セブ慰霊の旅(第4回)観光地サンペドロ要塞近く、名もなき日本軍慰霊碑の秘話セブ慰霊の旅 第4回

戦場に芽生えた束の間の友情

前回は南方第14陸軍病院の慰霊碑を中心に、民間人で組織された義勇隊の奮闘ぶり、そして北方へ逃れていく途上で生じた13歳以下の子供たちの殺害という悲劇を取り上げました。

セブ慰霊の旅(第3回)民間人の投降を許さなかった日本軍の罪と子供達の運命

第4回目にあたる今回は、「フィリピン人-日本人 メモリアル」にある慰霊碑をもとに、大西大隊と海軍乙事件について紹介します。

6.フィリピン人-日本人 メモリアル

その1.謎を秘めた名もなき慰霊碑

サンペドロ要塞
セブシティにあるサンペドロ要塞

多くの観光客で賑わうサンペドロ要塞は大戦中、セブを占領した日本軍の捕虜収容所として使われていました。そのサンペドロ要塞の手前にある公園「プラザ・インデペンデンス」の一角に、日本軍の慰霊碑がひっそりと建立されています。

サンペドロ要塞の公園にある慰霊碑

セブ在住者の間でも、こんな意外な場所に慰霊碑があることは案外知られていません。まして、セブで起きた有名な海軍乙事件とこの慰霊碑との間に深い因縁があることも、知られていません。

日本人メモリアルにある慰霊碑
慰霊碑には建立の趣旨として、日本語と英語で次のように刻まれています。

第二次世界大戦において、ここセブ島の陸に海に多数の日本人、フィリピン人が散華されました。この方々のご冥福を祈るとともに人類最大の不幸である戦争を再びくりかえさないことを誓います。この碑が日比両国の永遠の平和と友情を培う礎石となることを心から願うものであります。

慰霊碑のある一角には、”FILIPINO-JAPANESE MEMORIAL” と記された看板が掲げられていることからも、この慰霊碑が大戦中に亡くなられた日本人とフィリピン人の冥福を祈るものであることがわかります。

FILIPINO-JAPANESE MEMORIAL

しかし、この慰霊碑には、他の一般的な慰霊碑とは明らかに異なることがあります。あるべきはずのものが、欠けているからです。

通常、慰霊碑にはいつ誰が建立したのかといった説明が、どこかに必ず記されているものです。

ところが、この碑には、そういった基本的な説明が一切為されていません。碑の裏側に回ってみても、一文字も刻印されていません。

もちろん、誰が建立したのかという情報を、うっかり書き漏らしたわけではありません。建立者名については、意図的に隠されたのです。

この碑の建立者は、独立歩兵第173大隊の大隊長大西精一中佐率いる大西大隊の関係者とされています。

では、なぜ石碑に「大西大隊」の名が刻まれていないのでしょうか?

そこには、ある秘話が隠されています。

その2.大西大隊とは

今回の「セブ慰霊の旅」第二回目の冒頭にて紹介したように、後方部隊が集まっていたセブの日本軍のなかで本格的な戦闘集団と呼べるのは、大西大隊およそ2,000名のみでした。

熊本で仮編成された大西大隊がセブ港に到着したのは、1944(昭和19)年1月22日のことです。

大西大隊は予備、後備の将兵を寄せ集めて編成された部隊です。「寄せ集め」と聞くと統制のとれていない雑軍のような印象を受けますが、あにはからんや(意味:意外にも)、隊長をはじめ将校も下士官も一兵卒に至るまで、長い間中国大陸の第一線で戦ってきた猛者ばかりが集う精強軍団でした。

実戦体験が豊富なだけに、新編成ながら極めて強靱(きょうじん)な戦闘力をもつ大隊だったのです。

大西大隊のセブでの任務は、フィリピン人ゲリラの掃討でした。米軍は将校を派遣してフィリピン人ゲリラを統率し、ビサヤ地区に散在する島々で日本軍の占領政策をなにかと妨害していました。

セブではジェームズ・M・クッシング米陸軍中佐がゲリラ部隊を指揮していました。クッシングはもともと、予備役の陸軍大佐としてセブ島の鉱山に勤務する技師でした。

ところが米軍のセブ撤退後にマッカーサーの命を受け、急きょセブ島のゲリラ指揮官に任命されたのです。クッシングはフィリピン人女性を妻とし、一児をもうけていたこともあり、ゲリラ隊員の信望を集めていました。

大西大隊がセブで任務を開始した頃のゲリラ部隊は、まだ千名ほどに過ぎない小さな集団でした。所持している武器は小銃や拳銃のみであり、日本軍を脅かすほどではなかったものの、一般のフィリピン人に混じって行動しては、すぐに密林の中に潜行するため、ゲリラ部隊の捕捉は容易ではありませんでした。

それでも中国大陸にてゲリラ活動を行う中国軍と戦闘を続けてきただけに、大西大隊にとってゲリラの討伐は、手慣れた仕事でした。彼らは野獣のような鋭い嗅覚をもって密林を移動するゲリラを追いかけ、その統制のとれた行動により、随所でゲリラを捕捉しました。

いざ戦闘が始まっても大西大隊は桁外れに強く、ついに一度たりともゲリラとの戦いに敗れませんでした。

ゲリラにとって、新たにセブに配置された大西大隊は大きな脅威だったのです。

ゲリラの討伐にあたっては、地元のフィリピン人との軋轢(あるれき)が絶えませんでした。ゲリラは一般のフィリピン人に溶け込みながら活動し、こちらが油断すると情け容赦なく襲ってきます。

たとえば農道を進むとき、耕地で鋤をふるっている数名のフィリピン人農夫に好意的な笑顔を向けられ、こちらも笑顔で挨拶を返して通過した直後、後方から突然激しい銃撃を受けることも珍しくありません。あわてて振り返れば、先ほど笑顔を向けていた農夫の何人かが隠し持っていた銃をいつのまにか手に持ち、銃撃してくるではありませんか。

そんなことが毎日のように繰り返されるだけに、神経が休まるときがありません。

卑怯な不意打ちを避けるためには、憲兵隊による情報収集が欠かせません。憲兵とは陸軍に所属する軍事警察官のことです。

フィリピン人の暮らす村落に立ち入り、憲兵隊はそこにゲリラが潜んでいないか調査にあたります。セブではゲリラをあぶり出すにあたり、一般の無関係なフィリピン人に被害を与えないように慎重な配慮が為され、ゲリラ容疑者に対する拷問なども禁止されていたものの、命の危険に絶え間なくさらされる現場では、数々の行き過ぎた行為が目撃されています。

ゲリラに志願するのは、当たり前ながら地元の若者たちです。彼らには親もいれば兄弟や友人もいます。そのため、村人たちがゲリラをかばい、かくまうことも、ごくありふれた光景でした。ただの村人なのか、それともゲリラなのか、その特定は極めて困難でした。

ゲリラと疑われ、その場で射殺されるフィリピン人も数多くいました。そのなかには本物のゲリラも混じっていれば、ゲリラとは無関係の若者も多く犠牲になったであろうことは想像に難くありません。

大西大隊がフィリピン人ゲリラを捕捉すればするほど、彼らの家族や親戚、友人など、多くのフィリピン人から激しい憎悪を向けられるのは、避けようもないことでした。

慰霊碑に「大西大隊」の名前を刻めなかったのは、大西大隊がゲリラの掃討に大きな功があったため、フィリピン人からあまりにも多くの恨みを買ってしまったからこそです。

戦後しばらく、「大西大隊」の名はセブのフィリピン人にとって、忌むべき存在だったのです。

隊長であった大西中佐へのフィリピン人の恨みは深く、終戦後、セブ島住民の告発を受け、大西はBC級戦犯としてマニラのモンテンルパ収容所へと送られました。

フィリピン方面での日本軍指揮官の多くは、フィリピン住民虐殺と捕虜虐待を理由に軍事法廷に立たされ、絞首刑に処されています。

セブ住民の多大な恨みを一身に受けた大西もまた、本来であれば死刑台の露と消える定めでした。ところが大西は奇跡的に処刑を免れ、日本に無事に帰還を果たしています。

そこにはいったい、どんな物語が横たわっているのでしょうか?

大戦中に結ばれた、ある友情の物語をたどってみます。

その3.海軍乙事件の余波

- 海軍乙事件とは -

事の発端は、1944(昭和19)年3月31日に起きた海軍乙事件に遡ります。

当時、連合艦隊の司令部はパラオにありました。

しかし、パラオは3月に連合軍による大空襲を受けたため、後方にある安全なダバオへと司令部を移すことになり、古賀峯一連合艦隊司令長官と福留繁参謀長は飛行艇2機に分乗して、3月31日にパラオ基地を出発しました。

ところが途中で低気圧に遭遇し、古賀長官を乗せた機は行方不明となったまま全員が殉職を遂げ、福留参謀長を乗せた機はセブ島沖に不時着しました。

先に山本五十六長官を乗せた機が米軍の待ち伏せにあい墜落した事件を「海軍甲事件」と呼ぶことに比し、この惨事を「海軍乙事件」と呼びます。

セブ島沖に不時着した機に乗っていた福留ら司令部要員3名を含む搭乗員10名は、岸に向かって泳いでいたところをフィリピン人ゲリラに拘束され、セブ市西方のトパス山中にあるゲリラ部隊の根拠地へと連行されました。

その際、福留参謀長と山本参謀は、Z作戦計画書と暗号関係の機密文書が含まれた日本軍の最重要機密である「連合艦隊機密作戦命令第七十三号」を防水ケースに入れて所持していました。

福留らはあわてて海中にケースを投げ捨てたものの、ゲリラに回収されています。この重要機密はゲリラ隊長のクッシング中佐を通して米軍の手に渡り、日本軍に甚大な損害を与えたことが、戦後に公開された米軍側の資料によって明らかになっています。

- 海軍将兵の救出を決断 -

ちょうどそのとき、ゲリラの討伐にあたっていた大西大隊は大がかりな作戦を実行し、ゲリラ部隊の包囲に成功していました。地形を熟知した利点を活かし、いつもは巧みに日本軍守備隊から逃れてきたゲリラ部隊ですが、今度ばかりは大西大隊の包囲網のなかに、完全に取り込まれていました。

福留らが拘束されているゲリラの根拠地も、その包囲網の中にありました。ゲリラの根拠地の背後はマンガホン山の切り立った断崖になっているため、大西大隊が三方から進撃すれば、ゲリラ部隊を確実に仕留めることができる状況でした。

この時点で大西は福留らがゲリラ部隊に拘束されていることなど、まったく知りません。海軍は秘密裡に事を進め、陸軍には一切知らせていなかったためです。

ゲリラ部隊を全滅させるために、いよいよ総攻撃に移ろうとしていた、そのとき――。

手にした日章旗を振りながら、日本人らしい男が大西大隊の陣へと駆け込んできました。ゲリラの根拠地から日本人が飛び出してきたことに驚きながら問い質してみると、男は海軍士官であり、「ゲリラ部隊への攻撃を中止してくれれば、捕獲している海軍要人を引き渡す用意がある」とのクッシング中佐の交換条件を伝えるために送り込まれたことがわかりました。

海軍の高級将校がゲリラ部隊の捕虜となっていることをはじめて知った大西は、決断を迫られることになります。

多くの部下を死なせた末に、ようやくゲリラ部隊を追い詰めたのです。今ならゲリラを根こそぎ殲滅できることは明らかです。このような好機が訪れることは、この先二度とないに違いありません。

しかし、総攻撃を行えば、捕虜として拘束されている海軍将官の救出は絶望的となります。彼らは間違いなくゲリラに殺されるでしょう。

大西は旅団司令部に事の成り行きを打電し、指示を仰ぎましたが、返電はなかなか届きません。福留らが遭難したことは陸軍に知らされていなかったため、旅団司令部としても海軍に事実確認を問い合わせるなど、対応に苦慮していました。

午後三時になっても旅団司令部からの返電は届きません。これ以上クッシング中佐への回答を遅らせると、ゲリラ側の疑惑を招き、福留らの身に危険がふりかかる恐れがあると判断した大西は、今は救出に全力を注ぐべきだと考え、取引に応じることを独断で決めました。

先の海軍士官にクッシング中佐宛の書簡を持たせ、その返事を待つことにしました。午後8時を過ぎた頃、ようやく旅団司令部から返電が届きました。

「猛烈果敢ナル攻撃ヲ続行シ、匪首(ぴんいん=ゲリラの頭領)ヲ捕獲スルトトモニ海軍将兵ヲ救出スル以外何モノモナシ」

攻撃を行ってクッシング中佐を捕獲するとともに、海軍将兵も救出せよ、との命令です。

これではまともな回答になっていないことは明らかです。果敢に攻撃すればゲリラを殲滅し、クッシング中佐を捕獲することは十分可能ですが、海軍将兵を無事に救出できるはずもありません。

それに大西はすでに取引に応じ、海軍将兵を引き渡せばゲリラ部隊への攻撃を行わないことを、書簡にてクッシング中佐に約束していました。たとえ相手がゲリラであろうとも、その指揮官との間で交わした約束は軍人として遵守すべきであると、大西は考えました。

旅団長命令を無視してでもクッシング中佐と交わした信義を貫く、それが大西の下した決断でした。

- 戦場に芽生えた束の間の友情 -

翌日、中間地点で海軍将兵の引き渡しが行われました。このとき、引き取りに赴いた大西部隊の兵とゲリラ兵との間に一触即発の緊張感が漂っていたことはもちろんですが、その反面、敵味方の立場を超えた生身の人と人との交流が行われたことも事実です。

いつもは銃を手に対峙していた日本兵もフィリピン人ゲリラも、互いに銃を向け合うことさえなければ、同年代の素朴な若者同士に過ぎません。

互いのやり方で敬礼を交わした後、ひげ面のゲリラ兵が「ゴクロウサン」と妙な訛りのある日本語で挨拶してきました。日本兵の一人もビサヤ語で「ありがとう」と返します。恐らくその言葉も、フィリピン人からすればおかしな訛りを伴っていたことでしょう。

ゲリラ兵は口々に「ゴクロウサン」を繰り返し、日本兵を苦笑させました。

日本兵が煙草やキャラメルを差し出すと、ゲリラ兵は大喜びで群がり、煙を吐き出します。そこには戦場とは思えない和やかな雰囲気が生まれていました。

そのうちゲリラ兵たちは、当時セブ市で流行していた「湖畔の宿」という日本の歌を、たどたどしい歌詞で歌い出しました。そのあとも日本の民謡や童謡が次々に歌われ、言葉は通じないまでも日本兵とゲリラ兵は、音楽を通して互いに笑顔を向け合いました。

それは、敵味方の立場の違いさえなければ、人は理解し合えることを示すエピソ-ドと言えるでしょう。

その瞬間、日本兵とゲリラ兵との間には、たしかに友情にも似たあたたかな交流が持たれたのです。

それでも福留らを担架に乗せ、ゲリラ兵に背を向けたときには、後ろから一斉射撃を受けて皆殺しにされるのではないかと、気が気でなりません。

そのとき、ゲリラ兵の一人が叫びました。

「ニッポン、フィリピン、友達。ノー・ポンポン。ノー・ポンポン」

「ポンポン」は銃声のことです。「私たちはあなたたちを撃たないよ、だからあなたたちも私たちを撃たないで」、と言いたかったのでしょう。

日本兵が振り返ると、引き返してゆくゲリラ兵が仕切りに手を振っていました。

- 武を汚すな! -

福留らを無事に救出できたことを旅団長宛てに打電したところ、包囲網を解かずにゲリラを殲滅せよ、とけしかける輩もいたとの証言が残されています。

人質を全員無事に救出した以上、約束を破ってゲリラ部隊を殲滅しようと思えば、できる状況でした。

しかし、大西はゲリラ部隊を攻撃すべきだとの声を遮り「武を汚すな!」と一喝すると、約束通りに包囲を解き、ゲリラ部隊を攻撃することなく山を下りました。

クッシング中佐が約束を違えることなく人質を解放した以上、こちらも約束を守って静かに撤退することこそが「武」の道に適っていると、大西は考えたに違いありません。

実はクッシング中佐が今回の交換条件を持ち出したことには、ある理由があります。このとき、クッシングは4歳になる愛児を伴っていました。ゲリラの隊長とはいえ、人の親です。息子の死をなによりも恐れ、戦闘になることなく解決することを欲したのです。

互いに相手を出し抜こうと謀略と裏切りが交錯する最前線の戦場において、なんの保証もないなか、今回のように互いが相手を信頼し、約束を守ったことは希有(けう)の例と言えるでしょう。

もっとも互いが友情らしきものを感じたのは、この一件のみです。その後も大西大隊とゲリラ部隊は各地で激しい戦闘を繰り返しています。

武士道に背けなかったからとはいえ、旅団長命令に逆らったことはたしかです。大西は責任をとるつもりで旅団長に報告に行きました。

しかし、当時の旅団長であった河野少将は「海軍が非常に喜んでいたぞ」と言っただけで、大西の責任を追及することは一切ありませんでした。

- 絞首台からの生還 -

米軍上陸の際も、大西大隊はセブの日本軍に残された唯一の戦闘部隊として果敢に戦い、北方に撤退する日本軍や民間人を助け、追撃してくる米軍と激しい戦闘を繰り返しました。

やがて終戦を迎えて投降した後、セブ住民から告発され、大西がモンテンルパ収容所に収監されたことは、先に紹介した通りです。

戦争犯罪の容疑をかけられると、BC級極東軍事裁判が待っていました。「裁判」と名はついているものの、東京裁判同様、けして公平性を保った審判が行われるわけではありません。

告発者の証言がなによりも優先されました。大西は部隊長としての責任から、大西大隊の犯した戦争犯罪を一手に引き受けざるを得ず、状況は絶望的です。大西に死刑判決が下ることは、確実な情勢でした。

ところが、まったく予期していないところから、大西を弁護する証人が現れたのです。

証言台に立ったのは、クッシング中佐でした。

クッシングは大西が約束を守って包囲を解いたことに感謝すると述べ、大西を積極的に弁護しました。

さらにフィリピン人の副隊長セグ-ラ少佐も、証言台に立ちました。クッシングとセグーラは、大西隊長以下の戦闘行為は「戦争の一環としての上官命令に従ったもの」であり、「無罪」であると主張しています。

フィリピンの法廷にしても、大西大隊と戦ったゲリラ部隊の隊長と副隊長が「無罪」と主張する声を、無下に退けることはできません。

戦いの最中に芽生えた友情の絆が、戦争が終わり、敵味方の垣根が取り払われたとき、再び復活したのです。

大西としても、まさか敵であったクッシングらに命を助けられるとは、思ってもみなかったことでしょう。

クッシングらの弁護によって大西はフィリピンでの処刑を免れ、巣鴨刑務所に移送された後に釈放されて自由の身となりました。

その後、大西は口を閉ざし、戦時中に何があったのかを語ることなくブラジルへ渡り、ほどなく亡くなりました。まさに武を貫いた激烈な生涯でした。

その4.図らずも露呈した矛盾

海軍乙事件のその後についても、簡単に紹介しておきます。捕虜から解放された生存者9名の福留ら海軍将兵は、事が明るみに出ることを恐れた海軍によって軟禁状態におかれました。

海軍としては連合艦隊の参謀長ともあろう者が指令部員とともにゲリラに捕らえられ、所持していた機密書類まで奪われるという前代未聞の不祥事に対し、どのように対処すべきか、大いに悩むことになります。

この際、福留を軍法会議にかけるべきだという強硬論も飛び交いました。

海軍にとってもっとも頭の痛い問題は、「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓に福留らが従わなかったことでした。

これまで何度か触れてきたように、日本軍では敵の捕虜となることを最大の恥辱とし、捕虜となる前に潔く自決して果てることを、一兵卒に至るまで課していました。

戦陣訓の教えを徹底させたのは、軍上層部の指導者たちです。ところが軍上層部の高級将校自身が敵の捕虜になるというあり得ない事態が実際に起きると、彼らは範を示すどころか、戦陣訓を省みることなく、あくまで自決を拒んだのです。

この醜態が公になっては、海軍としても軍の秩序を保つことができません。福留が虜囚の辱めを受けながら生還を果たしたことは、海軍にとってけして喜ばしい事態ではなかったのです。

対応に苦慮した海軍は、次の決定をしたことが某軍令部高級部員のメモに記録されています。

「福留中将の心境並に自決の肚(はら)あるや否やにつき観測をなしたるも、意志ありとするもの、次官は無しと言い、結論は今夜特に監視を附せず、若し本人が自決せんとするならばその欲する道を執らしむべしと言う意見に一致して、特に監視を附せざることと決す」

つまり、その夜はあえて監視を置かず、福留に自決の機会を与える事に決したと言うことです。むしろ海軍としては福留が自決することを望んでいる姿勢が、ありありと表現されています。

しかし、福留は自決する気配をまったく見せませんでした。

こうなると海軍としても、この事件をなんとかごまかすよりありません。そこで海軍は、福留らを拘束したのはゲリラに過ぎず正規の米軍ではないため、正式な意味での捕虜になったわけではない、という苦しい言い訳で取り繕いました。

このため福留は軍法会議にかけられることも、予備役に編入されることもありませんでした。そればかりか海軍は、司令部の失態を悟られないようにするために、あえて基地航空部隊・第二航空艦隊司令長官の要職に福留を栄転させたのです。

このことが戦後になって明らかになると、福留は非難の嵐にさらされました。

一兵卒に至るまで、ときには民間人にさえ「生きて虜囚の辱めを受けず」を守るように圧力を加えてきたのは、まさに司令部です。

その司令部の将校が敵の捕虜となったにもかかわらず自決せず、虜囚の辱めを受けながらも生還を果たし、なんら処分されることなく逆に栄転するという矛盾に、怒りの矛先が向けられるのは仕方のないことと言えるでしょう。

果たして「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓とはいったい何だったのか、空しさばかりが残ります。

やがて第一航空艦隊と第二航空艦隊を統合した連合基地航空隊が編成されると、福留は指揮官となり、神風特攻隊を編制しては次々と特攻に送り出しました。

最後まで自決を拒み、生きることに執着した指揮官が20歳そこそこの若者に対し、一死をもって国家に奉仕することを求め続けたのです。そこにも大いなる矛盾が横たわっています。

日本人メモリアルにある慰霊碑2
建立者の名もない慰霊碑の前で、最後の読経を行う石田氏

大西大隊の慰霊碑の前で、今回のレイテ慰霊の旅とセブ慰霊の旅での締めくくりとなる最後の読経が、石田氏によって厳かに行われました。

その日はなにかのイベントが行われていたらしく、公園の広場ではステージが設けられ、大音響で音楽が奏でられています。

賑わう公園のなか、周囲の喧噪とは裏腹に慰霊碑のある一角だけは静まりかえり、あたかもそこだけ時が止まったかのようです。

慰霊に訪れる人もほとんどなく、忘れ去られたかのような慰霊碑は、「大西大隊」の名がどこにも刻まれていないことからもわかるように、むしろ忘れ去られることを望んでいるのかもしれません。

すべての恩讐を時の彼方にかき消すように、般若心経の声音が静かに響き渡りました。

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