前回はマゼラン船団がセブ島に到達し、フィリピン征服に乗り出したこと、そのマゼラン軍をマクタン連合軍のラプラプが打ち破ったことを紹介しました。
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今回は観光スポットである「サントニーニョ教会とマゼランクロス」がなぜ出来たのか、またフィリピンがスペインの植民地となったことで、フィリピン人の生活がどう変わっていったのか、についてご紹介します。
Vol.2 サントニーニョ教会とマゼランクロス
大航海時代:かつて白人は世界征服の夢を見た
15世紀半ばから始まる大航海時代以降、ヨーロッパの列強国は競って世界征服に乗り出しました。コロンブスやマゼランは今日では冒険者として知られ、いかにも偉人のように扱われていますが、その本当の姿は侵略者以外のなにものでもありません。
彼らによる新たな島や地域の「発見」は、その直後に決まって殺戮(さつりく)と略奪を呼び込みました。繁栄を誇ったインカ帝国もアステカ帝国も彼ら白人によって滅ぼされ、抵抗する者は皆殺しにされたのです。
ラテンアメリカやアフリカに次いで狙われたのはアジアでした。なぜならアジアには、ヨーロッパにはない貴重な香辛料があふれていたからです。
当時のヨーロッパではペストが流行し、人口のおよそ三分の一が死に絶えたといわています。猛威を振るうペストに対して最も効き目があると信じられたのが、胡椒(こしょう)をはじめとする東南アジア産の香辛料でした。
当時は匂いによって病気が感染すると考えられていました。そのため、香辛料の放つ強い匂いが病を絶つと信じられたのです。
稀少品のため香辛料は高値で取引され、胡椒と金が同じ重量で取引されていたほどです。東南アジアの香辛料を手に入れることは、莫大な富につながりました。
ヨーロッパ列強がアジア侵略に手を染めたもうひとつの理由が、日本でした。マルコ・ポーロによって記された『東方見聞録』には、黄金の国「ジパング」が紹介されています。
富の象徴である黄金にあふれた国「ジパング」を手に入れることは、ヨーロッパの白人たちにとっての見果てぬ夢でした。コロンブスが航海に出たのは黄金の国「ジパング」を発見するためです。マゼランが航海にあたって本当に征服を目指していた地は、中国と日本でした。
日本という国の存在が、ヨーロッパ列強のアジア侵略の呼び水となったのです。
当時の最強国はスペインとポルトガルです。この二カ国はアジア各地の分捕り合戦を派手に繰り広げました。
アジア地域を自国の領土とし、その地に蓄えられていた財宝を根こそぎ奪い、香辛料などの貿易を一手に掌握することは、帝国の繁栄に繋がっていました。
もちろんアジア地域には無人の荒野が広がっていたわけではありません。スペインやポルトガルに発見される以前からアジア地域には人々が住み着き、平和な暮らしを営んでいました。王国として繁栄していた地域もあります。
それでも白人たちは軍隊を送り込み、一方的に征服と殺戮を繰り返しました。侵略される側にはなんの非もないにもかかわらず、なぜこれほどまで残虐な仕打ちができたのでしょうか?
それは、侵略に対してキリスト教会がお墨付きを与えたからです。ローマ教皇によって為された教皇勅書では、海外で発見した土地を「征服に属する地域」であると見なし、その地域の航海、貿易、布教の独占権を認め、領有を正式に承認する、とあります。
つまり、新たに発見した土地で布教活動を行い、先住民をカトリック教会に改宗させるように励むことを条件に、その土地を領土(植民地)としてもよいと宣言したのです。
現代の感覚からすれば、「それでは先住民の意思や権利はどうなるの?」と突っ込みたくなるところですが、国際法がまだない時代にあっては、「地上における神の代理人」である教皇の決定は、まさに神の意志そのものでした。
新たに発見した地を自国の領土にしてもよいと宣言した教皇の勅書は、全キリスト教国の王と住民たちを拘束しました。
さらに教皇は世界地図に一本の線を引き、その線の西側で発見された土地、あるいはこれから新たに発見される土地はスペインのもの、線の東側はポルトガルのものと定めました。
今日の価値観からすれば、世界を勝手に二カ国に分け与えるなど傲慢(ごうまん)以外のなにものでもありませんが、全能の神の権威に基づく教皇の裁定だけに、当時は絶対的な効力をもちました。
かくしてスペインとポルトガルは、先を競って世界征服に乗り出します。その先兵となったのが、神の使徒であるコロンブスやマゼランです。
教皇のお墨付きを得られたことにより、彼らは堂々と見知らぬ土地に分け入り、先住民に対してキリスト教への改宗を迫りました。その際、先住民がキリスト教の権威にひれ伏さなかったり宣教師を拒否したときには、一方的に戦争を仕掛けてもよいと解釈されました。
戦争といっても前回紹介したラプラプの勝利は希有(けう)の例に過ぎず、侵略に対する備えなど考えたこともない先住民たちが近代兵器を擁するスペイン軍やポルトガル軍と軍事的にまともに戦えるはずもなく、その実態は一方的な虐殺でした。
当時のカトリックでは、キリスト教を信じない異教徒は野獣であって人間ではないと見なしました。十字軍の例を見るまでもなく、異教徒の殺戮と略奪は彼らにとって宗教的な大義に裏打ちされた正しい行いだったのです。
もちろん宗教的な正義感だけが侵略の温床になったわけではありません。土地の収奪や財宝の略奪は、その地を実際に侵略する者の懐を温めました。侵略の第一の動機は、侵略者の私利私欲を満たすためです。
さらに植民地を広げることは本国繁栄の礎でした。侵略の第二の動機は、政治権力の後押しがあったことです。
そこへ宗教的な権威による後ろ盾が加わることで、まさに三拍子が揃ったことになります。アジア各地の侵略は、この三拍子が揃ったことで加速したのです。
サントニーニョ教会から始まったキリスト教の布教
1565年、侵略者マゼランがラプラプに敗れたことで非業の死を遂げてから43年後、新たな侵略者としてレガスピがセブの港に姿を現しました。
セブでは二千人の兵士が戦闘の用意を整え、レガスピらの上陸を阻もうと待ち受けましたが、集落に大砲を撃ち込まれると、あわてて山中に逃げ出したとされています。
無人となった村でレガスピらは、財宝などの略奪を始めました。その際、兵士の一人がある家から、幼子のイエス・キリストをかたどった、見るからに立派な像を見つけ出します。マゼランがセブで布教を始めた際に、セブの首長であったフマボンの妻に贈ったサント・ニーニョ像です。
像は大切に扱われていたらしく花束に囲まれ、新品のように美しかったと伝えられています。
スペイン人から見れば、セブで初めてキリスト教の布教に成功したものの、すでに連絡が途絶えて40年以上の歳月が過ぎ去っているだけに、今も大切に敬われているサント・ニーニョ像を発見できたことは、まさに奇跡的なことでした。
そこで、これを神の思し召しとみたスペイン人は、サント・ニーニョ像が見つかった場所に教会を建てることにしました。この教会こそがフィリピンで初めて建てられた教会「サントニーニョ教会」です。
フィリピンへのキリスト教の布教は、この「サントニーニョ教会」から始まったのです。
実際のサントニーニョ教会
今でもサントニーニョ像は教会内で大切に保存されています。このサントニーニョ像はフィリピン古来からある精霊信仰ともつながり、強力な呪力をもつと信じられています。
地元の人々はサントニーニョ像があるがゆえに、セブは地震にも台風にもあわないのだと信じています。セブの人々にとってサントニーニョ像は、まさに守り神です。
今でもセブでは毎年1月の第三週末にサントニーニョを記念した「シヌログ・フェスティバル」が開催され、世界中から観光客を集めています。
サントニーニョ教会では、サントニーニョ像と並び「マゼランクロス」と呼ばれる木製の十字架も信仰を集めています。この十字架はマゼランがセブにて400人に洗礼を行った際に、その地に立てたと伝わっています。
「マゼランクロス」の木製の十字架
この十字架を削り取って身につけることで万病から救われると言い伝えられてきました。現在おかれている十字架は、残念ながらレプリカです。
スペイン人が新たに発見した地に十字架を立てるのは、単に宗教的な意味合いばかりではありません。現在の先進国では宗教と政治が分離していますが、この時代のヨーロッパは政教一致が基本です。
十字架を立てるということは、その地を征服したことの証(あかし)であり、先住民たちがスペイン国王に臣従したことの証でした。
その際用いられた十字架が、フィリピンでは霊験宿るありがたいものとして受け止められています。
やがてレガスピはフマボンの子であるトゥパス首長との間に、武力を背景に不公平な平和友好条約を結びます。この条約によってセブの原住民はすべてスペイン国王に服従することになりました。
スペイン人が何をしようとセブの法律や掟では裁けないこと、スペイン人に反抗することはスペイン国王に対する反逆だと、条約によって定められたのです。
これより、フィリピンはスペインの植民地として333年間*にわたり支配される苦汁の歴史を歩むことになります。
*正確には333年といわれていますが、いつスペイン統治が始まったかについては諸説あるため、アバウトに330年、あるいは300年以上と表現されることが多いようです。
スペインによる植民地化の始まり
セブでの支配を始めたものの、レガスピらはすぐに食糧難に直面しました。バランガイはすべてが自給自足で成り立っていました。原住民の大半は農業に従事し、自分たちが食べるのに必要なものだけを生産していたのです。
そこへ何ひとつ生産しない数百人のスペイン人が加われば、たちまち食糧難に陥るのは当然でした。
やむなくレガスピらはセブを離れ、当時すでに大砲を備えた砦が築かれ繁栄していた要塞都市マニラに目を付けます。レガスピの送ったスペイン軍は1570年にマニラに侵攻し、町を焼き払いました。
その翌年、レガスピは20数隻の船団とともにマニラに入港し、マニラを占領することで本格的なフィリピン植民地化を開始しました。
マニラを拠点にルソン島各地の地方勢力を掃討するための軍を起こし、またたくまに全島を制圧します。その平定のやり方は極めて残虐なものであり、インディアスを虐殺し、多くの民族を滅亡させたスペイン軍を思い起こさせるものであったと記されています。
十字架と剣を掲げてスペイン人はフィリピンの原住民を征服し、キリスト教徒を増やしていきました。信者になることを拒否した村の住民が虐殺され、村が丸ごと焼き払われる様を目の当たりにしては、キリスト教を受け入れるより他に選択肢はありません。
こうしてフィリピンのバランガイのことごとくがローマ教皇の権威に服し、スペイン国王の支配を受け入れ、伝道師の教えに従うことを約しました。
当時のフィリピン原住民の総数は50万人から70万人と見られています。スペイン人の支配を受けることで、それまでイスラム教や土地の精霊を信じ平和に暮らしていたフィリピン原住民にとっての楽園は、永久に失われることになったのです。
レガスピはフィリピンの初代総督となり、植民地化の基礎を築きました。フィリピンといっても現在のフィリピン諸島のすべてを指すわけではありません。スペインの統治下に入ったのは、ルソン島・ビサヤ諸島・ミンダナオ島北部の海岸部です。
ミンダナオ島南部やスールー諸島はスペインの侵略に最後まで抵抗し、スペインによるフィリピン支配が終わるまで、ついに独立を守り抜きました。
今日の視点から見るとムスリムの勢力が強いミンダナオ島南部は、フィリピンのなかでも異質な地域のように捉えがちです。
ところが歴史的な沿革からすれば、イスラム社会が築かれていた東南アジア海域世界にあって、ミンダナオ島南部以外のキリスト教化したフィリピンの方が、マレー世界から切り離された異質な地域と見るのが正しい視点といえるでしょう。
南部イスラム教徒は社会的にも経済的にも発展しており、ムスリム以外の勢力を巻き込み、スペイン帝国に対する組織的な抵抗を展開することで、自由を保ちました。
この時代から続くキリスト教化したフィリピンとミンダナオ南部との分断は、今日においても深刻な影響をフィリピンにもたらしています。
セブにあるサン・ペドロ要塞は、スペイン軍とムスリム勢力が争っていた当時の名残です。
セブにあるサンペドロ要塞
もともとサン・ペドロ要塞は、スペイン軍がムスリム勢力の攻撃に対抗するために築いた要塞です。ただし、19世紀後半になると、サン・ペドロ要塞はフィリピン人による反乱を抑える拠点として使われました。
レガスピはフィリピンを支配するにあたり、悪名高い「エンコミンダ制」を取り入れました。これによりフィリピンの原住民たちは過酷な搾取を強いられることになります。
「エンコミンダ制」については、次回の分で紹介します。