカの推し進める同化政策のなかで、フィリピンの富裕層と知識階層は、スペイン統治時代から続く支配階級としての社会的地位を維持し続けました。アメリカとしても円滑な植民地支配を行う上で、協力的な彼らの存在は必要不可欠でした。
その一方で一般民衆の多くは小作農としての貧困状態から抜け出すことができないまま、豊かなアメリカに対する強いあこがれを募らせました。
6.老将軍リカルテの帰還
やがて、1916年8月にフィリピン自治法であるジョーンズ法が制定されたことで、立法と行政において大幅なフィリピン化が進められました。
アメリカがフィリピンを丸ごと植民地として抱える方針を改め、経済に的を絞って支配する道を選んだからです。その方がアメリカの経済人にとっても得でした。1934年にはフィリピン独立法が可決され、10年後にあたる1946年のフィリピン独立が承認されました。
しかし、フィリピンにとっての受難はまだ続きます。アメリカと開戦した日本軍が、米軍の居座るフィリピンに押し寄せ、1942年5月に在比米極東軍を降伏に追い込んだためです。
フィリピンは日本軍の占領するところとなりました。その際、日本軍とともに祖国に凱旋したのが、かつてフィリピン革命の英雄の一人であったリカルテ将軍です。
リカルテは米軍による追求の手を逃れて日本に亡命していました。フィリピンを侵略した米軍を追い出し、祖国フィリピンを独立に導くことは、老将軍にとっての見果てぬ夢でした。
リカルテの帰国は一部のフィリピン人に歓迎されたものの、アメリカの同化政策によってすでに親米の空気に満たされていたフィリピン人にとっては、すでに過去の人になり果てていました。
第二次大戦の終わり頃、日本政府はリカルテにフィリピンからの脱出を勧めましたが、リカルテはこれを拒否しています。
「私はフィリピン人です。米比戦争で降伏していない、唯一の将軍です。わしは祖国に踏みとどまって、最後の一人になるまで、アメリカと戦う覚悟です」
リカルテは山下兵団とともに米軍と戦い続け、高齢でもあったため、その最中に病に倒れました。その遺骨は東京の小平霊園を経て、現在はマニラの英雄墓地に移されています。老将軍の名誉は、ようやく回復されたといえるでしょう。横浜の山下公園にはリカルテ将軍記念碑が建立されています。
7.日本軍政下の抵抗
日本のフィリピン占領はフィリピンをアメリカの植民地から解放する面があったものの、すでにアメリカによって独立を約束されていたフィリピン人にとっては、「頼んでもいないのに勝手にやって来て全てをぶち壊した日本軍」という負のイメージが大きく、日本軍への敵対心が消えることはありませんでした。
経済のすべてをアメリカに頼っていたフィリピンでは、日本軍によってアメリカとの繋がりが強制的に絶たれたことにより、たちまち食糧や物資が底をつき、民衆の暮らしは悲惨の度合いを深めていくことになります。さらに大国アメリカを相手に戦争を継続している日本には、フィリピン人のために善政を敷く余裕などありません。
食糧を現地での調達に頼っていた日本軍は、フィリピンの民衆から徴収するよりなく、ただでさえ食糧不足に苦しむフィリピン人から怨嗟(えんさ)の声を浴びせられることになりました。
フィリピン人の不満は次第に高まり、多くの若者がゲリラ兵となって日本軍に抵抗しました。米軍がゲリラに武器や弾薬を渡し、フィリピンの農村はゲリラ兵をかくまったため、ゲリラの討伐は難渋を極めました。
1943年10月にはホセ・ラウレルを大統領とするフィリピン第二共和国の独立を日本は認めたものの、民心を引き戻すことは適いませんでした。
やがて、フィリピンを占領していた日本軍を追い出すためにマッカーサーが凱旋すると、フィリピンの民衆は喝采を送り、米軍を歓迎しました。
日米両軍がフィリピンを舞台に激しい戦いを繰り広げたことにより、フィリピン全土は焦土と化し、およそ111万のフィリピン人が犠牲となりました。フィリピン人にとっては許し難い災厄であったことは間違いありません。
ただし、フィリピン人に多くの犠牲者が出た背景にはマニラへの米軍による無差別爆撃のように、日本軍ばかりではなく米軍の側にも非があったことは指摘しておく必要があるでしょう。
フィリピンに再びアメリカの星条旗がたなびき、フィリピン人の大半はマッカーサーを日本軍政下の圧政から解放してくれた英雄として讃えました。
8.フィリピン独立
再びアメリカの植民地となったフィリピンは、アメリカとのかねてからの約束通り1946年7月4日に主権を回復し、独立しました。現代に続く、フィリピン第三共和国の誕生です。
長い抵抗の末にようやく独立を実現したフィリピンですが、この独立は自らの力で勝ち取った独立ではなく、あくまでアメリカに与えられた独立です。
そのため、形の上では独立を果たしたものの、フィリピンはアメリカの支配を完全に断ち切ることはできませんでした。フィリピンの戦後史はアメリカによる経済的支配を色濃く受け続けることになります。
独立国となっても植民地であるかの如き経済関係を強制されたことは、フィリピン経済が長期低迷する直接の原因となりました。
スペインの統治期に生まれた支配する側とされる側という階級の二極化はアメリカ統治期にもそのまま継続され、独立後も温存されました。そのため現在の議員の大半を占めるのは、スペイン統治期やアメリカ統治期から続く支配階級です。すなわち富裕層であり、知識階層です。彼らは自分たちの既得権益を手放そうとはしません。
日本をはじめとする周辺諸国が農地改革を推し進めたことに対して、フィリピンでは現在も農地解放が為されていない現実が重くのしかかっています。
いつまで経っても土地をもてない貧農が多く存在するのは、農地解放が為されていないからです。そのことが深刻な経済格差をフィリピンにもたらしています。
セブにしてもマニラにしても、メインストリートから少し外れただけで貧困地区を目の当たりにできます。これまでたどってきたように、フィリピンに横たわる貧困問題の大きな部分は、フィリピンの歴史に根差しています。
それはスペインやアメリカ・日本などの大国の思惑に翻弄され続けた歴史でもあります。
その一方、フィリピンの民衆は民族的な抵抗精神を失うことなく、カトリックの圧政に対して、アメリカの軍事侵略に対して、日本軍政の占領に対して、常に戦い続けました。
抵抗の五百年こそが、フィリピン人の誇りであることを忘れるべきではないでしょう。
フィリピンを訪れたならば、ぜひともその「抵抗の歴史」を肌身で感じてみてください。フィリピン人がたどった悲しみや苦しみ、希望の物語を、あなたもきっと感じ取れることでしょう。
参考書籍『フィリピン民衆の歴史 1 往事再訪 1』レナト・コンスタンティーノ著(井村文化事業社)
『フィリピン民衆の歴史〈2〉往事再訪2』レナト・コンスタンティーノ著(井村文化事業社)
『フィリピン民衆の歴史〈3〉ひきつづく過去』レナト・コンスタンティーノ著(井村文化事業社)
『フィリピン民衆の歴史 4 ひきつづく過去 2』レナト・コンスタンティーノ著(井村文化事業社)
『物語 フィリピンの歴史―「盗まれた楽園」と抵抗の500年』鈴木静夫著(中央公論新社)
『キリスト教・組織宗教批判 500年の系譜』河野和男著(明石書店)
『フィリピン革命とカトリシズム』池端雪浦著(勁草書房)
『海域イスラーム社会の歴史 ミンダナオ・エスノヒストリー』早瀬晋三著(岩波書店)
『未完のフィリピン革命と植民地化』早瀬晋三著(山川出版社)
『ホセ・リサール 反逆・暴力・革命 -エル・フィリブスリスモ』ホセ・リサール著(井村文化事業社 勁草書房)
『見果てぬ祖国』ホセ・リサール著(潮出版社)
『ホセ・リサールの生涯―フィリピンの近代と文学の先覚者』安井祐一著(芸林書房)
『ホセ・リサールと日本』木村毅著(アポロン社)
『ホセ・リサール 1話~10話』今野涼, 松井孝浩著(TORICO)
『マニラ航路のガレオン船―フィリピンの征服と太平洋』伊東章著(鳥影社)
『歴史と英雄 フィリピン革命百年とポストコロニアル』永野善子著(御茶の水書房)
『キリスト教受難詩と革命』レイナルド・C. イレート著(法政大学出版局)
『フィリピン歴史研究と植民地言説』レイナルド・C. イレート, フロロ・C. キブイェン , ビセンテ・L. ラファエル著(めこん)
『現代フィリピンを知るための61章【第2版】』大野拓司, 寺田勇文編(明石書店)
『日の丸が島々を席巻した日々 フィリピン人の記憶と省察』レナト・コンスタンティーノ著(柘植書房新社)