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留学マナビジンセブ島留学【特集】フィリピンの政経と歴史セブ慰霊の旅(第5回)日本兵に子供を殺されたキリノ大統領の決断

セブ慰霊の旅(第5回)日本兵に子供を殺されたキリノ大統領の決断

憎悪と「許し」

セブ慰霊の旅も今回が最終回です。最後に紹介するのは、ダウンタウンにある ”MUSEO SUGBO” です。

今回はフィリピン人の視点から、日本軍による占領と日米の戦いについて、振り返ってみます。

7.スクボ博物館(MUSEO SUGBO)

その1.日本軍とセブの歴史

スクボ博物館セブ
スペイン時代の建物の面影を残すスクボ博物館の外観

”MUSEO” はスペイン語で「博物館」を、”SUGBO” は古名で「セブ島」を意味します。ですから ”MUSEO SUGBO” を直訳すれば、「セブ島博物館」になります。

この博物館には、考古学から始まるセブ島の歴史に関する遺物を中心に、スペインとアメリカによる植民地時代や戦後の独立民主化の過程などが、貴重な写真とともに詳細な解説を記したパネルとともに展示されています。

セブの歴史について知りたいのであれば、この博物館を訪れるのがもっとも適しています。

ただし、ダウンタウンの一角にあるためか、日本からの観光客にはあまり知られていません。観光向けに出版されたセブのガイドブックにも、載っていないようです。

セブのなかでは治安に問題があるダウンタウンに位置しているため、夕方の訪問は避けた方がよいでしょう。できるだけ単独行動は避け、日中にグループで訪れる分には、それほど警戒しなくても大丈夫です。

ダウンタウンはスリが多いため、できるだけタクシーを利用した方が安全です。

今回の慰霊の旅で注目したいのは、この博物館にある1940年代のコーナーです。そこにはセブ島を占領した日本軍に関する遺物が豊富に展示されており、占領中に日本軍によって行われた施策の数々を知ることができます。

スクボ博物館の展示品
1940年代の区画、遺品を通して日本軍とセブの歴史を伝える工夫がされている

ことに一際目を引いたのは、日本軍がいかに残虐な支配を行ったのかを告発するVTRです。

音声は英語のみで日本語による解説の類いは一切ありません。しかし、そのことは日本人にとって幸いかもしれません。

ビデオでは当時なにがあったのかを語る証言を交え、日本人として到底聞くに堪えられない暴虐の数々をこれでもか、これでもかとばかりに、次々と紹介していました。

略奪・暴行・虐殺・強姦などなど、まさに悪の限りを尽くしたとも言える内容でした。

スクボ博物館の動画
日本軍の犯した戦争犯罪を告発するビデオが繰り返し流されている

いったい日本軍は、フィリピンでなにを為したのでしょうか?

その2.フィリピン独立をめぐる日米の動き

開戦直後、日本軍が東南アジアから欧米の軍を追い払い、欧米支配の植民地からアジアの民を解き放ったことは、歴史的な事実です。

インドネシアやマレーにおいて日本軍は、彼らを欧米の圧政から解き放ってくれた解放軍として大いに歓迎されました。

しかし、フィリピンだけは違いました。なぜならフィリピンと他の東南アジア諸地域との間には、決定的な違いがあったからです。

それは、フィリピンを植民地としていたアメリカが、1946(昭和21)年の7月にはフィリピン独立を約束していたことです。

1935年に施行されたフィリピン独立法に基づき、独立の準備をするための暫定政府としてコモンウェルスが設立され、すでにフィリピンでは部分的な自治が認められていたのです。

米比戦争で多数のフィリピン人を虐殺してまで手に入れたフィリピンをアメリカが手放したのは、すでに領土獲得型の植民地主義では採算がとれないことに気がつき、独立を認めることで行政は現地人に任せ、経済的利益だけを搾取した方が得だと判断したためです。

ところが頼んでもいないのに、日本軍がやって来てフィリピンから米軍を追い出すと、アメリカに代わって統治を始めました。コモンウェルスはアメリカの統治下で認められた暫定政府に過ぎないため、日本の統治下ではその存在が認められるはずもなく、亡命政府となっています。

スペインからアメリカへと宗主国が代わるなか、およそ五百年にわたって植民地としての屈辱に耐えてきたフィリピン人にとって、ついに独立まであとわずかと迫った時期に突然ハシゴを外された失望感は、どれほど大きかったことでしょうか。

支配者が日本へと移り変わったことにより、フィリピンの独立は再び白紙に戻されたのです。

後年、日本はフィリピンの独立を認める戦略に切り換えましたが、日本軍政下のもとでは傀儡政権に過ぎないことは明白であり、フィリピン人の広い支持を受けることは適いませんでした。

スペインから独立を宣言したフィリピンに戦争を仕掛けたアメリカが、力尽くでフィリピンをねじ伏せて植民地統治を始めたのは1902(明治35)年のことでした。

米比戦争においてアメリカは、フィリピン人をインディアンになぞらえて虐殺しました。フィリピン側の民間人の犠牲者数は、20万人から150万人といわれています。

それでもアメリカはフィリピンを統治するにあたって、スペインやイギリス・オランダのような圧政はとりませんでした。フィリピンでは周辺の他の植民地とは違い、アメリカによって比較的善政が行われていました。フィリピン人の暮らしぶりは、けして悪くはなかったのです。

ただし、比較的ゆるやかな善政は、なにもフィリピン人の幸福を願って為されたわけではありません。アメリカが優先したのは、アメリカ人資本家の利益です。彼らの利益を害さないために、原料を生産するだけの農業国にフィリピンを止めておく植民地政策が堅持されました。

1902年から1942年までのアメリカ統治下において、フィリピンの人口増加はわずか10%に留まっています。その土地の8割はアメリカ資本と結びついた地主に独占され、小作人は飢える一方でした。

その3.日本軍に向けられた憎悪

- 日本軍がもたらした激しいインフレ -

アメリカ支配の40年の間に、フィリピン経済はアメリカ資本と密接に結びついていました。フィリピン人の日々の暮らしは、アメリカから輸入される物資がなければ成り立たない状況だったのです。

日本軍によるフィリピン支配は、アメリカに深く依存していたフィリピン経済に壊滅的なダメージを与えることになります。

突然、アメリカから物資が一切入ってこなくなったことにより、フィリピン人の生活は大混乱に陥りました。だからといって日本には、フィリピンに物資を供給する国力などありません。

物資の不足は、激しいインフレを呼び込みました。さらに日本軍は、マニラ陥落からコレヒドール陥落までの5ヶ月間にセブで発行されていた臨時紙幣を無効としました。そのことはセブ住民の激しい怒りを買うことになります。

日本軍がセブに上陸するまでの間、セブは米比軍とケソン政権の支配下にあったため、セブ住民はその間に発行された臨時紙幣を使うよりなく、住民の財産の大半は臨時紙幣で占められていました。

ところが日本軍によって臨時紙幣が無効とされたため、セブ住民の財産が一瞬にして消えることになったのです。

こうしてセブ住民の暮らしぶりは、アメリカ統治下とは比べものにならないほど困窮を極めることになりました。その怒りが日本軍に向けられたのは、当然と言えるでしょう。

- 徴発と徴用の実態 -

日々の暮らしにも困り果てたセブ住民を、さらなる苦難が襲いました。日本軍による「徴発」(強制的に物を取り立てること)です。

大東亜の各地に進出した日本軍の補給は、現地調達を旨としていました。セブに配置された数万の日本兵の食糧は、セブ住民からの徴発によってまかなわれていたのです。米軍とは異なり、日本内地から米などの食糧を送る余裕など、日本軍にはありませんでした。

「徴発」という言葉からは、それほど過酷な印象を受けません。されど実際は日本軍の敗色が濃くなるにつれて、その実態は略奪へと変わっていきました。

はじめのうちは米や豚などをセブの農家から徴発するにあたり、その対価を軍票によって支払っていました。「軍票」とは、軍隊が発行する疑似貨幣のことです。

日本軍が発行した紙幣
日本軍の発行する軍票の信頼度は低く、ただの紙切れ同然だった

しかし、日本軍の旗色が悪くなるに伴い軍票の信用度は落ち、軍票と引き換えに食糧を差し出す農家はついに皆無となりました。信頼度を失った軍票は、ただの紙切れに過ぎないからです。

こうなるともはや力尽くで食糧を奪うよりありません。徴発を任された日本兵は食糧の提供を拒む農民をときに脅し、ときに暴力をふるい、無理やり食糧を奪っていきました。

日本軍政下にあってセブ住民の暮らしぶりは貧窮を極め、家族が食いつなげるだけの食糧を確保するだけでも精一杯でした。家族が生きる糧となる、その貴重な食糧を日本兵に傍若無人に奪っていかれては、たまったものではありません。

徴発されるのは食糧ばかりではありません。民家に押し入った日本兵が衣服や金目のものを奪い取ることも、珍しくありませんでした。

なんらかの労役に駆り出される徴用も、セブ住民にとっては大きな苦痛でした。徴用を拒否すれば殴打されることもあれば、反日思想者として憲兵に逮捕されることもありました。

「憲兵隊の門を一度くぐった者は出て来られない」という言葉は、セブの各所でささやかれました。

こうしてセブ住民の憎悪の眼差しは、日本兵に集中したのです。

その4.増える一方のゲリラ兵

日本兵に対する失望と怨嗟(えんさ)は、セブの若者たちにゲリラの戦士となる決意をさせるに十分でした。

フィリピン人の大半はアメリカの統治下だった頃を懐かしみ、暴虐な日本軍を忌み嫌いました。

“I shall return.” の台詞を残してフィリピンを去ったマッカーサーが再び舞い戻り、米軍が日本軍を追いだしてくれることを、ひたすら願ったのです。フィリピン人にとっては、米軍こそが圧政を敷く日本からフィリピンを解き放ってくれる「解放軍」でした。

解放軍である米軍の援助のもと、日本軍への抵抗を続けるゲリラ部隊に身を投じることは、フィリピン人にとっての正義でした。

その頃にはもう、日本軍が盛んに宣伝する大東亜共栄圏を信じるフィリピン人など、ほとんどいません。

日本兵はよく腕まくりをしては、皮膚を指さして「パレホ、パレホ」と口にしました。「パレホ」はビサヤ語で「同じ」という意味です。つまり、日本人とフィリピン人は同じ皮膚の色をしたアジア人同士だとアピールしたのです。

その割りに日本兵がフィリピン人に接する態度は、あまりに横柄で情け容赦のないものでした。日本人は欧米の白人に対しては腰が低いものの、同じアジア人に対しては何かと見下す癖があります。その悪癖は現在も完全には消えていません。日本に滞在するフィリピン人やタイ人を差別する傾向は、現代にもくすぶっています。

まして征服者としてフィリピンに上陸した日本兵のなかには、その驕(おご)りからか、やたらと威張り散らかす者が多くいました。日本軍はフィリピン人に対して日本の習慣を押しつけ、日本流のお辞儀を強要しました。街中で日本兵とすれ違ったフィリピン人がお辞儀を怠ると、日本兵は怒り、すぐに平手打ちを浴びせました。

フィリピン人に対する差別は、事実上の無法地帯のなかで加速しました。たとえば飢えたフィリピン人が日本軍の糧秣倉庫へ食糧を盗みに入っただけで、見せしめのために斬首刑に処されることもありました。単なる窃盗が死を持ってあがなわれるほどの罪であるとは、フィリピン人には理解できませんでした。

スクボ博物館にある説明文
日本軍はフィリピンを我が物顔で支配し、自分勝手な警告を発した

日本軍の圧政が強くなるほど、ゲリラ部隊に加入する若者は増え、日本軍を苦しめました。ゲリラは日本の占領政策を妨害するために、日本軍の徴発や徴用に応じた同胞を、対日協力者と見なして射殺しました。

セブの住民はゲリラの報復を恐れ、日本兵による徴発や徴用を避けるために、日本兵が近づくだけで逃げるようになりました。すると日本兵は、自分たちの姿を見て逃げ出すフィリピン人をゲリラの一味と見なし、容赦なく射殺しました。

ゲリラ兵と日本兵の双方から射殺される恐怖に、セブの住民は脅えました。

その5.メデリンの虐殺事件

- 事件が起きた背景 -

日本兵とゲリラ兵との戦闘の巻き添えとなり、命を落とすフィリピン人も数多くいました。ゲリラ兵は村人の中に溶け込んでいたため、村人の誰がゲリラ兵なのかを特定することは難しく、勘違いから起こる悲劇が繰り返されました。

基本的には軍服を着用することなく、村人と同じ格好をしたまま突然隠し持っていた銃を向けてくるからこそのゲリラです。前回もふれたように、セブ住民の多くの若者がゲリラ兵に志願している状況では、その家族や親族、友人や知人たちがゲリラ兵をかくまうことは日常茶飯事でした。

ゲリラ兵をかくまっていると疑われた村が、村ごと焼き打ちとなることもフィリピン各地で起きています。ゲリラ兵に協力したと見られる村人たちが、見せしめのために日本兵に虐殺される事件もありました。

ことに有名なのは、セブ島の北部西海岸にあるメデリン地区で起きた虐殺事件です。事の発端は、1944(昭和19)年12月初旬にメデリン警備隊がゲリラの奇襲を受け、戦死者2名、重症者5名を出したことでした。

警備宿舎は日本軍が接収した砂糖工場の敷地内にあり、工場と一体化していました。工場には地元住民30名ほどが働いています。ゲリラによる襲撃は、たまたま警備兵が少ない瞬間を狙いすまして行われました。そのため警備隊は、工場に勤務していた住民の誰かがゲリラに通じており、ゲリラを手招きしたに違いないと疑いました。

その後もゲリラと警備隊で戦闘が行われ、戦死者が出ています。ゲリラは米軍から支給を受けた重機と自動小銃で武装されているため、日本軍の軽機関銃では太刀打ちできませんでした。

日本軍が主に使用していた三八式歩兵銃
日本軍が主に使用していた三八式歩兵銃は、日露戦争の頃に造られた旧式の銃だった

日本軍は現地のビサヤ人からなる保安隊を支配下に置いていましたが、セブが空襲されて以来、逃亡者が相次ぎ、ゲリラ側に寝返る者が続出しました。ゲリラの勢力がますます膨れあがることは、日本軍にとっての脅威でした。

日本軍としてもゲリラ部隊による襲撃を見過ごすようでは、軍の威信に関わります。事態を重視した本部は、メデリン討伐隊として大西大隊の3個小隊130名ほどを急いで派遣しました。

以下のあらましは、その際同行した生存兵の綴った手記『さらばセブ島の落日』(万田村純著)に基づきます。

- 事件の経過 -

討伐隊は10月12日にメデリンに到着しています。その際、指揮官は兵に命令を下しました。

「四囲の状況は極めて険悪である。この周辺の部落はすべてゲリラに組みし、その拠点となっている。したがって住民はすべてゲリラと見なす。命令を待って部落は全部焼き払え。住民は男女を問わず敵として逮捕し、逃げる者は容赦なく、一人残らず射殺せよ」

西海岸線に沿って北へと展開した討伐隊は、逃げ遅れた男女20数人をカビテ周辺で捕らえました。彼らのほとんどは良民証をもっており、それを掲示して助命を嘆願したそうです。

「良民証」とは、日本軍に協力することを示す証明書のことで、日本軍によってセブ住民に交付されました。当時のセブでは良民証をもっていなければ、市場などで商売を行うことができませんでした。また、町を通行する際に日本兵から良民証の提示を求められ、所持していない場合はゲリラあるいはスパイと疑われ、逮捕勾留されました。

ただし、良民証をもっていてもゲリラと断定されれば処刑を免れません。

良民証を手に助けてくれと叫んでいた20数名は中央広場に引き出され、全員銃殺されました。

その後、日本兵は無人となった民家に押し入ると、時計やブレスレット・指輪・ネックレス・ドル紙幣など携行しやすい金目のものを物色し、鞄に詰め込みました。盗んだ後は証拠が残らないように、民家を一軒残らず焼き払ったと記されています。

次に東方のタピロン、マヤの漁村を同じように掃討しました。こうして広範囲にわたってメデリン地区の村落の討伐が行われたのです。

なかでも最も残虐を極めたのが、10月15日にパヌガワンとキュルバ近郊で行われた住民殺害・暴行・強姦・掠奪です。

この暴虐から命からがら逃げ出した地元民の訴えによって、戦後、メデリンの虐殺に関わったと見られる日本の将兵がBC級戦犯として逮捕されています。

しかし、討伐隊の指揮を行っていた中尉も、その腹心として虐殺の指揮をとった少尉も、米軍のセブ島上陸時の戦闘において、すでに戦死していました。

そのため、討伐隊には同行していないものの、部隊長である大西中佐がメデリン虐殺事件の責任を問われ、モンテンルパ収容所に送られたのです。結果として大西は死刑を免れます。その顛末については、前回の記事にて紹介した通りです。

元刑務所だった場所
スクボ博物館は元刑務所だった。高い塀で囲まれた中庭が、刑務所の頃の面影をとどめている。

メデリンの虐殺事件は戦争中の正当な行為とは、とても呼べない悲劇であり、許し難い戦争犯罪であることは間違いありません。

ただし、日本軍のみが他国の軍と比べて特別に残虐であったのかと言えば、そうとも言えません。ゲリラが潜伏したと見られる村落とゲリラ討伐軍とのトラブルは、多くの戦場で繰り返されてきたからです。

たとえば1968(昭和43)年3月16日にはベトナム戦争において、ゲリラの殲滅に手を焼いた米軍が南ベトナムのソンミ村を襲撃し、無抵抗の村民504人を虐殺する事件が起きています。そのうちの173人は乳幼児を含む子供でした。

このソンミ村の虐殺は、ベトナム反戦運動のシンボルとなりました。

だからといって日本軍の罪が軽減されるわけでないものの、ゲリラ戦において村落が丸ごと掃討されることは、古今東西さまざまな戦場において数多く繰り返されてきた悲劇です。

その6.戦犯裁判の行方

- 日本人捕虜への投石 -

やがて日本の降伏によって戦争が終わると、セブ島北方を逃げ惑っていた日本兵と民間人は投降し、米軍の捕虜となりました。一両のトラックに40人ほどが乗せられ捕虜収容所へと向かった日本人に対し、沿道で待ち受けていたのは多くのフィリピン人でした。

彼らは日本人に向かって罵倒を浴びせました。

「ジャパンドロボ-死ね」
「バカヤロウ」
「ケイペンタイ コロセ」

日本人に向かって石を投げつけてくるフィリピン人も、数え切れないほどいました。椰子の上から石に混じって刃物を投げつけてくるフィリピン人もいました。

トラックが通過する町ごとに、罵詈雑言と投石が繰り返されました。投石が目に当たり、失明した日本兵もいます。高所から投げ込まれた角材がトラックを運転する米兵を直撃し、即死する悲劇も起きました。

平和な暮らしを突然破壊され、肉親を奪われ、家畜や作物を奪われ、連日地獄のような生活を余儀なくされたフィリピン人の恨みは、捕虜となった惨めな姿の日本人に向けて堰を切ったようにぶつけられたのです。

- メデリン虐殺事件の容疑者に下った死刑判決 -

捕虜収容所の米軍は、日本人が驚くほど紳士的でした。しかし、穏和な収容所にも、ひとつの大きな恐怖が待っていました。

それは、米軍による「戦争犯罪調査」です。

セブにおいても、日本がセブ島を占領していた間に犯した住民の虐殺や強姦・放火などの事件の調査が行われました。

捕虜全員が横一列に並ばされると、米軍憲兵を伴ったセブ住民が一人ずつ、顔を確認して回ります。捕虜の誰もが黙って通り過ぎてくれと祈るなか、セブ住民が立ち止まり、「ユー」と指差されれば万事休すです。

指差された捕虜は日本への生還の望みを絶たれ、マニラの収容所に送られて戦犯裁判を受ける運命にありました。

身に覚えがあるなら逮捕もやむを得ないと思えることでしょう。しかし、当事者の記憶に頼った犯人捜しなだけに、誰かと間違えられて指差されただけの無実の兵も相当含まれていました。まったく身に覚えがないにもかかわらず戦犯の容疑者にされたのでは、たまったものではありません。

先に紹介したメデリンの虐殺事件における犯人捜しも同様です。日本軍の雑役夫を務めていた一人のフィリピン人の証言に基づき、メデリン島現地民虐殺強姦略奪事件として中村大尉をはじめ13名の日本兵が逮捕され、マニラのモンテンルパ収容所へと送られました。

しかし、この13名は無実である可能性が濃厚だったと言われています。彼らのうち少なくとも6名は、軍歴を調べても生まれてから一度たりともメデリンの地を踏んだことがないことがわかっています。

一度も訪れたことがない地で起きた虐殺事件に、実行犯として加われるはずもありません。されど物理的な整合性よりも、被害にあった証人の証言こそが動かぬ証拠とされたのです。

戦犯裁判に公平性を求めることには、無理がありました。

13名に下った判決は、絞首刑でした。一人の雑役夫のいい加減な証言が、13名を死地に追いやったのです。

- 執行された絞首刑 -

それでもさすがに死刑の執行はためらわれたのか、13名は収容所に収監されたまま時が過ぎ、1951(昭和26)年を迎えました。この頃になると、13名が減刑される可能性が高いのではないか、といった憶測が飛ぶようになり、収容所内には楽観ムードが漂っていました。

ところが1月19日の夜、なんの前触れもなく、13名に突然絞首刑の実行が告げられます。執行を前に13名には遺言を書くために1時間の猶予が与えられました。その際、最後まで罪状に納得しえず「無実」を訴える者も少なくありませんでした。

「父の無実のことを、よく心して、立派な人になってくれ」と子供宛の遺書を残した日本兵もいました。

この日、突然死刑が実行されたのは、フィリピン側の「対日80億ドル賠償要求」を日本政府が過大であると拒否したことに対する報復であったとされています。

中村を筆頭とする13人は、従容として絞首台の露と消えました。後日、ブニエ所長は次のように語っています。

「この十四名の処刑に際しての態度は驚ろく程に堂々としたもので、彼らの天皇の隆盛を祈り、祖国の前途のために祈り、その上、刑務所で世話をうけた私はじめ色々の人々に礼をのべて、静かに刑に服したのであつて、誰一人としてかたをすぼめて見苦しい振舞いをしたもののなかつたことは、自分にとつても誇らしいことゝ思つて居る」

フィリピンBC級戦犯裁判』永井均著(講談社)より引用

なお文中「14名」とあるのは、当日、メデリン虐殺事件とは異なる事件の受刑者の処刑も同時に執行されたためです。

このメデリンの虐殺で処刑された13名の死は、けして無駄ではありませんでした。やがて彼らの無辜(むこ)の死は日本人とフィリピン人の多くが知るところとなり、フィリピンと日本を友愛の絆で結びつけることになります。

その7.『あゝモンテンルパの夜は更けて』

減刑されるとばかり思われていた14人の処刑が実行されたことに、他の受刑者は大きな衝撃を受けました。あとに残された受刑者は無実にもかかわらずに逝った友を思って泣き、やがては自分の番が訪れるだろうことに絶望しました。

受刑者のなかにも、無実と思われる者が多く含まれていました。

気落ちする受刑者を励まし、「自暴自棄になってはいけない、最後まで希望を捨ててはいけない」と説いて回ったのは、GHQの命令に従い、フィリピンでの戦争裁判の教誨師(きょうかいし)として派遣された加賀尾秀忍僧侶でした。

「教誨師」とは、受刑者に対して説教することを任とする宗教家のことです。

加賀尾の任期は半年でしたが、受刑者と接するうちに彼らを救わなければいけないとの使命感に駆られ、任期を終えても教誨師として収容所に留まりました。

しかし、加賀尾の勝手な期間延長に対する日本政府の態度は冷淡でした。給料も滞在費用も一切の支給を拒まれた加賀尾は、受刑者たちの残飯を食べてまで収容所に残り、無実の受刑者たちを励まし続けました。

祖国で待つ受刑者の家族の境遇も悲惨でした。戦犯の家族というだけで白い眼で見られ、なにかと差別を受けるなか、生活も困窮を極めていました。

14人の処刑を見届けた加賀尾は、その悲劇を繰り返さないために二度と受刑者を絞首台に送らないことを誓い、精力的に活動をはじめます。

加賀尾はマッカーサー宛てに助命嘆願書を送り、新聞への投稿も続けました。されど戦後の混乱のなかで必死に日々を生きる日本人の大半は、フィリピンの戦犯に関心を寄せる余裕など持ち合わせていませんでした。

そこで加賀尾は世論を喚起するために、歌を作ろうと思いつきます。死刑囚自身が素直な思いを歌詞にして、メロディーも自分たちで考えました。こうして誕生したのが『あゝモンテンルパの夜は更けて』です。

作詞も作曲もずぶの素人の手になる楽曲ですが、歌に込められた望郷の思いは聞く者の心を揺さぶりました。故郷で待つ家族のもとへ帰りたくても帰れない心情が切々と歌われ、死刑囚の悲しみと苦悩が歌にあふれていました。

当時、戦犯容疑者の釈放運動を積極的に展開していた歌手渡辺はま子が、この歌を歌ってくれることになり、レコードが発売されました。あまりに悲哀に満ちた曲であるため、その頃の日本の世相に受け入れられるかどうか危ぶまれましたが、蓋を開けてみれば20万枚を超える大ヒット曲となりました。

渡辺はこの歌を歌うごとに必ず「戦争が終わって7年も経つのに、いまだ牢につながれている人たちがいるのです」と付け加えました。

『あゝモンテンルパの夜は更けて』がヒットするにつれ、日本人の多くがフィリピンの戦犯に関心を寄せるようになったのです。

渡辺は1952(昭和27)年の12月に実際にモンテンルパ収容所を訪問し、受刑者たちを前に『あゝモンテンルパの夜は更けて』を歌いました。受刑者たちは歌に聴き入りながら処刑された14名のことを思い、肩を震わせて泣きじゃくりました。

その8.「許し難きを許す」ということ

『あゝモンテンルパの夜は更けて』は、当時のフィリピン大統領であったキリノ大統領の心境にも決定的な変化を与えました。

日本とフィリピンの賠償交渉は平行線をたどり、両国の和解は未だ光明を見出せずにいました。

そんなとき、ローマ法王の仲介によって加賀尾とキリノ大統領との会見が実現します。その会見はキリノにとって気が重いものでした。そのときの心情をキリノは次のように綴っています。

「『怨みを返すのに、恨みをもってしてはならない』ことはよくわかっていました。しかし、私の怨みは頑固でした」

キリノ大統領は戦時中、日本兵に対して深い私怨を抱えていました。外務大臣の要職にあった弟は日本軍によって斬首され、2歳の次女を抱いていた妻と長女は日本兵に狙撃されて命を落としていたのです。2歳の娘は地面に投げ出されて泣きじゃくっていたところを、近づいてきた日本兵によって刺殺されました。

かけがえのない家族を殺された怒りは、戦後7年を経ても癒やされることはありませんでした。

どうせ加賀尾に戦犯の助命を懇願されるに違いないと憂鬱(ゆううつ)な気分に陥っていたキリノ大統領に対し、加賀尾は多くを語ることなく、一枚のアルバムを手渡しました。そこには『あゝモンテンルパの夜は更けて』のオルゴールが入っていました。

曲の由来を知ったキリノ大統領の心の琴線に、哀切を込めたメロディがたしかにふれました。

その一ヶ月後、身柄を拘束していた105人の戦犯に対して、キリノ大統領は恩赦を与えることを発表しました。フィリピンに二度と戻ってこないことを条件に、死刑囚以外は釈放、死刑囚は無期囚に減刑のうえ、日本での服役を認めたのです。

許し難きを許したキリノ大統領の英断に対して、日本からは各地で感謝の声が上がりました。

恩赦を与えた理由について、キリノ大統領は次のように語っています。

「私は、妻と3人の子供、5人の親族を日本人に殺された者として、彼らを赦すことになるとは思いも寄らなかった。

私は、自分の子供や国民に、我々の友となり、我が国に末永く恩恵をもたらすであろう日本人に対する憎悪の念を残さないために、これを行うのである。

やはり、我々は隣国となる運命なのだ。

私は、キリスト教国の長として、自らこのような決断をなし得たことを幸せに思う。」

日本とフィリピンの関係を変えた、キリノ大統領
1890年~1956年。大統領在任は1948年4月から1953年12月まで。大統領在任中の1953年6月に,フィリピンのモンテンルパ刑務所に服役していた105名の日本人戦犯に対する恩赦を決定した。
戦後の厳しい対日感情の中で,批判を恐れずに行われたこの恩赦は,1956年7月の日比国交正常化に大きく寄与し,今日の日比友好の礎となりました。
https://en.wikipedia.org/wiki/Elpidio_Quirino
source:外務省。キリノ元フィリピン大統領の顕彰碑除幕式

戦後、植民地から独立した国で対日戦犯裁判を行ったのはフィリピンだけです。それだけフィリピン人は日本人に対して憎悪を募らせたのです。

起訴された151人のうち、およそ半数にあたる79人に死刑判決が下されたことからも、フィリピン人の怨恨の深さを思い知ることができます。

しかし、7カ国で行われたBC級戦犯の裁判において死刑を宣告された984人のうち、実際に920人の死刑が執行されたことを思えば、死刑囚の8割に恩赦を与えたフィリピンは、日本人に対して寛容の精神を示したといえるでしょう。

フィリピンで死刑が執行されたのは、メデリン虐殺事件の13人を含む17人に留まっています。13人が処刑されて以降、死刑は一度も執行されませんでした。

おそらくは無実と思われる13人が死刑に処されたことをきっかけに生まれた『あゝモンテンルパの夜は更けて』がキリノ大統領の許しを呼び込み、その英断が日本とフィリピンの友好を改善する大きな礎になりました。

今日のフィリピンは間違いなく親日国家です。セブにおいて日本人とわかるだけで、多くのフィリピン人の歓待を受けることも珍しくありません。このような状況を、戦後まもなくの反日感情にあふれたフィリピンから想像することは、とてもできません。

戦時中に日比両国の間に横たわっていた憎悪は、およそ70年余の時を経て友愛へと切り替わりました。

戦時の怒りを現在の友愛へと変えたのは、キリノ大統領に端を発する「許し」の精神であったことを、私たちは忘れるべきではないでしょう。

「許し難きを許す」という英断こそが、戦時と今を結ぶ架け橋となったのです。

その9.旅の終わりに

セブ慰霊の旅の最終回となる今回は、スクボ博物館を基点に、フィリピン人の立場から日本軍による占領期の様相を振り返ってみました。

今回のレイテとセブ慰霊の旅では、ほんの一部の慰霊碑などを回ったに過ぎません。それでも当初の予定を大幅に上回り、全8回にわたってこれだけ多くの戦時下の物語を紹介できたことに、今さらながら驚いています。

日本軍を誹謗中傷するつもりなど端からありませんが、できる限り真実を伝えたいために、日本人としては不快な内容もあえて記載しました。

日本軍のフィリピン統治に誤りがあったことはたしかです。しかし、だからといってフィリピンにおける日本兵の戦いが否定されるわけではありません。

彼らが日本本土を守るために、そして故郷に暮らす愛する人々を守るために、一命に代えて不利な戦いに身を投じたことは、揺るぎない事実です。

英霊に対する顕彰の思いは、同じ日本人として、けして忘れるべきではないでしょう。

大切なことは、不幸な歴史から目を背けることなく、何があったのかを知り、それを語り継いでいくことです。

私たちの今は、あの悲惨な戦時の歴史を経て紡(つむ)がれているのですから……。

先の大戦にてセブとレイテで亡くなられたフィリピン人の方に哀悼の思いを捧げるとともに、雄々しく戦って果てた日本の将兵並びに民間人の方々に顕彰の思いを寄せ、筆をおくことにします。

◎ 参照書籍
『レイテ戦記(一)~(四)』 大岡昇平著(中央公論新社)
『新装版 小説太平洋戦争(4)』山岡荘八著 (講談社)
『戦史叢書 捷号陸軍作戦 1 – レイテ決戦 -』防衛庁防衛研修所戦史室編(朝雲新聞社)
『大日本帝国の興亡〔新版〕4――神風吹かず』ジョン・トーランド著(早川書房)
『学びなおし太平洋戦争3 運命を変えた「昭和18年」 (文春文庫)』秋永芳郎, 棟田博著(文藝春秋)
『太平洋戦争全史』太平洋戦争研究会著(河出書房新社)
『第一師団 レイテ決戦の真相』富田清之助著(朝雲新聞社)
『餓死した英霊たち』藤原彰著(青木書店)
『野火』大岡昇平著(新潮社)
『日の丸が島々を席巻した日々 フィリピン人の記憶と省察』レナト・コンスタンティーノ編(柘植書房新社)
『燃える特攻基地セブを死守せよ フィリピン戦記』「丸」編集部編(光人社)
『あ丶セブ島 : セブ陸軍病院職員の戦場体験記と鎮魂録』富士原義広編(全国セブ戦友会事務局)
『神風特攻隊「ゼロ号」の男 海軍中尉久納好孚の生涯』大野芳著(光人社)
『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』神立尚紀著(文藝春秋)
『敷島隊の五人 海軍大尉関行男の生涯(上・下)』森史朗著(文藝春秋)
『空と海の涯で―第一航空艦隊副官の回想』門司親徳著(光人社)
『山の兵隊 比島より生還せる一学生兵の手記』柳井乃武夫著(交通協力会)
『総括 レイテ・セブ戦線 白骨消防兵団の謎』清水三郎著(戦誌刊行会)
『傀儡部隊 セブ島義勇隊 隊長の手記』酒井三郎著(けん出版)
『さらばセブ島の落日 わだつみの墓碑銘』万田村純著(旺国社)
『海軍乙事件』吉村昭著(文藝春秋)
『フィリピンBC級戦犯裁判』永井均著(講談社)
『昇る太陽 知られざる大東亜戦争とアジアの独立』三ツ森正人著(幻冬舎)
『昭和陸海軍の失敗』半藤一利,秦郁彦他著(文藝春秋)
『昭和史の天皇 11』読売新聞社著(読売新聞社)
『図説 太平洋戦争』太平洋戦争研究会著(河出書房新社)

◎ 参照URL
NHK戦争証言アーカイブス フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~
NHK戦争証言アーカイブス ~第1師団~
【レイテ】世界慰霊平和公園の碑(VILLABA):戦没者慰霊碑巡り
【レイテ】平和の塔など複数の慰霊碑(VILLABA):戦没者慰霊碑巡り
【レイテ】工兵碑(CAPOOCAN):戦没者慰霊碑巡り
【レイテ】リモン峠頂上の慰霊碑(CAPOOCAN):戦没者慰霊碑巡り
【レイテ】歩兵第9聯隊 鎮魂碑・地蔵尊(ORMOC):戦没者慰霊碑巡り
【レイテ】コンクリートハウス(ORMOC):戦没者慰霊碑巡り
【レイテ】平和之碑(ORMOC):戦没者慰霊碑巡り
【セブ】セブ観音(LAHUG):戦没者慰霊碑巡り
【セブ】南方第十四陸軍病院の慰霊碑:戦没者慰霊碑巡り
フィリピンの戦い (1944-1945年):wikipedia
捷号作戦:wikipedia
レイテ島の戦い:wikipedia
第1師団 (日本軍):wikipedia
歩兵第9連隊:wikipedia
旧陸軍第一師団副官の松本實さん(94):ナビセブ

【両陛下の慰霊訪問】で直視すべき、フィリピンの許しと日本の道義的責任:Business Journal
第3回 ・ 戦時下の受難、「赦し」の背景。キリノ大統領の恩赦令:まにら新聞ウェブ
家族を殺されても日本兵105人に恩赦を下したフィリピン大統領 71年目の顕彰碑:buzzfeed news
エルピディオ・キリノ:wikipedia
159:フィリピン管轄戦犯裁判
1183:フィリピン管轄:マニラ・モンテルンパ裁判:セブ州メデリン島比人虐殺事件
加賀尾秀忍:
:国際留学生協会

あゝモンテンルパの夜は更けて:wikipedia

ドン山本 フリーライター
ドン山本 フリーライター
タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。

その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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