フィリピンの国民的英雄ホセ・リサールが日本との親善を望んだという事実は、戦後のフィリピンを覆っていた対日憎悪を赦しへと変化させ、今日に繋がる日比友好の礎となったことを前回の記事にて紹介しました。
ホセ・リサールと並び日比友好の架け橋となった「布引丸(ぬのびきまる)」について、今回は追いかけてみます。
「布引丸」とは、アメリカがフィリピン侵略のために起こした米比戦争において、フィリピンを支援するために武器弾薬と義勇兵を乗せて、日本からマニラへ向けて出港した船のことです。
米比戦争では、あらゆる国家がアメリカに味方したため、孤立無援のなかフィリピンは窮地に立たされました。そんなフィリピンを助けようと日本の民間人が中心となって動き、布引丸を派遣したという事実は、多くのフィリピン人に感動を与えました。
布引丸には、どのような秘話が隠されているのでしょうか?
ホセ・リサールと布引丸が繋ぐ日比友好の絆
第2部 布引丸編
1.世界から無視された独立国の叫び
ホセ・リサールがフィリピン人の心に灯したフィリピン独立のための戦いの炎は、リサールの処刑によって一層燃え上がり、フィリピン全土を武力革命で覆いました。
フィリピン革命には2つのステージがあります。
一つ目のステージは、スペインからの独立を目指したスペイン軍との戦いです。
アメリカの支援を得ながら、フィリピン革命勢力は330年にわたるスペイン統治に終止符を打ち、フィリピン独立を宣言することに成功しました。ところが今度はアメリカの裏切りにより、革命は第2ステージへと移行します。
フィリピンの独立を守るためにはアメリカによる侵略を阻止するよりなく、米比戦争が勃発しました。
フィリピンが独立国であることを、フィリピン革命軍は必死になって各国に訴えました。アメリカ・イギリス・フランス・日本などに特使を派遣し、独立を認めてくれるようにと働きかけましたが、植民地政策を続ける欧米各国がフィリピンの切なる願いに耳を貸すはずもありません。
革命軍にとっての唯一の希望は、日本でした。日清戦争に勝利し、アジアで頭角を現しつつあった日本であれば、白人の侵略に抗うフィリピンを助けてくれるに違いないと、望みをつないだのです。
救世主と期待したアメリカに裏切られたことにより、革命軍には日本しか頼る国がない状況でした。
しかし、日本政府はフィリピンに救済の手を伸ばそうとはしませんでした。
明治以降、日本のなかには大アジア主義が根を下ろし、白人のアジア侵略に対してアジアの諸民族が団結することで白人支配を覆し、アジア人によるアジア統治を目指そうとする機運が高まっていました。
その際、必要となるのは力です。アジアを支配する欧米の軍と戦い、これを力尽くで追い出さない限り、アジア諸国の独立は到底望めない状況でした。
日清戦争には勝利したものの、当時の日本には欧米諸国と渡り合えるだけの力が、まだありません。当時の日本にとっての最大の課題は、実質上、日本を欧米の半植民地の状態に貶めている不平等条約を解消することでした。
自国の不平等条約さえ解消できない状況下において、フィリピンを助ける余裕など日本政府にはなかったのです。
日本政府はアメリカと友好関係を維持することを優先し、革命軍によるフィリピン独立を認めませんでした。
結局のところ、革命軍を支援する国は一つもなく、アメリカの強大な軍事力の前に革命軍は膝を屈することになります。
それでも革命軍のなかには、最期まで消えることなく語り継がれた希望がありました。それは、次の一言です。
「日本が助けてくれる。日本軍がもうすぐ来る」
ゲリラとなって山に籠もった革命軍は、日本軍がきっと駆けつけ、米軍を追い出してくれるに違いないと、最期まであきらめることなく希望を繋いだと言われています。
その希望が適うことはなかったものの、なぜ革命軍はそれほどまで日本軍に期待を寄せたのでしょうか?
この謎を解く鍵は、両国のかかわった歴史のなかに埋もれています。
2.なぜ革命軍は日本軍が助けてくれると信じたのか
日本とフィリピンの関わりは古く、スペインがフィリピンを植民地にする以前から交易が行われていました。
貿易に従事する多くの日本人が東南アジアに移住し、アジア各地に日本人町が造られました。東南アジア初の日本人町が誕生したのは、フィリピンのルソン島です。
フィリピンがスペインの侵略を受け植民地支配されてからは、フィリピンに居座るスペイン軍に対し、日本は幾度か討伐のための軍を差し向けようとしました。
その先駆けとなったのが、1587年に起きたスペイン軍に対する反乱です。この反乱は、マニラのすぐ北にあるトンドから発祥したことから「トンドの謀議」と呼ばれています。
「トンドの謀議」はルソン島の中部から北部にかけて結成された秘密結社によって計画された、フィリピンで初となるスペイン軍に対する反乱です。
この謀議には日本も深く関わっています。平戸の松浦藩から貿易船の船長が派遣され、日本から武器と兵士を送り込むことで、フィリピン人と日本人が協力し合ってスペイン軍を追い出そうと図ったのです。
残念ながら「トンドの謀議」は密告によって事前に発覚し、失敗に終わりました。日本人船長をはじめとする主謀者はスペイン軍によって捕らえられ、処刑されています。
それでもフィリピン初となるスペイン軍への反乱に日本軍が加担していたことは伝承として残り、「日本軍がやがて来る」との流言が、スペイン統治に苦しむフィリピン人のなかに神話のように語り継がれることになります。
なお、「トンドの謀議」に関する英文の資料によると、この陰謀には堺の貿易商である呂宋助左衛門が加わっていたと記されています。呂宋助左衛門といえばNHK大河ドラマ「黄金の日々」の主人公となった人物だけに、歴史が好きな方にとっては胸が弾むことでしょう。
「トンドの謀議」がスペイン側に発覚したのは1588年10月ですが、その数日前には日本から日本兵と火縄銃などの武器を乗せた船がマニラ湾に迫っていたとされています。発覚がもう数日遅れてさえいれば、もしかすると「トンドの謀議」は成功していたのかもしれません。
その後、豊臣秀吉の統治時代にスペインやポルトガルの侵略はキリスト教の宣教師による布教から始まることが暴露されるに至り、日本では禁教令が徹底されます。フィリピン総督がこれに抗議すると、秀吉はフィリピンのスペイン軍を討つべくルソン島征服を計画し、実行に移そうとしました。
秀吉の病死により計画は中止となりましたが、フィリピンのスペイン軍が一時は日本軍の襲来を恐れパニックに陥ったことが歴史書に記されています。
さらに徳川時代にもフィリピンのスペイン軍討伐が計画されています。その原因となったのもキリスト教の布教でした。
スペインの侵略を恐れた徳川幕府においてもキリスト教の布教は禁止され、禁教令は一段と強化されました。高山右近や内藤忠俊などのキリシタン大名がマニラに追放されています。日本から逃れてきたキリスト教の信者によって、マニラの日本人は三千人まで膨れあがったとされています。
三代将軍徳川家光は、ことに禁教令の徹底を図りました。それでも信者が増える状況に危機感を抱いた島原城主の松倉重政は、「根本を叩くことが肝要」と主張し、宣教師を日本に送り込んでいるフィリピンに軍を差し向け、スペイン人を根こそぎ追い払うことを幕府に具申しました。
これが認められ、軍船二隻とともに遠征隊を編成することになり、重政は準備に追われました。ところが重政の急死により、またもスペイン討伐は中止となります。
スペインは日本の侵略を極度に恐れ、日本人移民を郊外に強制移住させるなど、厳しい監視下に置きました。
しかし、スペインが警戒すればするほど、フィリピン人が期待に胸を膨らませるのは当然です。
日本がフィリピンのスペイン軍討伐のための軍を起こそうとした事実は、フィリピン人にも漏れ伝わりました。日本軍の襲来に合わせ、フィリピン人の有志が武装蜂起する手はずになっていたため、計画が頓挫したとはいえ、伝承だけは残ったのです。
こうして、いつかは日本軍がやって来てスペイン軍を追い出してくれるに違いないとの伝承が、フィリピン人の間に数世紀にわたって語り継がれ、フィリピン革命の際にも革命軍の心の支えとなりました。
3.ついに日本軍が来た! 革命前夜に高まる期待
フィリピン革命が勃発する直前にあたる1896(明治29)年5月、マニラ市内は騒然となりました。
「ついに日本軍がやって来る、日本の軍艦が来る」との情報が、革命軍の母体である秘密結社カティプナンからもたらされ、市内に広がったためです。
しかし、期待に胸を膨らませて駆けつけたフィリピンの群衆が、実際にマニラに入港した日本の軍艦を見たとき、期待はたちまち失望へと変わりました。
マニラに入港したのは、ただ一隻の軍艦「金剛」のみだったからです。しかも金剛は二十年以上も前に造られた旧式の戦艦に過ぎず、港に停泊しているスペイン軍の巡洋艦とは比べものにならないほど見劣りしました。
軍艦「金剛」
それでも港には多くのフィリピン人が押し寄せ、日本の軍艦を歓迎しました。このことは日本でも大きく取り上げられ、「フィリピン人民、日本海軍『金剛』を大歓迎」と報じています。
金剛艦長の世良田亮らはカティプナン首脳陣に招かれ会談を行いました。その際、カティプナン総裁のアンドレス・ボニファシオやエミリオ・ハシント書記長らが顔を揃え、日本政府による独立支援を懇願しています。
「フィリピン人民が独立と自由を獲得するためには、日本の支援が必要です。かってフランスがアメリカの独立を助けたように、フィリピンの独立をどうか助けてください」
もとより一軍艦の艦長に過ぎない世良田に答えられるはずもありません。黙って話を聞いていると、ボリファシオが封に入った書類を差し出してきました。
何気なくそれを受け取ろうとした世良田は、通訳から「天皇陛下への嘆願書だそうです」と聞き、あわてて手を引っ込めました。
さすがに天皇陛下への嘆願書を受け取る権限は、世良田にはありません。日本語訳の写しだけを受け取り、上官に渡すと約束することが精一杯でした。
金剛がマニラを去った3ヶ月後、カティプナンはついに武装蜂起し、フィリピン革命の幕が切って落とされました。
マニラに立ち寄っただけの金剛が予期せぬ大歓迎を受け、日本政府の支援を懇願され、天皇への嘆願書を渡されるほどに、革命軍は日本に大きな期待を寄せていたのです。
なお、金剛艦長の世良田が日本から武器と兵士を調達することを約束し、それゆえにカティプナンが武装蜂起したとする史書もあります。ただし、裏付けに乏しく、真実ではないように思われます。
4.幻に終わった日本軍による革命軍支援
先にもふれましたが当時の日本の国力はまだ低く、日本政府としては欧米列強との対立はなんとしても避ける必要がありました。フィリピンの人民に同情はしても、積極的に支援するわけにはいきません。
しかし、政府とは別の意図で日本陸軍はフィリピン革命に大きな関心を寄せていました。北方には強国ロシアがいるだけに、おいそれと北進はできません。そうなると北は守りに徹し、南に活路を見出すよりありません。日清戦争後は「北守南進論」が声高に主張されるようになりました。
「南進」の際に重要となってくるのはフィリピンです。フィリピンが欧米列強に占領されてしまえば、日本の南門が閉ざされることになるからです。フィリピンの独立は、日本の国益にも適うことでした。
フィリピン革命が勃発すると、台湾総督府は情報収集のための要員をマニラに派遣します。要員として選ばれたのは、台湾鉄道隊に勤務していた坂本志魯雄大尉です。
出発前に坂本は、台湾総督の乃木希典のもとを訪ねています。乃木はこの後、日露戦争にてロシア軍の要衝である203高地を陥落させ、一躍その名を世界に轟(とどろ)かせることになる将軍です。
陸軍がフィリピン革命軍を支援するための下調べとして情報収集を行う要員を派遣することは、日本政府の方針に反しているだけに、あくまで秘密工作の一環として行われました。いわゆる非合法なスパイ活動です。そのため、坂本の派遣に関して表向きは陸軍の関与するところではなく、坂本には身分の保障もなければ身の安全も約束されていません。
乃木は坂本への餞別(せんべつ)として、正装した自分の写真に署名を書き入れて渡しました。万が一にもなにか事があったときには、乃木の署名入りの写真を見せることで役立つかもしれないからです。陸軍としての正式な任務としては派遣できないものの、乃木のせめてもの気遣いでした。
坂本はそんな乃木の厚情に対して、目を赤くはらしたと伝えられています。
坂本は1903年6月にマニラを去るまで、6年余にわたってフィリピンの情勢を台湾総督府に伝えました。米軍が次第にフィリピンを実効支配していく様を、坂本からの秘密電によって陸軍は正確につかんでいました。
アメリカに侵略されるフィリピンの実態を目の当たりにした坂本は義憤に耐えることができず、日本軍が革命軍を助けてフィリピン独立を実現させるべきだと訴えました。そのための大胆な作戦を構想し、台湾総督府の立見参謀長に提言しています。
その作戦とは、フィリピン人に日本領事館を焼き打ちさせ、これを口実に日本軍が米比戦争に干渉するというものです。完全なる謀略ですが、実際に中国大陸においては、この手の謀略活動が盛んに行われていたのも事実です。
「陸戦隊一大隊を私に与えてくれるならば、貴官が立食している間にもマニラ城を落としてみせます」、と坂本は食い下がりました。
台湾総督府内では坂本を支持する声もあり、東京の参謀本部に決定権が委ねられました。その結果、坂本の構想は否認されます。
坂本が受け取ったのは「南洋経営は理想にして着手すべきときにあらず」との返電でした。
坂本が肩を落としたことは、想像に難くありません。
それでも坂本はあきらめることができず、日本から武器を搬送することで革命軍を支援しようと努力を重ねました。その地道な努力が稔り、「布引丸」へと繋がったのです。
5.武器の調達と布引丸
革命軍には悲しいほどに武器弾薬が不足していました。革命軍にとって最大の課題は、武器弾薬の調達です。革命軍を支援してくれる国はひとつもなかっただけに、供給源は皆無です。不足が続くのはやむを得ないことでした。
1898(明治31)年6月、アギナルド大統領の密命を受け、マリアノ・ポンセは武器を購入するために日本を訪れました。
ポンセはホセ・リサールの親友とされる人物です。リサールが日本滞在中にも、ポンセに対して手紙を綴っています。リサールが敬愛した日本であれば武器の調達ができるに違いないと、ポンセは期待したことでしょう。武器弾薬の調達こそが革命の成否を握るだけに、ポンセとしても必死です。
ポンセがアギナルドから受けた密命は2つありました。ひとつは武器弾薬の調達、もうひとつは日本軍将校の受け入れです。日本軍将校を軍事顧問としてフィリピンに派遣する構想は、もともとは日本陸軍の福島安正参謀本部第二部長から発案されたものです。
日本陸軍には純粋に革命軍を助けようとする思惑の他に、フィリピン独立後に日本軍の影響力を強めたいとする思惑がありました。
日本を警戒し、はじめは軍事顧問の受け入れを拒否していたアギナルドですが、もはや日本以外に武器の調達が見込める国はないだけに、日本陸軍の要請に従って日本軍将校を軍事顧問として受け入れることで、武器の円滑な調達を図ったのです。
ポンセの日本滞在中に武器調達に協力したのが、宮崎滔天(とうてん)や中村弥六、平山周ら民間人です。日本政府が外交上の配慮からアメリカを支援している以上、政府関係者や軍関係者が表立って革命軍の武器調達を手伝えるはずもなく、あくまで民間人の手に委ねられたのです。
なお後に総理となり、五・一五事件で暗殺される犬養毅もフィリピン独立を支援し、陰からポンセに協力した一人です。
犬養はアギナルドに日本刀を献上し、手紙に次のように記しています。
「犬養毅は大統領アギナルド閣下に対し同情を有するとともに欽仰(きんぎょう=仰ぎ慕うこと)を持している。その証左として日本刀一振を贈呈する光栄を有する。大統領閣下が堂々と支持せらるる大目的とかつ勇敢に遂行せらるる政策は、いやしくも東洋の安寧(あんねい)を希求する者は何人も賞賛するところである。余もこの理由によって衷心から閣下の成功を祈るものである。」
こうして多くの人々の努力により様々な偽装が施され、陸軍は「秘密の取り扱い」を条件に弾薬五百万発を払い下げるに至ります。払い下げられたのは弾薬のみです。なぜモーゼル銃が含まれていないのか、その理由は、よくわかっていません。外務省が強く抗議をしたからとも、代金が不足していたからとも言われています。
弾薬をフィリピンまで密輸するために、三井物産が売りに出している老朽船を買い受けることになりました。しかし、代金が払えず、金策に奔走することになります。
このとき、協力してくれたのが日本に亡命していた孫文です。「中国革命の父」と呼ばれる孫文は、ともに革命を志すことにおいてポンセと相通じるものがあったのでしょう。孫文は華僑の仲間に頼み込み、資金をかき集めました。
それでも不足している分は中村が郷里の山を売って捻出し、なんとか船の手配がつきました。これが「布引丸」です。
6.布引丸の沈没
燃料をどこから入手すべきかが一苦労でしたが、なんとか燃料の手当をつけ、五百万発の弾薬と義勇兵とを乗せて布引丸は、1899(明治32)年7月12日に神戸港を離れ、税関手続きのために長崎港に向かいました。
密輸に伴う最大の難関は、税関です。すでにアメリカからは日本の外務省に対し、「フィリピン群島の治安が完全に回復するまで、武器弾薬等の輸出は厳重に取り締まってほしい」との要請が行われていました。
中村らは、もし税関でもめるようなことがあれば、税関を振り切ってでも出航する手はずを整えていました。
しかし、そんな心配も杞憂(きゆう)に終わります。長崎税関が特別に徹夜で輸出手続きを取りはからってくれたため、すんなりと税関を通り抜けることができたのです。
密輸にもかかわらず税関をスムーズに通り抜けられた背景については不明ですが、なんらかの力が働いたことは間違いないでしょう。
一夜明けた7月19日、この日の天気は悪くなかったものの、波が高く風がかなり強いため、長崎港には出港の一時停止を求める赤い旗がはためいていました。
中村らは船長室に集まり、出航するか否かをめぐる会議を行いました。海が少々荒れているため出航には多少の危険が伴います。本来であれば、出航を見合わせた方が安全です。されど、このまま港に留まっていては積荷が弾薬だと露見するのも時間の問題でした。
中村らは港に留まるよりも出ていった方が安全と判断し、この日の午前9時に長崎港を後にしました。
結果的にこの判断は、悲劇を招きます。海が荒れていたのは7月13日にルソン島の東の海上に発生した小さな低気圧の影響でした。この低気圧は北上を続けるうちに強い大型台風に発達し、21日の朝に中国の舟山島付近に達すると東北東に転じ、日本列島を襲ったのです。
大型台風の進路のなかに、布引丸は自ら飛び込んだも同然でした。運命の21日、帆柱はギィギィと悲鳴を上げ、船体は右へ左へと大きく傾き、ついに舵が壊れ航行不能に陥ったかと思いきや、突風で貨物室の扉が飛ばされ、海水が一斉に雪崩れ込んできました。
もはやこれまでと観念した石川船長は乗組員全員を三艘の救命ボートに乗せ、布引丸から脱出しました。五百万発の弾薬は布引丸とともに、海中へと沈んだのです。
三艘の救命ボートのうちの二艘は保護され、21人は無事に日本に帰り着いたものの、石川船長を乗せた救命ボートは、ついに発見されませんでした。船長以下、フィリピン革命に参戦しようとした志士19名が犠牲となっています。
布引丸の沈没により、フィリピン革命軍に武器弾薬を送り込み、軍人を含む日本人志士が革命軍を助ける計画は、そのすべてが水泡に帰しました。関係者の落胆ぶりは、さぞかし深かったに違いありません。
それでも当時の多くのフィリピン人のなかに、日本から武器弾薬と志士を乗せた布引丸という船が出航したという事実は残りました。それは日本政府による公式な支援ではなかったものの、日本の民間人を通して支援が為されたという恩義は、日本とフィリピンの歴史のなかに、しっかりと刻まれたのです。
「布引丸」が日比友好の架け橋となったことは、たしかです。
7.布引丸沈没が日本にもたらしたもの
「布引丸」による武器弾薬の調達が不発に終わったことは、革命軍にとって痛恨事でした。武器弾薬を入手できなかった革命軍は、この後、米軍の圧倒的な軍事力の前に降伏を余儀なくされます。
ですが、日本にとって「布引丸」の沈没が痛恨事であったのかといえば、そうともいえない背景があります。
実は布引丸の出航前に、日本軍人5人が先遣(せんけん)隊としてマニラに向かっています。彼らは革命軍の軍事顧問として対米戦争を指導する手はずになっていました。
ところが、その多くが米軍に捕らえられ、行動をともにしていたフィリピン人がすべてを自白したため、布引丸の一件はアメリカの知るところとなりました。犬養毅がアギナルドに贈呈した日本刀も押収され、日本から武器弾薬を革命軍に送るために多くの民間人が協力したことが露呈してしまったのです。
アメリカは厳重な抗議を日本の外務省に入れています。そのため、布引丸の主謀者だった中村らは官憲によって執拗(しつよう)な監視を受けることになりました。
未遂に終わったため、布引丸の一件はそれ以上大きな問題にはならなかったものの、もし、布引丸が沈没することなく革命軍に無事に武器弾薬が渡り、日本人志士が革命軍に合流してともに米軍を相手に戦っていたならば、極めて大きな国際問題に発展したであろうことは間違いありません。
もとより「政府の与り知らぬところで民間人が勝手にやったこと」で済ませられる問題ではありません。
アメリカのメディアは一斉に「日本の背信行為」を批判したことでしょう。当時においてアメリカ国内の対日感情が悪化することは、日本としては何としても避けたいことでした。
大国ロシアとの対立が深まり日露戦争が危惧されるなか、日英同盟によってイギリスの支援を得た日本は、さらにアメリカの支援をも必要としていました。
実際、日本がロシアと戦争を起こせたのは、イギリスとアメリカから金銭的な支援を受けたからこそです。まだ貧しかった日本には、ロシアと戦うだけの資金が不足していました。
資金が底をつけば、いくら戦いたくても戦えません。そうなればロシアが求めるまま、朝鮮半島から軍を引くより日本に選択肢はなかったことでしょう。
しかし、アメリカのユダヤ資本が中心となって日本の国債を大量に引き受けてくれたからこそ、はじめて日露戦争に踏み切ることができたのです。
もし布引丸が成功し、米国内の反日感情が高まっていたならば、アメリカが日本の国債を引き受けることもなかったはずです。そうなれば日露戦争は起こせなかったことになり、日本の連合艦隊がバルチック艦隊を全滅させた日本海海戦も行われなかったことになります。
その意味では布引丸が海の藻屑と消えたことが、日露戦争での日本の勝利につながったともいえそうです。なんとも皮肉な結果ですが、歴史が証明する冷徹な事実です。
アメリカは幾度も布引丸についての調査を日本政府に問い合わせましたが、政府は布引丸が海中に没したことを逆手にとることで「事実無根」と繰り返し、外交問題に発展することを阻みました。
沈没した以上、布引丸の行き先についての確実な証拠はありません。証人による自白だけでは、決定打に欠けました。
結局のところ、布引丸は曖昧なまま幕引きとなりました。日本政府としては胸をなで下ろしたことでしょう。
表向きの正史はともかく、布引丸に軍や政府が実際にどの程度関与したのかは、歴史の謎です。日本の国益上、フィリピンの民衆を見殺しにせざるを得なかったものの、同じアジアの民としての同胞意識に基づけば、抑圧される一方のフィリピン人に同情し、抑えがたい義憤を感じた日本人は、数多くいました。
そうした日本人の思いが「布引丸」となり、フィリピン革命の一助として救いの手を伸ばしたといえます。
もっとも軍に関しては単に義侠心というよりも、将来の南進への布石としてフィリピン独立を図った面が強いこともたしかです。
水面下の思惑はともあれ、それでも日本がフィリピン独立のために革命軍を支援しようとした事実は変わりません。
日本とフィリピンを結んだ友好のシンボルとして、布引丸をめぐる物語は、これからも永遠に語り継がれていくことでしょう。