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留学マナビジンセブ島留学【特集】フィリピンの政経と歴史なぜフィリピンは親日なのか?【第1部】ホセ・リサールと皇太子夫妻の物語

なぜフィリピンは親日なのか?【第1部】ホセ・リサールと皇太子夫妻の物語

観光がより楽しくなるフィリピンとセブ島の歴史」について全11回にて紹介しましたが、その外伝として、「ホセ・リサール」と「皇太子夫妻」が日本とフィリピンを友好の絆で結びつけたエピソードについて、2回に分けてお伝えします。

ホセ・リサールと皇太子夫妻が繋ぐ日比友好の絆

第1部 ホセ・リサール編

1.「憎悪」から「赦(ゆる)し」へ

毎日新聞より引用

2016(平成28)年1月26日から30日まで、当時の天皇・皇后両陛下(現在の上皇上皇后両陛下)がフィリピンを訪問したことは、まだ記憶に新しいことでしょう。

フィリピン訪問の目的として掲げられたのは、国交正常化60周年の国際親善と、第二次世界大戦における日本人犠牲者、およびフィリピン人犠牲者のための「慰霊」です。

アメリカと開戦した日本軍は、アメリカの植民地であったフィリピンに侵攻し、これを占領しました。その後、フィリピン奪還を目指す米軍と激しい戦いを繰り広げたことにより、約51万8000人の日本人がフィリピンの地で散華しています。

単一の戦域としては大戦中最大の犠牲者数を記録したことになります。日本にとってフィリピンの戦いが、第二次世界大戦における最大の激戦地と言われる由縁です。

一方、フィリピン人の犠牲者は111万人とされています。そのほとんどは民間人です。フィリピンの人々にとっては、彼らが生活を営む地で日米両軍が戦ったばかりに巻き添えとなり、命を落としたことになります。

日本軍政下の過酷な圧政と日本軍によって甚大な犠牲(実際には米軍の空爆などによる犠牲者も多くいた)が生じたことは、戦後まもなくの頃におけるフィリピン人の対日感情を、憎悪で満たしました。

戦後にフィリピンで行われたBC級戦犯裁判の結果を見ても、フィリピン人の怒りがどれほど深かったのかを感じ取れます。訴追された151人のうち、実に9割以上に当たる137人が有罪となり、そのうちの6割に当たる79人に死刑が宣告されました。

日本以外で戦犯裁判が開かれたのはフィリピンだけです。他の東南アジア諸国とは異なり、フィリピン人の対日憎悪には相当根深いものがあったのです。

しかし、戦後の日本とフィリピンの関係を追いかけてみると、フィリピン人の対日感情が憎しみから赦しへと次第に転換していったことが見てとれます。

その契機となったのは、1953(昭和28)年7月にフィリピンのエルピディオ・キリノ大統領が、死刑囚56名を含む日本人戦犯105名全員の恩赦を行ったことです。

キリノ大統領自身、まだ幼かった子供3人と妻をマニラ市街戦の折に日本軍に殺害された過去を背負っていました。個人的な憎悪を乗り越え、恩赦によって戦犯全員を日本に帰したことは、日本国民に大きな感動を与えました。

キリノ大統領の英断は、憎悪一辺倒だったフィリピン人の対日感情を「赦し」という大河へ導く初めの一滴となったのです。
関連リンク:セブ慰霊の旅(第5回)日本兵に子供を殺されたキリノ大統領の決断

とはいえ、「許すことはできても忘れることはできない」と度々指摘されたように、積もり積もった対日憎悪を溶かすのは容易なことではありません。フィリピン国民の意識を変えるには、何か大きな転機となる出来事が必要でした。

その転機は、1962(昭和37)年の11月に訪れました。当時の皇太子夫妻(現在の上皇上皇后両陛下)によるフィリピンご訪問がそれです。

未だ反日感情が強く漂うフィリピンを皇太子夫妻が訪問することに対しては、多大な懸念が寄せられました。訪問先の一つであるフィリピン大学にて反日デモが計画されていると報道されるなど、フィリピンは実際に不穏な空気に包まれていました。

ところが、ご訪問を終えてみると、意外な結果が待っていました。フィリピンの有力新聞である The Manila Times には「アキヒトの公式訪問は予想もしなかった成功」と題する記事が掲載され、「もっとも成功した公式訪問」のひとつであると賞賛されたのです。

皇太子夫妻のフィリピン訪問を機にフィリピン人の抱えていた反日感情は和らぎ、両国の関係は憎悪から友好へと大きな方向転換を遂げました。

では、先の大戦で培われたフィリピン人の対日憎悪の感情は、皇太子夫妻の訪問によって、なぜ緩和されたのでしょうか?

2.ホセ・リサールが取りなした日比親善

この謎を解く鍵は、皇太子がフィリピンにて行ったスピーチにあります。フィリピンにて皇太子夫妻がどのような発言をするのか、世界中のメディアが関心を寄せていました。

もし、皇太子夫妻がフィリピン人の神経を逆なでするような不用意な一言を漏らすようなことがあれば、日比関係は最悪の状態に陥るだろうと危惧されていたのです。

それだけに皇太子のスピーチについては、入念な事前調査と打ち合わせが為されたに違いありません。その結果として皇太子は、あるフィリピン人に脚光を当てたスピーチを組み立てました。

その人物とは、ホセ・リサール、言わずと知れたフィリピンの生んだ国民的英雄です。

皇太子夫妻のフィリピンご訪問が大成功を収めたのは、皇太子がフィリピン人に向けたメッセージを語る際に、ホセ・リサールと日本との関わりにふれたことが大きな影響を及ぼしています。

フィリピン人の誰もが敬愛するホセ・リサールが日本を愛し、近い将来、フィリピンと日本が友好関係を結ぶことを望んだという事実は、フィリピン人の心の琴線を震わせました。

そのことがフィリピン人の抱える頑(かたく)なな対日憎悪を「赦し」へと変え、日比友好の絆を結ぶ架け橋となったのです。

まさにホセ・リサールこそが、日本とフィリピンを友好の絆で結びつけた張本人といえるでしょう。

1962(昭和37)年11月6日、マニラ空港に到着した皇太子は、空港にて次のような挨拶を述べました。

「貴国の英雄の言葉に従えば『東洋の海の真珠』であるこの国を自分自身の目で見ることが私の宿願でありました。私はこの宿願がただいま実現いたしましたことを喜んでおります。」

ここでは皇太子は「貴国の英雄」という言葉を用い、あえてホセ・リサールの名前を出していませんが、フィリピンを「東洋の海の真珠」と表現したのがホセ・リサールであることは、フィリピン人であれば子供でも知っています。リサールが処刑される直前に書き残した『最後の別れ』と題された詩のなかに出てくる有名な言葉だからです。

その一節は次のとおりです。

最愛の祖国、太陽の寵愛(ちょうあい=特別に可愛がること)ふかき土地。
東海の真珠(東洋の海の真珠)、われらの失うた楽園。
いまよろこんで私は、この消えゆく生命の真髄(しんずい=物事の中心・精神ともいうべきもの)を汝に与える。
たとえそれが一層の光輝、前途、祝福に富もうとも
惜しまず私は、汝に与えるであろう。

日本に来た五人の革命家』木村毅著(恒文社)より引用 括弧内は筆者追記

リサールの『最後の別れ』から「東洋の海の真珠」の一句が引用された皇太子のメッセージを受け、各国の新聞記者は度肝を抜かれたと伝えられています。一般的な社交辞令の枠を超える、あまりにも斬新なメッセージだったからです。

このメッセージによって日本の皇太子夫妻に向けるフィリピン国民の関心は、一気に高まりました。なぜ、日本の皇太子がホセ・リサールの詩を引用したのか、多くのフィリピン人は不思議に思ったのです。

その答えは、マラカニアン宮殿で行われた大統領による晩餐会の席上で明かされました。答辞のためのメッセージにて、皇太子は次のように語っています。

「昨年貴国の国民的英雄であるホセ・リサール博士の生誕百年記念祭にさいし、同博士が、日本にこられたとき滞在された東京の中心地に、同博士の記念碑がつくられました。この碑は、自由と独立の崇高な大義のために捧げられたフィリピン国民にたいする、日本国民の心からの尊敬をあらわすものであります」

Jose Rizalホセ・リサール公園
フィリピンにあるリサール公園

皇太子のスピーチはフィリピンのメディアを賑わせました。リサール公園を筆頭に、リサールの像はフィリピンのどんな田舎の広場にも建立されています。そのリサールの記念碑が東京にもあることを、皇太子のスピーチによってフィリピン人の大半は初めて知ったのです。

折しもリサールの遺稿が発見され、日本について書かれた手記が紹介されたことにより、リサールが日本に2ヶ月ほど滞在していたこと、日本の風土や歴史、文化をリサールがこよなく愛していたことがフィリピン人の知るところとなりました。

それは先の大戦中に多くのフィリピン人が感じた日本人像とは、あまりにかけ離れていました。そのことはフィリピン人に、大戦中に彼らが見た醜悪な日本人だけが日本人のすべてを表しているわけではない、という気づきを与えました。

手紙や日記を通して、リサールは冷静に日本という国を観察し、日本国と日本人に対して最上と言っても差し支えないほどの親和感を抱き、敬愛の思いを抱いていることを明らかにしています。

彼らが大戦を通して鬼畜のように感じていた日本人のことを、リサールは平和を愛し、温順かつ勤勉であり、将来性の高い国民だと綴っています。

すべてのフィリピン人に深く敬愛されているリサールの言葉は、理屈を超えた共鳴を一人ひとりのフィリピン人にもたらしました。

「戦争という非常時に接した日本人像と、リサールが見た平和時の日本人像とは、どうやら大きく異なるらしい」、「本来の日本人は穏和で慎み深く、我々と良好な関係を保てる国民のようだ」との思いを、多くのフィリピン人が持つようになったのです。

さらにフィリピンご訪問の際に見せた皇太子夫妻の立ち居振る舞いが、フィリピン人の抱えていた日本人に対する憎しみや怒りの炎を次第に静めていきました。

リサールが処刑された地に建つ記念碑を前に花輪を捧げ、フィリピン人無名戦士の墓前で深く黙祷(もくとう)し、病床にあったアギナルド将軍をカヴィテの自宅に訪ねる姿は、フィリピン人の多くに好意的な印象を与えました。

「チャーミング」と形容された皇太子妃の微笑も、フィリピン人の抱く悪い日本人感を一掃しました。従来の慣行を破り、皇太子が平民の妻を迎えたことが世界中のメディアで賞賛されたことで、皇太子妃は一際注目を浴びました。着物姿の皇太子妃の美しさがフィリピンの人々を魅了したことも、反日感情を和らげた理由のひとつです。

皇太子夫妻による尽力とホセ・リサールの好意的な日本人観が、日比関係を憎悪から友好へと塗り替えたことは間違いありません。

日比谷公園に建つホセ・リサール像と碑は、日比関係の改善に大きな役割を果たしたといえるでしょう。

それにしてもリサールは、なぜここまでフィリピン人に慕われているのでしょうか?

3.なぜリサールはフィリピン人に敬愛されているのか

ホセ・リサールがフィリピン革命の象徴的な存在であることについては、本編にて紹介しました。

もともと言語も文化も異なる多民族が暮らす700を超える島々をスペインによって無理やり「フィリピン」という一括りにされたため、フィリピン諸島に生まれた人々には同一民族としての意識が欠けていました。そのため広範囲に団結することもなく、300年以上にわたりスペイン人の奴隷としての境遇に甘んじてきたのです。

そのような差別に対して理不尽だと怒り、フィリピン人とスペイン人の違いは単に教育を受けているか否かに過ぎず、能力的には何ひとつ違いはないとし、平等の権利を有すると訴えたのがリサールです。

リサールは自著を通して、私利私欲を剥き出しにしてフィリピンを支配する修道会の腐敗ぶりを暴き、スペインからフィリピンを解き放ち、フィリピン人自らが国を治めるべきだと、人々を啓蒙しました。

リサールが命をかけて訴えたフィリピン独立の夢は、フィリピン人一人ひとりの胸に希望を灯し、やがてフィリピン全土を革命の機運で覆い、ついにスペインからの独立を成し遂げるに至ります。

その意味では、まさにフィリピンという国家を地上に誕生させた一番の功労者は、ホセ・リサールだといえます。すべてのフィリピン人がリサールに向ける敬愛の念の大きさは、日本人の想像をはるかに超えています。

その功績だけでも十分に偉大なリサールですが、さらに様々な天賦(てんぷ)の才を持ち合わせていたことが、国民的英雄としてのリサールをより魅力的にしています。

リサールはよく「フィリピンのレオナルド・ダ・ヴィンチ」と呼ばれています。ダ・ヴィンチと言えば絵画の才能はもちろん、科学・発明・数学・解剖学・音楽など多くの分野で天才の名を残したことで有名ですが、リサールも負けてはいません。

優れた小説や詩を残していることからわかるように文学者としても詩人としても超一流の才に恵まれ、職業として選んだ医学の道でもヨーロッパから注目されるほどの功績を残しています。そのくせ貧しい人々からは、料金を取らなかったことは有名です。まさに「医は仁術(じんじゅつ)なり」を実践した医者でした。

絵画や彫刻にも秀でる一方、剣術の達人、射撃の名人としても名を残しています。言語能力にも優れ、22カ国の言語を流暢に操ったと言われています。そのうちのひとつは日本語です。わずか2ヶ月の滞在中に、日常会話をはるかに超えるレベルの日本語を習得したとされています。

歴史学者としても大きな功績を残しました。当時、スペインが植民地化する以前のフィリピンは野蛮であったと信じられていました。リサールはそのことに疑問を抱き、古い文献を読み漁ることで、真実の歴史を掘り起こすことに成功します。

スペインに征服される以前のフィリピンには、固有の宗教と文化があり、近隣諸国とも盛んに貿易を行っていたことを突き止めたのです。この発見により、「かつては楽園であったフィリピンを侵略し、不当に貶(おとし)めたのがスペインである」という歴史の真実が暴かれ、フィリピン人の抱えていた劣等感が拭い去られました。

これだけの才能に恵まれながら、幼少の頃より紅顔の美少年としてもてはやされたとなれば、天はまさに二物も三物もリサールに与えたことになります。現代で言うところの「イケメン」であったらしく、リサールの生涯に登場する三人の女性とのロマンスは、今でも小説やドラマ・映画の題材となり、フィリピンの人々に親しまれています。

その三人の女性のうちの一人が日本の「おせいさん」です。短期間の滞在中に芽生えたリサールと日本人女性との悲しいロマンスは、フィリピンではかなり有名です。そのこともまた、フィリピン人が日本人に親近感を覚える理由のひとつになっています。

リサールがおせいさんに向けて綴った詩の一部を紹介しておきます。

「私が今なお、こんなにもあなたの事を思ひ続け、あなたの映像が私の記憶の中に生き続けていることを、あなたは知らないでしょう。これからも私は絶えずあなたのことを思い続けることでしょう。あなたの名は私の唇からもれる吐息の中に住み、あなたの面影は私の物思いにまつわり、そして霊感をあたえてくれます」

リサールは日本でおせいさんと暮らすことを真剣に考えたようです。しかし、祖国フィリピンに革命を起こして同胞を救いたいという情熱をどうしても捨て去ることはできず、日本を後にします。

リサールの高名な研究者は次のように綴っています。

「彼女の愛らしさはリサールの足を日本に留めてしまいかねなかった。悲劇的な彼の生涯の中に最も詩的な中幕の一節をなしている。彼女にリサールは、その青春の思い出の最後の章をささげた」

マニラのサンチャゴ要塞のなかにリサール記念館が建てられていますが、そこはリサールが処刑されるまで最期の日々を過ごした要塞イントラムロスがあった場所です。リサール記念館には、おせいさんの大きな肖像画が掲げられ、束の間のロマンスを来場者に今も伝えています。

リサールがフィリピン革命に火をつけた功績、様々な分野にわたって発揮された才能、生涯を彩る恋の物語、凶弾に倒れた劇的な生涯、それらすべてが相まってホセ・リサールをフィリピン最大の国民的英雄へと押し上げたといえるでしょう。

フィリピンでは1956年に「リサール法」が制定されています。この法律により、フィリピンの全ての学校においてリサールの生涯と、その著作について教えることが義務づけられました。だからこそ、フィリピン人でリサールを知らない人は皆無なのです。

フィリピン国民にこれほど敬愛されるホセ・リサールだからこそ、リサールの語った言葉はフィリピン人にとって大きな意味をもちます。リサールが寄せた日本への親近感と友愛の気持ちに多くのフィリピン人が共鳴することで、今日に続く日比友好の礎が築かれたのです。

フィリピンを訪ねた際は、フィリピン人にホセ・リサールの話題をぜひふってみてください。リサールについて喜んで話してくれるはずです。あなたが日本人だとわかれば、きっと「おせいさん」の話も飛び出すことでしょう。

4.リサールの記念碑にまつわる友情の物語

日比谷公園にホセ・リサールの記念碑が建立された背景について、軽く紹介しておきます。現在、日比谷公園にあるホセ・リサールの胸像はリサールの日本滞在百周年にあたる1998年に建立されたものです。

ホセリサール像 日比谷公園(引用元:ニュータウン・スケッチ)
引用元:https://newtown-sketch.com/

先に紹介した皇太子のスピーチにあった「リサール博士の記念碑」とは、この胸像のことではなく、リサール生誕百年にあたる1961年の6月19日に建てられた記念碑のことです。

胸像の下にある「フィリピンの国民的英雄ホセ・リサール博士1888年この地東京ホテルに滞在す」の碑文が、その記念碑です。

もともと記念碑は、フィリピン大使の求めに応じて建立されたものです。フィリピンの国家的大祭典である「リサール生誕百年」にあわせ、リサールとゆかりのある世界各国の都市に対して記念碑を建てることを、フィリピン政府が求めたのです。

東龍太郎都知事にフィリピン大使から申し出が為され、これを機に日本滞在中のリサールの足取りについての調査が初めて行われました。リサールが滞在した東京ホテルは既になく、古地図を調べたところ、日比谷公園前の現在の電車道のあるあたりに建っていたことがわかりました。そこで日比谷公園の一角に記念碑が建てられることになりました。

日比友好のために碑を建てるべきとの東都知事の判断に基づき、有志を募る呼びかけが行われました。しかし、当時は日本でのリサールの知名度も低く、ほとんど空振りに終わります。

やむなく記念碑は東都知事、リサールの研究をしていた文学評論家の木村毅、元陸軍中佐の神保信彦の3人によって建立されました。

神保中佐と言えば、後にフィリピン大統領となるロハスとのエピソードが有名です。開戦後まもなく、神保はミンダナオ島第10独立守備隊司令官の高級副官としてミンダナオ島占領に参加しました。その際、捕虜の身にあったロハス財務長官と対面します。ロハスが日本軍の捕虜となったのは、要人の多くがマッカーサーとともにオーストラリアに脱出するなか、マッカーサーの誘いを拒み、ミンダナオ島に残っていたからです。

ロハスは「自分はフィリピン民衆と運命をともにする。戦争が済むまで一歩も離れない」とミンダナオ島に留まっていたのです。

ロハスを取り調べた神保は、その高潔な人柄に感銘を受け、フィリピンの将来のために生かしておかなければならない人物だと確信します。実は神保は、軍からロハスの処刑命令を受けていました。

ロハスを殺すことに納得ができなかった神保は、マニラの軍令部に飛び、処刑命令について問い質しました。その結果、処刑命令は急進派の若手参謀が勝手に出したものだとわかったのです。

神保は参謀長を相手にロハスの助命を懸命に行いました。その熱意にほだされた参謀長は、ついにロハスの処刑命令を取り消します。

処刑を免れたロハスは、1946(昭和21)年7月4日、戦後初のフィリピン大統領に就任し、フィリピン第三共和国の独立を宣言しました。

もし、神保が軍の命令に忠実にロハスを処刑していたならば、ロハス大統領は当然ながら誕生しなかったことになり、フィリピンの歴史は大きく変わっていたことでしょう。

一方、ロハスを救った神保は、そのことで一部の幕僚の怒りを買い、中国河南戦線に左遷されます。やがてその地で終戦を迎え、国民革命軍によって戦犯として捕らえられました。神保は戦犯として処刑される運命にありました。

ところが、意外なところから救助の手が神保に差し出されます。国民政府主席の蒋介石が、神保を無罪とし、釈放するように命じたのです。

蒋介石を動かしたのは、神保の危急を知ったロハス比大統領が蒋宛に、神保を命の恩人であるとし、助命嘆願親書を送ったからです。

神保が命を救ったロハスが、今度は神保の命を救ったことになります。ロハス・神保・蒋介石の三人によって紡がれた国際秘話は、美談として当時話題となりました。

無事に日本に帰国を果たした神保は、こう述べています。
「地上の権力はいつかは亡びるが、真の愛情は永遠に続く」

戦場に開いた友情の物語は、今日も色あせることなく、日比友好の架け橋のひとつになっています。

神保はかつて捕虜となったロハスを尋問した際、リサールの事績について初めて聞き、祖国を救うために命を捧げたリサールに感銘を覚えました。だからこそ、リサールの記念碑を東京に造ると聞き、積極的に支援を申し出たのです。

このリサールの記念碑を機に、日本とフィリピンの国交が回復するに至ります。ホセ・リサールが夢見た日比友好の絆は、今やしっかりと結ばれ、両国は政治・経済・軍事にわたり良好な関係を築いています。

そのことを何よりも喜んでいるのは、ホセ・リサール自身なのかもしれません。

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ドン山本 フリーライター
ドン山本 フリーライター
タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。

その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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