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留学マナビジンセブ島留学【特集】フィリピンの政経と歴史セブ慰霊の旅(第1回)セブ事件がもたらした神風特攻隊の誕生秘話

セブ慰霊の旅(第1回)セブ事件がもたらした神風特攻隊の誕生秘話

神風特攻隊が飛び立ったITパーク

南北に細長く、ルソン島とミンダナオ島の2つの島の中間に位置するセブ島は、現在では国際的リゾート地としてあまりにも有名です。近年では英語留学の地としても人気を集め、年間を通して数多くの日本人留学生がセブを訪れています。

しかし、まさに南国の楽園と呼ぶにふさわしいセブにおいて、今からおよそ75年前、日本軍と米軍が激しい戦闘を繰り返したことは案外知られていません。悲惨を極めたレイテほどではないにしても、セブ島でも1万人を超える戦没者が記録されています。

そこには数え切れないほどの悲劇の物語が横たわっています。今回はその悲劇の一端を紐解くために、レイテ慰霊の旅に続き、「マナビジン」の斉藤さんとともに「セブ慰霊の旅」に出かけてきました。

日程の関係で二日に分けて回っていますが、朝から行動を開始すれば1日で十分に回りきれる旅程です。

初日はレイテに引き続き元セブ日本人会会長の石田武司氏にガイドと慰霊をお願いし、セブ観音・南方第14陸軍病院の慰霊碑・米軍が上陸したタリサイの海岸・サンペドロ要塞の近くにある慰霊碑を訪れました。

二日目は単独にて、かつて日本海軍の大規模な飛行場があったITパークと、セブと日本軍との関わりがわかるスクボ博物館(MUSEO SUGBO)に行ってきました。

今回は時系列に沿ってわかりやすくガイドできるように、実際にたどった道程とは異なる順番で紹介していますので、ご了承ください。

1.ITパーク

まずはITパークから始めることにします。「ITパーク」は、その名の通り日本やアメリカのIT企業が進出しているオフィス街です。近代的な高層ビルが建ち並ぶ様は、ここがセブシティのなかでも最先端のビジネスエリアであることを強烈に印象づけています。

そんなITパークから今回のセブ慰霊の旅が始まることに、違和感を覚える方も多いかもしれません。根っからのオフィス街であるこの場所に旧日本軍に由来する何かがあるとは、とても想像がつきません。

下の画像はITパークの入り口を撮影したものです。この画像のなかに、旧日本軍に関連するものが映っています。

それが何か、わかるでしょうか?

セブitパークの門
答えは、ITパークのゲートから伸びている道路です。

セブITパークの元滑走路
ITパーク側から見ると、こんな感じです。

ITPARK ゼロ戦の滑走路だった

現在のITパークの場所には戦時中、セブ海軍航空隊の飛行場であるセブ基地がありました。ITパークのゲートから椰子の木に沿って真っ直ぐ伸びた舗装路は、その当時の滑走路の名残であるといわれています。

かつてこの滑走路から飛び立ったゼロ戦が、250キロの爆弾を積んだまま米空母に体当たり攻撃を敢行しました。神風特攻隊です。

日系の英語学校もあるITパークから神風特攻隊が飛び立ったという史実をはじめて聞き、驚く留学生は多いようです。

のどかな南国リゾートであるセブ島にも、大東亜戦争の影は確実に射していたのです。

その1.安全な後方基地から一気に戦場へ

セブ島に日本軍が上陸したのは、1942(昭和17)年4月10日のことでした。すでに日本軍は同年1月2日にマニラを占領し、米軍の総司令官であったマッカーサーは軍を残したまま3月11日にフィリピンから逃げ去っています。

日本軍のセブ島上陸に際し、地元のフィリピン人は表向きは温かく歓迎する姿勢を示しましたが、内心では日本軍に対する敵意を消せずにいました。このあたりの事情は、日本軍を解放軍として諸手を挙げて歓迎したマレーやインドネシアとは大きく異なります。詳しいことは後ほど紹介します。

1943(昭和18)年10月14日に日本政府の支援によりフィリピンが共和国として独立を許されたことをきっかけに、対日感情も幾分かは好転したものの、世論を親日に鞍替えさせるほどの力はなく、米軍指導の下に全土にわたってフィリピン人ゲリラが組織され、日本軍への抵抗を強めていました。

セブにおいてもジェームズ・M・クッシング米陸軍中佐が率いるフィリピン人ゲリラ部隊が千名を超える人員を集め、日本人に協力するフィリピン人を強迫・殺害するなど、一般のフィリピン人に紛れて日本軍によるセブ統治をなにかと妨害していました。

それでもセブは武器弾薬や食料などを、ニューギニアやソロモンなど南方の前線に送り届けるための中継基地に過ぎず、戦場から遠く離れていたこともあり、戦時とはいえ平和な時間が流れていました。

しかし、1944(昭和19)年7月9日にサイパン島守備隊が玉砕して果て、続いてグアム・テニアン島が落ちると、セブも次第に不穏な空気に包まれるようになったのです。

そうして迎えた9月12日、セブ基地は米爆撃機に急襲され、飛行場は阿鼻叫喚の地獄と化しました。これが、米軍によるセブ島へのはじめての空襲です。この日を境に、セブ島は後方の安全地帯から血生臭い戦場へと化したのです。

その2.「ダバオ水鳥事件」の余波

9月12日の空襲は「セブ事件」と呼ばれています。通常は空襲を「事件」と呼ぶことはありません。ではなぜセブへの初空襲が「事件」と呼ばれるようになったのか、その背景には次のようなエピソードが隠されています。

事の発端は9月10日の「ダバオ水鳥事件」に遡ります。9月9日から10日にかけて、ミンダナオ島にあるダバオは米機動艦隊より発進した艦上機による大空襲を受けました。

当時、日本軍の戦闘機は米軍機による空襲を警戒し、フィリピン各地に分散して配置されていました。一極集中による被害を避けるための処置です。

そのためダバオ空襲による被害はたいしたことはなかったものの、敵機を迎撃できる戦闘機は一機もない状況でした。こうなると米軍の動向は、海岸に設置された見張所からの黙視に頼るよりありません。

やがて見張りに立っていた日本兵から「敵水陸両用戦車二百隻陸岸に向かう」との報告が寄せられ、「ダバオに敵上陸」の報告を受けたミンダナオ島の司令部は大混乱に陥りました。

司令部は玉砕を覚悟し、全滅前には必ず行われる通信設備の破壊と重要書類の焼却を急ぎました。しかし、この時点で米軍上陸の確認を怠ったことは、後に大きな禍根を残すことになります。

その当時、セブ島にあった戦闘機数百機も分散の命を受け、ルソン島にある陸軍のクラーク基地へと退避していました。

そこへ「敵、ダバオに上陸」の電報を受けたことにより二〇一空零戦隊は、ダバオに上陸した米軍を叩くために、中間地点であるセブに終結する命令を受けました。

ちなみに海軍航空隊における200番台は艦上戦闘機部隊を表しています。その主力はゼロ戦です。

米軍がどこから上陸してくるかわからないため、上陸まではフィリピン各地に航空機を分散して配置するものの、米軍の上陸地点が判明した時点で集中攻撃を仕掛けることが、かねてから用意していた日本軍の作戦でした。

10日の夜には、セブ基地に百数十機のゼロ戦が集結しています。翌日にはダバオに向けて、セブ基地の滑走路からゼロ戦は一斉に飛び立つ予定でした。

ところが、このとき想定外の報告が寄せられます。「敵、ダバオに上陸」の報告は、見張員が海面に押し寄せる白波を米軍の水陸両用車と見間違えたことによる誤報であることが、判明したのです。

それはあたかも源平合戦の折りに平氏の軍勢が、富士川に羽ばたく水鳥の音を源氏の軍勢による急襲だと勘違いして逃げ出した故事を思い起こさせるに十分でした。そのため、この不祥事は「ダバオ水鳥事件」と呼ばれています。

その3.「セブ事件」の悲劇

肩すかしを食った二〇一空零戦隊は、再び全機をクラーク基地に戻す命令を受けました。本来であれば11日中に全機が引き返すところですが、昨夜のセブ基地への強行着陸は搭乗員を疲れさせていました。

ニューギニアやソロモンでベテラン搭乗員を次々と失ったために、二〇一空零戦隊には経験の浅い搭乗員も多数含まれていたのです。夜間飛行に慣れていない搭乗員が墜落するという悲劇が、昨夜も起きています。

そこで二〇一空零戦隊は11日に三分の一だけをマニラのニコラス基地に戻し、残りの機はエンジンの整備もかねて一日だけ搭乗員を休ませ、翌12日に戻ることにしました。

この何気ない決定が、搭乗員たちの運命を大きく狂わすことになります。

このとき、セブ基地に100機、マクタン島の飛行場には20機のゼロ戦が残っていました。当時はマクタン島にも、主として練習飛行のための海軍飛行場があったのです。

運命の9月12日の午前9時、レイテ湾東方にあるスルアン島の見張所から、160機にも及ぶ米軍の大編隊が西に向かったとの緊急電が各基地宛てに打電されました。ところが、この緊急電は、なぜかセブ基地には届いていません。

セブでは早朝から敵機来襲に備えて「警戒待機」の配備をしていましたが、周辺基地からなんの連絡も届かないため、午前9時過ぎには「戦闘準備」を解除しています。

その日は南国には珍しく、どんよりと曇っていました。

セブ基地では中島飛行長が搭乗員を待機所に集め、戦闘上の注意などを訓示する座学を行っていました。

そのときです。爆音がセブ基地上空に轟きました。セブ基地にとって不幸だったことは、ちょうどその時間に味方のダグラス輸送機が到着する予定になっていたことでした。

それは、まったくの偶然ですが、こうした偶然が思いもかけない重大な結果を招くことが戦争の常です。

爆音を耳にして敵襲と気づき、いち早くゼロ戦に向かって駆け出す搭乗員もいましたが、「いや待て、あれは味方の輸送機だ」と制され、引き戻されています。

もし、このときゼロ戦が飛び立ってさえいれば、米機を十分に迎撃できたことでしょう。

しかし、爆音を味方機と勘違いしたことによる一瞬の躊躇が、零戦隊の壊滅を招きました。

たしかにダグラス輸送機は上空に姿を見せ、セブ基地の滑走路に降り立ちました。その直後、曇天のなか、輸送機を追いかけるように現れた敵の大編隊が上空を覆ったかと思いきや、敵弾を受けた輸送機は一瞬にして炎上したのです。

くっきりと浮かぶ青い星のマークが連なる大編隊は、カーチス艦載爆撃機と米戦闘機グラマンです。

まもなく、すぐにも発進可能な状態で配置されていたゼロ戦と彗星爆撃機からも、一斉に炎が立ち上がりました。米機から見れば、空港に居並ぶゼロ戦はまな板の上の鯉も同然です。ダバオに上陸した米軍を攻撃するつもりでいたゼロ戦には爆弾や燃料が満載であったため、ひとたまりもありません。

ゼロ戦の翼下に装填されていた爆弾が破裂し、機銃弾が豆を煎るようにぱちぱちと弾けるなか、それでも二〇一空零戦隊の搭乗員は、まだ被害を受けていないゼロ戦に駆け込むと僚機が燃えるなかを突っ切り、滑走路を飛び立っていきました。

しかし、すでにグラマンが支配する上空にまともに飛び立てるゼロ戦はありませんでした。ある機は急降下してきたグラマンの機銃掃射を受けて墜落し、ある機は海上に逃れてなんとか上空に舞い上がろうとしたところを狙撃され、海中に没しました。互いに接触して空中分解を遂げたゼロ戦もありました。

上空に達しスピードに乗りさえすれば、グラマン相手に互角以上に戦えるゼロ戦でしたが、飛び立ってまもなくの不安定な瞬間を狙われてはどうにもなりません。ゼロ戦は一機、また一機とグラマンに撃墜されていきました。

セブ基地の守備についた第127防空隊佐野隊は25ミリ機銃をグラマンに浴びせ、数機を撃墜したと報告しています。

その後も第二波、第三波のグラマンの大編隊が来襲し、セブ基地には「総員退避」を告げる鐘の音がけたたましく鳴り響きました。

グラマンの去った後には、虎の子のゼロ戦のエンジンや翼の残骸が散乱し、手の施しようのない惨状を呈していました。

この日、グラマンの迎撃に飛び立ったゼロ戦は41機、そのうちの27機が失われました。飛び立つこともできないまま地上で撃破されたゼロ戦は53機に及びます。

こうしてフィリピンでの決戦に向けて用意されていたゼロ戦は、その戦力の半分以上をたった1日で失う羽目に陥ったのです。

失われたのはゼロ戦ばかりではありません。空襲を受けている最中に飛び立ったゼロ戦の搭乗員には、戦闘306飛行隊長の森井宏大尉や大石英男飛曹長など歴戦の勇を誇ったベテラン搭乗員が多数含まれていました。

フィリピンでの決戦前にゼロ戦とベテラン搭乗員の多くを失ったことは、日本軍にとって大きな痛手となりました。

「ダバオ水鳥事件」がなければセブ基地にゼロ戦が集中することもなく、これほどの被害は生じなかったはずです。さらにいくつかの偶然が重なり合い、思いもしない甚大な損害を被ったからこそ「セブ事件」と呼ばれているのです。

その4.セブ事件がもたらした神風特攻隊の誕生

現在のITパークには、往事を偲ばせるものはなにもありません。ITパークの中央に不自然なほどに真っ直ぐ長く伸びている道路が、当時のセブ基地の滑走路の名残だと言われれば、なんとなく「さもありなん」と思える程度です。

ふと上空を見上げてみれば、南国特有の雲一つない晴れやかな青空が広がります。かつて、この空をグラマンとゼロ戦が飛び交い空中戦を繰り広げていたのだと無理やり想像しようとしてみても、うまく像を結びません。

それでも同じ日本人として、上空に達することなく撃墜されたゼロ戦の搭乗員の悔しさはいかばかりであったことかと、その片鱗を感じ取ることはできます。

焼けただれ、残骸と化したゼロ戦を前に、搭乗員も基地員も滂沱(ぼうだ)の涙に暮れたに違いありません。滑走路の向こうに75年前の日本兵の姿が浮かび、灼熱の陽射しのなか、陽炎のように揺れた気がしました。

セブ基地に集結したゼロ戦の80機が失われたことは、事実上、日本海軍の航空隊が壊滅したことを意味しています。そのことは日本軍に、ある重大な決断を促すことになりました。

「ダバオ水鳥事件」と「セブ事件」という不祥事が続いた責任をとり、第一航空艦隊の指揮をとっていた寺岡中将が更迭され、その後任としてフィリピンに到着したのが大西瀧治郎中将です。

9月1日の時点では250機あったゼロ戦が、セブ事件などを経て、大西が着任した頃には99機を残すのみとなっていました。この数ではまともな航空攻撃は成り立ちません。

日本海軍がかろうじて温存していた航空戦力が壊滅し、絶望だけが支配するなか、大西中将を中心に、以前から温めていたある作戦が実行に移されることになりました。

たった1機のゼロ戦で敵空母を撃沈できる作戦――、すなわち神風特攻隊による体当たり攻撃です。

思えばサイパンにおいてもテニアンにおいても、日本軍が玉砕を遂げるなか、海軍航空隊は友軍を支援するために空から米軍を攻撃したいと忸怩(じくじ)たる思いを募らせていました。

しかし、連合艦隊が米機動艦隊に敗れ、制空権を米軍にもぎ取られた状態では、手の出しようがなかったのです。

ペリリュー島においても、同じことが繰り返されました。ペリリュー島の日本軍は兵力においても火力においても圧倒的に勝る米軍を前に、驚異的な奮闘を続けていました。

しかし、大本営は数少ない航空機と搭乗員を温存する策をとり、航空隊の出動には同意しませんでした。

その頃、ダバオ水鳥事件によって通信設備を失った一航艦司令部は司令部としての機能を果たせなくなっていたため、フィリピンでの航空作戦の指揮は、ソロモンの海戦にて空母翔鶴の艦長を務め、今はセブ基地にある26航戦司令官有馬正文少将に委ねられていました。

敵中で孤軍奮闘しているペリリュー島の日本軍を見殺しとすることに有馬は異を唱え、涙ながらに上官に具申しています。

「戦勢の転換をはかるのは、いまです。ペリリュ-守備隊の肉弾攻撃といい、敵の機動部隊に突入していったわが戦闘機隊といい、夜戦隊員の敢闘といい、敢闘精神は全軍にあふれております。ベリリュ-の敵軍を爆撃して、敢闘をつづける友軍に勇気をつけてやることが必要です。戦勝の端緒はこういうことから開けるかと思います」

有馬の必死の訴えについに出動の許可が下り、9月26日、一式陸攻7機が出撃しています。しかし、エンジンの不調などもあり、ペリリューにたどり着けたのは2機のみ、爆撃後に無事に帰還できた機は1機のみでした。

それでも、この出撃により、海軍航空隊としても何とか戦果を上げたいという機運が一段と高まったことはたしかです。

先頭に立ち、その気概を身をもって示したのも有馬でした。有馬は「もはや通常の手段で勝利を収めるのは不可能である。特攻を採用するのはパイロットたちの士気が高い今である」と述べ、「司令官以下全員が体当たりでいかねば駄目である」「戦争は年上の者から死ぬべきだ」と周囲を鼓舞しました。

そして台湾沖航空戦の最中だった10月15日、周囲が止めるのも聞かず、有馬は自ら一式陸攻に飛び乗ると、軍服から少将の襟章を取り外し、双眼鏡に刻印されていた司令官という文字を削り取りました。それは敵に死体を検分された際に、将校の身分を知られないようにするための処置でした。つまりは、帰還するつもりのない死を覚悟しての出撃であることを意味しています。

そのまま有馬は帰らぬ人となりました。有馬が特攻して果てたのかどうかは、米軍の記録にも残っていないため、はっきりとはわかっていません。ただし、出撃前の言動から考えて、司令官として自らが神風特攻隊の先駆けとなることで、範を示したのだと考えられています。

有馬はセブ事件の際、すでに一航艦の指揮を任されていました。セブ事件で大きな損害を出してしまったことに責任を感じており、それを償う意味もあったと言われています。

有言実行の有馬の死は、一航艦の指揮官として新たに赴任した大西に、海軍航空隊として特攻に踏み切る決断を促しました。

ずっと悔しい思いを重ねてきた海軍航空隊は、連合艦隊の最後の決戦となるであろうレイテ沖海戦にはなんとしても戦果を上げたいと決意を固めていました。

しかし、すでに可動機数が少ないため、通常の攻撃に頼っていたのでは敵艦隊に大きなダメージを与えることなど、とてもできません。最後の頼みの綱は、250キロ爆弾を搭載したゼロ戦ごと米空母に体当たり攻撃を敢行する「特攻」以外に見出せない状況でした。

特攻であれば米空母の飛行甲板を貫くことで、あわよくば撃沈できます。撃沈できないまでも飛行甲板に損傷を与えることができれば、敵艦載機の発着を一週間程度阻止できます。

今次の海戦では敵空母を無力化することが、なによりも重要でした。可動機数は少なくても捨て身の「特攻」によって、できるだけ多くの米空母を無力化できれば、すでに劣勢に陥っている連合艦隊にも勝機があると考えられたのです。

神風特攻隊は、このような背景のもとに生まれました。

ひるがえって神風特攻隊誕生までのいきさつを振り返ってみると、「セブ事件」が大きな鍵を握っていることがわかります。

「セブ事件」さえなければ通常の攻撃が行える程度のゼロ戦は残っていたと考えられるため、神風特攻隊は組織されなかったかもしれません。

まさに「セブ事件」こそが、神風特攻隊誕生の直接のきっかけとなったのです。この事実は、案外知られていません。

その5.はじめての特攻機はセブ基地から飛び立った

- 「ゼロ号の男」-

神風特攻隊の第1号とされるのが、10月25日にマバラカット飛行場から出撃した敷島隊の関行男大尉です。関を筆頭に敷島隊の5人は、はじめての特攻によって米護衛空母セント・ローを撃沈するなど華々しい戦果を上げて、散りました。

関大尉 セブ事件がもたらした神風特攻隊の誕生 
関 行男(せき ゆきお/つらお[注釈 1]、1921年8月29日 – 1944年10月25日)は、日本の海軍軍人。海兵70期。レイテ沖海戦において、初の神風特別攻撃隊の一隊である「敷島隊」の隊長として特攻し、アメリカ海軍の護衛空母セント・ローを撃沈したことで、死後「敷島隊五軍神」の1人として顕彰された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/関行男

しかし、それより4日早い10月21日、セブ基地より飛び立った特攻機が未帰還となっていることは、あまり知られていません。

そのゼロ戦に乗っていたのは、大和隊の久能好孚(こうふ)中尉です。戦果こそ不明ですが、実は彼こそが特攻による戦死第1号です。

セブ事件がもたらした神風特攻隊の誕生、久納好孚
久納 好孚(くのう こうふ、1921年1月15日 – 1944年10月21日)は、日本の海軍軍人。戦死による特進で最終階級は海軍少佐。未帰還になった神風特攻隊大和隊の隊長であり、特攻第一号とする主張がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/久納好孚

ところが海軍では見事な戦果を上げた関大尉を特攻第1号として発表したため、新聞各社の報道により、関大尉は軍神として讃えられました。

一方、久納中尉の名は今日においても、ほとんど知られていません。

本来であれば久納こそが特攻第1号の栄誉に浴するところを、海軍の事情によってそうはならなかったのです。それでも久納のことをよく知る周囲の人々は、久納のことを「第1号以前の人」という意味を込めて、いつからか「ゼロ号の男」と呼ぶようになりました。

大西の決断によって生まれた最初の特攻隊は、敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊の4隊でした。この隊名は、本居宣長の歌である「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」から採られて命名されています。

大和隊の隊長として自ら特攻に志願したのが久納でした。久納は海軍兵学校の出身ではなく、法政大学在学中に競争率40倍の狭き門である海軍予備航空団に合格し、海軍予備仕官としてフィリピンに赴任した身でした。

久納が特攻第1号として認められなかった背景には、海軍兵学校出身でないことが影響しているとする説もあります。

- 特攻前夜に奏でられたピアノソナタ「月光」-

出撃を明日に控えた夕食のあと、搭乗員と整備員がささやかな団らんを楽しんでいたとき、士官用の食堂に置かれていたピアノから、哀切を込めた静かなメロディがこぼれ出しました。

ベートーヴェンのピアノソナタ「月光」です。奏でていたのは久納でした。

クラシック音楽を愛し、ピアノをたしなんでいた久納は、ときどき食堂のピアノを奏でました。セブ基地に流れるピアノの音に、隊員たちはときに心を慰められ、ときに故郷での懐かしい日々を思い起こしたことでしょう。

明日は特攻として散る身と誰もがわかっているだけに、この夜のピアノの音色は、いつになく隊員たちの心を揺り動かしました。

同席していた上官は「心なしか、きょうはその音色がことのほか澄みきって私の心に強く響いている」と手記を残しています。

ピアノの音色を聴きながら、多くの整備士官があふれる涙を堪えることができずに、泣きじゃくっていたそうです。

そのときにはすでに、久納の覚悟は定まっていたのでしょう。日中、整備士に対して久納は、自分の乗るゼロ戦から機銃を降ろしてくれと頼んだとの証言が残されています。

「なまじ銃があると、それに頼ってしまう。頼っておったら、目的が達せられんからな」

整備士は「空戦になるかもしれないから」と、機銃の取り外しを拒みました。

それでも久納は、「セブが陸戦になったら機銃が必要じゃないか」と取り外しを求めたとされます。

すでに久納は、「僕は明日出撃したら絶対に戻ってこない。特攻できない時はレイテ湾へ行く」と明言していただけに、帰還する気はさらさらなく、機銃はセブの防衛戦に使った方がよいと考えたようです。

なんとか久納を説得し、機銃の取り外しを思いとどまらせた整備士は、戦後に次のように語っています。

「久納は、私らの同期じゃ空戦がいちばんうまかった。おっとりとした、実力を内に秘め、笑顔を絶やさん男でしたよ」

「志願する者は一歩前へ!」-

思えば、特攻隊に真っ先に志願したのも久納でした。ゼロ戦の搭乗員を集め、玉井副長が神風特攻隊を募ることになったとはじめて明かしたとき、あまりの衝撃に並み居る搭乗員の誰もが身を固くしました。

続いて中島飛行長が「志願する者は一歩前へ」と声を張り上げた際、逡巡している搭乗員をよそにただ一人、一歩足を踏み出したのが久納でした。

「遅かれ早かれみな死ぬんだから、行け!」

久納が叫ぶと、全員が一歩前へと歩を進めたと記録されています。

こうして久納は大西中将と別れの盃を交わしたあと、レイテにより近いセブ基地へと進出したのです。

- セブ基地より発進した特攻機 -

10月21日午後3時、索敵機から「米機動部隊発見」の一報が届くと、爆弾を積んだ3機の特攻機とそれを援護する直掩(ちょくえん)2機が出撃準備を整え、中島飛行長による精神訓話が始まりました。

問題は、この訓話がやたらと冗長だったことでした。これは中島の悪癖であったと言われています。

海戦では1分でも早く敵を発見し、先に攻撃を仕掛けた方が有利です。訓話に時間をとられ、すぐに飛び立てなかったことは、取り返しのつかない悲劇を呼び込みました。

ちょうどその時、グラマンの一群がセブ基地上空に来襲したのです。整備を終えて滑走路脇に並べられ、飛び立つ寸前だったゼロ戦5機は、瞬く間に炎上しました。

残るゼロ戦は、まだ整備が行き届いていない3機のみです。グラマンが帰投した方向に米機動艦隊がいるに違いないと考えた中島は、久納らに追い討ちを命じました。

久納と中瀬一飛曹が爆弾を装備し、大坪一飛曹が直掩機としてつくことになり、一刻を争うなか、編隊としての集合を待つことなく、久納は単機でセブ基地の滑走路をあとにしました。

中瀬機と大坪機もあとを追いましたが、エンジン不調により、まもなくセブ基地に引き返しています。

しかし、久納機は二度と戻って来ませんでした。久納機がその後、どのような運命をたどったのかは、誰にもわかっていません。

- 名誉は求めず -

防衛庁の戦史資料室にある「第一次神風特別攻撃隊戦闘報告」には、次のように記されています。

「指揮官海軍中尉久納好孚は未帰還なるも本人の特攻に対する熱意と性情より判断し不良なるも天候を冒し、克(よ)く敵を求め体当り攻撃を決行せるものと推定す」

直掩機による確認もないだけに、特攻が行われたのか否かは不明ではあるものの、これまでの久納の言動に鑑みて、特攻を決行したものと推定すると述べています。

特攻の成否はともかく、正式の特攻隊員として出撃し、そのまま戦死を遂げた以上は、久納こそが神風特攻隊「ゼロ号の男」であったことは間違いないでしょう。

ただし、「第1号」にしろ「ゼロ号」にしろ、順番にこだわるのは久納の戦友やセブ基地の関係者に過ぎず、久納自身は後世の人間がことさら順番にこだわることを迷惑がっているかもしれません。

なぜなら久納は、次のような発言を残しているからです。

「直掩機は無駄だから他に使ってほしい、戦果の確認も不要。名誉も要らない。ただ敵艦に突入するだけ」

その言葉はあたかも予言であるかのように成就され、久納は直掩機なしの単機での特攻を敢行しました。

特攻後の名誉など、久納は端から気にかけていなかったのです。

- その後も続けられた特攻 -

久納によるはじめての特攻攻撃以来、セブ基地からも多くの神風特攻隊が出撃しました。久納とともに出撃しようとして果たせなかった中瀬一飛曹は10月25日に特攻に出たまま未帰還となり、大坪一飛曹は米空母カリニン・ベイへの体当たり攻撃を成功させ、同空母を大破させて果てました。

セブ基地から最後の特攻機が飛び立ったのは、翌1945(昭和20)年1月3日の第30金剛隊でした。フィリピン全体での最後の特攻機となったのは、1月25日にツゲガラオ基地より発進した第27金剛隊の住野中尉です。

神風特攻隊「ゼロ号の男」と呼ばれた久納がセブ基地から初出撃して以来、およそ3ヶ月に渡り特攻は繰り返されました。その間、海軍では323機、陸軍では202機の特攻機が未帰還(機数が多いのは台湾などからフィリピンに航空機を移動したため)とされています。そのことは機数以上の搭乗員が、散華したことを意味しています。その大半は20歳前後の若者でした。

神風特攻隊はフィリピンだけで行われたわけではありません。レイテ沖海戦における神風特攻隊の戦果があまりにも過大だったこともあり、フィリピン以降の日本軍の戦いでは特攻が当たり前のように繰り返されたのです。

今は最先端のビジネス街へと姿を変えたITパークですが、目を閉じて75年前に思いを馳せるならば、神風特攻隊として散華した若者たちの声を聞き取れるかもしれません。

彼らの死がけして無駄でなかったことは、今日の平和に満ちた日本の繁栄ぶりを見れば明らかです。彼らの尊い犠牲の上に、後世を生きる私たちの現在があることを、忘れるべきではないでしょう。

アスファルトからの照り返しが、さらなる暑さを煽るITパークには、目では確認できないものの、セブ基地だった頃の記憶が鮮やかに刻み込まれています。

ITパークを訪れたなら、ゲートから真っ直ぐ伸びている道路に立ってみてください。そこはかつて海軍航空隊が使っていた滑走路です。

その滑走路の向こう側に、整備員が手にした帽子を力いっぱい振るなか、ゼロ戦に乗り込んだ特攻隊員が凜々しく敬礼をしながら飛び立っていく光景を、あなたも目にできるかもしれません。

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ドン山本 フリーライター
ドン山本 フリーライター
タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。

その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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