今回はフィリピンの歴史を語る上で欠かすことのできない「エンコミンダ制」について紹介する予定でしたが、前回の最後に少しだけふれた「サン・ペドロ要塞」について、もっと詳しく知りたいとのリクエストが多く寄せられたため、主題を急遽変更し、サン・ペドロ要塞に秘められた歴史について語ることにします。
前回の記事はこちら
→第2話 サントニーニョ教会とマゼランクロスの由来
Vol.3 サン・ペドロ要塞に秘められた歴史
前回紹介したサントニーニョ教会からも近いセブ港のすぐ隣りに、高さ6メートルにも及ぶ威容を誇るフィリピン最古の要塞、「サン・ペドロ要塞」が建っています。
フィリピン最古の要塞、サン・ペドロ要塞
セブ島観光で必ず取り上げられるサン・ペドロ要塞ですが、通り一遍の知識は観光ブックやwikipedia から得られるものの、要塞をめぐる歴史的背景までは語られていないため、要塞をめぐる深い歴史となると案外知られていないようです。
今日にも繋がるミンダナオ紛争のそもそもの始まりは、サン・ペドロ要塞が築かれた時期と一致します。スペイン軍とムスリムの対立こそが、泥沼のミンダナオ紛争の始まりでした。
今回はサン・ペドロ要塞が見守ってきたミンダナオの悲劇を中心に、歴史を振り返ってみます。
1.サン・ペドロ要塞の由来
レガスピ率いるスペインの侵略軍がルソン島・ビサヤ諸島・ミンダナオ島北部の海岸部を支配下に置いたのは、前回紹介した通りです。
そのレガスピがフィリピン諸島を侵略するための拠点として築いたのが、サン・ペドロ要塞です。レガスピがセブに到達したのは1565年ですが、その年の5月8日には早くもサン・ペドロ要塞の着工を開始しています。
「サン・ペドロ」という名称は、レガスピがセブまで航海した際の旗艦名からとられました。
初期のサン・ペドロ要塞は、原住民の攻撃からスペイン人を守るための砦でした。植民地化が始まってまもなくの頃は侵略に抵抗する原住民も数多くいたため、スペイン軍としても、いつ襲撃を受けるかわかりません。陸はもちろんとして、海からの攻撃にも備える必要がありました。
そこで二面が海に面し、一面が陸に面する三角形の砦を築くことにしました。それが、サン・ペドロ要塞です。
陸側に面した正面には木で組んだ高い柵が設けられ、海に面した二面には大砲が据え付けられました。スペイン人は要塞のなかで寝起きし、原住民による襲撃に24時間体制で備えました。
いかにも難攻不落を誇るサン・ペドロ要塞を目の当たりにしては、反乱を起こそうとする原住民の気力も、さぞかし削がれたことでしょう。
原住民による組織的な抵抗も止み、セブの治安が回復するとともに、サン・ペドロ要塞の役割はムスリムを撃退するための砦へと変わりました。
「ムスリム」とはアラビア語で「神に帰依する者」を意味し、イスラム教の信者のことです。
スペインの支配が及ばないミンダナオ島南部やスールー諸島には、数多くのムスリムが住んでいました。
では、なぜムスリムはセブを襲撃したのでしょうか?
2.モロ戦争の始まり
前回も軽くふれましたが、フィリピン諸島を含む東南アジア海域世界には13世紀の終わり頃にイスラム教が伝わり、15世紀中頃にはスールー諸島全域を支配するスールー王国とミンダナオ島西部海岸地域を勢力圏とするマギンダオ王国を中心に、大小複数のイスラム王国が成立していました。
ビサヤ諸島やルソン島には複数のバランガイが存在するのみで、まだ国家という社会組織が誕生していなかったことと比べると、すでに王国を築いていたスールーやミンダナオ南部には、より先進的な文明が築かれていたことになります。
今日ではミンダナオ島は産業に乏しく、フィリピンのなかでも経済発展の遅れている最貧地域のひとつですが、当時は経済的にも豊かで平和な国家が成立していたのです。
ただし、複数のイスラム国家を束ねる統一国家は、まだ誕生していません。また東南アジア海域世界全体を見るならば、けしてイスラム教だけが支配する世界ではありませんでした。
たとえば、現在はインドネシアに属するマルク諸島(モルッカ諸島)には、16世紀中頃にカトリック教修道会のポルトガル系イエズス会が布教活動を行い、一時は数万人の信者を抱えていたほどです。
元来、東南アジア海域世界は宗教や民族に対しては寛容だったと見なされています。改宗への抵抗は、さほど強くなかったようです。
しかし、スペインにしてもポルトガルにしても中国と日本への関心が高まるとともに、フィリピン以外の東南アジア海域世界から撤退する流れが加速しました。
その一方で、スールーやミンダナオ南部ではイスラム教が強固な地盤を築き、現在に至っています。彼らが頑(かたく)なにイスラム教を維持し続けたことには、もちろん理由があります。
なぜなら、スペインによる侵略が繰り返されたからです。彼らにとってキリスト教を拒むということは、スペインの侵略に屈しないという意思表示そのものでした。
スペインとムスリムの戦いは「モロ戦争」と呼ばれています。スールーやミンダナオ南部に住む原住民はモロ戦争があったがゆえにキリスト教への反発を強め、イスラム教へと傾かざるを得なかったのです。
ちなみに「モロ戦争」は、スペイン人がムスリムを呼ぶ際に「モロ」という蔑称(べっしょう)を使ったことから、後世の歴史家がつけた名称に過ぎません。
スペイン人はムスリムの海賊を退治するための戦いであるとして、「海賊戦争」と呼びました。海賊を退治するという大義名分をスペイン人は掲げましたが、それは単なる口実に過ぎません。スペインが欲したのはスールーやミンダナオ南部の征服です。
一方、ムスリムにとって、この戦いは彼らの王国を守るための防衛戦でした。一方的に侵略戦争を仕掛けてくるスペインと戦うことは、ムスリムにとって歴然としたジハード(聖戦)だったのです。
3.キリスト教徒とムスリム、恐怖と憎悪の連鎖
その1.ムスリムはなぜセブを襲ったのか
スペインがムスリムの住む地域を征服しようと躍起になったのは、マルク諸島を侵略するための足がかりとしてミンダナオ島を利用したかったからです。マルク諸島には豊富な香辛料があふれていました。マルク諸島を占領することで貿易の権利を手中にできれば、莫大な富に繋がったのです。
ミンダナオには充分な補給物資があり、彼らの兵となる住民がいました。軍の根拠地をミンダナオに置けば、マルク諸島の征服は約束されたも同然です。マルク諸島を手始めに、南方の島々を次々に侵略して貿易権を奪う野望を、スペインは抱きました。
かくしてスペイン軍はしつこくムスリムへの襲撃を繰り返すことになります。
しかし、圧倒的な戦力でスールーやミンダナオ南部への侵略を試みるのであれば、そもそも遠く離れたセブ島にサン・ペドロ要塞を築く必要などありません。
サン・ペドロ要塞は迫り来るムスリムを撃退するための役割を果たしましたが、その事実からしてムスリムが防戦一方に追いやられたわけではなく、自衛のためにセブへの襲撃を繰り返していたことがわかります。
ムスリムはなにもスペイン軍のみを襲うためにセブ市に押し寄せたわけではありません。ムスリムの憎悪の対象となったのは、セブに暮らすキリスト教徒でした。
なぜならムスリムの地を侵略するスペイン軍の大半を占めたのは、セブに暮らすキリスト教徒の兵だったからです。
スペイン軍といっても実際にはスペイン人はわずかに過ぎません。セブを中心にビサヤ諸島に暮らすキリスト教徒の原住民が傭兵として大量に駆り出され、ムスリムとの戦いの先頭に立たされたのです。
キリスト教徒の原住民を中心とするスペイン軍は、ムスリムの多くの集落を襲い、住民を殺害し、捕虜とし、ムスリムの信仰の拠点であるモスクを破壊しては集落を焼き払いました。
この情け容赦ない仕打ちに対して、マギンダ王国やスールー王国は周辺の諸民族集団と連合することで軍を編成し、毎年のようにビサヤ地域を襲撃しました。それは、殺された彼らの家族や親族、同胞に対する復讐でもありました。
ムスリムたちはビサヤ地域の集落を襲い、住民を殺害し、捕虜とし、教会を破壊し、略奪の果てに集落を焼き払いました。モスリムからすれば、彼らがキリスト教徒の兵たちにされたことと同じことを仕返したに過ぎません。
こうして互いが互いを攻撃しては報復を繰り返す憎悪の連鎖が一人歩きを始め、モロ戦争は次第に悲惨の度合いを深めていったのです。
その2.捕虜奴隷の悲劇
戦争が激しくなるにつれ、サン・ペドロ要塞の重要性も増しました。より強固な砦にするため、1738年までには従来の木製から現在の石造りへと造り替えられています。海に面した両側には14門の大砲が据えられ、セブ港に近づこうとするムスリム連合軍を阻みました。これらの大砲は、今もほとんど往時のままに残されています。
現存している大砲
ちなみに現在のサン・ペドロ要塞が海岸線から離れているのは、埋め立てによるものです。当時は海岸線に沿ってそびえていました。
されどサン・ペドロ要塞をいくら強化しても、広いセブの海岸線すべてを守れるはずもなく、多くのキリスト教徒が捕虜としてムスリムに連れ去られました。捕虜となったキリスト教徒は、ムスリムの集落で奴隷として働かされる運命にありました。
イスラム社会では一つの身分として「奴隷」制度が確立しています。スペインの侵略を阻止する戦いを続けるためには、国の経済を強くする必要があり、そのためには労働力となる奴隷を必要としました。
もっともイスラム社会の「奴隷」は、西欧的な感覚の奴隷とはかなり違うことに注意が必要です。「人間の形をした道具」として差別を受けたことはたしかですが、その身分は固定したものではなく、能力次第では奴隷を辞めて、誰からも尊敬されるイスラム教の宗教指導者になることもできました。奴隷はあくまで流動性のある身分であったといえます。
ことにスールー諸島は捕虜奴隷が多く、1770年から1870年の100年の間に20万から30万人のキリスト教徒が連れ去られたとの資料が残されています。ある歴史学者は、1850年までにスールー諸島の全人口の半分以上が捕虜奴隷と、その子孫たちであったと推定しています。
海賊に転じる捕虜奴隷も多く、彼ら自身がビサヤ地域の集落を襲うことで、新たな捕虜奴隷を連れ帰ることも繰り返されました。
セブに暮らすキリスト教徒となった原住民にとって、彼らの街を襲撃し、破壊と殺戮の果てに捕虜奴隷として連れ去るムスリムは、恐怖の存在でした。同時にムスリムもまた、彼らの集落を襲撃してくるキリスト教徒の兵に脅えました。
恐怖と憎悪の絶え間ない連鎖は、何世紀にもわたって繰り返されたのです。
その3.ミンダナオ紛争はサン・ペドロ要塞から始まった
もともと紛争などなかったにもかかわらず、キリスト教徒とムスリムの悲劇的な対立が生まれたのは、スペインによる侵略があったからこそです。そのスペイン軍の根拠地となったのが、サン・ペドロ要塞です。
その意味ではサン・ペドロ要塞こそが、今日に繋がるミンダナオ紛争の出発点であったといえるでしょう。
今は静かに佇むサン・ペドロ要塞には、キリスト教徒とムスリムの間に横たわる恐怖と憎悪の記憶が、しっかりと刻みつけられています。
4.サン・ペドロ要塞に見る歴史の縮図
その1.浮かび上がる統治の実態
その後もサン・ペドロ要塞はフィリピンの歴史を見守ってきました。歴史の節目ごとに、サン・ペドロ要塞の果たす役割も変化しています。
300年以上にわたるスペインの植民地支配に対して、フィリピンの民衆が武装蜂起したフィリピン革命が1896年より開始されると、スペイン人はサン・ペドロ要塞に籠もりました。
フィリピン人の反乱軍に囲まれたスペイン軍はまもなく降伏し、サン・ペドロ要塞は竣工以来はじめてフィリピン人の手に帰すことになります。スペインの権力の象徴であったサン・ペドロ要塞を陥落させたときのフィリピン人の喜びは、どれほど大きかったことでしょうか。それは、半ば奴隷としての境遇に甘んじていた屈辱の歴史が拭われた瞬間でした。
しかし、フィリピン人がようやく掴んだ独立は、長くは続きませんでした。フィリピン革命はアメリカによって潰され、米比戦争に敗れたフィリピンは今度はアメリカの植民地となる運命にあったからです。それとともにサン・ペドロ要塞は、フィリピン人の反乱を抑えるために常駐したアメリカ軍兵士の兵舎の一部となりました。
米比戦争
ここまでのサン・ペドロ要塞の主の移り変わりを見ると、フィリピンの歴史が見事に反映されていることがわかります。スペイン人→フィリピン人→アメリカ人へと、フィリピンの支配者は移り変わりました。
さらに、サン・ペドロ要塞がどのように使われたのを見るだけで、どのような統治が行われたのかを垣間見ることができます。
スペインが統治していた間のサン・ペドロ要塞は、終始軍事要塞でした。スペインは軍事力をもってフィリピンの原住民を支配し、330年にわたって絶えることなく繰り返された反乱を、力尽くでねじ伏せてきました。
アメリカは圧倒的な軍事力をもってフィリピンを侵略したため、サン・ペドロ要塞を軍事拠点として用いる必要さえなく、もっぱら兵舎として用いました。アメリカもまた、初期においてはスペインと同様に軍事力によってフィリピンを支配しました。
スペインと異なるのは、スペイン統治の失敗の歴史を見てきたアメリカが「軍事力のみで植民地を支配することは効率が悪い」と早期に気づいたことです。そこでアメリカは戦略を変え、フィリピン人の教育に力を注ぎました。
このことは後の回で詳しく紹介する予定ですが、スペインがカトリックの修道士による支配を行ったこととは対照的に、アメリカは学校教育を通してアメリカ人教師をフィリピン社会に溶け込ませ、フィリピン人の意識を次第に親米へと変えていきました。
その頃のサン・ペドロ要塞は、フィリピン人に教育を施すための学校に改造されています。そのことはアメリカが軍事から教育へと、フィリピンを統治する姿勢を変えたことを端的に物語っています。
その2.サン・ペドロ要塞で日本軍は何をしたのか
アメリカ人の次にサン・ペドロ要塞の主となったのは日本人です。第二次世界大戦にてアメリカ軍を追い出し、フィリピンを占領した日本軍は、サン・ペドロ要塞を捕虜収容所として用いました。収容された大半は米軍と通じて日本軍に抵抗していたフィリピン人ゲリラ兵、もしくはゲリラと疑われた現地人だったことでしょう。
日本軍のフィリピン占領は、アメリカの植民地からの解放をフィリピンにもたらしました。しかし、解放と同時に始まった日本の軍事支配は、戦時中であったがゆえに過酷を極めました。そのことが多くのフィリピン人の離反を招くことになります。
フィリピン人による抵抗を恐怖で押さえつけた日本の統治手法は、まさに「捕虜収容所」に象徴されています。
アジア解放を掲げた日本の大義は、残念ながらフィリピン人の理解を得ることができませんでした。
セブと日本軍との関わりについては、複雑な面が多々あります。その一端を知るためにも、サン・ペドロ要塞に立ち寄った際には、ぜひ訪ねていただきたい場所があります。それは、要塞の正面に広がる独立記念公園の奥の一角にある、名もなき慰霊碑です。
日本語と英語で刻まれた「建立の趣旨」に目を通せば、この慰霊碑が第二次世界大戦で亡くなった日本人とフィリピン人の冥福を祈るための碑であることがわかります。
不思議なのは、この慰霊碑にはいつ、誰が建立したのか等の説明が一切ないことです。もちろん刻み忘れたわけではなく、名前を残さなかったことには理由があります。その謎を紐解いていくと、この地に「名もなき慰霊碑」が建てられた背景として、ある秘話が浮かび上がってきます。
詳細は「セブ慰霊の旅(第4回)観光地サンペドロ要塞近く、名もなき日本軍慰霊碑の秘話」をご覧ください。
観光客で賑わうサン・ペドロ要塞の近くに、ひっそりと佇む名もなき慰霊碑があることは、セブ市内で暮らす日本人にも、ほとんど知られていません。
慰霊碑の前に立ち、静まりかえった空間で手を合わせれば、時が止まったかのような錯覚に陥ります。そのまましばし、日本とフィリピンの歴史について思いを馳せてみるのもよいでしょう。
その3.サン・ペドロ要塞から振り返る悲劇の物語
日本の軍事支配は長くは続かず、アメリカ軍の反撃により、占領地は次々とアメリカに奪還されました。サン・ペドロ要塞も再び米軍に占領され、負傷者を手当てするための病院として使われています。
サン・ペドロ要塞が軍事的に使われていたのは、ここまでです。フィリピン独立後は診療所として使われた後に、大統領府や市公共事業の事務所として用いられ、一時は中庭が、市民が憩うための動物園となったこともあります。もはや軍事要塞としての役割は影を潜め、平和的に利用されるばかりとなりました。
こうして振り返ってみると、サン・ペドロ要塞の用途の移り変わりを眺めるだけで、フィリピンの歴史が縮図のように表現されていることがわかります。
数あるフィリピンの歴史的建造物のなかでも、ここまで見事にフィリピンの歩いてきた歴史が凝縮されている建造物はないといえるでしょう。
サン・ペドロ要塞に立ち、海を眺めれば、スペインの侵略から始まるフィリピンの歴史を、アメリカと日本の占領に翻弄されてきたフィリピン人の悲劇の物語を、きっと感じられることでしょう。
次回はフィリピンの歴史物語に戻り、スペインが原住民の暮らしをどのように破壊していったのか、「エンコミンダ制」を中心に紹介します。