フィリピンがかつてアメリカの植民地であったことは、多くの人が知識として知っています。そもそもフィリピン人が英語に堪能なのは、アメリカによって英語教育を強制されたためです。
それでも今となっては、英語を流暢に話せることはフィリピン人が生活をする上で大きな武器になっています。海外就労者がずば抜けて多いのは、フィリピン人の英語力の高さが評価されているからこそです。
抵抗の歴史を経ながらもキリスト教がフィリピン人の暮らしのなかに溶け込んでいるように、反米から始まった米比関係もまた、今となっては親米へと傾いています。
セブやマニラのストリートを歩いてみれば、アメリカナイズされたフィリピンをあちらこちらで感じられることでしょう。
しかし、スペインからの独立を自力で成し遂げたフィリピンをアメリカが侵略して踏みにじった事実は、けして消えません。
今日では記憶の彼方に押し込められている米比戦争に至る歴史を、今回はたどってみます。
まずは前回の続きとして、革命のリーダーとなったアギナルドがフィリピンの民衆を裏切り、スペインに降伏するところから始めましょう。
Vol.10 アメリカに押し潰された独立の夢
1.アギナルドの裏切り
カビタ全州をスペイン軍に奪還されたアギナルドは、バタンガス州タリサイへ逃げ込みました。アギナルドは革命軍にゲリラ戦や待ち伏せ攻撃へと戦術を移行することを指示し、「われわれがかくも熱烈に希求する目的」として、修道士の追放と修道会の奪った土地を町村もしくは元の所有者へ返すこと、フィリピン人僧侶とスペイン人僧侶の平等化などをスペイン当局に突きつけました。
これらは一見すると民衆のために為した要求にも思えますが、ボニファシオが革命を起こす目的として掲げていたスペインからの分離、独立が消えていることに注意が必要です。
アギナルドが要求したことはすべて、スペインによるフィリピンの植民地支配が続くことを前提にしています。ボニファシオからアギナルドへと革命の指導者が移り変わったことにより、革命の目的そのものも大きく変わることになったのです。
アギナルドの変節を見たスペイン総督は、革命軍と和平を結ぶべく工作を開始します。はじめは「フィリピンの独立を承認しない限り、和平はあり得ない」と突っぱねていたアギナルドですが、8月9日に、「革命軍は和平の代償として300万ペソを要求、修道士や専制から解放され、コルテス(議会)への代表派遣を承認すること」を条件に、交渉のテーブルに着くことを表明しました。
しかし、アギナルドが真に求めたことは何であったのかは、スペインとの駆け引きを通して次第に明らかになっていきます。アギナルドがもっともこだわったのは金銭の額と受け渡し方法であり、自分たちの身の安全の確保でした。
ここに至ってアギナルドの目的は明らかです。
ボニファシオは純粋な愛国主義に基づき市民革命を起こしましたが、アギナルドは民衆が心底から望んだフィリピン独立を放棄し、市民の権利と引き換えにスペインから莫大な金銭を引き出すとともに、自らの保身を優先しました。これではフィリピン市民の権利をスペインに売り渡したも同然です。
アギナルドの売国行為に多くのフィリピン人は怒りを募らせましたが、革命の音頭取りを一般民衆ではなく中産階級に任せていた以上、革命が中折れするのはやむを得ないことでした。
フィリピンの一般民衆には財産がないだけに、失ってこわいものなどありません。されど中産階級には守るべき財産があり、既得権益があるだけに、革命の帰趨(きすう)よりも彼らの財産と地位の保全のほうが大切だったのです。
交渉は12月14日にまとまりました。金銭額が最大の争点となったことを見透かした総督により、補償金は80万ペソに減額されています。当初の要求に上げられていた修道士や修道会領の問題や、国内政治の改革は、すっかり忘れ去られていました。そのことは交渉が専ら補償金の額をめぐる駆け引きに終始したことを物語っています。
補償金は分割して支払われることになり、最初の40万ペソを受け取ったアギナルドらは、リンガエン湾から香港に向かいました。
なお、後にアギナルドは、この「40万ペソは私だけに帰属する」と述べ、あくまで個人財産であると主張することで周囲の反感を買うことになります。
乗船直前、アギナルドは集まった群衆に対して、自ら音頭をとり「スペイン万歳」と叫びました。さらに「フィリピン、永遠にスペインのもの」と唱和したことが当時の新聞に記されています。
新政府の大統領に選ばれ、革命の先頭に立っていたアギナルドに、「フィリピンは永遠にスペインのもの」と祝福されたのでは、フィリピンの一般民衆としては複雑な心境にならざるを得ません。
去り際にアギナルドは記者に対して「自分のスペインに対する忠誠心を本国に伝えてくれ」と頼んだとされています。
さらにアギナルドは最後に、次の言葉を残しています。
われわれが戦闘を開始してから、正しい道をそれてしまったことを認める。それだけではない。今日われわれは誤ちを認めて和を請うた。自分に従ってきた人びと全員とともに私は講和を受入れる。これを認めない人間を、私はビアクナバトで署名した布告で無法者と非難した。
『フィリピン民衆の歴史〈2〉往事再訪』レナト・コンスタンティーノ著(井村文化事業社)より引用
アギナルドは革命軍全軍に対してスペイン軍への抵抗を止めるように呼びかけ、従わない者を山賊とみなすと警告しました。
しかし、革命軍として立ち上がった民衆に対し、もはやアギナルドの言葉は説得力をもちませんでした。フィリピンの民衆はアギナルドの呼びかけを無視し、スペインからの解放を目指して各地で蜂起しました。アギナルドは補償金と引き換えに降伏したものの、民衆は降伏を拒み、あくまで戦い抜く意志を示したのです。
革命の指導者はいなくなっても、独立を求めるフィリピン民衆の声は、フィリピン全土にこだましました。
2.アギナルドの帰還
仲間とともに香港へ逃れ、革命の表舞台から立ち去ったかのように見えたアギナルドですが、民衆がなおも革命を継続したことにより、歴史は再び彼をフィリピンに呼び戻します。
その仲介役となったのはアメリカでした。1890年、ウーンデッド・ニーの虐殺によりインディアンの抵抗を封殺したアメリカは、欧州列強に倣(なら)い膨張政策を推し進めました。要するに他国を侵略することで、領土拡大を図ったということです。
1898年4月25日、キューバの独立革命を支援するという大義名分のもとに、アメリカはスペインに対して宣戦布告を行いました。米西戦争の開始です。
キューバ支援を目的としているだけに、当然ながら米軍はキューバに向かうものと思われていましたが、米海軍が現れたのは意外な場所でした。5月1日、突如としてマニラ湾に現れた米海軍は、わずか6時間ほどの戦闘でスペイン海軍を壊滅させたのです。
米西戦争がマニラ湾海戦から幕を開けたことは、アメリカが本当に狙っていたのはキューバではなくフィリピンであることをはっきりと物語っています。
当時のアメリカはアジア侵略の拠点となる地を渇望していました。フィリピン征服を目指し入念に立てた計画を、アメリカは実行へと移しました。その計画のために利用されたのがアギナルドです。
アメリカはアギナルドに武器援助を申し出、祖国に帰りフィリピン解放の戦いを継続すべきだと進言しています。その際アメリカは、「アメリカは偉大で豊かな国家であり、植民地を必要としないし、また欲しいとも思わない」とアギナルドを説得しています。
このときも、そのあとも、アギナルドはアメリカの約束を書面にて残すことを要望しましたが、アメリカ側はのらりくらりと逃げ、口約束だけに終始しました。そのことは後日、フィリピンにとって取り返しのつかない不幸を呼び込むことになります。
3.フィリピン独立の旗の下に
アギナルド一行は5月19日に帰国を果たしました。アギナルドが真っ先に実行したことは、革命の最高指導権を再び自分の手に握ることです。そのために5月24日、アギナルドは独裁政府の樹立を宣言し、軍および州・町の役職者は改めて独裁政府によって任命されることを言明しました。
アギナルドが香港に去った後、解放のための戦いを独自に続けていた革命諸勢力のほとんどは、これを承認します。
革命を継続していたのは、アギナルドに「山賊」と侮辱された人々です。その彼らが売国奴にも等しい所業を為したアギナルドを革命の最高指導者として再び受け入れたことは、にわかには信じがたいことですが、革命軍に切羽詰まった事情があったこともたしかです。
フィリピン独立を求める義勇軍は各地に興っていたものの、全ての革命軍を束ねるだけの人材は見当たりませんでした。民族を統率できるだけのカリスマ性や名声のある指導者を、彼らは待ち望んでいました。
アギナルドは一度は民衆を裏切ったものの、全革命軍を統率できるだけの器量を持った人物であることは間違いありません。アギナルドが翻意して戻り、再び革命の先頭に立ってくれるのであれば、これを歓迎しようという空気が生まれていたのです。
さらに、アギナルドにはアメリカの後ろ盾がついています。マニラ湾海戦での米海軍の強さを目の当たりにした革命軍は、アメリカの庇護(ひご)を得たアギナルドに大きな期待を寄せました。
かくしてアギナルドは、革命の最高指導者の地位に帰り咲くことに成功します。1898年6月12日、アギナルドは郷里のカビテにて独立宣言を行いました。このときフィリピンの国旗も国歌も初めて披露されています。まだスペイン軍との戦いは続いていたものの、およそ330年ぶりにフィリピンは独立を達成したのです。この日はフィリピンの独立記念日として、現在でも祝われています。
まもなくアギナルドは独裁政府を、内閣と議会を備えた革命政府へと移行しました。これにより、革命政権の中枢は裕福な知識階級に占められることになります。解放された地方から順次、地方政府も組織されましたが、ここでも知識階級が役職を独占することになりました。
次にアギナルドが手を入れたのは革命軍です。各地の義勇軍は大統領兼全軍司令官のアギナルドの指揮下におかれ、軍の要職はアギナルドに繋がる人々で占められました。
結局のところ、これまで革命をリードしてきたカティプナンを主力とする地方の義勇軍は、解放の達成とともにお払い箱となり、これまで革命を傍観してきただけの知識階級に、地方行政や軍の要職のことごとくを奪われたことになります。
アギナルドは民衆に手にあった革命の指導権を、巧妙に知識階級の手に取り戻したのです。そのことは、「いつか来た道」を再びフィリピンにたどらせることになります。
4.アメリカが抱いたフィリピン征服の野望
5月31日以来、革命軍はマニラの城壁都市を包囲し、立て籠もるスペイン軍を兵糧攻めにしていました。城内に籠もる1万3千人のスペイン軍兵士は食糧も弾薬も尽き、もはや戦う気力も失せています。
城壁内のスペイン軍が降伏するのは、時間の問題でした。ついにフィリピン人の手でスペイン軍を完全に追い出す瞬間が迫っていました。
しかし、フィリピンが成し遂げた独立は、一瞬にして終わることになります。アメリカが当初から描いたフィリピン征服の野望を露わにすることにより、独立の夢ははかなく消え去ったからです。
それまでフィリピンの独立を支援する立場をとっていたアメリカの態度が急変したのは、1898年の6月から7月にかけて、本国より陸軍部隊がフィリピンに到達して以後のことです。
軍が到来するまでアメリカはアギナルドと友好な関係を保ち、時間を稼ぎました。スペイン艦隊を葬ったものの、海軍だけでフィリピンを制圧できるはずもないからです。待ちに待った1万1千の地上軍がフィリピンに上陸するとともに、アメリカは本性を剥き出しにします。
革命軍に対して一定地域から撤退するよう要求し、我が物顔でフィリピンを実質的に支配する姿勢を見せたのです。
アメリカはマニラの城壁に籠もるスペイン軍とも密かに交渉を重ね、両軍が見せかけの戦闘を行うだけでスペイン軍は即座にマニラを米軍に引き渡す、その際、フィリピン人を市内に入城させないようにする協定を結びました。
8月13日、密約に伴い、米軍によるマニラ総攻撃が行われました。フィリピン軍は果敢に攻撃に参加しようとしましたが、米軍はことごとくフィリピン軍の進撃を阻みます。まもなく城壁に白旗が揚がり、マニラは陥落しました。
フィリピン軍が意気揚々と入城しようとすると、米軍の警備兵が立ちはだかり、一兵たりとも進入を許しません。マニラ解放という歴史的な場から、フィリピン軍はあからさまに排除されたのです。
マニラにフィリピンの国旗がたなびくことなく米軍の支配に帰したことは、フィリピン人の反米感情を一気に高めました。米軍はフィリピンの中枢であるマニラを抑えたことにより、8月14日から軍政を敷き、支配地域を次第に広げていきました。
アメリカによるフィリピン征服の野望は、スペインとの間に12月10日に交わされたパリ条約にて明らかとなります。アメリカは秘密裡にスペインからフィリピンを2千万ドルで購入したのです。
アギナルドをはじめ、フィリピン人がまったく与り知らないところで、フィリピンはスペインからアメリカへと勝手に売り渡されたことになります。
12月21日、米マッキンレー大統領は「慈しみ深い同化の宣言」を行いました。アメリカは侵略者でも征服者でもなく、友人としてフィリピンに到来し、フィリピンの民主化を助けるだけだ、といった意味です。
甘言に満ちた言葉の裏には、野蛮なフィリピン人には近代国家を運営するだけの能力がない、だからすべてをアメリカに委ねろ、といった棘(とげ)が含まれています。
同化の宣言と同時に米軍司令官に対しては、必要があれば軍事力を行使してでも米国の主権をフィリピン全土に及ぼすように訓令が下されました。そのことはアメリカによるフィリピン征服に、いよいよゴーサインが与えられたことを意味します。
5.アメリカの影に揺れる新政府
フィリピン革命軍は各地に残存するスペイン軍を撃破し、1899年の初頭にはミンダナオを除くフィリピン全土を実質的にスペインから解放しました。フィリピンの民衆はアメリカの力を借りることなく、自らの力でスペインを追放したといえます。
1899年1月21日、アギナルドはフィリピン第一共和国の建国を宣言し、マロロス憲法を公布しました。フィリピンが近代的に組織された独立国家であることを内外に示したのです。
しかし、アメリカが牙を剥き出しにしたにもかかわらず、新政府は一枚岩となって独立を守り抜こうとする気概に欠けていたようです。
貧しい市民のために革命を始めたボニファシオが失脚することで、革命が知識階層の既得特権を守る方向に転換したように、議員の大多数が知識階層で占められた新体制もまた、知識階層の利潤を追求するための場と化しました。
たとえば、修道会の所有する広大なアシエンダは憲法によって取り上げられ、国有地とされましたが、革命に身を投じた貧しい農民たちが利益を受けることはありませんでした。議会はアシエンダの管理を「資産ある人々」に委ねたため、知識階級ばかりが有利な条件で経営権を獲得する結果となったからです。
もともと民衆が革命に身を投じたのは、修道会によるアシエンダ支配を終わらせ、せめて一片の土地でも自分で所有したいと願ったがゆえです。貧困からの解放こそが、一般民衆の切なる願いです。しかれど、スペインの支配から解放されても暮らしぶりがちっとも良くならないことは、フィリピン人の大多数を占める貧農にとっての悲しい現実でした。
アシエンダの経営権をはじめ、知識階級や革命政府内で特権を得た官吏や軍指導者が競って私利私欲を追求し始めたことで、地方に至るまで不正が蔓延することになります。
そればかりか、革命議会は彼らの財産を守るという共通の利害関係でまとまり、独立という民衆の願いをまたも踏みにじりました。
スペインに代わってアメリカがフィリピンを支配する可能性が濃厚になってくると、知識階層の人々は独立闘争を続けることで彼らの財産が失われることを恐れ、フィリピンがアメリカの保護国になっても仕方がないと考えるようになったのです。
彼らの言動には、現在の財産や既得権益を保全できるのであれば、フィリピンが独立国であろうと植民地であろうと、どちらでも構わないという本音が見え隠れします。フィリピンの史家は、議員の大半が「少数の例外を除いて、自由と独立より、自分らの既得権益が守られる米国の保護領か植民地を希望する保守主義者だった」と痛切な批判を込めて綴っています。
この当時のフィリピンにとって不幸だったことは、自分の財産や権力よりも民の幸福を優先して行動する無私の指導者がいなかったこと、もしくはボニファシオやリサールをはじめ、そのような指導者のことごとくが早世してしまったことです。
さらにアギナルドがアメリカの善意を最後まで信頼し、交渉に当たったことも裏目に出ました。米マッキンレー大統領がフィリピン併合決定の声明を出したあとでさえ、アギナルドはなおもアメリカに寛容と慎重さを求めています。
その後の経過を見る限り、そうした新政府の対応が的外れであったことは明らかです。それでもアギナルドは正義を重んじる米国議会がフィリピン併合を許すはずがないと、なおも儚(はかな)い希望にすがりました。
アメリカがフィリピン第一共和国を認めることなく、植民地として併合しようと敵意を剥き出しにしている以上、フィリピンが抗うためには米軍を追い出すより他に選択肢はなかったと、多くの史家が指摘しています。新政府が戦いの準備を怠り後手に回ったことは、フィリピンをますます窮地に追い込みました。
6.米比戦争の開始
援軍も到来し、戦いの準備を整えた米軍は2月4日、マニラ・サン・ファン橋近くでパトロール隊の米兵がフィリピン兵2人を射殺することで武力衝突が起こるように仕向けたとされます。
アメリカは、この武力衝突がフィリピン側によって仕組まれたと主張しています。しかし、フィリピンの政府高官や職員、軍の指揮官や幹部は皆、事件前日から休暇をとっており不在でした。指揮をとる者が誰もいないなかで、このような大事件を仕組むとは、常識的に見てありえません。
仕組んだのはフィリピンではなく、アメリカと見るほうが妥当です。折しもアメリカでは、アメリカがスペインからフィリピンを買い取ったパリ協定の批准をめぐり、米議会は紛糾していました。
この頃の米議会には、独立を願うフィリピンをアメリカの植民地とすることを後ろめたく思う正義感が、まだ残っていたようです。批准されるかどうかは、判別がつかない状況でした。
ところが、フィリピンで米軍に対する敵対行為が発生したとの一報が入ったことで、上院は僅差でパリ条約批准を決しました。偶然にしては、まさに絶妙のタイミングで武力衝突が発生したことになります。
このような事情を考え合わせたならば、アメリカが狙って引き起こした武力衝突であることは疑いようがありません。
事件を知ったアギナルドは戦争回避を求め、米オーティス将軍に対し中立地帯を設けることで戦闘中止を懇願しましたが、「戦争が始まったのだから、行きつくところまで行く以外にない」と拒絶されました。
後にアギナルドは「私見だが、戦争を始めること―― 一度始まれば、それを大虐殺にまで燃え上がらせること―― が米国の考え方だったように思う」と述べています。
観念したアギナルドは「祖国は今や戦争状態にある」と、フィリピン国民に悲痛な声明を出すよりありませんでした。
こうして、米比戦争が始まりました。アギナルドは軍司令官・州知事・市町村長に向けて「国土を防衛せよ。いかに死ぬかを全世界に示す絶好の機会である」と電報を打っています。
米比戦争
開戦時の米軍の兵力は2万です。不意を突かれたフィリピン軍の防衛線は次々に突破され、米軍はたちまちフィリピン全島の侵略へと乗り出しました。
フィリピン軍はゲリラとなって米軍と戦い、フィリピンの民衆はゲリラ兵の支援を積極的に行うことでアメリカのフィリピン侵略に抗いました。
フィリピン全土に渦巻く反米の渦のなか、米軍は抵抗するフィリピン人を虐殺することで、これに応えました。戦闘を指揮した米将軍30人のうちの26人は、インディアン戦争においてインディアンの虐殺に手を染めた者たちであっただけに、その仕打ちは残酷を極めました。
米比戦争を通してフィリピン側の民間人の犠牲者数は20万人から150万人といわれています。
米比戦争の経過とアメリカによるフィリピン支配、日本軍政下のフィリピンについては次回一挙に紹介します。