フィリピンで絶大なる支持を集めるドゥテルテ大統領。対して、反ドゥテルテを掲げるカトリック協会。
フィリピンは世界第3位のカトリック大国であり、フィリピンとカトリックは切っても切り離せない存在です。ドゥテルテ大統領が打ち出す数々の過激な発言と行動。
今回は、ドゥテルテ大統領 対 カトリックと題し、シリーズ第一弾を数回に分けてお届けしていきたいと思います。
1.【反ドゥテルテへ!】カトリック教会がデモを主催
1-1.汝、殺すことなかれ
人口1億人のうちの8割以上がカトリック教徒の国、それがフィリピンです。ブラジル・メキシコに次ぐ世界第3のカトリック大国であり、信者の数ではアジア最大を誇っています。
どれだけ熱心に宗教と向き合っているかにおいても、フィリピンはずば抜けているようです。世界一熱心なカトリック教国ともいわれるほどです。
フィリピン人のものの考え方や日常に、カトリックは大きな影響を及ぼしています。しかし、カトリックが司っているのはフィリピン人の精神構造だけではありません。
カトリック教会は倫理的な面から、フィリピンの政治や経済にも大きな影響を与えています。1986年の2月に起きたエドゥサ革命や2000年にエストラーダ大統領を追い出した際にも、カトリック教会は民衆の決起を促すうえで中心的な役割を果たしました。
政府とカトリック教会との対立は、フィリピンでは度々繰り返されてきました。それは今日でも続いています。
麻薬撲滅戦争をはじめとするドゥテルテ大統領が推し進める政策の数々は、カトリックの教義とは完全に対立しています。教会では信者に向けて「汝、殺すことなかれ」という教えを思い出してほしいとメッセージを流し続けてきましたが、今のところフィリピン人の心には届いていません。
カトリック教会のドゥテルテ批判は、これまで控えめでした。人権を守るための最後の防波堤としての役割を果たしてきたカトリック教会といえども、国民から圧倒的な人気を誇るドゥテルテ大統領を前にしては沈黙せざるを得なかったのです。
折にふれて苦言を述べても、あからさまな行動に出ることは控えてきました。
しかし、2017年2月18日、カトリック教会はついに反ドゥテルテの狼煙(のろし)を上げました。麻薬撲滅戦争で起きている超法規的殺人や死刑制度の復活などに抗議する大規模な集会を、マニラ市のリサール公園にあるキリノ・グランドスタンドで開催したのです。
1-2.反ドゥテルテとドゥテルテ支持の集会
早朝の午前4時から人が集まりだし、ドゥテルテ大統領を批判するプラカードや横断幕を掲げながら「ウォーク・フォー・ライフ(生きるための歩み)」と銘打った行進が行われました。
カトリック司教協議会(CBCP)によると5万人ほどに膨れあがったとされていますが、地元新聞は1万人あまりが参加したと報じています。
参加者の多くは全国にある15の教区から動員された聖職者や信者・学生などでした。バコロド教会のフェリックス・パスキン司祭は、「刑事犯罪者は処罰される必要があるが殺す必要はない」と述べています。
マニラ大司教のタグレ枢機卿も「暴力で対抗すれば暴力を助長するだけ。我々は非暴力で対抗すべき」と参加者に呼びかけました。
この集会には、数日後に麻薬取引の容疑で逮捕されたデ・リマ上院議員も参加していました。
カトリック教会が期待するほどの人出ではなかったものの、カトリック教会がはじめてドゥテルテ大統領の政策を批判する集会を開いたことは、今後の政局に大きな影響を与えそうです。
一方、カトリック教会主催の集会からちょうど一週間後の2月25日、エドゥサ革命31周年を迎えた日には、同じくリサール公園のキリノ・グランドスタンドにて、今度はドゥテルテ大統領を支持する大規模な集会が催されました。
土曜の夕方からはじまった集会は夜を徹して行われ、日曜の昼頃まで盛り上がりました。会場には大きなステージや巨大モニターが設置され、芸能人も駆けつけ、まるでコンサート会場のような熱気に包まれていました。
集会には地方自治体から大量の動員がなされたとはいえ、主催者側の発表によると20万人が参加したとしており、ドゥテルテ大統領の人気の高さを裏付ける結果となっています。
ただし、参加人数についてAFP通信の記者は「20万人も集まっているようには見えなかった」と語っています。
正確な人数は不明ですが、同じ場所で二週にわたり反ドゥテルテとドゥテルテを支持する集会が開かれ、動員数でおよそ10倍の差が開いたことに、現在のフィリピンの国民感情がはっきりと示されています。
1-3.ドゥテルテとカトリック教会との戦い
ドゥテルテ大統領の推し進める麻薬撲滅戦争による死者は、すでに七千人を超えているといわれています。それでも依然として、国民の大多数はドゥテルテ大統領を支持しています。
ドゥテルテは国民に圧倒的に支持されており、反ドゥテルテ派は少数に留まっています。それでも、フィリピン国民の精神に及ぼすカトリック教会の絶大な力を思えば、今後どう転ぶかは見通せません。
なんといっても国民の8割以上が信心深いカトリック教徒の国なのです。カトリックはフィリピン人の生活のなかに溶け込んでいます。過去にも政治に介入してきたカトリック教会の秘めた力には、けして無視できないものがあります。
今後、ドゥテルテ大統領にとって脅威となるのは、政治家ではなくカトリック教会かもしれません。
ドゥテルテ大統領はこれまで麻薬撲滅のための戦いをくり広げてきましたが、これからはカトリック教会との戦いを避けられそうにない状況です。ドゥテルテ大統領にとって、厳しく険しいもうひとつの戦いがはじまろうとしています。
今後のフィリピンを展望するためにも、ドゥテルテ大統領とカトリック教会との戦いから目を逸らすわけにはいきません。
そこで今回から「ドゥテルテとカトリック教会との戦い」をテーマに据えて、フィリピンではいったいカトリック教会にどんな力があり、ドゥテルテとどんな確執があるのかを追いかけてみます。
フィリピンでのビジネスや投資をするうえで、ドゥテルテ政権とカトリック教会との対決軸を考えることは、今後の大きなヒントになるかもしれません。
カトリック教会についての知識があれば、フィリピン留学生がフィリピン人の先生たちと会話をする上でも、大いに役に立つことでしょう。
2.フィリピンに息づくカトリックの行事
カトリックが、いかにフィリピン人の暮らしのなかに溶け込んでいるのかは、フィリピンで行われるフェスティバルを見ればあきらかです。
カトリックはフィリピンを300年に渡って植民地支配したスペインが残していった遺産です。カトリックへの信仰は様々に形を変えながらも、フェスティバルとしてフィリピンに息づいています。
フィリピンで開催される代表的なカトリックのフェスティバルを紹介しましょう。
2-1.マニラのブラックナザレ
毎年1月9日にマニラで開催される「ブラックナザレ(Black Nazarene)フェスティバル」は、カトリック教徒の祭りとしては世界最大級といわれています。
ブラックナザレは、およそ400年前にメキシコからマニラのキアポ教会に伝わったとされる黒いキリスト像を山車に乗せて、市内を練り歩くお祭りです。
1月9日の早朝、リサール公園で首都圏マニラ教区の枢機卿による礼拝がおごそかに行われたあと、山車に乗せられたブラックナザレは50メートルものマニラ麻製のロープを信者たちに引っ張られながら、ルネタ公園やイントラムロスなどマニラの通りを行進します。
行進の列に加わる男性はほとんどが裸足です。十字架を運ぶキリストの苦難に習うためといわれています。
行進の間、ブラックナザレは群衆に取り囲まれ、祭りなのかケンカなのかわからないような怒声が飛び交い、周囲は大いに混乱します。
なぜブラックナザレのご神体が黒いのかについては諸説ありますが、1600年代にメキシコからマニラに運ぶ際、船上で火事にあい黒く焦げたとする説が有力です。それでもブラックナザレは奇跡的に救われ、無事にマニラに到着しました。
このとき以来、ブラックナザレには奇跡を引き起こす力があると信じられるようになりました。そのため、ブラックナザレの行進が始まると、ブラックナザレに触れようと人々が押し寄せるようになったのです。
実際、現代でも奇跡は起きているようです。医者に見放された病に苦しむ人が、ブラックナザレに触れたことで治ったといった奇跡話は、フィリピンではよく耳にします。
今年はイスラム過激派によるテロの標的となる可能性が指摘されており、人出が危ぶまれていましたが、始まってみると例年並みの群衆が押し寄せ、ブラックナザレ周辺は熱狂の渦に巻き込まれました。
テロを警戒して周辺では、遠隔操作による爆弾の起爆を防止するために携帯電話の電波が停止されるなか、ブラックナザレに触れようと100万人以上の人々が殺到し、2人が死亡しています。
ブラックナザレがキアポ教会に帰ってきたのは、出発してからおよそ20時間後でした。カトリック信仰の引き起こす奇跡は、現代に至るもフィリピン人を熱狂させています。
2-2.セブのシヌログフェスティバル
ブラックナザレに引けをとらないほど大きなカトリックのフェスティバルが、毎年1月の第三週目の土日にセブ島で行われています。フィリピン版「リオのカーニバル」とも呼ばれる「シヌログフェスティバル」です。
「シヌログ」は「Sinulog=踊る」の意味です。
シヌログフェスティバルでは2日間に渡ってさまざまなイベントが行われます。なかでも最も盛り上がるのは、最終日に開催されるシヌログ・グランド・パレードです。
参加チームごとに衣装をつくり、軽快なドラムのリズムに合わせて踊ります。
「Pit Senor! Viva Sto. Nino!」と叫びながらストリートを練り歩くダンスの数々は、見ているだけでも楽しいものです。
でも油断していると「ピッサニョール!」と言葉をかけられ、顔などにペンキをかけられますのでご注意を!シヌログフェスティバルには、汚れてもかまわない白服で参加するのが基本です。
華やかなパレードだけを見ていると、シヌログフェスティバルのどこがカトリックと関係しているのかわからないかもしれません。
先の大統領選に出馬していたジョジョ・ビーナイがセブを訪れた際にも、シヌログフェスティバルに対して苦言を呈し、セブの人々のブーイングを浴びる一コマがありました。
セブは実は、フィリピンではじめてキリスト教が伝わった地です。スペイン王国の依頼を受けたポルトガル人の探検家フェルディナンド・マゼランは、1521年4月にセブにやって来ました。
島の住民にキリスト教を広めることが表向きの目的ですが、侵略のための物見としての役割も果たしていました。
マゼランの説得により、セブの王ラジャ・フアボンと妻ハラ・アミハンはキリスト教に改宗し、洗礼を受けています。このとき、マゼランがアミハンに贈ったのがキリストの幼少期を表した像である「サント・ニーニョ」です。
サント・ニーニョ像は、フィリピン最古の教会であるサント・ニーニョ教会に今も置かれています。
それ以来、セブの守護聖人は「サント・ニーニョ・デ・セブ」と定められました。
シヌログフェスティバルの最中によく聞こえてくる「セニョール」は、この「サント・ニーニョ」のことで、聖なる子供イエスを指しています。
ですから、ダンスをしながら叫ぶ「Pit Senor! Viva Sto. Nino!」は、「聖なる子供イエスよ我にお力を!主イエス・キリスト万歳!」といった意味になります。
シヌログのダンスを一番はじめに見せたのは、セブ王ラジャ・フアボンの顧問を務めたBaladhayといわれています。
Baladhayは重い病気に伏せ、死期が迫っていると言われていましたが、サント・ニーニョや他の異教の神々が展示されている場所に運んだところ、奇跡が起きます。
病はすっかり失せ、Baladhayは叫び声を上げながら水流の前後運動に似たダンスを元気に踊りはじめたのです。のちにBaladhayは、サント・ニーニョが病を治してくれたと語っています。
Baladhayの奇跡にあやかろうと、カトリックの信者たちはBaladhayの見せたダンスを真似するようになりました。2ステップ前に進み、1ステップ戻るという独特のシヌログダンスはこうして生まれたとされています。
しかし、その一方で、マゼラン到着以前にもフィリピン人が現地の神々を敬うために、すでにシヌログダンスを踊っていたとする説もあります。
キリスト教が伝来する以前のフィリピンでは、当然のことながら土着の神々が敬われていました。
キリスト教にとってこれらは異教の神々であり悪魔ですが、布教が始まったばかりの頃は、異教徒の神々を利用しながら信者を増やしていくことが、キリスト教を広めるための手口でした。
豊かな異教の歴史とキリスト教の伝統を結びつけることを目指し、シヌログフェスティバルは1980年よりはじまりました。
ただし古い記録では1565年にセブのトゥパス村にて、サント・ニーニョを祝すはじめてのパレードが行われたとされています。
シヌログフェスティバルには世界中から観光客が押し寄せます。例年100万人以上の人々が集まり、セブは祭り一色に塗りつぶされます。かつては訪問者が400万人に達したとも記録されています。
フィリピンの伝統的な神々とカトリック教とが、シヌログフェスティバルでは見事に溶け合っています。
2-3.イースタ祭りにみなぎる熱狂
2-3-1.レントと灰の水曜日
フィリピンで行われるカトリックの年中行事といえば、クリスマス・万聖節・フィエスタ・イースターの4つです。このなかで最も大切とされ、盛大に行われるのがイースターです。
クリスマスではイエスの生まれた日を祝いますが、イースターではイエスの復活した日を祝います。イースターは春分の後、はじめて満月となったあとの日曜日に行われます。
そのため毎年開催日は異なりますが、3月か4月に必ず行われます。
フィリピンのイースターに身を置くと、フィリピンが紛れのないカトリック国であることを実感できます。
イースターの行事は、その年のイースターの日の6週間半前(46日前)からはじまります。これを四旬節(レント)と呼びます。
レントの初日が「灰の水曜日」です。この日信者は教会に出かけ、司祭の手で灰を使って十字架の印を額につけてもらいます。この灰は、前年のイースターで用いたヤシの葉を燃やした灰にオリーブ油を混ぜたものです。
この風習は旧約聖書の故事に基づいて行われており、灰を額につけることで罪の悔い改めを意味しています。カトリック教徒にとってレントは自らの罪を懺悔(ざんげ)し、悔い改めるための期間なのです。
仕事で休みをとれない人も、この日は昼休みなどになんとか都合をつけて教会に赴きます。額についた炭は自然に消えるまで、そのままにされます。
この日とレント期間中の金曜日は、十字架にかけられたイエスの受難に思いを馳せるために一日中断食する人もいます。
2-3-2.ホーリーウィークとパション
イースターの一週間前からホーリーウィーク(聖週間)がはじまります。初日の日曜日は「枝の主日」と呼ばれます。
この日はどこの教会でも、朝早くから信者がヤシの葉を編み上げた枝を手に小礼拝堂に集まってきます。司祭に聖水を振りかけられたあと、司祭とともに信者らは教会堂へと行列をつくります。
これは「イエスがエルサレムに入場した際、群集がシュロの枝を振りながら歓声を上げて迎えた」という聖書の故事に習ったものです。
このとき使われたヤシの葉を編み上げた枝は信者が家に持ち帰り、無病息災のお守りとして室内に飾ります。この枝には悪霊を追い払う力があると信じられています。
1年が過ぎ乾ききった枝は翌年の「灰の水曜日」の前に教会に奉納され、その年の灰をつくる原料になるのです。
ホーリーウィークの期間は、パションと呼ばれるキリスト受難詩を読み上げる声が、通りを歩いているだけであちらこちらの家から聞こえてきます。ことに伝統的なのは、黒服の老女たちが祭壇の前に座して交互にパションを朗読する歌声です。
パションの読み上げは、フィリピンのイースターでの風物詩となっています。
「パション」はもともとイエスの受難の生涯を五行で綴った叙事詩のことです。フィリピンではイエスの生涯を、聖書の代わりにパションを通して学ぶことが普通です。このあたりの事情は、ヨーロッパのカトリック教徒とは大いに異なります。
フィリピンのカトリック信者は、そのほとんどが聖書を持っていません。ことに農村部においては自宅に聖書をもつ家は、数えられるほどわずかです。
そのため、キリスト教徒でもない日本人が世界史を習う課程で身につけた聖書の知識さえ持ち合わせていないフィリピン人が、案外多くいます。
聖書よりも、パションや聖人ごとの祈禱(きとう)書が広く用いられていることに、フィリピンのカトリックの特異性があります。
パションの詠唱は聖金曜日まで夜を徹して行われることもあります。その間は、眠気と喉の渇きとの戦いが待っています。
パションを読み続けるという苦行を通して、イエスの受難の苦しみと聖母マリアの悲しみを我が事のように体験することが求められるのです。
多くの街ではホーリーウィークの間、イエスの受難を表した像や絵画などを中心に14ヵ所の聖壇が設けられます。信者は数十人ごとに列をなしてこれを巡ります。
「十字架の道行き(Stations of the Cross)」です。
さらにパションをドラマ化した「セナクロ」と呼ばれる劇が、劇団や街の人々によって演じられ、イエスの生涯は何度も何度もフィリピンの人々に追体験されます。
2-3-3.聖木曜日から復活祭まで
木曜日から土曜日までの3日間とイースター当日の日曜日をあわせて、フィリピンは4連休に入ります。聖木曜日はHoly Thursday です。
イエスの最後の晩餐(ばんさん)を記念して「ビシータ・イグレシア」と呼ばれる教会巡りが行われます。
聖金曜日は Good Fridayで、イエスが十字架に磔(はりつけ)にされた日です。こんな日がなぜ “Good”なのかといえば、イエスの受難によって全世界の人々の罪があがなわれたからです。
イースターでもっとも盛り上がるのは聖金曜日です。教会内ではキリストが最後に述べた7つの言葉が朗読されます。その演出は極めて荘厳に行われるため、感激して涙を流す人が多く見られます。なかには興奮のあまり卒倒してしまう人もいるほどです。
聖金曜日からイースターまで、フィリピンのすべてのキリスト教会の十字架は布をかけられて隠されます。1年に1度だけ訪れる、キリストのいない日が聖金曜日なのです。
夕方になると、黒い棺に横たわるイエスの聖像を中心に黒衣に身を固めた人々が、街中を行進します。イエスの葬列です。
聖土曜日は Black Saturdayで、復活徹夜祭が行われます。土曜日の深夜から教会では、イエスの復活を祝うミサがはじまります。
イエスが復活したとされる真夜中になると、聖水曜日以来沈黙を守っていた教会の鐘がいっせいに鳴り響きます。続いてハレルヤの大合唱が教会内におこり、イエスの復活が高々に宣言されるのです。
日曜は Easter Sundayで、いよいよ復活祭です。復活を遂げたイエスと聖母の像が掲げられ、パレードが行われます。
このようにレントまで含めて46日間に渡り、フィリピンではイースターの儀式が毎年盛大に行われています。
イエス・キリストの受難というパションのもつ悲劇と復活の喜びに、フィリピン全土が包まれるのです。
2-3-4.血まみれのイースター
フィリピンには、世界のどのキリスト教国にも見られないフィリピン特有のイースターの行事があります。
中部ルソンのいくつかの村や町のみで見られる儀式ですが、イースターの季節になると世界中のさまざまなメディアに取り上げられることで有名です。
それは、キリストの受難を追体験しようとする儀式です。熱心なカトリック信者や噂をききつけて海外から駆けつけた外国人が、この儀式に参加します。
彼らはローマ風の衣装に身を包み、大きな十字架を肩にかつぎながら裸足で街中を歩いて行きます。その前後にはローマ兵に扮した市民が寄り添い、ときには鞭でその背中を打ち据えます。
十字架をかつがないまでも行列に加わり、自分で自分の背中を鞭打つ人々もいます。
彼らの背中は鮮血に染まり、見ているだけでも痛々しさが伝わってきます。
やがて一団はゴルゴダの丘に見立てた処刑場にたどり着くと、囚人を十字架の上に押し倒し、両手と両足に本当に長い釘を打ち付けます。その瞬間、囚人たちは悲鳴をあげたり、苦痛に顔を歪めます。
そのあと十字架は立てられ、およそ十分間、彼らは苦痛にうめきながら磔(はりつけ)にされるのです。
こうした血まみれの儀式を通してイエスの受難を我が身で体験することにより、神のご加護を得られると彼らは信じています。
カトリック教会では、この残酷な儀式をやめるように呼びかけていますが、信者は聞く耳をもちません。
「苦行と自傷は違う」とサン・フェルナンド教区のアニセト・パチアノ大司教は戒めています。
「聖霊を宿す教会こそが身体であり、自分の体を傷つけても意味がない」と教会がいくら呼びかけても、「これは、神と私を結びつける至高の体験であり、無上の喜びだ」と、信者は教会の掲げるキリスト教学には関心がない様子です。
もちろん、このような残酷な儀式はフィリピンのなかのごく一部で行われているに過ぎません。
しかし、フィリピンのなかではカトリックの教えとしてのイエスの受難の物語が、イースターやパションを通して信者一人ひとりの心のなかに深く浸透しています。
世界のカトリック教徒と比べても、パションにこれほどストイックなまでの情熱を注ぐことにおいて、フィリピン人はずば抜けています。
普段はフィリピンを歩いていても、この国がカトリックの国であるという実感はほとんど得られません。
しかし、イースターやブラックナザレ・セブのシヌログフェスティバルなどの行事を目の当たりにすると、カトリック国としてのフィリピンが嫌でも浮き上がってきます。
カトリックはこれほどまでにフィリピン人のなかに、しっかりと根を下ろしているのです。
3.生活に生きるカトリックの教え
3-1.「バハラナ」に見るフィリピン人の楽観主義
カトリックの信仰は、なにもフェスティバルとのときだけに強調されるわけではありません。日曜日に礼拝に行くことは当然として、地方では毎日夕方になると教会に赴く信者が数多く見られます。カトリックはフィリピン人社会を支える基盤になっています。
カトリックの教えもまた、フィリピン人の暮らしのなかに根付いています。なかでも最もフィリピン人の国民性に大きな影響を与えているのが、バハラナ(bahala na)症です。
バハラナというタガログ語の語源は、スペイン語の「ケセラセラ」です。日本語に訳すのは難しいのですが、「神様がなんとかしてくれる」「明日は明日の風が吹く、なんとかなるさ」といった意味になります。
フィリピンの人は自分ではどうにもできない不幸や悲劇に見舞われたとき、必ずと言ってよいほど「バハラナ」と口にします。
「バハラナ」はどんなに辛くても神様がきっとなんとかしてくれる、という希望の言葉でもあり、こうなったのは自分のせいではない、すべては神の計画なのだというあきらめの言葉でもあります。
「バハラナ」には良い面と悪い面のふたつがあります。良い面としては、「バハラナ」がフィリピン人をたくましいまでの楽天家に育てていることです。
どんなに辛い目にあっても、フィリピンの人は希望を捨てません。今という瞬間を楽しむことをなによりも愛し、陽気さを保とうとします。
フィリピン人に共通する底抜けの陽気さは、踏まれても踏まれても太陽に向かって伸びていく雑草のようなバイタリティに裏打ちされています。
しかし、その一方で「バハラナ」は自分で何とかしようとする「計画性」や「努力」という言葉をフィリピン人から遠ざけてきました。
神様がなんとかしてくれるという思いが強すぎるため、自分でこれからのことを計画したり、慎重に物事を考えて行動することが、フィリピンの人たちは大の苦手です。
そのことをよく表しているのが、給料の支払日が月に2回設けられているというフィリピン特有の事情です。
なぜ、給料を2回に分けて支給しているのかわかりますか?
別に支払うお金がなくて2回に分けているわけではありませんよ。その理由は「2回に分けないと、ほとんどのフィリピン人は生活できなくなるから」と言われています。
なぜならフィリピンの人たちは、お金が手元にあれば後先考えずにすべて使い切ってしまうからです。日本で言えば江戸っ子の「宵越しの金は持たない」気質とよく似ています。
将来のために貯蓄をするという考え方自体が、フィリピンではあまり一般的ではありません。明日のことを考えずに、いま手元にあればきれいに使い切ってしまうのが、フィリピンの多くの人に共通している傾向です。
月に2回給料日があると、使い切った頃に給料が支給されるため、なんとか生活が成り立つわけです。
将来に備えて蓄えることが当たり前の多くの日本人からは、こうしたフィリピン人の計画性のなさは危なく見えて仕方ないようです。
でも必ずしも、それが悪いことと言えない面があります。フィリピン経済を支えているのは、フィリピンの人々による大量の消費だからです。消費が増えるほど経済は発展する、これもまた真実です。
現在の日本は、この逆で苦しんでいます。日本人の大多数はお金をもっているにもかかわらず将来に備えて消費しないため、国内の経済は冷え込んだままです。
経済学者の多くは、日本人が活発に消費するようになれば国内経済はたちまち活気を取り戻し、長引くデフレからも抜け出せると予測しています。
もし日本人が、フィリピン人の半分ほどでも消費活動に励むようになれば、事態は大きく変わることでしょう。
このようにカトリック信仰から生まれた「バハラナ」は、フィリピンに生きる人々に功罪両面をもたらしています。
しかしバハラナの思想を、フィリピン人が単にカトリックの教えに傾倒しすぎたために生まれたと見ることにも問題があります。
400年に渡る植民地支配のなかで宗主国の人々に奴隷同然の暮らしを強いられ、自分でどれだけ努力してもそこから抜け出せないという現実の重みが、フィリピンの人々に「バハラナ」という国民性を植え付けたのです。
フィリピンに横たわる抵抗の400年の歴史が、「バハラナ」を育んだといえるでしょう。
激しい貧困にさらされる悲劇のなか、「バハラナ」と唱えてすべてを神に任せることは、フィリピンの人々にとっての最後の救いだったのです。
「バハラナ」がフィリピン人を救っていることは、フィリピンの自殺率の低さにも表れています。
2015年に行われた世界保健機関による自殺率の国別比較において、フィリピンは10万人中2.9人に過ぎず、170カ国中の150位でした。
ちなみに日本は10万人中18.5人で17位でした。この数字は国ごとの年齢構成を補正した上で算出されているため、かなり信用できます。
日本とフィリピンにおける自殺率の差を宗教だけに求めることはできませんが、少なくともフィリピンでは「バハラナ」の思想と自殺を堅く禁じているカトリックの教えとが相まって、世界でもきわめて自殺率の低い国になっていることはたしかです。
「バハラナ」こそは、フィリピン人の国民性を決定付けるキーワードです。
いかがでしたでしょうか?
今回は、フィリピンとカトリックの関係性についてお話をしてきました。
次回はカトリックが推し進める離婚と中絶の禁止についてお話ししていきたいと思います。
フィリピンとカトリックが推し進める離婚と中絶の禁止
ドゥテルテを支える「イグレシア・ニ・クリスト」とは
カトリックがもたらすフィリピン経済 光と闇
人口増加はどこまで進む?政府とカトリックの壮絶な戦い
コメントは締め切りました。