なぜフィリピンには中華系フィリピン人が多いのか!?彼らはいつどこから来たのかをたどります。
フィリピン階級社会の始まりはいつからなのか。
フィリピンを実際に訪ねてみれば、至るところで「貧困」の実態を目にできます。車の往来が激しいメインストリートから路地へと一歩足を踏み入れるだけでも、バラック小屋の建ち並ぶスラムの現実を垣間見れる場所は多々あります。
悪臭漂うゴミ山でゴミを拾って生活している最貧困層も、まだまだ多く存在します。夜遅くまで道路脇にたむろし、やがてアスファルトに寝転がったまま朝を迎えるストリートチルドレンを目にしては、心を痛める観光客も少なくありません。
一部の富裕層と大多数の貧困層に二極化されているのが、現在のフィリピンの抱える悲しい現実です。
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フィリピンの経済自体は急成長しているにもかかわらず、フィリピンの人々はなぜ貧困から抜け出せないのでしょうか?
その一つの答えは、フィリピンの歩んできた歴史のなかに見つけることができます。今回は今日に繋がる深刻な貧富の格差が生まれた発端を求めて、スペイン統治期に遡ってみます。
Vol.6 なぜ貧富の格差は生まれたのか その1
1.スペインから見たフィリピンの位置づけ
スペインから見るとフィリピンは植民地としての価値が薄い領土でした。当初はラテン・アメリカを征服したときと同様に、フィリピン占領によってスペインに経済的豊かさがもたらされると期待されましたが、そうした目論見は占領後1年も経たずに消えています。
フィリピンにはラテン・アメリカのような埋蔵量が豊富な鉱山もなければ、黄金の散りばめられた大神殿もなく、期待したほどの香辛料もないことがわかったためです。
原住民から搾取するにしても人口が少ないため、たいした利益にはつながりません。搾取するだけの価値がないとなれば、植民地を維持する経費がかさむばかりです。
そのため、レガスピがセブに到着した翌年には、早くもフィリピン諸島の放棄が真剣に検討されています。
しかし、キリスト教会がフィリピンを植民地として維持することを強く求めたため、フィリピン放棄は見送られました。
教会がフィリピンを欲したのは、フィリピンが地理的に中国と日本に布教を広めるための拠点として都合がよかったためです。
さらにフィリピンにはスペインがアジア地域を侵略するための前哨基地としての価値がありました。
ただし、キリスト教の伝道活動にしても帝国の軍事活動にしても、フィリピンに期待されたのは単なる中継地点としての役割でしかありません。
このためスペインによるフィリピンの植民地経営では、フィリピンを経済発展させようとする姿勢が当初から欠けていました。
ガレオン貿易の隆盛が、さらに輪をかけてフィリピンの経済発展を阻みました。「ガレオン貿易」とは、ガレオン船と呼ばれる大型帆船を用い、マニラとメキシコのアカプルトを結んだ貿易のことです。
白線がマニラ・ガレオンの航路
ガレオン貿易は本来、中国とメキシコ間の貿易であり「海のシルクロード」とも呼ばれました。フィリピンにとって不幸だったことは、マニラが単なる乗り換え港に過ぎなかったことです。
ガレオン貿易はスペイン人に莫大な富をもたらしましたが、フィリピンの経済や産業にはほとんど貢献していません。唯一の利点は、ガレオン貿易によってマニラが繁栄したことぐらいです。それと引き換えにガレオン貿易が原住民にもたらしたのは、物流を絶やさないために押しつけられた過酷な強制労働です。
スペイン人はガレオン貿易で十分に儲けられたため、フィリピンの経済発展についてますます無関心になりました。ガレオン貿易が1815年まで二世紀にわたって続けられた間、フィリピンは経済的にまったく開発されないまま放置されたのです。
この間、他の東南アジア地域では経済発展に繋がる開発が行われていたことと比べると、フィリピンのおかれた状況はあまりにも理不尽なものでした。スペインの支配、ひいては教会による支配が、フィリピンの経済発展を阻んだといえるでしょう。
なお、ガレオン貿易に資金を提供していたのは、カトリック教会もしくはその関連団体です。教会は何もせずともガレオン貿易の成長とともに、巨万の富を蓄えることができました。
豊富な資金を使って教会は農民から安く土地を買い叩き、地方行政や治安維持などあらゆる分野にわたって独裁的な権限を握り、ますます原住民への支配を強めていったのです。
2.階級制と中国人
スペインの植民地であった間に、これまで紹介した以外で、その後のフィリピンに大きな影響を残したものが2つあります。ひとつは中国人、もうひとつは階級制です。
その1.今日に繋がるフィリピンの中国人社会
ガレオン貿易が盛んになるほどに、貿易に携わる多くの中国人がフィリピンに流入しました。やがて中国人はフィリピン全土に商業活動を広げます。
問題はスペインによる占領前から存続する原住民の市場経済を、中国人が容赦なく破壊していったことです。
たとえばマニラ周辺では原住民による家内労働によって織物産業が栄えていましたが、中国産の織物が入ってきたことにより、多数の織物業者が競争に敗れ、廃業へと追い込まれています。中国人商人が潤うこととは対照的に、フィリピンの織物産業は悲惨なまでに衰退したのです。
織物産業に限らず原住民によって営まれていた様々な産業が、中国人商人が活躍するほどに衰退したことは、原住民の暮らしぶりをますます貧困へと導きました。
スペイン人がフィリピンで暮らす上でも、スペイン人が必要とするものを供給する中国人は便利な存在でした。さらに中国人は金属工や石工、商人や漁師、大工・絵師・靴屋など、あらゆる分野に進出し、スペイン人にしても原住民にしても中国人の労働に頼らなければ生活が成り立たないほどでした。
しかし、フィリピンの経済を牛耳り、増え続ける一方の中国人は、スペイン人にとって次第に脅威の存在となっていきます。中国人にフィリピンを乗っ取られるのではないかと、スペイン人が恐れたためです。
そこでスペイン人行政官は、1581年頃から中国人をマニラを囲む城壁の外側の地域に移住させ、そこで暮らすように命じています。そこは城壁に置かれた大砲からいつでも攻撃できる位置でした。
さらに中国人を締め付けるために移民が制限され、滞在許可税・原住民の3倍もの貢税・家屋所有税などの特別税が課されています。
こうした仕打ちに対して、中国人は幾度か反乱を起こしました。ことに1603年の大暴動では1万2千人の中国人が武装蜂起し、マニラは陥落の危機に瀕しました。陥落の一歩手前で暴動が治まったのは、修道士の命に盲従した原住民による反撃が行われたからこそです。
このときのことをスペイン人は次のように書き残しています。
「敵を追撃し反乱指導者をとりこにした身分いやしい現地人どもの援助と忠誠心がなかったら、はたして中国人を撃破することができたかどうかについては、みんな口をつぐんでいる」
他にも武装蜂起した中国人の反乱は幾度もあり、そのたびに多くの中国人が命を落としました。1639年の反乱では2万人を超える中国人が虐殺されています。中国人の追放令も複数回施行されました。
それでも中国人のフィリピン渡来は止まることなく続けられ、今日においてさえ中国人労働者が国内にあふれる現実にドゥテルテ政権は頭を抱える状況が続いています。
ちなみにフィリピンを支配する16世紀後半のスペイン人が恐れたのは国内にあっては中国人ですが、国外にあっては日本人でした。
日本は豊臣秀吉が戦国乱世を統一した頃です。朝鮮出兵によって威を示したことにより、日本軍の強さはフィリピンのスペイン人を震え上がらせました。そこへ秀吉はフィリピン総督に対して、スペイン国王に脅しをかけるような手紙を渡しています。
フィリピンのスペイン軍は日本軍が攻め寄せてくるのではないかと、たちまちパニックに陥りました。実際のところ、当時の近代兵器である鉄砲の大量生産に成功した日本の軍事力は、兵数・近代兵器などの装備・兵の鍛錬度などから見ても、世界一といっても過言ではなかったほどです。
フィリピンの植民地化を望んだカトリック教会が布教しようと狙っていた中国と日本が、スペインにとって大きな脅威として立ちはだかったことは、皮肉な結果と言えるでしょう。
歴史を見れば明らかなように、中国においても日本においても、カトリック教会の布教活動は完全に失敗に終わっています。
ともあれ中国人の流入が、フィリピンの運命を大きく変えたことは間違いありません。ことに多大な影響を及ぼしたのは、中国人とフィリピン人の間に生まれた「中国系メスティーソ」たちです。
スペイン当局による締め付けがあまりに厳しかったため、中国人は一族の生存のためにフィリピン人富裕層との結婚を積極的に推し進めました。
今日においても「中国系メスティーソ」の大半は富裕層に属し、財閥を為すなど、フィリピンの支配階級を占めています。このような構造はスペイン統治下において促進されました。
フィリピンで発生した階級制度において、中国系メスティーソは重要な役割を果たすことになります。
その2.階級を生んだ村落統合
少数の富裕層と大多数の貧困層という二極化は、フィリピンに階級制が導入されたことから始まります。スペインに征服される以前のフィリピンには、ほとんど階級がなかったと考えられています。自給自足で成り立つ世界にあっては生産余剰物が出ないため、誰かに富が集中することがないからです。
各バランガイの首長は支配者ではなく、単なるまとめ役に過ぎませんでした。首長一族も他の原住民と同様に、自給自足の生活を送っていたのです。
フィリピンで階層の分化が進んだのは、修道士たちによって村落の統合が推進されたためです。
わずかな数に過ぎない修道士が植民地支配を続ける上で、村落の統合は極めて都合がよい政策でした。
原住民を管理するにしても布教を広げるにしても、およそ75万人の原住民がフィリピン諸島全域に広がり、数千を超える小さな村落にばらばらに生活している状況では、効率が悪くて仕方ありません。スペイン人宣教師の数は三千人ほどに過ぎないため、この状態で徹底的な管理を行うことには無理があります。
そこで修道士らは村落を統合することで、原住民を集住させる政策を実施しました。
しかし、自給自足を続ける原住民にとって人口が密集した村落に移住することは、彼らの従来までの生活が破壊されることを意味しています。なぜなら原住民が自給自足の生活を営むためには、耕作地に近く、狩猟や漁獲に適した便利なところに住む必要があったからです。
そのため、原住民の大半は村落統合による移住を嫌がりました。修道士は原住民をときに懐柔し、ときに脅し、強引に村落統合を推し進めました。修道士による原住民支配は主従関係にも近いだけに、最終的には原住民も涙を呑んで先祖代々守り抜いてきた土地を捨て、新天地へ赴くよりなかったのです。
新たに誕生した人口密度が高い村落の中心となったのは、もちろん教会です。これまで紹介してきたように、フィリピンにおけるカトリック教会は宗教組織としてだけではなく、経済と政治の中心的な勢力として重要な役割を果たしていました。
新たな村落のなかで、教会と原住民の仲介役を果たしたのは、各バランガイの首長とその家族です。
村落統合の際にも、首長一族は率先して教会に協力しています。抵抗が根強い原住民の移住を成し遂げられたのは、首長一族が修道士の言を聞き入れ、真っ先に移住してみせることで範を示したからこそでした。
その代わりとして首長一族は、原住民よりも高い地位と権威を約束されました。統合された村落のなかで数々の特権を得ることにより、首長一族は次第に原住民を支配する役割を担うようになります。このことが、フィリピンにおける階級制の始まりです。
権力を手中にした首長一族は、修道士と同様に土地の収奪へと手を染めていきました。支配する者とされる者という明確な階級がフィリピンに生まれたことで、富裕層と貧困層という枠が自然に形成され、幾世代にもわたって受け継がれることになったのです。
それ以来、裕福な者はより裕福に、貧しい者はより貧しくなるという無限ループが、フィリピンを覆うことになりました。
次回は首長一族から中国人メスティーソ一族へと、フィリピンの支配階級が移り変わっていく過程を追いかけてみます。