セブの山野に刻まれた悲しみ
セブ市の中心に位置するヴィセンテ・ソット記念医療センター(旧サザンアイランド病院)の敷地(駐車場)内には、赤十字のマークが鮮やかな南方第14陸軍病院関係者の慰霊碑があります。
「セブ慰霊の旅」3回目にあたる今回は南方第14陸軍病院を中心に、民間人で組織された義勇隊、及び軍とともに米軍の追撃から必死に逃げた民間人の悲劇について紹介します。
3.南方第14軍陸軍病院の慰霊碑
その1.山塞病院への移動
南方第14陸軍病院が州立サザンアイスランドホスピタルに進駐し、セブで業務を開始したのは 1942(昭和17)年9月11日のことでした。主にソロモンやニューギニア方面から後送された傷病兵を収容し、治療を行っていました。
陸軍病院は戦場よりもはるか後方の安全地帯を選んで設置されます。のどかな後方の兵站基地として楽園と呼ばれていたセブは、陸軍病院を置くのにうってつけの場所でした。
日本が行った過去の戦争を振り返っても、後方にある陸軍病院が戦火の渦に巻き込まれることなど、けしてありえないことです。それだけに、まさか陸軍病院に配属された医師や看護婦・職員が戦場を駆け巡ることになるとは、当時は思いもしないことでした。
ところが戦局は急激に悪化し、サイパンやテニアンなど日本軍の南方の拠点は次々に米軍に奪われ、ついにはセブにも連日のように空襲が繰り返されるようになったのです。
その頃には後送されてくる傷病兵も増え、病棟はたちまち入院満床となり、やむなく病院の敷地内にバラック小屋を建て、天幕で囲まれただけの病室に折りたたみ式のベッドがずらりと並べられる状況でした。
看護婦は全員、白衣を脱ぎ捨て、軍服シャツとズボンを着用し、兵隊同様の姿で患者の間を忙しく飛び回っていました。
空襲が激しくなるに伴い、病院にも容赦なく機銃掃射が浴びせられ、爆弾が投下されるようになりました。病院の屋根には目立つように赤十字のマークが刻まれています。戦争中とはいえ赤十字マークを掲げた病院に攻撃を加えることは、ジュネーヴ条約で固く禁じられています。
ジュネーヴ条約を無視した米機の攻撃は、明らかな戦争犯罪です。
しかし、敗戦国である日本が戦勝国であるアメリカの犯した戦争犯罪を裁くことなど、到底できないのが現実です。原爆投下にしても、東京などの都市への空襲も、また然りです。裁かれるのは常に、敗戦国の犯した戦争犯罪のみです。
来襲する米機の数は日ごとに増え、陸軍病院はガダロッペ山中へと移動することになりました。
当時、陸軍はガダロッペ山を天山と命名し、米軍の上陸に備えて陣地を構築していました。天山を最後の決戦の場と見定め、早くからセブ市内にある陸軍の施設を山中に移していたのです。陸軍病院も、その対象のひとつでした。
天山東陣地の谷間の斜面を利用して戸板造りの粗末な病舎が建てられ、横穴の壕を掘って病院本部と職員の住居がおかれ、「山塞病院」と呼ばれました。
入院患者の移動は11月より始まり、軽症者は原隊に復帰し、重症患者はトラックで山中へと運ばれました。翌1945(昭和20)年2月には、陸軍病院の主力は山塞病院に置かれています。
山塞病院の職員は病院長部隊長として真田武雄少佐以下将校24名、下士官と兵が119名、看護婦43名、軍属19名の総計291名から構成されていました。入院患者は担送患者136名、独歩者34名と記録されています。
その2.山塞病院での日々
天山に居を移したものの、食糧と医薬品はすぐに底をつきました。病院の衛生兵をしていた生存者の証言によれば、わずかな飯は出たものの、おかずはアク抜きもしていないズイキが二きれか三きれ浮かしただけの塩汁が毎日繰り返されたそうです。
いざ戦闘が始まれば戦力となる衛生兵にして、これだけ粗末な食事となると、入院患者の食事がそれ以下であったことは容易に想像できます。体力の弱った入院患者は、毎日次々と死んでいきました。
それでも、こんなときでも将校食だけは豪華で、ビフテキがついていたとの証言も残されています。階級による待遇の違いが天と地ほども離れているのが、軍隊の実状です。
さらに真田部隊長に対しては、幾つかの批判めいた証言が続いています。真田は戦火の渦中にあっても、フィリピン人の妾を天山に同行していたそうです。粗末な食事に堪えながら懸命に患者の介抱を続ける看護婦にしてみれば、フィリピン人の妾にも将校と同じ豪華な食事が配膳されることへの怒りが高じるのは、無理からぬ事といえるでしょう。
理不尽な毎日のなかでも、医師と看護婦による必死の診療が続けられました。それでも包帯交換さえままならず、外科の患者の包帯交換の際にはウジ虫がボロボロと這い落ちたそうです。医薬品が欠乏した急ごしらえの山塞病院に、衛生を望むことには無理があります。
その3.医の倫理に勝る戦場の道理
3月26日、米軍がついにタリサイに上陸するとともに、観測機が定期的に天山東陣地に飛んでくるようになりました。観測機が日本人の姿を見つけたが最後、雨あられのように機銃掃射が飛んできます。
観測機の方向を見定めて身を隠すよりありませんが、判断が一瞬でも遅れれば命はありません。山塞病院はまさに最先端の戦場と化したのです。
毎日、毎日、遺体が積み重なっていきました。
毎日出る遺体から門歯だけを遺骨代わりに保管すると、衛生兵とともに遺体を担架に乗せて運び出し、土穴に合同埋葬するのも看護婦の仕事でした。煙が出れば爆撃されるため、遺体を焼くことなどできません。衣服は生きている人に回すため、遺体はすべて全裸にしてから埋葬されました。
翌日、同じ場所に新たな遺体を運んでいくと、野犬か大トカゲの仕業か、手足を引きちぎられた遺体が連なる無残な光景を目にすることも、珍しくありませんでした。
敗戦投降時のセブ陸軍病院看護婦たち
『あ丶セブ島 : セブ陸軍病院職員の戦場体験記と鎮魂録』富士原義広編(全国セブ戦友会事務局)より引用
観測機が飛んでくるのは昼間だけですが、夜になったからといって静かになるわけではありません。夜間には艦砲射撃が繰り返され、ときどき追撃砲も放たれました。
米軍は戦車を先頭に、いよいよ天山へと進撃してきました。日本軍は夜になると白たすきを掛けた斬込隊を米軍の陣地に送り込みますが、生きて帰ってくる兵はほとんどいませんでした。
迫撃砲の数が増え、米軍の包囲網が狭まっていることが日毎に感じられました。もはや患者を病舎に置いたままでは危険とみた職員は、壕の中に患者を移すことを要請しますが、「戦闘部員で満員だ、這入る壕はないから適当に待避せよ」と拒絶されています。
患者を守るという医の倫理よりも、戦闘員を優遇するという戦場の道理が勝っていたのです。
米軍が迫っていることがわかると、真田部隊長をはじめ、その腹心たちは阿蘇山の第二陣地へといち早く脱出しました。逃げ出す際に、軍医や衛生兵に向けて次の命令が残されています。
「愈々敵も近づいた、病院はこの陣地に最后まで頑張る。逃げ出す者は直ちに射殺する。軍医は勿論、衛生兵のみで編成された戦闘部隊と共に死守せよ」
本来であれば部隊を指揮すべき部隊長自らが安全地帯へ脱げ出し、後に残された部下たちに「病院を死守せよ」と命じていることになります。
今日の価値観から考えれば、とても従う気になれない身勝手な命令ですが、戦時下にあっては上官の命令は絶対です。
残された軍医10名は、憤りながらも理不尽な命令を受け入れました。それでも患者だけは先に逃がそうと、部隊長らが避難した第二陣地へ移動させたいと意見を具申しますが、「あくまで命令通り遂行せよ」と拒絶されています。
もはやこれまでと覚悟を決め、米軍が押し寄せたなら患者を守って玉砕して果てようと誓い合った、そのとき、軍司令部より「セブ防衛軍は作戦上よりひとまず、北部セブの方に転進せよ」との命令が下ったのです。
実は天山の日本軍は、米軍に総反撃を行った上で玉砕して果てるつもりでいたとされています。ところがフィリピンの戦い全体を管轄する第14方面軍の山下司令官は4月13日に、「玉砕すべからず」の電報を発進し、セブ北方地区へ転進(撤退)して戦いを継続することを命じました。
そのため、天山を最後の決戦の場にすると決めていたセブ防衛隊は、急きょ天山陣地を放棄し、北方へ転進することになったのです。
その4.動けない患者に下った自決命令
真田部隊長より山塞病院に対しても転進の命令が下りました。その命令書には患者の整理についての指示も付されていました。
入院患者にとって転進の命令は、あまりに過酷でした。北方へ退却するためには、追撃してくる米軍を振り払って逃げるよりありません。自力で歩ける者はまだしも、必死の逃避行が予想されるなか、歩くこともできない重症患者を担架に乗せて運ぶ余裕など、どこにもありません。
部隊長の命令は独歩患者に対しては「部隊内編成ニ入レ直接戦闘ヲ実施セシム」であり、護送患者以上の患者に対しては「其ノ儘ノ姿勢ヲ以テ戦闘加入(自決)セシム」でした。
つまり、歩ける患者は戦闘員として部隊に組み入れ、歩けない患者はそのまま自決させよ、という意味です。
「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓は、入院患者にも例外なく適用されました。敵の捕虜として捕らえられるよりも、潔く自決して果てることを当時の日本兵は求められていました。
日本兵ばかりではありません。一般の民間人でさえ軍は、捕虜となるよりも死を選ぶことを求めたほどです。
真田部隊長の命令は、あまりに非情に映りますが、あくまで戦陣訓に基づいたものです。
入院患者のなかには、自決命令に従容と死についた将兵もいれば、そうではない将兵もいたことが証言として残されています。
「敵は、もう東谷の稜線に廻っている。明払暁(ふつぎょう=明け方)を期して元気な者は、全員新しい任務につくから、一足先に靖国に行ってくれ」との軍命令を受け入れ、炊事班の心づくしの飴湯を今生の別れとばかりに汲み交わした後、手榴弾を胸に抱き、自決して果てた軍曹らがいました。
手榴弾での自決ができないほどの重症患者や、自決しきれない患者に対しては、下士官と病棟付軍医が立ち合うなか、衛生兵が三八式歩兵銃で射殺して回りました。
月明かりも射さない暗闇のなか、東谷のあちらこちらから悲痛な叫びとともに、米軍の追撃砲に混じって小銃の音が聞こえて来たそうです。
「天皇陛下万歳!」
「お父さん、お母さん、さようなら!」
非業の死を遂げていく戦友の声が耳にこびりついて離れなかったと、悲しい手記が綴られています。
この日だけで百数十名を超える将兵の命が山塞病院で失われました。
昨日まで、その命を救うことだけを望み、医薬品が欠乏するなかで懸命に患者を励まし、必死に治療を行ってきた医師たちが、部隊長の命令によって患者を銃殺する場に立ち会うことを強要されたときの心境は、いかばかりであったことでしょうか。
医師の一人は、戦後、次のような手記を寄せています。
人間の命を救うべき医師が、足手まといになると言う理由での銃殺に立ち合うのである。その命令に異論を挟むことすらできず、従うしかなかった当時の不甲斐なきが悔まれてならない。「命を尊重せよ。知何なる圧力があっても人を殺すな。人を殺すことに知識を貸すな」と言う医聖ヒポクラテスの誓いが胸をしめつけた。
『あ丶セブ島 : セブ陸軍病院職員の戦場体験記と鎮魂録』富士原義広編(全国セブ戦友会事務局)より引用
自力で歩くことのできない入院患者の自決は、セブの戦いで生じた悲劇のひとつです。
部隊長が自決の命令を出すことなく、そのまま患者を放置して転進したのであれば、まもなく進撃してきた米軍に発見され、彼らは捕虜として収容され、手厚い治療を受けられたことでしょう。セブの米軍は、捕虜に対して人道的に接したことが知られています。
そうであれば、米軍の豊富な医薬品と技術によって回復し、生きて日本に帰還を果たせた将兵も数多くいたことでしょう。
もっともそのことは戦後になってはじめて言えることであり、鬼畜米英と叫ばれていた戦時下にあっては、想像さえできないことでした。
南方第十四陸軍病院編成記念(昭和17年8月15日於マニラ、ケルン市)
『あ丶セブ島 : セブ陸軍病院職員の戦場体験記と鎮魂録』富士原義広編(全国セブ戦友会事務局)より引用
南方第14軍陸軍病院の慰霊碑に向けて響く読経の声は、東谷で自決して果てた将兵に届くでしょうか。かつて痛ましい物語があったことを、慰霊碑は静かに語りかけています。
4月16日の深夜、天山にあった日本軍は北方へと撤退を始めました。
4.義勇軍、かく戦えり
その1.玉砕か、軍令に背いて退却か
ところが、あわてて撤退する日本軍とは対照的に、義勇山の地下壕一帯に布陣し、そこを死守するように万城目旅団長に命令された部隊があります。民間人を召集して組織された義勇隊です。
義勇隊の隊長は、当時日本鉱業セブ営業所の責任者であったところを戦況の悪化とともに軍籍に採られた酒井三郎主計大尉でした。
義勇隊は民間人を召集して組織された即席の部隊に過ぎず、結成後に簡単な軍事訓練を受けてはいたものの、本格的な戦闘部隊とは程遠い存在でした。小銃さえ全員には行き渡らず、竹槍のみをもたされた兵もいました。
その義勇隊がこもった義勇山は天山の麓に位置していたため、戦車を押し立てた米軍と最前線で戦う羽目に陥ったのです。
隣接地帯には海軍武官付隊が布陣していました。義勇隊の兵が見守るなか、彼らは肉弾斬込隊として爆弾を抱いたまま米軍の大型戦車に次々と突入していきました。
やがて米軍は艦砲・野砲・迫撃砲による集中攻撃を浴びせた後、義勇山山麓から黒人部隊を差し向けてきました。米軍では明らかに黒人部隊ほど危険な最前線に送り込まれることが多かったことは、よく知られた事実です。そこに人種差別の一端を垣間見ることができます。
義勇隊はタコつぼ型の防空壕に入り、石塊とダイナマイトを入れた自制のたばこ缶に火を付けては、黒人部隊に投げつけ応戦しました。
隣接する海軍武官付隊には軽・重機関銃があったため、黒人部隊も容易には近づけないものの、ジリジリと間合いを詰められ、このままでは全滅を避けられそうにない状況でした。
さらに翌日、酒井を驚かせたのは米軍が6台ほどの大型ブルドーザーを出動させ、義勇山を山麓から根こそぎ掘り始めたことでした。網の目のように張り巡らした防空壕にしても、山自体を崩されてはひとたまりもありません。
旅団命令に従い、このまま義勇隊全員で玉砕して果てるか、それとも撤退をすべきか、酒井は悩みました。
万城目旅団長からは「義勇山を死守せよ、全員玉砕するのが日本男子だ」との会報命令が、義勇隊に下っていました。
しかし、酒井はもともと軍人ではないだけに、部下の命を粗末にすることへの抵抗感を拭えません。悩み抜いた末に酒井は、義勇隊に独断で退却を命じました。
「玉砕せよとの旅団命令が出ています」と心配する部下に対して、酒井は「退却の責任は俺一人でとる。命をたいせつにしろよ」と声をかけています。
軍令に逆らうということは、最悪、死刑に処される危険をはらんでいました。酒井としては死をも覚悟し、あえて軍令に背く道を選んだのです。
その2.怒髪天をつく思い
義勇隊への退却命令を出した直後、酒井は数名の部下を連れて、転進の了解を求めるために旅団本部へ赴きました。
実は先に述べたように、義勇隊を除く旅団隷下の各部隊に対しては、すでに北方への総退却命令が出されていました。
酒井らは、まさか自分たち以外の部隊に退却の命令が下されていたなどとは知るよしもありません。
酒井が旅団本部のあった所に行ってみると、そこはすでにもぬけの殻(から)でした。旅団本部以下のすべての日本軍は、すでに北方へと転進した後だったのです。
酒井は綴っています。
「よーし、おれ達を死守させておいて、旅団全部隊に退却命令を出したのだなっ。」私は怒髪天をつく思いであった。
『傀儡部隊―セブ島義勇隊隊長の手記』酒井三郎著(けん出版)より引用
義勇隊が義勇山を死守して米軍を押しとどめている間に旅団本部が撤退していたことを知り、「シビリアン(民間人のこと)を犠牲にして軍が落ち延びたことになる。それは言語道断だ」と酒井は激しい怒りをぶつけています。
前後して快勝山から撤退した溝口部隊も、天山にある旅団司令部の陣地にたどり着いています。旅団が天山を枕に玉砕するものとばかり信じていた溝口少佐は、森閑として嘘のように静まり返った司令部陣地を見て愕然とします。
米軍の野砲や追撃砲が撃ち込まれた跡は生々しいものの、日本軍が陣地から射撃をすれば当然落ちているはずの薬莢(やっきょう=弾丸の殻)がまったく見当たらないことに激怒します。
そのことは日本軍が一切応戦することなく、米軍が来襲する前にさっさと逃げ出したことを意味しているからです。
さらに溝口の怒りに火を注いだのは、防空壕内の司令官室にウイスキーの空き瓶や使い捨てられた化粧箱が残され、汚れたちり紙までが散乱していたことでした。
清水三郎著『総括 レイテ・セブ戦線 白骨消防兵団の謎』によると、万城目旅団長は南方の島からセブに逃れてきた若い日本人女性を天山陣地に伴っていたそうです。
同書には次のように綴られています。
溝口少佐は米軍上陸後三日三晩に亘る激戦とその間に戦死した一千余名の兵隊を思って号泣した。
「防空壕内に女とともに住み、房事まで行なったのであろうか」と―― 。あり得ぬことではない。それは明日の生命の保証がないまでに追い詰められた際の人聞に、しばしば現象する自棄的な刹那的な欲望の所産なのだ。人にも依るが、このとき捨て鉢な獣性が剥きだされてしまう。『総括 レイテ・セブ戦線 白骨消防兵団の謎』清水三郎著(戦誌刊行会)より引用
ちなみに「房事」とは「性行」のことです。
さらに次のような記述が続きます。
防衛司令官は自分ばかりでなく溝口少佐や他の佐官らにも、女を囲う事を慫慂したという。善意にとればそれは親心だったのかも知れない。然し溝口少佐はそのすすめに従わなかった。レイテに死闘する兵隊を想うとともに、司令官の私行に心服できなかったからだ。
『総括 レイテ・セブ戦線 白骨消防兵団の謎』清水三郎著(戦誌刊行会)より引用
上記文中の「慫慂(しょうよう)」とは、「そばから誘いかけ勧めること」です。
ただし、引用元である溝口の手記には、この防衛司令官の実名が明記されていません。同書は「当時既に軍人としては老境で老眼鏡を使用し、素姓不明の女を常に居室に置いた」という下りから、溝口の直属の最高上官である万城目少将のことであると、結論づけています。
また、義勇隊を率いた酒井大尉の手記では「千城目少将」と記され、やはり幾つかの批判が浴びせられています。手記が出版された当時は、まだ万城目が生存中であったこともあり、配慮が為されたものと考えられます。
『総括 レイテ・セブ戦線 白骨消防兵団の謎』は、当時セブにいた少将は万城目ただ一人であることからも、「千城目少将」が万城目少将を指すことは明らかだと指摘しています。
ちなみに戦地で妾を囲った将校や日本から贔屓(ひいき)の芸者を呼び寄せて盛大な宴会を催した将校など、戦地にあるまじき醜態をさらした日本軍の将校は、まだまだ多くいます。
顕彰すべき立派な将もいれば愚劣な将もいたことが、大東亜戦争の真実です。
旅団本部を追うように、義勇隊も溝口部隊も北方へと転身を遂げました。
5.13歳以下の子供の殺害命令
その1.過酷を極めた北方への撤退
北方への転進は困難を極めました。追撃してくる米軍に加え、クッシング米陸軍中佐が率いるフィリピン人ゲリラ部隊も日本軍にとっての脅威でした。この頃にはフィリピン人ゲリラ部隊は 8,500人を擁す大部隊に膨れあがっていたのです。
北方を目指したのは軍ばかりではありません。南方第14陸軍病院の看護婦はもちろん、民間人の婦女子も軍の後を追いかけていました。
セブに滞在していた民間人の男性は義勇軍として召集されていたため、残るは婦女子のみです。武器を持たない婦女子が自分たちの身を守るためには、軍と行動を共にするよりありませんでした。
旅団各部隊にそれぞれ40~50名の婦女子が配分され、部隊の最後列に連なって北進を続けたのです。
米軍の目を逃れるため、山間の谷間など険しい道を辿らなければなりません。旅団からは「落伍は戦死と思え、後から救援に来ることはできない」との厳命が飛んでいました。
「足を滑らせて谷間に落ちたら最後、誰も助けには行けない、落伍者は戦死と見なす」という意味です。
足下は滑りやすく、ときどき谷底に落ちていく兵もいました。「おーい、助けてくれ」と叫ぶ悲痛な声が下から聞こえても、誰一人立ち止まることなく、先を急ぎました。
米軍は観測機をしつこく飛ばしてきます。そんなとき、少しでも動いて所在がばれると、空からバケツの水をひっくり返したように大量の銃弾が浴びせられました。
身を潜めている木陰のすぐ近くを米軍やゲリラが通ることもありました。その際は息を殺して、じっとしているよりありません。咳やくしゃみをすれば、たちまち体中が蜂の巣にされます。
その2.セブの山野に刻まれた悲劇
ある日のことです。グラマンやロッキードによる空からの爆撃がひっきりなしに行われた直後、観測機が5機ほど上空に飛んできました。
観測機が低空で舞い始めたとき、バナナの葉陰に隠れていた子供が急に大声で叫びました。
「ワァ-ッ、お母さん、こわいょっ……」
横にいた兵が泣きじゃくる子供の口にあわてて手を当てましたが、遅すぎました。
観測機が上空に舞い上がり、すーっと消えるように飛び去った直後、遠雷の轟く音が聞こえたと思った次の瞬間、この世の最後を思わせるように大地は激しく振動し、耳をつんざく爆破音とともに岩石が炸裂し、土煙が立ち上がりました。爆撃は何発も繰り返され、爆音の狭間を縫うように「天皇陛下万歳!」と叫ぶ声が、聞こえました。
野砲や追撃砲が集中して浴びせられた惨状は、言語に絶するものがあったと綴られています。
直径50メートルの範囲は立木も岩床もすべてえぐり取られ、みみず一匹さえ残らず死滅したそうです。恐怖に泣き出した子供も、その母も、周囲にいた兵士たちも、跡形もなくこの世界から消え去っていました。
この惨事があってから1時間も経たないうちに、深間軍政長官から軍命令が出されました。
「十三才以下の子どもを持つ親は、全部自分の手で子どもを殺せっ。」
軍についていた婦女子に対して出された命令でした。
どれだけ大きな恐怖に襲われたとしても、大人であれば声を出せば殺されるとわかっているだけに堪えることができます。しかし、まだ幼い子供たちに、それを要求することには無理があります。
理屈では理解できても、その非情な命令を前に、人間としての感情がさまざまな葛藤を生むのは当然と言えるでしょう。
命令に対する対応について種々の証言が残されていることから、各部隊によってばらつきがあったことがうかがえます。
証言によると、ある部隊では命令を下された母親たちは、子供たちに手持ちの中からもっとも綺麗な服を着せたそうです。子供たちは思いがけず一張羅の服を着られたことに気をよくし、喜びはしゃぎました。そのあと、母親たちは支給された青酸カリ入りのミルクを、子供に飲ませたそうです。
また、ある隊では母親たちが命令に従わなかったため、将校は下士官に「殺せ」と命じました。下士官たちは「私達も日本に最愛の児を残して来た身です。そんな残酷なことはできません。どうか、それだけは許してください」と訴えましたが、上官に逆らうことは軍律上できませんでした。
直ちに穴が掘られ、母親たちは泣きながら子供の手を引いて、命じられるままに穴の前に立たせました。母親が目をつむり固唾(かたず)を呑んだ瞬間、木陰に隠れていた兵士が飛び出し、銃剣の先で子供たちを突き刺し、穴の中へと突き落としました。
周りの子が刺されるなか、異変を悟った子供の一人が絶叫しました。
「お母さん、殺さないで。ぼくまだ歩けるよ。泣かないで歩くから、殺さないで!」
この直前まで母は、子供をときには叱り、ときには励ましながら軍の後を必死に追いかけていました。軍の行軍は早く、婦女子の足では着いていくだけでもやっとです。
「遅れたらすぐ後から来る敵に捕まって殺されてしまうからね、離れずにしっかり軍に付いていこうね。軍と一緒だったら守ってもらえるからね」
おそらくはそのような言葉をかけて、母は子供の手を引いて無理やり歩かせたことでしょう。
だからこそ子供は「ちゃんと付いていくから殺さないで!」と、母に向かって叫んだのです。
そんな子供の願いが、聞き入れられることはありませんでした。
軍の都合で殺されなければならなかった子供たちの死の恐怖と悲しみは、どれほど深かったことでしょうか。
この悲劇を書き留めた戦記には、次のように綴られています。
幼児たちは、自分が少しも悪いことをしてないのに、大人たちは殺されず、自分たちだけがなぜ特別に殺されなければならないのかを、また敵襲や弾丸の飛来におびえて泣くことが、なぜそんなにも悪いことなのかを、永遠に理解することはなかっただろう。
『総括レイテ・セブ戦線―白骨消亡兵団の謎』清水三郎著(戦誌刊行会)より引用
母子が軍を頼って後を追いかけたのは、軍隊は国民を守ってくれるものだと信じていたからこそです。その軍が無垢な子供の命を奪うとは、本末転倒です。
米軍ではなく、日本軍が子供たちを殺したという事実を、私たちは忘れるべきではないでしょう。
理不尽に命を奪われた子供たちにとって、大東亜戦争における日本の大義など、なんの意味ももち得ないことは明らかです。
セブの山野に刻まれた母と子の悲しみは、どれだけ時を経ても癒やされることはありません。
その3.民間人の投降を許さなかった日本軍の罪
子供たちを犠牲に再び北進の途についた旅団各隊ですが、婦女子のなかには我が子を殺してまで軍に付き従うことを拒絶した母もいました。
彼女たちが頼ったのは、民間人で構成された義勇隊でした。軍人ではない義勇隊であれば、守ってくれるかもしれないと考えたのです。
義勇隊の最後尾には、愛児を殺すに忍びず、各部隊から身を隠して逃げてきた婦女子たちが幼児を抱きかかえ、十数名ほど続いていました。
義勇隊とて旅団隷下の部隊であるからには、本来であれば軍命令に従う義務があります。しかし、報告を受けた酒井隊長は「知らん顔をしておれ、ついてくる者を追い払うことはできんよ。面倒を見てやるんだな」と答えています。
このことは軍命令違反として、13歳以下の子供の殺害を命じた深間軍政長官の激しい怒りを呼び込むことになりました。
酒井の手記によると、深間の意を受けた二人の青年将校が「命令を守らん義勇隊長に天誅を加える」と、刺客として酒井のもとに送られたと記されています。
しばらく後、これ以上婦女子を引き連れての北進は無理と判断した酒井は、付き従ってきた婦女子に対し軍に相談することなく独断で、米軍への投降をすすめています。
非戦闘員である婦女子は、投降さえすれば米軍によって手厚い保護を受けられることを酒井は知っていました。酒井の説得に、酒井を信頼する婦女子らはすぐに従うことを決めています。
翌々日の早朝、酒井らが隠れて見守るなか、婦女子たちは竹の先に酒井の真新しい白い越中ふんどしをくくりつけて白旗とし、カルメン市を警備する米軍のもとへ投降しました。
酒井らと婦女子は、終戦後の捕虜収容所で無事に再会を果たしています。義勇隊に付いていった婦女子たちは、幼子を含め全員無事で日本の土を踏むことができたのです。
子供の殺害を命じた日本軍と、米軍への投降をすすめた酒井ら民間人からなる義勇隊とでは、付き従う婦女子の対応をめぐって大きな違いが見られます。
日本軍は「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓を、非戦闘員である婦女子にさえ求めました。婦女子たちから投降するという選択肢を奪ったことは、日本軍の犯した許されない罪です。
なお、子供の殺害を命じた深間軍政長官は、終戦後に捕虜として収容される前に病死しています。婦女子や多くの日本兵の恨みをかった深間の死は、もっぱら天罰が下ったのだと噂されたそうです。
撤退を続ける日本兵や民間人の多くが、追撃してくる米軍の砲撃に倒れました。北ではなく西方に逃れた茂垣老領事も、その一人です。米軍の包囲に最後を悟った茂垣領事は、拳銃で自決しています。
その後まもなく米軍の集中砲撃にあい、茂垣領事と行動を共にしていた日本兵たちは、一人を抜かして全員戦死を遂げました。
義勇隊のその後も、悲惨を極めました。終戦後、捕虜として収容された義勇隊の生存者は、酒井隊長をはじめわずか22名でした。
セブの密林のなかに、日本兵と民間人の多くが散華したのです。その遺骨のほとんどは、未だに収容されていません。
(第2回)招かざる征服者。フィリピン人にとっての日本軍
(第3回)民間人の投降を許さなかった日本軍の罪と子供達の運命
(第4回)観光地サンペドロ要塞近く、名もなき日本軍慰霊碑の秘話
(第5回)日本兵に子供を殺されたキリノ大統領の決断〜戦時と今をつなぐ絆