セブ慰霊の旅
2.タリサイの海岸 ~戦時と今を結ぶ絆
その1.米軍上陸前のセブの状況
9月12日の初空襲以来、セブ市への米機の空襲は毎日のように繰り返されました。ことに9月17日にはセブ港が徹底的に叩かれ、貨物廠や兵器廠が全滅しています。燃料や武器弾薬はもちろん、食糧や医薬品なども焼き払われ、日本軍はたちまちまともな日常生活が営めないほどに追い詰められることになったのです。
米軍は飛行場と港湾施設に狙いを付け、何度も何度も爆撃してきました。停泊中の船舶も米機の餌食となり、断末魔のような異様な音を残して次々と海中に沈んでいきました。阿鼻叫喚のなか、30隻もの日本の船舶が撃沈されています。
米機による一方的な空襲に対して迎撃できるゼロ戦は、もはやセブには一機もありません。大地が爆音で震動するなか、港湾で働いていた人々は直撃弾で飛び散り、被弾で傷つき、波に呑まれて消えていきました。港湾施設と船舶勤務者の死者は300名を越えたとされています。
セブ基地への空襲は、毎日午前10時と午後2時に定期便のように繰り返され、米爆撃機は次々に爆弾を投下し、悠々と帰っていきました。
セブ基地にあった建物は、そのことごとくが破壊され、滑走路に空いた大穴を急いで埋めるのが毎日の仕事でした。
そのなかをマニラから舞い戻ったゼロ戦が、神風特攻隊としてセブ基地から出撃したことは、前回紹介した通りです。
かつては安全な後方基地であったはずのセブは、今やいつ命を落としてもおかしくはない戦場へと様変わりしたのです。
セブ島を取り巻く戦況も、目まぐるしい勢いで変わっていました。10月20日にレイテ島とサマール島に上陸した米軍は、12月15日にはミンドロ島、翌年1月9日にはルソン島のリンガエン湾に上陸し、セブ島を取り巻く大きな島はことごとく米軍の占拠するところとなり、セブは周囲から完全に孤立しました。
内地からの輸送は絶望的となり、すべてを自給自足で補うことを余儀なくされたのです。
1945(昭和20)年3月頃のセブ島における日本軍の兵力は、陸軍9,500人、原田少将率いる海軍5,000人の総計1万4,500人であったと言われています。
このうち、レイテからセブへと転進し、兵を補充した第一師団およそ2,000人がタボコン・イリハンなどの北部セブに配備され、セブ市地区には12,500人が配されていました。
ただし、セブは長い間、後方の安全な兵站基地であったため、本来の地上戦闘ができる部隊は独立歩兵第173大隊の大西部隊およそ2,000名のみでした。あとは海上輸送大隊や船舶工兵隊、南方第十四陸軍病院の職員、航空機整備員や憲兵隊など、いずれも後方部隊に過ぎません。
セブには陸軍第102師団抜兵団の司令部が置かれていたため、セブ全軍の指揮は本来であれば第102師団長である福栄真平中将がとるところですが、福栄はレイテ島で戦っていた際、部下を置き去りに無断でセブ島に逃げ帰ったことが問題とされ、指揮権を停止されていました。
そのため、実質上の指揮は、歩兵第78旅団長の万城目武雄少将が代行していました。
その2.セブに取り残された多くの民間人
セブにいたのは軍人だけではありません。セブはフィリピンのなかでも、もっとも安全な最後方兵站基地であっただけに、多くの民間人が滞在していたのです。
民間人が多かったことは、レイテとセブとの大きな違いです。そのことは、レイテとは異なる種類の悲劇をセブにもたらしました。
当初セブにいた日本の民間人は、セブの鉱山の管理を任されていた三井や三菱、石原産業の従業員とその家族、及び料亭関係の婦女子たちでした。さらに、戦局が不利に傾くと、軍部は南隣りのボホール島やシキホール島から鉱山関係や軍属の家族をセブへと退避させています。
また、サイパン陥落前に逃れてきた婦女子500人に加え、最西端のパラワンからも250人の婦女子がセブ島に逃れていました。
これらを併せると、1,500から2,000人の民間人がセブ市にいたものと考えられています。
民間人を内地へと引き揚げさせる努力は、これまでも行われていました。現に1945(昭和20)年1月30日には45歳以上の男性と婦女子を対象に、退避命令が出されています。
退避命令に基づき、173名が機帆(きはん)船に乗り込み、セブを出港しました。ところが、その1時間後、機帆船は米軍の高速魚雷艇に発見され、撃沈されています。
さらに米軍は、洋上に漂う幼児やその母、老人に対して機銃掃射を繰り返しました。重傷を負いながら生き残ったのは、たった1名という大惨事でした。
米軍のセブ上陸がささやかれるなか、セブ島からの脱出を阻まれた民間人の安全をいかに確保するべきかが大きな問題となりました。
そこで軍は民間人の安全を確保するためにも、召集形式をとることで彼らを軍隊組織に吸収しました。男性は義勇隊としてセブ市防衛の一翼を担うことになり、女性は奉仕部隊として第十四陸軍病院勤務となったのです。
彼らの多くは米軍のセブ島上陸とともに戦火に巻き込まれ、次々と命を落としていくことになります。
その3.タリサイの海岸にて
米軍が上陸したタリサイの海岸を訪れました。そこは、フィリピンのどこにでもある普通の海岸です。子供たちが海水浴に興じ、浜辺を駆け回っています。
そのタリサイの浜辺で慰霊を行うために祭壇を設置し、線香に火を付ける私たちの姿は、浜辺で憩うフィリピン人の家族連れからすれば、得体の知れない異様な集団であるに違いありません。
祭壇を広げている時点で、いぶかしげな視線が突き刺さってきます。それを無視して日章旗を立てると、広い浜辺のど真ん中で石田さんの読経が始まりました。
タリサイの海岸で深々と一礼し、読経をする石田氏
さっそく浮き輪をもった子供たちが集まり、なにが始まったのかと不思議そうな表情をのぞかせ、興味深げに読経を見守ります。
フィリピン人のほとんどはキリスト教徒のため、仏教には馴染みがありません。読経の声や、お線香など、すべてが新鮮で子供たちの好奇心をかき立てたようです。
海に視線を向ければ、沖合までくっきりと見渡せます。このタリサイの海岸は、日本軍にとっても、米軍にとっても、セブ島上陸のはじめの一歩を刻んだ特別な場所です。
日本軍の山田・鷹松部隊がセブ攻略のためにタリサイに上陸したのは、1942(昭和17)年4月10日のことでした。連戦連勝を重ねる日本軍による猛攻の前に米比軍は為す術もなく、ほとんど無抵抗のまま西方山地へと退いています。
それから3年の歳月が流れ、攻守は完全に逆転しました。今度は日本軍が守り、米軍が上陸する側です。
今からおよそ75年前、タリサイの海岸は激しい艦砲射撃と空爆にさらされ、轟音に包まれました。
その4.タリサイに米軍上陸
連日の空襲が一団と激しさを増したのは、3月23日からでした。米機はセブ市から15キロ離れたタリサイ方面への機銃掃射と低空爆撃を一日中繰り返し、タリサイにあった密林は椰子の幹だけを残す焼け野原と化し、サトウキビ畑はあたかも原野に帰したかのように荒れ果てたのです。
米軍の上陸が迫っていることは、誰もがひしひしと感じていました。すでにセブ市内にはフィリピン人ゲリラを通して米軍上陸が告げられ、フィリピン人は市内から一斉に退避しています。ほぼ無人と化したセブ市内は、異様なほどに静まりかえっていました。
静寂を打ち破る砲弾の音が猛り狂ったように大地を震わせたのは、3月26日の午前6時のことでした。やがてタリサイの海上に淡く立ちこめていた朝露が次第に薄れてゆくとともに、沖合に姿を現したのは、20隻を超える黒い艦影でした。レイテよりやって来たアーノルド少将が率いるアメリカル師団1万4,900人の米上陸軍です。
100機ほどの重爆撃機と戦闘機が空から援護するなか、米艦艇からは激しい砲撃が繰り返され、米軍はついにタリサイからセブ島上陸を果たしたのです。
タリサイの海岸を守っていたのは、海軍の雑兵を集めた溝口部隊1,500人です。溝口少佐は海岸に土嚢で固めたト-チカを築き、重機関銃10丁を配して、米軍が近づくのを息を潜めて待ちました。
しかし、米軍の上陸艇は水陸両用のため、そのまま浜辺に上がることができ、動く要塞と化して戦車砲を放つことができます。苦心して築いたトーチカは、あっという間に爆砕されました。
浜辺に埋設してあった地雷によって米兵数人は吹き飛んだものの、上陸する米軍を押しとどめる術はなく、溝口部隊はほとんど抵抗できないまま、快勝山へと後退しました。
艦砲・野砲・追撃砲に加えて空からの爆撃も加わり、米軍が圧倒的な火力を誇ったことに対し、セブの日本軍には野砲が一門もない状況でした。軽戦車も一両もありません。人員だけは揃っていたものの、戦うための武器弾薬は悲しいほどに足りていなかったのです。
それでも溝口部隊は、快勝山にかねてより用意してあった地下壕に籠もり、米軍と対峙しました。夜を待って斬り込み隊による米軍陣地への突撃を何度も決行しています。
三日三晩にわたって溝口部隊は米軍の猛攻に耐えましたが、四日目についに崩壊し、日本軍が最後の拠り所とした天主山に向けて撤退するに至ります。このとき、1,500人いた溝口部隊のなかで生存していたのは、わずか130名ほどでした。1370人の日本兵が快勝山にて散華したのです。
その間もセブ市の全域が戦火に包まれました。米軍による砲撃は間断なくセブ市に降り注ぎます。艦載機に加え、レイテの陸上基地から飛来した爆撃機が爆弾を投下後すぐに基地に舞い戻り、新たな爆弾を積んで折り返してくるだけに手に負えません。
セブ市内に残っていた日本軍に関係する建物は、そのことごとくが火焔に包まれ、失われました。激しい炎と黒煙のなか、米軍があえて砲撃を避けたガタルペ教会の尖塔だけが無傷でそびえている姿が印象的であった、と綴る手記が残されています。
その5.タリサイから結ばれる日米比の絆
現在は子供たちのはしゃぐ声だけが響くタリサイの海岸は、平穏に包まれています。レイテのタクロバンにあるマッカーサー上陸記念碑を真似るように、タリサイの海岸にもアーノルド将軍の上陸を記念する像が建立されています。
もっとも右側に立っているのが米上陸軍を指揮したアーノルド将軍
セブのフィリピン人にとってアーノルド将軍は、過酷な日本軍の支配から彼らを解放してくれた英雄です。米軍のタリサイ上陸を、セブの民衆は歓呼の声で迎えました。
タリサイでは今でも毎年3月26日に米軍の上陸を記念する式典が行われています。
式典はタリサイの海岸で催され、フィリピンの政府関係者や軍関係者に加え、元ゲリラ兵・アメリカと日本の関係者も参列します。各国の国旗が掲揚された後、国歌の演奏が行われ、弔銃射撃に続いてフィリピン軍のパレードなどが行われます。
式典のクライマックスは、ゴムボートに乗って上陸する米軍と、それを浜辺で迎撃する日本軍との戦いを再現した模擬戦です。これを見ようと、毎年多くのフィリピン人が押し寄せます。
模擬戦ながら仕掛けた火薬があちらこちらで爆発する様は、さながらハリウッド映画を見るかのようです。火薬の破片や大きく上がった水しぶきが、観覧席まで勢いよく飛んできます。
日本兵に扮したフィリピン人が一斉に逃げ出し、米軍の勝利に終わると、観覧席から大きな拍手と歓声が沸き起こるのが常です。
この式典では当然ながら日本軍は悪者扱いされます。それは当時のフィリピンの世論を正確になぞった結果と言えるでしょう。
残念ながらフィリピンでは、日本軍は招かざる征服者でした。フィリピンから米軍を追い出すことには成功したものの、その後の統治に日本は失敗を重ね、ついにフィリピンの民心を味方に付けることはできませんでした。
フィリピン人の大半は米軍を解放軍と捉え、あらゆる協力を惜しまなかったのです。フィリピン人にとって日本軍は、彼らの生命と財産を奪う「悪」以外のなにものでもありませんでした。
日本人の視点から見れば、フィリピンにて日本本土を守るために戦った日本兵は顕彰すべき存在です。
しかし、フィリピン人からすれば、日本兵は忌むべき存在であったことを理解する必要があるでしょう。(その理由については後の回で紹介します。)
それでも75年の歳月は、すべての惨事を過去へと押し流し、現在の日本とフィリピン・アメリカの間は「友愛」という太い紐帯(ちゅうたい)で結ばれています。
その絆は、勇敢に戦い死んでいった日米両軍の兵と、その戦いの巻き添えとなった多くのフィリピン人の犠牲の上に成り立っていることを忘れるべきではないでしょう。
タリサイの海に向かい、哀悼の意を捧げながら深々と一礼しました。
3.セブ観音
その1.道は開ける?
タリサイの海岸を後に、近道をしようと何気なく細い路地に入ったことが大失敗でした。路地は進むほどに細くなり、ときどき対向車とすれ違う際は右も左もぎりぎりで、下手な遊園地のアトラクションよりも遙かにスリリングです。
フィリピン人の暮らす住宅街に完全に迷い込んでしまいました。小さなゴミ山などもあり、進むほどにあたりは不穏な空気に包まれます。
やがてクルマが通り抜けられるのかと疑問に思えるほど狭いトンネルが、私たちの行く手を遮りました。左右はともかく、問題は天井が異様に低いことです。背の高いパジェロでは、天上がつっかえて立ち往生するかもしれません。
そもそも、この細い路地がクルマの通行を前提にしているのかどうかさえ危ぶまれます。されど、引き返すにもバラック小屋が道の両脇を隙間なく取り囲んでいるため、クルマを転回させる余裕などどこにもありません。
すでに相当の距離を走ってきているため、ここからバックで戻ることも現実的とは思えません。となると、無理やりにでもトンネルを突っ切るよりありませんが、果たしてその先に道が繋がっているのか誰にもわかりません。
さて、どうしたものかと悩んでいると、セブマナビジン代表の斉藤さんが元気よく声を発しました。
「道は開ける by デール・カーネギー」
『道は開ける』は、アメリカの作家デール・カーネギーが著した自己啓発の古典的な名著です。
その言葉に勇気づけられ、覚悟を決め……た割りには慎重に、そろりそろりとトンネルを突き進みます。
そのうち天上からガリガリ音が響くのではないかと、気が気でなりません。よくよく考えてみれば当たり前ながら、すべての道が開けているとは限りません。世の中には袋小路なるものが存在するのですから……。
しかし、私たちを待っていたのは奇跡の瞬間でした。トンネルを抜けると、そこはビュンビュンとクルマが行き交う大通りだったのです。
「やりましたね。この道を抜けた日本人は、我々がきっとはじめてです。これは快挙ですよ!」
よくはわからないけれども、斉藤さんの言葉に不思議な達成感に満たされ、私たちはセブ市の北側に建つホテル「マルコポーロ・プラザ・セブ」に向かいました。
https://goo.gl/maps/zYRCVzJqKXK6cNJM7
このホテルの敷地内に、セブ観音が建立されています(マルコポーロの駐車場を一番南へ下ったところ)。
東側を向くセブ観音、その眼下に旧セブ基地を見据えている
その2.戦火のセブと今をつなぐセブ観音
「マルコポーロ・プラザ・セブ」ホテルの駐車場の裏手にある、台座を含めて高さ4.6メートルにも及ぶ青銅像が「セブ観音」です。
先の記事にて、セブ基地が米グラマンの空襲を受けた際、セブ基地から飛び立ったゼロ戦が次々と撃墜されたことを紹介しました。そのときグラマンの機銃掃射を受けて一機のゼロ戦が墜落した場所が、この地です。
さらに、ここからほど近い中腹に、「日の丸陣地」と呼ばれる海軍の拠点が置かれていました。上陸した米軍は3月29日に日の丸陣地に襲いかかり、激しい戦闘の末、そこでも多くの日本兵が命を落としています。
そのため、かつてはこのあたりに六基の卒塔婆が立っていました。ホテル側より「今の慰霊碑周辺地区にある卒塔婆六基を一カ所にまとめて永久碑にしてほしい。さもなければ全部を撤去してもらいたい」との申し出を受け、かつてセブで戦ったセブ海軍部隊や陸軍挺身第3、第4連隊所属の元日本軍人有志によって建立されたのが、このセブ観音です。
1983(昭和58)年5月に除幕式が執り行われた際、焼香の最中に何十本もの線香が突然ボッと燃え上がったそうです。手で煽っても、なかなか火は消えなかったと伝えられています。
その場に列席していた元セブ海軍部隊司令官の岡田貞寛元少佐は「今度ばかりは亡き戦友が観音様の建立を喜ばれたのだ」と語っています。
ちなみに岡田少佐は、二・二六事件の渦中にあった岡田元首相の次男です。
この地で毎年8月15日に、セブ日本人会の主催によって日本とフィリピン両国の戦没者を悼むための慰霊式が行われています。
その際、大東亜戦争中にセブやレイテで何があったのか、またセブ観音の由来についてなどが語られます。興味がある方はぜひ一度、慰霊式に参加してみるとよいでしょう。
セブ観音を前に流れる石田さんの読経の声は、戦火に包まれたあの日のセブと現在をつなぎ合わせます。
セブ観音を前に読経する石田さん、観音像の下には般若心経が書かれた275個の般若石が埋まられている
セブ観音が見据える先には、かつてのセブ基地があり、その向こうにマクタン島とボホール島を望めます。さらにその先には太平洋の大海原が広がり、遠く日本へと繋がっています。
セブの地で散華した日本兵たちの魂も、海を越えて懐かしい日本へと帰っていったに違いありません。
米軍の砲撃に大気が震え、精神がおかしくなるほどの轟音のなか、セブ市街での戦いに利はないとみた日本軍は、北へ向かって転進を始めました。
セブ観音がある、この坂道を上って日本軍は、山を2つ越えた先にあるタブナンを目指して北上を続けたのです。
次回は南方第14陸軍病院を襲った悲劇と、セブに残されていた民間人を待っていた過酷な運命について紹介します。
(第2回)招かざる征服者。フィリピン人にとっての日本軍
(第3回)民間人の投降を許さなかった日本軍の罪と子供達の運命
(第4回)観光地サンペドロ要塞近く、名もなき日本軍慰霊碑の秘話
(第5回)日本兵に子供を殺されたキリノ大統領の決断〜戦時と今をつなぐ絆