前回に続き、フィリピンの歴史から貧富の格差が生まれた原因についてたどります。
フィリピンでは既得権益を握った一部の富裕層のみが富み栄え、一般民衆の大多数は貧困に喘ぐという不公平な状況が続いています。
マニラやセブには巨大なショッピングモールが複数存在し、ブランド品や高級品であふれています。ショッピングモールで優雅に買い物を楽しむフィリピン人も多く、そこからは貧しさの片鱗さえ感じられません。
その一方、タクシーで移動するだけでも、繁華街の一隅にスラムを発見することも珍しくありません。
富裕層の裕福ぶりも、貧困層の貧困具合も、日本人の一般的な感覚をはるかに凌ぐほどズバ抜けています。そんな富裕層と貧困層という二極化した人々が、同じ空間に暮らすことでカオスと化しているのがセブやマニラです。
激しい貧富の格差を生んでいる一つの原因は、フィリピンの財閥にあります。財閥はフィリピン経済の8割から9割に関わっているといわれています。つまりフィリピンの主要産業はすべて財閥によって牛耳られている状況といえるでしょう。
フィリピンの財閥は、スペイン系と中国系の2つの系統に分けることができます。いずれもスペイン統治期に勢力を伸ばしたグループです。
ことに中国系メスティーソの一族は、政治と経済において現代のフィリピンに多大な影響をもたらしています。
今回は中国系メスティーソがフィリピンでいかに勢力を広げていったのか、その過程を追いかけてみます。
Vol.7 なぜ貧富の格差は生まれたのか その2
1.長老層による土地の収奪
首長一族がスペイン統治に協力する見返りとして得たのが、高い地位と権威です。具体的には多くの下級官吏を首長一族で占めるようになります。彼らは「長老層」と呼ばれ、スペインの同盟者として、修道士の意のままに原住民を支配しました。
やがて下級官吏としての役職を最大限悪用することで、彼らはあたかも修道士の真似をするように土地の収奪に手を染めることになります。
その過程で起きたのが村落共有地の私物化です。フィリピンの農地は基本的に村落が管理しており、誰か個人の持ち物ではありませんでした。
ところが長老層は役職を通して所有権の知識を蓄えていたこともあり、これを悪用します。村落の共有地をいつのまにか自分個人の持ち物であるように法的な要件を整えたのです。
その手口は修道士らがさかんに繰り返してきたことの模倣であっただけに、不正であることが明らかでも教会として文句は言えません。長老層による村落所有地の略奪は相次ぎました。所有地の名義が長老層に塗り代わったあと、丸ごと修道会に売却されることも珍しくありませんでした。いわゆる「地上げ」と同じような構造です。
こうして村落所有地は長老層の所有する私有地へと移り変わり、農民たちは強制的に小作人へと身分を落とされたのです。
すでにこのときから、フィリピンにおける貧富の格差が生じたといえます。歴史家のコンスタンティーノは、この状況を次のように述べています。
一八〇〇年までに地方社会では、スペイン人神父、長老層、民衆の三つの階層区分がみられた。マニラ及びその近郊では階層制は五段階になっていた。スペイン人、中国人メスティーソ、原住民長老層、中国人、そして一般民衆である。この五つの社会集団は経済力の点でもこの順序で階層化していた。この階層制は一九世紀初頭まで継続した。スペイン人神父は、中心的な権力の手先であり、搾取の道具であった。
『フィリピン民衆の歴史 1 往事再訪 1』レナト・コンスタンティーノ著(井村文化事業社)より引用
現在まで深刻な尾を引くフィリピンの階級社会が作られたのは、スペイン占領期に教会が階級制度を促進する政策をとったことに起因しています。
→前回の記事の最後の部分に記載
資本主義経済が導入されることで階級制が促進されることにはやむを得ない面がありますが、フィリピンの場合、教会によって、あるいは教会の暗黙の了承によって、人口の大半を占める土地をもてない小作人という「貧困層」と、広大な土地を有する少数の地主という「富裕層」に無理やり二極化されたことに、激しい貧富の格差の根源が隠されています。
スペイン人修道士による300年を超えるフィリピン支配こそが、大多数の住民が貧困に喘ぐという問題を生み出したといえるでしょう。歴史によって造られた、この貧困化の歪(いびつ)な構造は、現代に至るも解決していません。
ただし、このときの長老層がそのまま現在のフィリピンの支配層に納まったわけではありません。コンスタンティーノが指摘しているように、都市部において権勢を握ったのは中国系メスティーソです。
まもなく旧来の長老層は結婚を通して中国系メスティーソと同化するか、あるいは小作人に落ちぶれるかのどちらかを選ぶよりない苦しい立場に追い込まれることになります。
フィリピンは次第に中国系メスティーソに支配される歴史を歩むことになるのです。
2.中国系メスティーソの台頭
フィリピンの階層に革新的な変化をもたらしたのは、相次ぐ戦争によってスペインが没落するとともに、中国人とイギリス人が事実上、フィリピン経済を支配するようになったためです。フィリピンのこうした状況をコンスタンティーノは「スペイン国旗を掲げた英‐中植民地」と表現しています。
18世紀に入ると、中国人とイギリス人はフィリピンの農産物を世界経済のなかに解放することに成功します。それにともない、フィリピンの農産物資源を組織的に開発しようとする動きが加速しました。スペイン人が省みようとしなかったフィリピンの経済発展は、中国人とイギリス人の手によって、ようやく端緒についたのです。
通商の自由化が推し進められたこともあり、繁栄を誇ったガレオン貿易は1813年に終焉します。まもなくマニラは世界貿易の窓口として開港され、フィリピン貿易の拠点として重要な都市となりました。
マニラ麻・砂糖・タバコ・コーヒーなど、ヨーロッパ向けの農産物の生産が奨励されるようになり、それぞれがビッグビジネスへと成長していったのです。
しかし、スペインの支配によって長い間孤立していたフィリピン経済が世界と繋がったことは、フィリピンの社会を根本から揺さぶることになります。
ことに目立ったのは中国系メスティーソの台頭です。遅くとも1750年までには、中国系メスティーソは総人口250万人のうち、およそ12万人を占めるに至ります。
すでに述べたように、スペインは中国人をフィリピンから排斥しようと躍起になりました。そのなかで中国人がフィリピンで生きていくためには、原住民女性と結婚して同化するよりなく、その過程で多くのメスティーソが誕生しました。中国系メスティーソは、ひとつの階級を為すほどの勢力に膨れあがったのです。
人口比以上に中国系メスティーソが重要な役割を果たしたのは、彼らがフィリピンで最も経済が発展したマニラ周辺に集中して住んでいたためです。
1755年と1769年にキリスト教徒ではない中国人がフィリピンから追放されたことが、中国系メスティーソの勢力が伸びるきっかけとなりました。
中国人がいなくなった間隙を縫うように、中国系メスティーソは中国人が一手に握ってきた小売業と職人仕事に進出し、富を蓄えていきました。そのうち卸売業が最も儲かることに気がついた中国系メスティーソたちは、地方で農業生産物を買い付け、輸出業者に売り渡すようになります。この時期、セブを含めたビサヤ諸島の港が発展したのは、中国系メスティーソが活躍したからこそです。
経済的な成長にともない、中国系メスティーソの数も増えていきました。1800年頃の総人口は400万人ですが、そのうちの24万人が中国系メスティーソです。わずかな間に2倍に増えたことになります。
スペインの都合により、1850年には中国人の移民制限は解除され、フィリピンに再び多くの中国人が押し寄せました。すると、中国系メスティーソが中国人の代わりとして勢力を伸ばした小売業や卸売業は、次々と中国人に奪い返される事態となりました。
中国系メスティーソは生業を変える必要に迫られます。そこで目を付けたのが農業でした。フィリピンの農業は輸出作物の需要が急増したことで価値が高まり、農地を所有するということが従来にも増して巨万の富へと繋がっていたのです。
これまでの蓄積により経済的に余裕のできた中国系メスティーソたちは、先を競って農地の取得に乗り出しました。ことに中部ルソンでは大規模な所有地を集めることで、次第にアシエンダ(大農園)に統合され、中国系メスティーソたちは大地主の地位を占めるようになります。
中国系メスティーソが土地を取得するにあたって用いた代表的な手口は、「買い戻し契約」です。
「買い戻し契約」とは、土地の所有者が金を借りる際、将来、同額で買い戻せるという条件付きで、貸し手に土地を引き渡す契約です。
通常の売買とは異なるため、貸付金は土地の価格の三分の一、もしくは三分の二に設定されました。ところが資金的に行き詰まったことで借金を背負った借り主が、買戻権を行使できるだけの金を貯めることは、実際にはほとんどありません。
また、たとえ幸運にも資金を用意できたとしても、実際に買戻権が認められることは、ほぼ皆無でした。契約の際に法律家が立ち会うこともないため、貸し主である中国系メスティーソは借り主が買戻権を主張しても、それを簡単に拒否できるだけの抜け穴を事前に用意していました。借り主が裁判に訴えたくても経費がかかりすぎ、勝つ見込みもほぼないため、提訴するだけ無駄でした。
買い戻し契約によって結果的に中国系メスティーソたちは、原住民の土地所有者から市価の三分の一ないしは三分の二という破格値で土地を取得したことになります。こうして買い戻し契約によって、首長一族を中心とする小土地所有者の多くが中国系メスティーソたちに土地を取り上げられました。
「買い戻し契約」は悪名高い法律ですが、施政者側の出す法令によって原住民がさまざまな不利益を被る事態は、何度も繰り返されました。
19世紀後半に施行された土地立法も、そのひとつです。法令は土地所有者に対して、1年以内に合法な地券(現代の土地登記簿に近いもの)を取得するように命じました。1年を過ぎても登記されていない土地は没収されると、一方的に宣言されたのです。
しかし、地方に住む小さな土地の所有者の大半は、このような勅令が下されたことさえ知りません。彼らが気がついたときには時すでに遅く、所有地はいつのまにか大土地所有者のものになっていました。
これは手口だけをみれば土地の横領に等しいものですが、すべてが合法でなされているだけに、どうにもなりません。
昨日までの小さな土地の所有者は農地を失い、大土地所有者の小作人として酷使されるより他に選択肢がありませんでした。歴史家によれば 19世紀末におよそ40万人の人々が、地券を取得しなかったために土地を失ったと推定されています。
国王からの下賜(かし)や国王領の購入、そして買い戻し契約と土地立法による土地の横領を通して、広大な土地を所有する地主がフィリピンに派生することになりました。これらの大土地は、アシエンダ(大農園)へと発展していくことになります。
これら大土地所有者のなかで目立っていたのは、修道会と中国系メスティーソです。中国系メスティーソは修道会の所有する土地を賃貸することで、さらに富を蓄積していきました。修道会から賃貸した土地を小作人に分割して農作業を行わせるだけで、自分たちは一切働くことなく、収穫の半分を手に入れることができたのです。
折しも農業機械が導入され、生産物を港まで運ぶ交通機関が発達したことにより、輸出を目的とした大希望な農園経営はさらに勢いを増し、中国系メスティーソたちを活気づけました。
人口増加にともない、未開地の開発も相次ぎましたが、新たに開墾された土地の多くは買い戻し契約と土地立法による横領によって、結局は大土地所有者のものとなったため、中国系メスティーソの経済的地位を押し上げる結果に繋がりました。
19世紀後半までに中国系メスティーソの所有したアシエンダの総面積は、スペイン人が所有した総面積にほぼ匹敵しています。さらに、小規模なアシエンダを買い取ることで、中国系メスティーソはスペイン人に代わって大アシエンダ所有者へと成長を遂げました。
その経済力を駆使することで、中国系メスティーソはフィリピン社会の指導者としての社会的地位を確立しました。彼らは首長一族を中心とする旧来の長老層を排除し、新長老層として君臨することになります。
やがて中国系メスティーソは都市部のなかから誕生した原住民からなる新エリート層と経済的な協力関係を結んだり、婚姻を通して、その勢力を州単位、あるいは全国規模へと成長させました。今日に繋がる財閥の誕生です。
既得権益を握った一部の富裕層が大多数の土地を持たない貧困層を支配・搾取するという現代のフィリピンに繋がる社会的な構造が、こうして生まれました。
その中心となって搾取の構造を生み出した元凶こそがアシエンダ制度です。アシエンダで働く小作農は奴隷の如く酷使され、農業生産物のほとんどを地主に吸い上げられることで、際限のない極貧生活を強いられることになりました。
前回まで追いかけてきたことからも明らかなように、アシエンダ制度の原型を造ったのは、フィリピン支配を始めた初期の修道会です。
次回は原住民による怒りが修道会に対する反乱となり、やがてフィリピン革命へとつながっていく歴史を追いかけてみます。
フィリピン革命を牽引する上でも、中国系メスティーソは大きな役割を果たしました。